2020年01月

2020年01月31日

2020年代のウェブで日記を書くことについて

 一年ほど前からだったか、知人たち何人かでウェブで日記を書き続けている。毎日続けている人もいれば月に何回かという人もいるが、いずれにせよ継続しているのはすごいなということと、継続していることである期間のアウトプットであったり思考が文章に表れているのがよくわかる。読んだ本、見た映画、日常のこと、仕事のこと。いずれにしても、ツイッターにしろインスタグラムにしても多くはフローのメディアなので、ストックとして後から振り返るのにはあまり向かない。フローだからこそ瞬間的な「バズり」がパーソナルとしても商業的にも求められるというのは、確かに現在のメディア環境が生み出した帰結ではあるけれどもフローばかりというのはとても疲れるし、次第に飽きてきた。

 そんな中でストックのメディアを使うことには、かつてとはまた違う意味があるのかもしれないと思う。それも継続的に、である。この「Days」は最近ではすっかり映画か社会保障の話をするようなブログになっているが、もともとは日記を書くために2004年に始めたものだった。カテゴリ「days」はすべて日記として読めるようにしてあるが955もあるのはかつてそれだけネット上に蓄積を作ることや、日々を記録することにいそしんでいた表れだろう。

 ゼロ年代のインターネットは基本的にはストックとしてのブログや個人サイトと、フロートしてのチャットや掲示板が並列的に存在する世界だった。だから相互のメディアを行き来しながら、いまほど忙しくはないコミュニケーションをしていたように思う。もはや死語というか機能としてもなくなったが、「トラックバック」という仕組みはストックのメディアであるブログのエントリーを相互にリンクさせるという意味で、かつては重要な役割を果たしていたし、新しい世界への扉として機能していたように思う。

 2004年から開始したと書いたが、実際には2003年からドリコムの「マイプロフィール」というサービスを使って日記の公開は始めていた。もはやソシャゲ企業と化したドリコムにそんなサービスは残っていないが、ゼロ年代前半ははてなダイアリーや前略プロフィールが生まれた時代であって、個人サイトでhtmlでゴリゴリ書いていた日記やプロフィールを一つのサービスとして提供するという意図が「マイプロフィール」にはあったように思う。

 ライブドアブログに移ってきたのは当時絶好調だったホリエモンの影響は少なからずある。ちょうどココログで眞鍋かをりが「ブログの女王」として日々ブログを更新していた時代だが、個人として使いやすかったのがライブドアだったからこれにした、だったように思う。はてなダイアリーを使っている人が多かったけれど、多いから俺は違うのにしようというひねくれ意識も多少あった。そのはてなダイアリーも数年前にサービスを終了したし、本日正午にはヤプログも終了するという。

 先ほど書いたように一つのサービスとして展開されるということは、使い勝手がよくなる代わりにそのサービスがいつか終わる可能性を常に持っている。ブログの場合他サービスへの移行ができたりするが、すべてのサービスがそうはいかないだろう。幸いにもライブドアはいろいろあったあとにNAVERの傘下になり、LINEの傘下になり、そのLINEがZホールディングスと統合することによってソフトバンクグループの一員になったので、ライブドア自体が死ぬことはないだろう。だがいずれサービスの統廃合や終了はありうる。今年の5月にこのブログを書き続けて16年になるが、書き続けたきたことよりもサービスそのものが続いてきたことのほうが、よほど奇跡的に思えてならない。

*********


 やたら前置きが長くなったが、日記である。
 普段読んでいるのはひらりささん(note。月額500円)、早乙女ぐりこさん(note)、lop-norさん(blogspot)である。毎日読めないときもあるが、あとで振り返って読んでいるのでおそらく公開されたエントリーはすでに読んでいる。







 最近ぐりこさんと同じ早稲女同盟というサークルを組んでいた伏見ふしぎさん(note)も日記を始めていて楽しく読んでいる。物書きにかかわる仕事をしているようなのは以前から拝見していたので、きっとこれからも継続的に読んでいくのだろう。



