一年ほど前からだったか、知人たち何人かでウェブで日記を書き続けている。毎日続けている人もいれば月に何回かという人もいるが、いずれにせよ継続しているのはすごいなということと、継続していることである期間のアウトプットであったり思考が文章に表れているのがよくわかる。読んだ本、見た映画、日常のこと、仕事のこと。いずれにしても、ツイッターにしろインスタグラムにしても多くはフローのメディアなので、ストックとして後から振り返るのにはあまり向かない。フローだからこそ瞬間的な「バズり」がパーソナルとしても商業的にも求められるというのは、確かに現在のメディア環境が生み出した帰結ではあるけれどもフローばかりというのはとても疲れるし、次第に飽きてきた。
そんな中でストックのメディアを使うことには、かつてとはまた違う意味があるのかもしれないと思う。それも継続的に、である。この「Days」は最近ではすっかり映画か社会保障の話をするようなブログになっているが、もともとは日記を書くために2004年に始めたものだった。カテゴリ「days」はすべて日記として読めるようにしてあるが955もあるのはかつてそれだけネット上に蓄積を作ることや、日々を記録することにいそしんでいた表れだろう。
ゼロ年代のインターネットは基本的にはストックとしてのブログや個人サイトと、フロートしてのチャットや掲示板が並列的に存在する世界だった。だから相互のメディアを行き来しながら、いまほど忙しくはないコミュニケーションをしていたように思う。もはや死語というか機能としてもなくなったが、「トラックバック」という仕組みはストックのメディアであるブログのエントリーを相互にリンクさせるという意味で、かつては重要な役割を果たしていたし、新しい世界への扉として機能していたように思う。
2004年から開始したと書いたが、実際には2003年からドリコムの「マイプロフィール」というサービスを使って日記の公開は始めていた。もはやソシャゲ企業と化したドリコムにそんなサービスは残っていないが、ゼロ年代前半ははてなダイアリーや前略プロフィールが生まれた時代であって、個人サイトでhtmlでゴリゴリ書いていた日記やプロフィールを一つのサービスとして提供するという意図が「マイプロフィール」にはあったように思う。
ライブドアブログに移ってきたのは当時絶好調だったホリエモンの影響は少なからずある。ちょうどココログで眞鍋かをりが「ブログの女王」として日々ブログを更新していた時代だが、個人として使いやすかったのがライブドアだったからこれにした、だったように思う。はてなダイアリーを使っている人が多かったけれど、多いから俺は違うのにしようというひねくれ意識も多少あった。そのはてなダイアリーも数年前にサービスを終了したし、本日正午にはヤプログも終了するという。
先ほど書いたように一つのサービスとして展開されるということは、使い勝手がよくなる代わりにそのサービスがいつか終わる可能性を常に持っている。ブログの場合他サービスへの移行ができたりするが、すべてのサービスがそうはいかないだろう。幸いにもライブドアはいろいろあったあとにNAVERの傘下になり、LINEの傘下になり、そのLINEがZホールディングスと統合することによってソフトバンクグループの一員になったので、ライブドア自体が死ぬことはないだろう。だがいずれサービスの統廃合や終了はありうる。今年の5月にこのブログを書き続けて16年になるが、書き続けたきたことよりもサービスそのものが続いてきたことのほうが、よほど奇跡的に思えてならない。
*********
やたら前置きが長くなったが、日記である。
普段読んでいるのはひらりささん(note。月額500円)、早乙女ぐりこさん(note)、lop-norさん(blogspot)である。毎日読めないときもあるが、あとで振り返って読んでいるのでおそらく公開されたエントリーはすでに読んでいる。
最近ぐりこさんと同じ早稲女同盟というサークルを組んでいた伏見ふしぎさん(note)も日記を始めていて楽しく読んでいる。物書きにかかわる仕事をしているようなのは以前から拝見していたので、きっとこれからも継続的に読んでいくのだろう。
新興メディアのnoteよりは使い続けたライブドアに愛着があるしアーカイブも豊富にあるのでこれを使い続ける予定だが、普段いろいろなnoteを読んでいると自分語りに向いているメディアなんだろうなと思う。ソーシャルメディアとの連携もしやすいし、読者からの課金もできる。ビューや課金をもらうためには差異化する必要があるが、自分語りなら差異化しやすく、かつ最近だとフェミニズムやジェンダー論からの文脈で一般化、社会問題化することもできる。ある意味「個人的なことが政治的なこと」であるかのように、従来のブログメディアではなくnoteという新興のパーソナルなメディアを使って世に告発したり啓発するような文章は非常に多い。
