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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

2022年04月







 この前の続きのような形になるが、いわゆる中室発言をきっかけにして所得制限や所得の再分配を正しく理解できていないツイートを最近よく見かける。もっともそれらの多くはポジショントークであり、自分たちにもっと寄越せという欲求であると仮定すると、彼ら彼女らへ所得の再分配の意義を説得するのは容易ではない。ただ、誤った認識がネット上に流布する現状は好ましくないため、いったん(というか再度)整理するためのエントリー。

◆総論

 子育て支援に関する現状の政策がベストとは言えない。例えば日本の児童福祉は所得制限を伴うが、所得制限を伴わない児童手当を給付している国はヨーロッパに多く見られる。所得制限を行う場合、線引きについて不満が生まれるのは避けられない。とはいえ、かといって自分たちへもっと寄越せと主張することで低所得家庭への支援を批判すると福祉政策における再分配は成り立たない。予算は無限大ではないため、限られた予算をどのような形で再分配を行なえば良いのかという議論はすべきだが、元ツイートのように努力の結果年収を多く持つ人が更なる要求をするのは再分配の否定とも言える。

 あえて指摘すると努力して年収を多く獲得している人が税金を多く支払ってこそようやく累進課税が機能し 、諸々の政策へと生かされる。生活に不満があるのであれば、日本的なメンバーシップ雇用の批判や教育費の高さを批判したら良いのであって、税制そのものの批判は所得階層に分断を生むだけである。 しかしツイッターランドを見ていると現に分断は生まれており、異なった階層を生きる人々の生活の実態は見えづらいことが伝わってくる。

 所得を多く持つ人ほど税金や社会保険料を多く支払う必要があるので不満があるのは分からないでもない。かといって累進課税そのものを否定すると空振りになるので、他のところ(先ほど挙げた雇用慣行や教育システムなど)を批判したほうが良いし建設的なはずだ、と言う立場。児童手当にしろ幼保無償化にしろ関心のあるのは子育て世帯であるが、雇用慣行や教育システムへの批判はもっと多くの人、例えば子どもを持たない人などを巻き込んで連帯することも可能である。

 ちなみに自分は常に税金や社会保険料を多く支払う側で、医療や福祉の制度的恩恵を受ける立場(自己負担の減免や手当の給付など)ではないと言える人でなければ、自己責任論を展開してはいけないだろうし、もっと寄越せというべきではないのではないか。事故や病気などで自分が困った時もそれは自己責任だから仕方ないですね、で本当によいのか。所得制限なしで一律にということは結果的に高所得者を利するという中室発言を改めて思い起こすべきである。



子育て支援の経済学
山口 慎太郎
日本評論社
2021-02-15


公正としての正義 再説 (岩波現代文庫)
ロールズ,ジョン
岩波書店
2020-03-17


社会保障の経済学 第4版
隆士, 小塩
日本評論社
2013-10-15





◆階層と社会関係資本

 ちなみに年収1000万と年収600万なら後者の方が楽論者の人は、年収以外の資産や資本を無視しすぎなのではないか。年収1000万クラスの人はかなりの割合ハイクラス家庭出身(つまり実家が太い)だろうし、中高大学社会人経ての社会関係資本を多く持つ側だと思われる。だからといって年収1000万と年収600万を比べちゃいけないわけではないが、生活のしやすさしんどさは実際にそれぞれあると思うけど、年収だけで比べるのは情報量が少なすぎる。階層の議論に持って行った方が色々なことがクリアに見えてくる。

 例えばパットナムがソーシャル・キャピタルの研究を展開したのは数十年前だが、一般に低所得者層ほど社会関係資本が少なく、繋がりが少ないことが貧困をより悪化させる循環もある。だから以下の記事で佐藤主光が言っているようなプッシュ型支援が重要になる。同じ趣旨のことは、中室発言にも見られる。



 少なくとも福祉政策や社会政策というものを多くの現代の経済学者はそうした認識で捉えているはず。他方で、年収1000万家庭の生活しづらさや子育て罰みたいなものを放置していい訳ではないが、それらは前述したように子育て支援政策や社会政策とは違う枠組みで議論され、解決されるべきなのではというのがこのアカウントの立場。

 従って最初に述べたように、一定レベルの収入の持ち主が低所得者層への給付施策を批判するならばこちらはその主張を再批判しなければならないという立場をとる。

孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生
ロバート・D. パットナム
柏書房
2006-04-01






シングルマザーの貧困 (光文社新書)
水無田 気流
光文社
2014-12-19



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見:イオンシネマ高松東

 原作である村上春樹の短編集『女のいない男たち』を読んだのはもう何年も前なので、見事に内容を忘れたまま映画を見ることになった。いかにもな村上春樹の書く主人公である家福(西島秀俊)の惰性的なセックスとクリエイティブへのこだわりを見るにつれて、思った以上に饒舌(な印象を受けた)だと思ったが饒舌な主人公は濱口竜介作品にはよく似合う。劇中劇とそれを作る過程を描いた4時間の大作『親密さ』と比べると、劇中劇であるチェーホフの『ワーニャ伯父さん』がちょっと道具的じゃない?(制作のプロセスを詳細に扱っていたのだから、もう少し劇自体を長く見たかった)という不満はあったものの。

 原作である同作以外に同じ短編集から「シェエラザード」のエッセンスを取り入れることで、この映画で最も重要なのはナラティブなのだということが象徴的に描かれ、導入されていく。カップルの性行為(少し風変わりな)を起点として物語を進行するのもいかにもな村上春樹といったところで、ただ主人公がよく喋ることに意味があるわけではない。むしろ、たいていのことは語る彼の語らないことに意味があるのではないか。そのために、劇中劇が利用されているのではないかという仮説を早いうちに提示する。

 家福に付き添うのは主に二人。ドライバーのみさき(三浦透子)と、スキャンダルによってフリーランスになった俳優、高槻(岡田将生)だ。この二人の間の会話のやりとり、そして高槻が積極的に投げかけるいくつかの質問は、家福を揺さぶる。家福自身の感情を揺さぶり、彼のナラティブ(とりわけ、妻であった音に対するもの)を揺さぶる。

 同時に、会話ないしコミュニケーションは双方向のものであるから、問いかける側も常に揺さぶりを受けることとなる。この揺さぶりが、巡礼のような形で結実するのが終盤のみさきとの長いドライブだ。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』において、ある女性の死をめぐる多崎つくるの巡礼を描いた。彼の旅路は、謎を解くこと自体にももちろん重要な意味はあるが、旅をするというプロセスが彼の感情を揺さぶり続けることに意味があった。

 みさきは、一人では決して訪れることのなかっただろうその場所に訪れる。そして、思わず家福に甘えてしまう。こうした感情のやりとりもまた、家福が音との間に喪失していたものなのかもしれない。みさきの過去をめぐるための巡礼が、みさきとは無関係の他者であった家福を揺さぶる。客観的に見ると、家福がみさきを道具的に利用したようにも見えるが、みさきもまた家福を利用している。

 この双務関係とも共犯関係とも言える関係は、『多崎つくる』にはなかった形の巡礼である。多崎つくるも一人ではなく誰かと一緒に巡礼をしていればまた違った感情が芽生えたのかもしれないし、発見があったかもしれない。もちろん一人旅も悪いものではないが、一人ではなく二人であるということの意味は、意外にも大きいものだったのだろう。

女のいない男たち (文春文庫)
村上春樹
文藝春秋
2016-10-07


村上春樹
文藝春秋
2015-12-04


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