 新興メディアのnoteよりは使い続けたライブドアに愛着があるしアーカイブも豊富にあるのでこれを使い続ける予定だが、普段いろいろなnoteを読んでいると自分語りに向いているメディアなんだろうなと思う。ソーシャルメディアとの連携もしやすいし、読者からの課金もできる。ビューや課金をもらうためには差異化する必要があるが、自分語りなら差異化しやすく、かつ最近だとフェミニズムやジェンダー論からの文脈で一般化、社会問題化することもできる。ある意味「個人的なことが政治的なこと」であるかのように、従来のブログメディアではなくnoteという新興のパーソナルなメディアを使って世に告発したり啓発するような文章は非常に多い。

 日記として書かれるnoteにはすぐさま政治的、社会的なトピックに発展することはない。だが、個人的な体験の記録である日記の中に、社会的な要素が皆無なわけもない。仙人や雲水でもない限り人は社会の中で生きている。だから極めて個人的なものとして書かれた文の中にも、書いた本人がたとえ意図していなくても個人的な話題が社会的なイシューへと発展する可能性もあるだろう。その是非はまた別の問題として。

 最初に書いたように日記やブログはストックのメディアだ。だがこれらがツイッターのようなフローのメディアにシェアリングされることによって、日記やブログそのものがフロー化していく。必然、またバズりのようなエントリーが増えることにもなるわけだけだしそれが2020年代的なのかもしれないけれど、先ほど挙げた自分が普段読んでいる日記はフロー化からは距離を置いているようにも思う。ストックのメディアをバズりを意識してフロー化させるのが現代的ならば、フロー化から距離をとるのもオルタナティブの現代的戦略だと言えるだろう。ひらりささんがツイッターを見る時間を減らしたいと時々ツイートしてが、これは一定の距離をとりたい気持ちの表れ(しかし容易ではないこと)と解釈している。

 俺自身もどちらかというとオルタナティブかもしれないが、そもそも16年続けてきたことを半分惰性で半分習い性で続けているだけなので、オールドタイプと表現する方が適切かもしれない。2020年代になってもゼロ年代の感覚を残存させながらウェブで文章を公開していくことが可能か。UIがどことなくnoteに似ているmediumというメディアで書評をアップし続けているが、これもやり方としてはさほど新しくはない。ただmediumがもともと「長いツイッター」として開発されたサービスであり、フローとストックの中間やハイライトなどによるリアクションができるようになっているのは個人的に好きなポイントだし、サービスの設計思想は現代的と言っていいかなと思う。

 長々と書いてきたが、そういうわけでできれば「days」カテゴリで日記を再開していきたいとぼんやり考えている。性格的に、あと勤務体系的に毎日の更新は難しいと思うので断続的にはなるだろうが、フローのメディアに慣れてしまうとあまりにも多くが右から左へ流れていってしまうので、いったん流れを切断したい気持ちはずっとあった。一種の懐古趣味かもしれないけれど、自分が再開することによって「2020年代のウェブで日記を書くことについて」考えを深められるかもしれない。

 タイトル回収を無事果たしたのでこのあたりで終わりたい。続けてきたものを終わらせたくはないし、他方で止まっていたものを再開させたい。先のことは分からないけれど、だからこそ。抽象的ではあるが、いま考えているのはこういうことである。

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2020年01月28日

余白と不連続が映し出す夏 ――『お嬢ちゃん』(2018年)



見:横川シネマ


 映画を見たのは公認心理師現認者講習会を終えた初日で、広島にいる間に一度横川シネマに行ってみたかったこと、そしてそこで何か見たいものはないか(そして時間に合うものは)と考えたところ、ENBUゼミナールが制作に関わっている本作を見ることとなった。ENBUゼミと聞くと濱口竜介を思い出したわけだが、本作とは特に関係性はなかった。

 130分ある本編だが、最初の半分ほどは、そもそもこの映画をどのように見ていけばいいのだろうと戸惑うことが多かった。萩原みのり演じるみのりという若い女性が主人公なのは分かる。彼女がほとんど唯一、全編通じて登場するキャラクターになっているから逆説的に主人公だとも言えるが、そのようにまわりくどく考える必要があるほど、本作に一本線の通ったストーリーはない、と思う。もちろん一切ストーリーがないわけではなく、独立した小さなエピソードが、連続性を持ったり持たなかったりして映画の中で展開されている、と言うべきなのだろう。

 youtubeに初日舞台あいさつの映像があったので見てみたが、萩原みのりが余白という言葉で表現しているのがなるほどなと思った。



 余白。たとえばただ数人の人物がしゃべっているだけだったりだとか、ただ街のどこかを歩いているだけだとか、家の中でごろごろしているだけだとか、動きはあるが物語的な展開は特段進まないというシーンが多い。逆にそのシーンの方が印象に残るほど、動きがあってかつ物語が動くときは、一気に緊張感を持たせる。みのりがそういうキャラクターだからと言ってしまえばそうかもしれない。ただそれは半分しか正しくなくて、残りの半分は、緊張感を作り出しているのはみのりを取り巻くまなざしであると言えるからだ。