日記として書かれるnoteにはすぐさま政治的、社会的なトピックに発展することはない。だが、個人的な体験の記録である日記の中に、社会的な要素が皆無なわけもない。仙人や雲水でもない限り人は社会の中で生きている。だから極めて個人的なものとして書かれた文の中にも、書いた本人がたとえ意図していなくても個人的な話題が社会的なイシューへと発展する可能性もあるだろう。その是非はまた別の問題として。
最初に書いたように日記やブログはストックのメディアだ。だがこれらがツイッターのようなフローのメディアにシェアリングされることによって、日記やブログそのものがフロー化していく。必然、またバズりのようなエントリーが増えることにもなるわけだけだしそれが2020年代的なのかもしれないけれど、先ほど挙げた自分が普段読んでいる日記はフロー化からは距離を置いているようにも思う。ストックのメディアをバズりを意識してフロー化させるのが現代的ならば、フロー化から距離をとるのもオルタナティブの現代的戦略だと言えるだろう。ひらりささんがツイッターを見る時間を減らしたいと時々ツイートしてが、これは一定の距離をとりたい気持ちの表れ(しかし容易ではないこと)と解釈している。
俺自身もどちらかというとオルタナティブかもしれないが、そもそも16年続けてきたことを半分惰性で半分習い性で続けているだけなので、オールドタイプと表現する方が適切かもしれない。2020年代になってもゼロ年代の感覚を残存させながらウェブで文章を公開していくことが可能か。UIがどことなくnoteに似ているmediumというメディアで書評をアップし続けているが、これもやり方としてはさほど新しくはない。ただmediumがもともと「長いツイッター」として開発されたサービスであり、フローとストックの中間やハイライトなどによるリアクションができるようになっているのは個人的に好きなポイントだし、サービスの設計思想は現代的と言っていいかなと思う。
長々と書いてきたが、そういうわけでできれば「days」カテゴリで日記を再開していきたいとぼんやり考えている。性格的に、あと勤務体系的に毎日の更新は難しいと思うので断続的にはなるだろうが、フローのメディアに慣れてしまうとあまりにも多くが右から左へ流れていってしまうので、いったん流れを切断したい気持ちはずっとあった。一種の懐古趣味かもしれないけれど、自分が再開することによって「2020年代のウェブで日記を書くことについて」考えを深められるかもしれない。
タイトル回収を無事果たしたのでこのあたりで終わりたい。続けてきたものを終わらせたくはないし、他方で止まっていたものを再開させたい。先のことは分からないけれど、だからこそ。抽象的ではあるが、いま考えているのはこういうことである。
そんな中でストックのメディアを使うことには、かつてとはまた違う意味があるのかもしれないと思う。それも継続的に、である。この「Days」は最近ではすっかり映画か社会保障の話をするようなブログになっているが、もともとは日記を書くために2004年に始めたものだった。カテゴリ「days」はすべて日記として読めるようにしてあるが955もあるのはかつてそれだけネット上に蓄積を作ることや、日々を記録することにいそしんでいた表れだろう。
ゼロ年代のインターネットは基本的にはストックとしてのブログや個人サイトと、フロートしてのチャットや掲示板が並列的に存在する世界だった。だから相互のメディアを行き来しながら、いまほど忙しくはないコミュニケーションをしていたように思う。もはや死語というか機能としてもなくなったが、「トラックバック」という仕組みはストックのメディアであるブログのエントリーを相互にリンクさせるという意味で、かつては重要な役割を果たしていたし、新しい世界への扉として機能していたように思う。
2004年から開始したと書いたが、実際には2003年からドリコムの「マイプロフィール」というサービスを使って日記の公開は始めていた。もはやソシャゲ企業と化したドリコムにそんなサービスは残っていないが、ゼロ年代前半ははてなダイアリーや前略プロフィールが生まれた時代であって、個人サイトでhtmlでゴリゴリ書いていた日記やプロフィールを一つのサービスとして提供するという意図が「マイプロフィール」にはあったように思う。
ライブドアブログに移ってきたのは当時絶好調だったホリエモンの影響は少なからずある。ちょうどココログで眞鍋かをりが「ブログの女王」として日々ブログを更新していた時代だが、個人として使いやすかったのがライブドアだったからこれにした、だったように思う。はてなダイアリーを使っている人が多かったけれど、多いから俺は違うのにしようというひねくれ意識も多少あった。そのはてなダイアリーも数年前にサービスを終了したし、本日正午にはヤプログも終了するという。
