Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

2019年06月





 まぎれもない百合映画だった。本当にこれはいい百合だった。パンフレットを読み、門脇と小松が共演する前から互いの共演を長く望んでいたこと、その二人の間に立つ成田凌を中性的な存在として評価していること。監督が成田を見たとき、成田とシマがダブったという話。それを言えばハルレオも門脇と小松にそれぞれ完全にダブっていくようにして撮影がなされたんだろうなと思うけれど、思えば『愛がなんだ』でも中間的なポジションに立つダメ男を自然体で演じていた成田には、恋愛的な意味では報われないが女性同士の関係性をつなぐために重要な位置を託したいのかもしれない。そうしたい魅力があるのかもしれない。

 そういうわけで、小松菜奈と門脇麦の百合が最の高なのは間違いない。でも、これは成田がいないと成立しない構図になっているのが本当に素晴らしい。元ホストでありバンドのマネージャー兼ローディという役割のシマがいることでこじれたりもするんだけど、二人だけならハルレオの関係はもっと早くに完全に破綻していたはずだ。それを、成田がいい感じのクッションもしくはサンドバッグとしてハルレオをつなぎとめているのではないか。

 ゆえにハルとレオの百合は持続する。何度も何度も壊れそうになっても、それでもハルとレオは二人でアコースティックギターを携えて、小さなライブハウスで歌を歌う。曲数はそれほど多くない。その音楽については、持ち曲はアルバム一枚分はあるという設定だが、実際に門脇と小松が歌うのは3曲だ。そのうちの一曲、表題曲兼主題歌が秦基博提供なのでパーフェクトだし、残りの二曲はブレイク前夜のあいみょんにオファー出してたというあたりも最高だ。髪が長い時の小松菜奈はちょっとあいみょん感あったし、あいみょんが作詞をした2曲は彼女らしい私性が出ていたと思う。なんというかその歌詞は、生きることについてのものだからだ。



*******

 ところでこれは小松菜奈のための映画だったのだろうか。




 そもそも俺がこの映画を見に行く決め手は鈴木ピクさんのこのツイートだったし、確かにこれは純度100%の小松菜奈の映画だと思う。彼女の笑う顔、傷ついて悲しそうな顔、歌っているときの楽しそうな顔。たくさんの小松菜奈がいる。レオがいる。そういう映画だと思う。

 でもそれは、レオを見るたくさんの人たちの存在によって演出づけられているのだろうと思う。観客はもちろんそうだが、シマとハルの二人、とりわけレオのことが好きでしょうがなくて、でもその内面はずっとずっと自分の中に隠し持ったままのハルのまなざしが、あまりにもいとおしくてしょうがなかった。具体的にどのシーンが、というのは難しくて、むしろほとんどすべてのハルとレオが同時に映るシーンにおいて、レオを見ている(あるいは意識的に見ていない)ハルのことをずっと思っていた。

 その報われない何かを抱えたハルを演じるのが、20代も後半になり、確実に映画女優としてのキャリアを積んでいる門脇麦だというのが、これも本当にたまらないことだなと思う。小松菜奈のための映画なのは間違いない。でもそれは同時に、小松菜奈を見つめる門脇麦のための映画である。ハルとレオの関係は常に破綻している。けれどその内面は、ずっと温かいままだ。だからハルを演じる門脇麦のまなざしに、どうしても惹かれてしまうのである。

 「音楽やってて後悔なんてしたことない」(うろ覚え。一字一句合ってる自信はない)は函館へのファイナル公演の直前にシマがハルレオに投げかける言葉だ。でもこれは、おそらくハルが最も共感できたはずだ。音楽のおかげで、シマやレオと過ごす、苦しいけれど最高の時間を手に入れることができたのだから。そういう風に、旅は続いていくのだろう。嵐がまだ待ち受けていようとも。

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NHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」

 NHKスペシャルで50代の日本人難病女性がスイスでの安楽死をした際の経緯に密着した番組が放映された。リアタイではなくてNHKオンデマンドで見たので、リアタイの反応が見られなかったのだけれど、『障害者の傷、介助者の痛み』などの著者がある渡邊琢がかなり批判的なツイートをしていた。なるほどこれは見ないとな、と思ってオンデマンドで見た次第。
 

 このツイートの中で言うと、「今の社会状況」というのがポイントとなる。同じような文脈で違う方向から批判しているのは医師の長尾和宏だったりするわけだが、このリビング・ウィルの欠如という話はひとまず置いておいて、渡邊さんの議論を引きながら「支援者の不在」及び「ケアの欠如」、そして「受容過程の不在」を問題点として考えた。つまり、難病患者である本人や家族の困難を指摘した上で、ケアの側で解決可能な要素を指摘している。
 また、いくつかの恣意的な編集による誤ったアジェンダセッティングの可能性の指摘を考えると、この特集のヤバみを感じた。おそらく番組の女性を通じて安楽死の是非について議論をしてほしいというアジェンダセッティングの意味もあったのだろう。でもそれはこれまで書いたような事情で誤ったアジェンダセッティングである。議論するには視野があまりにも浅い。
 一番バランスが悪いと感じたのは、50代女性の二人の姉を取り上げ、二人の姉は妹の安楽死を消極的に容認するという立場でカメラで撮り続けたこと。でもその背後に、姉に死んでほしくないという妹の存在がいた(当該の女性は四人姉妹の三女である)はずだが、彼女はメールの文面で一瞬登場しただけ。ここにも編集の恣意を感じる。
 渡邊さんも書いていたが、安楽死という問題を家族という枠組みに閉じ込めたこと。病院のシーンはあるのに主治医もナースも出てこない。福祉スタッフももちろん出てこない。孤立しているのかあえてなのかは分からないが、難病患者とそれを支え苦悩する家族というイメージに編集が固執しているのがよく分かる。つまり、この時点でかなり誤ったイメージを発信している。