 彼女の抵抗と言えば大げさなのだろうけれど、彼女は彼女なりの信念や正しさをもって自己主張を止めない。そしてその「自己主張を止めない若い女性」を周囲がどう取り扱うのか、どう受け止めたり受け止められなかったりするのか。これはフィクションとして作られているものである一方で、あまりにも濃厚に現代社会の空気が流れ込んでいる映画でもある。

 不連続なシーンやエピソードの多くは、けれどもそれらがこの社会のどこかできっとありうるのだろうな、と思うものばかりでもある。みのりはきっとそれを「くだらない」と評するのだろう。そしてそうした「くだらない」ものに囲まれて生きるしかない自分自身ですら、「くだらない」と自己評価するのだろう。

 ソーシャルゲーム「Tokyo 7th シスターズ」に登場するユニットSiSHの「さよならレイニーレイディ」という楽曲に、「くだらない話を覚えてみたけど 僕はもともとくだらない」という歌詞がある。これは、好意を持っている相手に対して自分を良く見せたい一方で、決して高くはない自己評価とのギャップをみつめた時に生じる葛藤であると解釈した。みのりの場合、特定の相手に好意を持っているわけではない。だが彼女は常に何かに向かい合っている。それは何なのだろうか。

 彼女を取り巻くもの、街、人、社会、そして海。彼女がそれらに直面した時に感じる違和感は、その都度言語化され、自分が見ているものに対して向かっていく。若いとか青臭いとか、そういう言葉で覆い隠せないものを彼女が見せているからこそ、彼女がたとえ平凡な生活を送っていたとしても彼女自身の魅力が減じることはないなと思う。

 付け加えて言うと、みのり演じる萩原みのりの魅力もまた最大限に街の中に投影するためには、生の夏を舞台にした、長回しのカメラショットはひとつの最適解だったのだろうと思う。いつどこで切り替わるかわからない緊張感が長く続くことによって、みのりという女性の存在が比例するように際立つのだ。

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2020年01月21日

痛快かつ超教育的で、限りなくヒューマニティ ――『セックス・エデュケーション』ファーストシーズン(イギリス、2019年)



 最初は契約しているネトフリが薦めて来たが、あまりにもストレートすぎるタイトルにんーちょっといいかな、という気持ちが正直のところだった。それがおそらく去年の冬か春くらいの話だが、ネット上のある記事で本作の見どころを知って、具体的には主人公が同じ高校の生徒に対して「セックス・カウンセリングをする」という筋書きがとても気になったからだ。

 先日公認心理師現認者講習会も受講し、将来的にはカウンセリングを業とすることも考えているが、性に関する悩みや問題やトラブルはあちこちに満ち満ちている。高校生ならば特に敏感に反応する年ごろだが、逆に敏感すぎるがゆえに適切に対応できない年ごろでもある。何より「大人が子どもに」対してではなく「子ども(高校生)が子どもの目線のままで」性教育を行うことがどういった営みであるのか、そして「使われなくなった古臭いトイレ個室」の中でカウンセリングを受けることになるそうした「思春期真っ盛りな」高校生たちをどう描くのかが気になって、見てみた。

 見どころは多い。というか多すぎる。だが共通しているのは、ここに出てくるキャラクター、男女問わず性欲にあふれており、また性への関心が高いが、正しい知識を持たず、ハッピーな性生活を送れていない。だからこそ、主人公のオーティスとヒロインメイヴのコンビが始めたマイクロビジネス、「セックス・カウンセリング」の出番がある。オーティスは童貞ではあるが母親が性教育のセラピストとして博士号を持っているという家庭(しかも母子家庭)であり、家には日々クライアントがやってくる。そうした思春期的には非常に複雑な環境の中、彼のスキルを開花させていくのがメイヴだ。