先ほど書いたように一つのサービスとして展開されるということは、使い勝手がよくなる代わりにそのサービスがいつか終わる可能性を常に持っている。ブログの場合他サービスへの移行ができたりするが、すべてのサービスがそうはいかないだろう。幸いにもライブドアはいろいろあったあとにNAVERの傘下になり、LINEの傘下になり、そのLINEがZホールディングスと統合することによってソフトバンクグループの一員になったので、ライブドア自体が死ぬことはないだろう。だがいずれサービスの統廃合や終了はありうる。今年の5月にこのブログを書き続けて16年になるが、書き続けたきたことよりもサービスそのものが続いてきたことのほうが、よほど奇跡的に思えてならない。
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やたら前置きが長くなったが、日記である。
普段読んでいるのはひらりささん(note。月額500円)、早乙女ぐりこさん(note)、lop-norさん(blogspot)である。毎日読めないときもあるが、あとで振り返って読んでいるのでおそらく公開されたエントリーはすでに読んでいる。
最近ぐりこさんと同じ早稲女同盟というサークルを組んでいた伏見ふしぎさん(note)も日記を始めていて楽しく読んでいる。物書きにかかわる仕事をしているようなのは以前から拝見していたので、きっとこれからも継続的に読んでいくのだろう。
新興メディアのnoteよりは使い続けたライブドアに愛着があるしアーカイブも豊富にあるのでこれを使い続ける予定だが、普段いろいろなnoteを読んでいると自分語りに向いているメディアなんだろうなと思う。ソーシャルメディアとの連携もしやすいし、読者からの課金もできる。ビューや課金をもらうためには差異化する必要があるが、自分語りなら差異化しやすく、かつ最近だとフェミニズムやジェンダー論からの文脈で一般化、社会問題化することもできる。ある意味「個人的なことが政治的なこと」であるかのように、従来のブログメディアではなくnoteという新興のパーソナルなメディアを使って世に告発したり啓発するような文章は非常に多い。
日記として書かれるnoteにはすぐさま政治的、社会的なトピックに発展することはない。だが、個人的な体験の記録である日記の中に、社会的な要素が皆無なわけもない。仙人や雲水でもない限り人は社会の中で生きている。だから極めて個人的なものとして書かれた文の中にも、書いた本人がたとえ意図していなくても個人的な話題が社会的なイシューへと発展する可能性もあるだろう。その是非はまた別の問題として。
最初に書いたように日記やブログはストックのメディアだ。だがこれらがツイッターのようなフローのメディアにシェアリングされることによって、日記やブログそのものがフロー化していく。必然、またバズりのようなエントリーが増えることにもなるわけだけだしそれが2020年代的なのかもしれないけれど、先ほど挙げた自分が普段読んでいる日記はフロー化からは距離を置いているようにも思う。ストックのメディアをバズりを意識してフロー化させるのが現代的ならば、フロー化から距離をとるのもオルタナティブの現代的戦略だと言えるだろう。ひらりささんがツイッターを見る時間を減らしたいと時々ツイートしてが、これは一定の距離をとりたい気持ちの表れ(しかし容易ではないこと)と解釈している。
俺自身もどちらかというとオルタナティブかもしれないが、そもそも16年続けてきたことを半分惰性で半分習い性で続けているだけなので、オールドタイプと表現する方が適切かもしれない。2020年代になってもゼロ年代の感覚を残存させながらウェブで文章を公開していくことが可能か。UIがどことなくnoteに似ているmediumというメディアで書評をアップし続けているが、これもやり方としてはさほど新しくはない。ただmediumがもともと「長いツイッター」として開発されたサービスであり、フローとストックの中間やハイライトなどによるリアクションができるようになっているのは個人的に好きなポイントだし、サービスの設計思想は現代的と言っていいかなと思う。
長々と書いてきたが、そういうわけでできれば「days」カテゴリで日記を再開していきたいとぼんやり考えている。性格的に、あと勤務体系的に毎日の更新は難しいと思うので断続的にはなるだろうが、フローのメディアに慣れてしまうとあまりにも多くが右から左へ流れていってしまうので、いったん流れを切断したい気持ちはずっとあった。一種の懐古趣味かもしれないけれど、自分が再開することによって「2020年代のウェブで日記を書くことについて」考えを深められるかもしれない。
タイトル回収を無事果たしたのでこのあたりで終わりたい。続けてきたものを終わらせたくはないし、他方で止まっていたものを再開させたい。先のことは分からないけれど、だからこそ。抽象的ではあるが、いま考えているのはこういうことである。