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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

2021年10月

第1話 「自己紹介」
宮野真守
2020-01-12


 前回までで春高予選が終わり、事前の合宿や練習試合などを挟んで春高本戦に突入していくハイキュー4期。25話あるが、ほとんど一気に見てしまえるくらい今回もめちゃくちゃ面白かった。長いこと見続けているとキャラクターの成長が端々に垣間見えて面白いが、4期でもそういった要素は顕著に表れている。

 春高本戦は9話あたりから始まるので、それまでは本戦前の12月の過ごし方が焦点となる。全日本ユースの合宿に召集される影山と、白鳥沢での合宿になぜか勝手に参加する日向という対照的な時間の使い方にはさすがに笑ってしまったが、この対照的な時間の使い方が実に面白いのだ。日向は勝手に参加した(召集されてないのに突撃した)のでもちろん練習には参加させてもらえない。「ボール拾いなめんなよ」という烏野の監督からの助言を受けて徹底的にボール拾いとその他もろもろ(洗濯、掃除、モップがけ等)に取り組むのだが、この姿勢が面白かった。

 影山もそうだが、1年生でありながらレギュラーとしてチームを支えるスーパー1年生コンビの二人は、しかしながらまだ1年生なのである。才能は疑いようがないが、同じくらい粗さもある。技術的な粗さ、精神的な粗さいずれも持つ二人はそれに自覚があったりなかったり。逆に言うと、スーパーな才能を伸ばすだけの伸びしろがまだまだあるということだ。だから影山も日向も、その伸びしろにチャレンジする12月を過ごす。

 そうした12月の「学習」を経て、1月の春高本戦での「飛躍」へ。クライマックスとなる優勝候補の稲荷崎戦は非常に面白い。白鳥沢との県大会決勝は文字通りコンセプトの戦い、いわば異なる戦術のぶつかり合いだったが、稲荷崎戦はもっと具体的な才能と才能のバトルであり、組織と組織のバトルとなっている。サブメンバー含めて層の厚い稲荷崎に対いて、個々の能力を絶妙に組み合わせることで一戦一戦を乗り越えてきた烏野。実力的には明らかに劣る中、いかに稲荷崎を攻略していくのか。

 ここで先ほどの学習が生きてくる。学習は何も12月だけでない。影山も日向も、試合の中でさらに学習していくのだ。相手の出方に応じて戦術を組み合わせることで勝ってきた烏野の組織としての持ち味が、影山と日向の学習によってさらに生きていく。1-1で迎えた3セット目をとれたのは、間違いなく前の2セットの学習があったからだ。

 例によってフルセットにもつれる激戦だが、バレーボールの面白さである攻守の駆け引きは最後の最後まで息を吞む。3回戦の音駒の様子も途中で映されるようにまだまだ強い敵が出てくるはずで、まだ見ぬ5期を今から楽しみにしていたい。
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 前回アンデルシュ・ダニエルセン・リーが主演した映画を見たので、その流れで彼が出ている映画を見ようと思った時にたまたまアマプラに入っていた本作を選んだ。もう今年の日本では夏が終わったが、あらすじを見ているとむしろ夏の終わりの余韻にこそふさわしい映画なのではというイメージがわいてきたので、タイミングとして悪いものではないだろうと考えた。

 結果的に、その予感は当たっていたかなと思う。フランス映画らしい、間の多さや、ストーリーの曖昧さ、希薄さを前提にしつつ、だからこそこうした特定の個人への追憶といったテーマは当てはまる。冒頭でサシャという女性の死が語られる。彼女が病院のベッドで横たわるシーンは一瞬描かれるものの、彼女の死そのものは描かれない。必然、これは残された者たちの物語になっていくことが早い段階で予見される。

 アンデルシュ・ダニエルセン・リーは、残されたサシャの恋人であるロレンスを演じている。今回も彼は『オスロ、8月31日』で好演したアンデシュのように、繊細で感傷的で、内向的なロレンスを丁寧に演じている。彼が選ぶ言葉ひとつひとつが、サシャへの追憶を伴っていることがよくわかる。その上で、サシャの遺族を彼は巡っていく。村上春樹が『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』ほどミステリー要素はない(サシャの死の謎は、残されたまま提示されない)が、その代わりロレンスが自分自身と他者を癒すための旅を始める。