 メイヴはと言えば、彼女は恵まれた家庭環境とは言えない。ドラッグにおぼれた母と兄は出奔し、誰ひとり頼る相手がいない中でトレーラーハウスで一人暮らしを送る。彼女を救ったのは、本、それもフェミニズムについて書かれた本である。彼女はこのドラマの中で最も知的好奇心があふれている存在でありながら、最も自己肯定感が低い存在であるせいか、自身の能力を生かしきれない。だからオーティスとコンビを組んでいる時の、彼女の自由闊達さは魅力的である。

 メイヴもある意味で、オーティスがカウンセリングをするクライアントに非常によく似ている。多くのクライアント(生徒たち)は、自分に自信がないか、あるいは親密な相手との関係に自信がない。ヘテロのカップルだけでなく、ゲイカップルやレズビアンのカップルもフラットに登場するのが非常に現代的であるが、誰かと親密になりたいという願望と、自分がこうしたい、相手にはこうしてほしいという欲望はきれいには一致しない。多くのキャラクターは悩みを抱えて、不安を募らせる。やがてそうした関係は行き詰まるが、そのボトルネックを解消するのがオーティスとメイヴの重要な仕事なのだろう。自分自身を振り返ってみても、10代の時に二人がいてくれたら、どれほど頼もしかっただろう。

 基本的に一話完結でありながら、オーティスやメイヴを取り巻く人間関係は濃密に展開させる。二人はいいコンビであるが、オーティスにはエリック、メイヴにはエイミーという、明るくお茶らけた同性のパートナーがいる(メイヴとエイミーの関係は時々百合に似ている)。こうした人間関係のバランスが常に保たれるわけではない。オーティスやメイヴはやがて道を違えていくし、オーティスとエリックが常に仲のいい親友とも言えない。10代の人間関係はかくも難しい。けれども、そこにあるドラマや感情は、もう大人になった私たちが、かつて経験してきたものでもある。だからこのドラマを見ていて非常に新しい物語だと感じるとともに、非常に懐かしい思いもさせてくれるドラマになっている。

 エリックもエイミーもそれぞれにまた悩みや葛藤を抱えているからだ。筋書き上の主人公はオーティスとメイヴだとしても、その隣にいるキャラクターが「脇役」だとは言えない。すべてのキャラクターが、息づいている。彼ら彼女らはフィクションの存在だけれど、彼ら彼女らの悩みや葛藤、高揚感、興奮……あらゆる感情はどこまでもリアルで、少し馬鹿馬鹿しくて、そしてヒューマニティである。

 ちなみに、今月からはシーズン2も配信が始まっており、少しだけ見たが相変わらずなかなかいい。メイヴは学校に復帰できたのだろうか。オーティスは初めてできた恋人であるオーラと「ちゃんとできている」のだろうか。そしてメイヴはどのようなまなざしでオーティスと向き合っていくのだろうか。一つの終わりは、また次の物語の、次の人生のスタートラインでもある。

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2020年01月09日

不器用で仕方がなかった青春時代のこと ――『マイ・ビューティフル・デイズ』(アメリカ、2016年)



 マイ・ビューティフル・デイズ。そのまま訳すと「私の美しい日々」といったところだろうけれど、実際の映画は思ったよりキラキラしたものではなく、むしろ思春期独特の、めんどうくさい感情といかに向き合えばよいのか、といった普遍的なテーマである。

 これを、あるクラスでの英語の授業風景(フィッツジェラルド『グレート・ギャッツビー』についての授業だった)から始まり、週末に少し遠いところで開催される演劇大会に参加する生徒3人と引率教師1人の人間模様を描いた、たった一週間、わずか90分弱のドラマとして表現するシンプルな映画だった。たぶんこれ以上引っ張ったりもう少し幅を持たせることもできただろうけど(たとえばサムはよくも悪くも「都合よく配置された」キャラクターにしか見えなかった)これはこれでいいのではないか、とも思う。

