見:イオンシネマ綾川
前にテレビシリーズを見たのがちょうど社会人1年目の時で、社会人5年目の視点から改めて振り返る的なエントリーを書いた。
2クール目もやる予定だったがとん挫しているのは怠惰ということにしてほしい。今回劇場版を見て、「4年後の自信と覚悟、そして悪あがき」というタイトルをこのエントリーには打ってあるが、裏テーマとしては「社会人6年目になったと思われる宮森あおいたちの奮闘を社会人6年目になったバーニングさんの視点で振り返る」というものだ。あおいは短大卒業後にストレートでムサニに就職して(1クール目)おり、季節が一巡して社会人2年目の冬になったころに物語は終わる。なので劇場版でたびたび口に出される4年後、つまり社会人6年目だとしてもおそらく26歳くらいだろう。最近30歳になった自分とは年齢的に距離があるものの、1年目の時の6年目の時との違いを多々表現しているなと思われた。
上記のエントリーでは「キャリアの浅さから生まれる悩みや挫折」とタイトルに振ってあるが、これを踏まえると今回は「キャリアを積んだ先にあるつらさと責任感」とでも言い換えられるかもしれない。逆に、これがあるからこそ「自信と覚悟、そして悪あがき」につながっていく。なぜかというと、人は悩みや挫折がなければ、それを乗り越えた経験がなければ簡単にはステップアップしていかないからだ。
たとえば役割、あるいはポジション。テレビシリーズ終了後の世界線で起きた「タイマス事変」を経て、丸川社長が引責辞任するなどムサニのメンバーは散り散りになる。宮森とともに働いていた制作メンバーも何人かは会社を去り、ナベPは丸川の後を継いで社長(ナベ長)になり、宮森はそのナベPが担っていたラインプロデューサーの役割を、元請けの新作劇場版で担うこととなる、のが今回のあらすじだ。つまり、キャリアと責任が増えた宮森が、「劇場アニメを制作する」劇場版が本作である。
特にアニメ制作の現場は限られた期間、予算、人員という、状況をハードにする要素があちこにち満ちている。これを「回す」ことが制作に求められるわけだけど、なかなか絵コンテを描かない監督に代表されるように、アニメ制作そのものは容易には進んでいかない。テレビシリーズ11話で矢野パイセンが言う「トライ&エラーって言うけど日々トライ&トラブル」が改めて思い起こされる。これを、1年目や2年目の制作の立場で迎えるのと、一種のマネジメント職であるラインPの立場で迎えるのとはまた異なる。仕事への向き合い方も、外部や内部のメンバーとの向き合い方も。そして、自分が何をしたいのかという、根本的な問いへの向き合い方も。
一番面白いなと思ったのは、あの5人もそれぞれ4年の時間を経過しているから、彼女たちは同じ制服を着て、東北の某高校で過ごした時代からはかなり遠く離れてきていることだ。遠く離れるということは、次第に変わっていく自分たちの関係性であったり、あるいは自分のポジションにも向き合わなければならない。
宮森がPになったのはもちろん、りーちゃんは脚本家(?)としてなぜか田中真紀子のフォームをマネながら脚本家(?)として重要なアシストを果たすし、絵麻は作監として作品や宮森と向き合う。もう「同級生」でもないし「部員」でもないし「先輩後輩」でもない。過去には戻れない。けれども彼女たちはそれをそのままに受け止めていて、いまをいまとして生きようとしている。これって結構、簡単じゃないよね?って思うのだ。特に、いまだに過去にとらわれている木下誠一が対照的であるがゆえに。
翻って自分を見つめると、自分も社会人6年目になって、同じく6年目の宮森たちをすごくまぶしく思いながら見ていた。けれども5年前とは違って、自分の立場をそれはそれとして受け止められるようになったかなと思う。何もなかったころから、一応何かはあるいまへ至るまでの期間は楽ではなかったけれど、たどりついたいまをまんざらではないなと思っているから。
きっとこれからも繰り返し見返していくのだろう。社会人10年目、15年目、20年目の自分にはどう映るのだろうか。あるいは、宮森あおいの10年目や20年目が描かれたりするのだろうか。物語はきっとまだまだ続くと、思ってもよいよね、って変わらずに期待させてくれるのは楽しい。宮森あおいはきっとこれからも悪あがきをあきらめないはずだから。