見:イオンシネマ綾川
原作も実写も経験せずに見たのは自分が障害福祉の領域で仕事をしていることとも無関係ではないし、事前に読んだ二つの文章が印象に残っていたからだ。
ダブル手帳氏の批判点は主に次の二点だろう(「本稿では批判を一点に絞る」とあるがこの二つのうち一つは性に関するものであるが、もう一つは性やジェンダーとは関係ないものなので切り分けて考えたほうが良いと考える)
・「主人公にセクハラする男性が“消えた”」こと
・「本作でジョゼが新たに「芸術の天才」となった」こと
前者に関しては、確かに田辺聖子の小説という意味で性に関する等身大の描写は重要な意味を持つ。従って、「車いすの女性」が性加害に遭遇しやすいという原作の描写を映画がほとんど脱色してしまっていることについては、批判されてもおかしくないだろう。ジョゼが「家出」して一人で街に出ていく場面ですれ違う男性に邪険に扱われるシーンは映画にもあるが、性の対象として見られることはなかった。性の対象に見ていたとすれば、主人公である「管理人」だろう。
後者については、原作が情報量の多くない短編であることや、2020年のクリスマス公開に合わせて物語を新たに提示することを考えると重要な批判点とは言えない。『37セカンズ』が例に挙がっているが、障害者を表象した映画は当作に限らず多数あることだろう。確かに障害者でありながら天才という下駄をはかされていることへの違和感を否定するつもりはないが、ジョゼが自宅で読んでいたサガンを図書館で発見したり、その図書館で朗読のボランティアをしたり、足のない(そして地上の世界をしらない)人魚姫と自分を重ねるといったあたりの設定の組み合わせの妙を個人的には評価したいと感じた。
それはなぜかというと、確かにストーリーとしてはベタベタと言っていいほどの青春もの(しっかり三角関係も描かれているし)でありながらも、現代の関西を舞台に作り上げたアニメーションだということが端々から伝わってくるからだ。舞台となった場所の具体名を挙げるとキリがないが、ジョゼが通う図書館(おそらく大阪市立中央図書館)がリアルに描写されていたことを個人的に高く評価しいている。地下鉄の西長堀駅直通のこの図書館なら、ジョゼが車いすで歩く距離を最小化できる(ジョゼの住居はおそらく南大阪だと思われるので地下鉄西長堀駅まで乗り継いでいく必要はあるが)し、この場所なら彼女が繰り返し一人で通うこともイメージしやすい。それ以外のデートスポット、例えば水族館や動物園、なんばパークスなどは単独では行きづらい場所だし、彼女が自己実現を達成するならばここしかないスポットだろう。
その図書館で彼女が子どもたちに語って聞かせる人魚姫は、さながらこの映画がおとぎ話のような奇跡を待望していることも予感させてくれる。わがままなジョゼと、彼女に同情する気持ちがあった管理人との関係性も、終盤は純粋な利他主義として関係性を構築していくところには希望を持っていいと思ったし、前者から後者への心理的な転移は障害者と健常者といった枠を超えて、どんな場面、どんな関係性でも起こりうることではないだろうか(その転移が絶対的に必要なもので、絶対的に肯定されるべき、とまでは言わないものの)。
パンフレットで脚本家が語っていたように、そもそもこの映画には障害者や健常者といった言葉はほとんど出てこない。こうした演出に対する評価はまちまちだろうが、ダブル手帳氏の言うように令和が純愛の時代だからこういう結末になったというのはいささか短絡的なこじつけに思える。それよりも、設定の巧みさと、それを具現化するアニメーションや脚本の緻密さの方を評価したい。練りに練って作られた物語の着地点ができすぎたハッピーエンドならば、いかにそれがベタな純愛だとしても自然に受け止められると感じたからだ。
最後に。大阪出身の清原果耶の演じるジョゼが、最初から最後まで本当に素晴らしかった。映画を見てから原作を読んだが、原作のジョゼに息を吹き込んだ声優が彼女だったのは、僥倖だと言っても大げさではあるまい。
※追記
すぱんくさんのこの映画評も(個人的な体験も含め)かなり読み応えがあるのでリンク貼っておきます。社会全体が脆弱になっていくことと対照的に、障害者の権利擁護や福祉サービスが充実してきたことの一つの皮肉が「2020年のジョゼ」に見ることができる(たとえば一見福祉を利用していないように見えるジョゼにも相談支援専門員のメガネ男性は時々様子を見に来る)と言ってもいいのかもしれない。