 一つは恋。不器用すぎるし、危険な香りしかしない恋。確かに10代の学生だったころ、少しだけ年上の女性教師がとても魅力的に思えたことはある。けれども、多くの場合実際には何もせず、内に秘めるだけの感情だ。だがティモシー・シャラメ演じるビリーは自分の感情を適切にコントロールできない。映画の中では行動障害という診断がついているが、具体的にはもっとメンタルのバランスの部分だったり、ADHD的な多動性だったりが絡んだ症状をビリーは見せる。それは狂おしくもあり、青くさくもあり、「こうすることしかできないんだ!」という情念そのもののように見える。

 それを結果的に受け止めてしまう教師のレイチェルにも危うさがある。校長からビリーについて事前に注意を受けている一方で、彼女が教師としてではなく個人としてビリーを受け止めてしまう瞬間があるからだ。もちろんこれはビリーにとっては高揚でしかない。けれども、教師としての正しさがあるとは言えない。ではどうすれば? 二人の関係はどうなる? 映画の中で残された時間がわずかな中で、落とし込んだ方向性はなるほどなと思った。

 つまりこの映画は、禁断の恋愛を描くものでもないし、かといって徹底的な断絶を描くわけでもない。人と人とが瞬間響きあう時があるということ。その瞬間には「正しさ」が入る余地がないということ。そうしたエモーションの高まりこそが、ある意味では青春と言ってもいいのかもしれないことだ。

 クラスのリーダー格的な優等生兼美少女でありながら、登場シーンはさほど多くないリリ・ラインハート演じるマーゴットの存在が非常に輝いている。彼女の存在は目立つし、華になる。しかし、彼女とて望んだものは得られない。何もかもが手に入るほど、青春は甘くない。ということと、付け加えて挫折に対してどう向き合うのか(いわゆるレジリエンス)が試されたとき、彼女の何気ない振る舞いがとても魅力的でいとおしく思えたのだ。不器用すぎるビリー、陽気だがマイペースなサム、危うい教師のレイチェルといった3人と比べると、一番安定感のあるマーゴットが輝くのは他者と関わる瞬間にあるのだなと。

 ビリーの演技の妖艶さは皮肉すぎるほど立派なもので、その天才肌のビリーを見て内心悔しい気持ちがあるだろうマーゴットの心情を思うとこれもまた青春の痛みがあるなと思う。けれども、最後は、最後だけは美しく。途中までの道のりがでこぼこすぎるのは、彼ら彼女らが不器用すぎるから仕方ない。でもまあ、青春ってそういうものだよね、といったある種の開き直りこそが、彼ら彼女らを本当に輝かせるのかもしれない。肩の力を抜いて、ただ、目の前の自分と誰かを見つめることができれば。

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2020年01月03日

2019年12月の保有資産&2020年展望

2019年末現在保有資産まとめ

トータル:¥2,028,137
証券:¥1,756,828
→年間受け取り分配金見込み:¥29,574
→日本株:外国株=14:86
→グロース:バリュー=58:42
→個別株:その他(投信&ETF&REIT)=26:74
キャッシュ:¥214,439
その他資産(電子マネー、暗号通貨等):¥56,870


 予定では10月末に200万越えを果たしたかったが遠征などなどであまり増えず。とりあえず年間ベースだと140→200くらい。収入の多かった去年より今年の方が増えたのは相場に助けられた部分も大きい。来年は今年ほどいい相場にはならないと思う(現状が割高すぎるので)ので入金力をもっと増やす(必然的に節約を頑張る)ことで年末には300の台に乗せたい。
 今年はバリュー投資に少し力を入れたがいろいろやってみた結果グロースの方が好きだなと思ったので、比率を70:30くらいにはもっていきたい。下のリストにもあるが秋ごろからレバレッジの投信やETFを少しずつ買うようにして、たぶんこれからも増えていくと思う。入金力が限られるので有効な戦略だと思っているが落ちるときは落ちるのでほどほどに。

 以下、現在のポートフォリオ一覧。

◎日本株
・エムスリー[2413]
・信越化学工業[4063]
・武田薬品工業[4502]
・アステラス製薬[4503]
・中外製薬[4519]
・第一三共[4568]
・ソニー[6758]
・ファナック[6954]
・トヨタ[7203]
・ワークマン[7564]
・伊藤忠商事[8001]
・東京エレクトロン[8035]
・オリックス[8591]