 ベルリン、パリを経てニューヨークまで。彼は一人で旅をする。そしてその過程で何人かの女性と出会っていく。誰もがサシャの死の傷を抱えており、癒しを必要としている。それが新しい恋愛になるわけではない。ある女性の言った、私を接待しないで、という言葉も印象に残った。それを笑って受け止めるロレンスの繊細さと優しさが、画面の中に染み渡ってゆく。

 公園やプールやクラブなど、人が集まる場所にも出向く。こうすることで、孤立しないこと、気をまぎらわすこと、ちゃんと日常を取り戻すことなど、いろいろな意味があるのだろうと感じた。そして何より、サシャが生きられなかった夏を、静かに楽しんでいるようにも思えた。

 残された人間にできることは、生き続けることしかない。そういうことなのかもしれない。ごくごくシンプルだけど、重要なことを丁寧に撮った美しい映画である。
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#1
2018-11-18


 今年は意識的にジェイン・オースティンの長編小説を読み進めているわけだが、彼女の作品は繰り返し映像化されており、中でも1940年に映画化されて以降、繰り返し映像化されているのが『高慢と偏見』である。最近では『プライドと偏見』という邦題で映画化されており、こちらもプライムビデオで視聴することができる(わたしはまだ見てないのでいずれ)。

 さて1995年にBBCによって映像化された本作は、全6話と日本の連続ドラマに比べるとそう長いわけではない(映画よりはボリュームがあるが)。故に序盤はある程度小説に沿って進むものも、中盤以降(ウィッカムやコリンズが登場してから)は急展開と言ってもいいほどハイテンポにストーリーが進展していく。故に重要なのは細やかな心理描写というよりも、個々の人間関係における駆け引きに焦点が当たっていくことになる。

 ここで言う駆け引きは単に恋愛関係における感情の綱引きではなくって、当時の結婚観や身分、言わば伝統や慣習といった制度的なものに制約された駆け引きだ。例えばベネット家のベネット夫人は原作から飛び出たほど豪快かつおしゃべりでおせっかいであり、冒頭のビングリーに対する反応はコメディかと思うほど大騒ぎをする。

 他方で、ダーシーの印象の悪さや、ウィッカムと駆け落ちした末娘リディアに対する厳しい反応も、ちょうど反転させた程度には大袈裟である。姉妹たちの父であるベネット氏は娘の行く末にさほど関心はないが、関心がないがゆえにエリザベスを擁護するという夫婦間のちぐはぐさはドラマの中でも皮肉を込めて描写されていた(ただこのちぐはぐさがエリザベスとダーシーのドラマを用意するとも言えよう)。

 とはいえそういった周囲の反応(末娘リディアの反応もなかなかである)が姉ジェインや、主人公エリザベスに戸惑いを与える。今とは比較にならないくらい女性の地位が低く、恋愛や結婚も個人の意思より家族親族など周囲の思惑が大きな影響を与える。しかしだからこそ、ジェインとエリザベスはそうした周囲の反応もうまく利用しながら、かつ自分の意思を大事にする。結婚という、自分にとっての幸せを探すために、である。

 最終話、あと15分ほどでドラマが終わろうかと思うとき、つまりもうエリザベスとダーシーが相思相愛であることを確認しているにも関わらず、ある親族のおばさんがエリザベスに対してこの結婚は反対だ、と面と向かって突きつける。なかなか、このドラマらしい展開だなあと思うとともに、最後までエリザベスのエリザベスらしさ、つまり周囲がどう思おうと自分の意思を貫く強さ、独立した個人としての女性といった側面が強調されている。現代の視点でジェイン・オースティンを読むときにフェミニズム的だと評価されるのは、こうした女性個人の意思をオースティンが強く描いたからでもあるだろう。

 「私は自分の幸せを考えて行動します」こう言い切るエリザベスの気持ちは、普段は控えめで賢い長女を演じるジェインにも共有されているはずだ。たびたびパジャマ姿で寝室で二人が語り合うシーンがドラマの中に登場するが、周囲のあれやこれやから逃れてプライベートかつ率直な会話を楽しむ二人のシーンには、シスターフッド的な妙味も感じられる(実際の姉妹に対してシスターフッドという形容が正しいかはよくわからないが)。やはり現代に見直しても面白いのがジェイン・オースティンである。



 小説の書評をmediumに掲載しているのでこちらもどうぞ。
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