 日本の個別株は現状すべてワンタップバイで。もうこれ以上増やす気はあまりない。
 優待狙いであさひ(サイクルベースあさひの運営会社)を狙っているが2月権利で12万くらいを出せるかどうかは若干微妙。相場が全体的に高いので全体的に軟調になってからでもいいかな、くらい。ほしいけれどそこまでは急がない。
 東京エレクトロンが今年は爆上げしたのでかなり高くなった。武田薬品もずっとマイナスだったが秋口から持ち直して大きくプラスに貢献している。この二つが主力で他は全部サブみたいになっている。
 日本株は現状個別株のみで、ほかではeMaxis slimオールカントリーに少し含まれるだけとなっている。いろいろ考えたがこれでいいかなという気持ちなので来年もたぶんこの運用の予定。

◎外国株
ETF
・CURE
・IAU
・iSharesS&P500[1655]
・SMH
・SPXL
・SPYD
・TECL
・VIG
・VTV
・VHT
・VPU

投資信託
・eMaxis Slimオールカントリー
・ifreeNYダウ
・ifreeQQQ
・楽天VTI
・楽天USA360

個別
・アッヴィ[ABBV]
・アムジェン[AMGN]
・ブリストル・マイヤーズ・スクイブ[BMY]
・CVSヘルスケア[CVS]
・ダナハー[DHR]
・メルク[MRK]
・テラドック[TDOC]
・アップル[AAPL]
・アドビ[ADBE]
・アマゾン[AMZN]
・マイクロソフト[MSFT]
・クアルコム[QCOM]
・Slack[WORK]
・ボーイング[BA]
・コカ・コーラ[KO]
・マコーミック[MKC]
・スターバックス[SBUX]
・ゴールドマンサックス[GS]
・JPモルガンチェース[JPM]
・マスターカード[MA]
・ペイパル[PYPL]
・ビザ[V]
・エンブリッジ[ENB]

 ETFと投信を主軸にしながら個別ではヘルスケアとハイテクや金融で固めつつサブでいろいろ買っていくという戦略。クアルコムやアッヴィ、ブリストル・マイヤーズもわりといい値で拾えた。マイクロソフトも寄与が大きい。アップルやアマゾンはちょっと買うのが遅かったがプラスを出している。
 結果的にマイナスの銘柄がほとんどない。最近悪いニュースが多いボーイングと、試しに1つだけ買ってみたSlackくらいかな・・・普段使いしているサービスだし頑張ってほしい。ボーイングはいずれ持ち直すはずなので大きく下がればナンピンしていくスタンス。

◎REIT
・iSharesJリート[1476]
・iShares米国リート[1659]
・外国リート[2515]

 リートが牽引した一年ではあったが秋口から軟調になり始め、やや戻しつつ越年という見こみ。いままでは個別を見て来たけど個別はもうほとんど増やさず(持っていたものは利確した)、ETFで固めていくくらいでいいかなという気がしている。


2020年展望
・グロースの投信&ETF(レバレッジ含む)中心の投資への回帰
・個別株も買っていくが主力は↑なので買いすぎない
・キャッシュポジションが普段からギリギリなのである程度手元に置いておく

 とりあえずさしあたりはこれくらい。やることはさほど変わらないので、淡々とやっていきましょうという気持ち。あまり相場を見すぎたり情報を集めすぎても自分のスタンスがブレるという副作用もあるので、欲しい情報は取りに行くがそれ以外の情報はあまり見ないようにしたい。
 2年続けてきて感じたのは、相場から降りないことが大事。リスクテイクはある程度するが、リスクを過度にとりすぎないことや、本業や節約もちゃんとやることとか、割とごくごくありふれたことをいかに継続できるかが大事かなと思う。
 増えているとはいえまだまだ少ない方だと思う。ただ収入増が今後もさほど見込めない中では、淡々と増やしていくことはいずれ大きな価値を持つと思うしそれを実現していきたい所存。

 あとこの更新は四半期か半年か、それくらいに一回の割合にする予定。頻繁に更新してもあまり意味はないので、増えた(?)ころに更新します、はい。

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2020年01月02日

2019年の映画記録

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2020年01月01日

死ぬまでの生き方に向き合う ――『人生をしまう時間』(2019年)



 半年ほど前、NHKが作った安楽死に関する番組への批判を長々とつづったエントリーを投稿したが、現実の死を題材に何かを表現するというのはそもそもがセンシティブな要素を多分に含んでいると思う。死は、身近な人にとっては個人的な出来事だ。だが、安楽死にしろ、今回の映画のテーマである在宅死にしろ、誰かの死はそれ自体が社会的な関心事になりうるし、高齢者福祉や在宅医療といったくくりで見たときには社会保障政策の対象になりうる。要は、個人的であるのと同時に社会的、公共的な出来事でもあるのだと言える。




 さて、もともとはBS1スペシャルの100分番組 「在宅死 “死に際の医療”200日の記録」として制作され、この短縮バージョンがNHKスペシャルにもなり、そして今回改めてディテクターズカット部分も交えて110分のドキュメンタリー映画として完成したのが、本作『人生をしまう時間』である。監督も出演者もテレビ放映の時のものを踏襲しているし、何ならすでに見たことがある映像が多々あった。だが、初めましての人にもわかりやすいように、いままでよりもずっと「視聴者に語り掛ける」切り口を見せているなと思った。ナレーションが一切ないにも関わらず、である。

 それでもこの映画が視聴者に対して優しい作りになっているのは、小堀鴎一郎医師や堀越洋一医師を中心とした在宅医療、居宅介護メンバーの医療福祉スタッフ(ケアマネ含む)が幅広く登場しているからだろう。テレビ版では尺の都合やおそらく分かりやすさへの狙いもあり、医師の言葉と患者(利用者)/家族(親族)間の言葉のキャッチボールが流れるシーンが多かった。劇場版では小堀医師や堀越医師の葛藤にも似た言葉にも存分に耳を傾けながら、この二人を近くで支えるスタッフたちの言葉にも耳を傾けていたのがよかった。

 たとえば映画で新たに挿入されたあるエピソードでは、往生を終えた女性のベッド脇でケアマネと
家族との言葉のやりとりがしばらく映像に残っていく。ある人にとっての死は、その周辺の人も巻き込むことが多い。だから人の死は何かの終わりをそのまま意味するわけではない。「死に方を考える」とか「死に方を選択する」ところから始まり、実際に誰かが亡くなり、そしてそのあとに余韻が残される。そして余韻が終わったころ、残った人たちの人生がまた始まっていく。

 テレビ版でも印象的だった百目柿を愛する老人と、目の見えない中年の娘とのやりとりにもそうした時間の流れがよく見える。視聴者は老人と娘のやりとりをただただ見守ることしかできない。しかしそこに小堀医師がやんわり介入していき、最後の時間をささやかに演出する。でも、本当の最後の時間は当人と、そして身近にいる人だけのもの。だから小堀医師は老人の娘に言う。すぐに知らせなくてもいいから、そばにいてあげてほしいと。朝になったら見に来るから、と。

 昨年話題になった東畑開人の『居るのはつらいよ』を思い出してもいい。ただただそばにいること、そこに意味を見出そうとすればするほど、つらく苦しい。けれども、誰かがそばにいることでうまくいったり、逆にうまくいかなかったりする。誰かがいなければそのどちらも生まれえないことが、人間と人間の間には存在する。先ほどの老人はほとんど死を待つのみになっており、医療行為めいたものはほとんど何もできない。だが、柿のなる日を待ちわび、そしてその柿を誰かに渡したいという思いをくみとるためには、「ただいるだけ」の人が本当に必要だ。そして死ぬまでの日々をケアする人もまた。

 東大医学部を卒業し、そのまま東大病院などで外科医として腕を振るった小堀医師にとって、死を前提とした医療はその語り以上に葛藤にあふれていたはずだ。それでも、いやだからこそか、決してわかりやすい答えのない在宅死の現場に80を過ぎてもなお通い続けるその意気に、在宅医療や在宅死を通して人間の在り方そのものを見ようとする、ある老医師のたぐいまれなライフワークが存在することがよくわかる。

 すべての人が望んだ死を選べない現実にも、医師は実直に、そしてユーモアを交えて向き合う。社会保障政策の不十分さも要員ではあるものの、医師の語り一つ一つは本当にすぐれた、そしてヒューマニティに満ち溢れた、ライフワークそのものである。


死を生きた人びと
小堀 鷗一郎
みすず書房
2018-05-02









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