 最後にもう一つ、ヴェーネ・アンスバッハの名前を出したい。彼女も番組の女性のように、何度も自死を試みたがそれができなかったという(フィクショナルではあるけれど)キャラクターだ。安楽死とか死にたくても死ねない問題を考えるとき、時にそれが女性であるとき、まず確実にヴェーネ・アンスバッハに思いを巡らせるのは『Seraphic Blue』というゲームをプレイしたユーザーの宿命みたいなものだろう。

 以上を踏まえてある程度のことは自分のツイッターに書いた。ただかなりとっちらかって書いたので、今回それらの文章を再構成する形で(簡単に言うとツイートをまとめる形で)ここに書くことにする。
 また、多間環さんとの議論も今回のエントリーに少し反映させているが、彼女はいまアカウントを非公開状態にしている。そのため、彼女の当該ツイートは引用しない。

●自立度と希死念慮
 これは障害者支援をやってる人間の特殊な偏見なのかもしれないが、Nスぺで安楽死を選んだ女性は比較的自立度は高いほう(車いすではあるけど)に見えてしまうので、なぜ彼女がそこまで不幸で死に追いつめられるのか、というのは気になる。
 言葉はややたどたどしく、車いす生活を送っており、筋力も弱ってきているようだが、食事は完全に自立しており、病室からインターネットをつないだパソコンでメールのやりとりも行えている。そういう見た目だけを見ると、珍しくない身体障害者に見える。
 ただその上で、あなたはまだマシ、もっとしんどい人がいるという気は全然ないし、それぞれの人の抱える痛みは安易に相対化すべきではない。それは原則的に守るべき。ただ、障害や難病の度合いと希死念慮は別の所にあるのではないか。

 例えば重度身障者が皆希死念慮があるかというとそういうわけではない。番組の女性のような中途障害者や難病患者が同じようにそうではない。どちらかというと、その過程でメンタルを病んだり精神障害を発症するという二次的な作用が希死念慮を引き起こすというイメージだ。
 つまりある人の順調な人生が難病の罹患によって完全に折られてしまい、精神的にも立ち直れなくなった過程で希死念慮を持ってしまったのだろうと仮定する(あくまで仮定として)。障害の受容段階論で言うところのショック期を超えられるか分かれ目なのだろう。

●難病を受容する過程

 当人の受容過程が希死念慮を考える上で大事なのだが、番組においては「私らしいうちに死にたい」という彼女のショック度を表現しているにとどまった。この彼女が安楽死を不可逆的に選択したとなると、あまりにも多くの人が安楽死を選んでもおかしくはない、となりそうだ(番組の編集の問題として)。
 それがいいのか悪いのかは正直分からないし、安楽死という選択それ自体を批判するつもりはない。ただ、進行性の神経難病の場合、あれは確かに希死念慮を持ってもおかしくないということは、かつて神経系の難病患者だった人間としては否定できないということは理解できる。
 一番病気がつらかった10歳の時、周りの大人に死にたいって言ったら相当怒られた記憶がある。言った相手が同じ難病患者の子どもを持つ親だったと記憶しているので、怒られるのは当然だ。つまりそれはそれで一つの正しい反応だろう(命を粗末にするなという意味で)なと思うし、結果的に私自身は29歳になるまで生き延びているので、希死念慮それ自体への対処法ってのはあるはずだ。希死念慮を尊重しすぎると、それはそれでロクな結果につながらない。

 番組の女性については韓国の大学を卒業し、翻訳や通訳などのキャリアを持ち、その後児童養護施設での勤務を考えていたらしい。仕事一本で生きてきたような、タフな女性だったのだろう。ただ、タフであるがゆえに進行的に身体の自由を失っていく難病生活が耐え難かったのは容易に想像できる。
 しかし、言ってはなんだが歳を重ねると様々な事情でキャリアを中断するということはあまりにもありふれている。あるいは、若くしてがん患者になり、容赦なく余命を宣告される人も珍しくない。自身は健康でも親の介護で離職するというケースも、40代以降に差し掛かったなら本当に珍しいことではない(それを支える制度もまだ貧弱であるし)。
 彼女に似た人は大勢いる。だから彼女が安楽死を選んだことを容易に正当化するのは危ういが、番組はあまりにも彼女の主張を尊重しすぎてはいないか、というのが最大の違和感と言ってもよい。

●制度・政策的観点
 海外と比べて日本は安楽死の議論が少ないと番組では語られていたが、日本は高度な医療技術と世界的にも稀な医療制度を持っている。遅ればせながら障害者支援の枠組みに難病患者も取りこまれるようになっている。このような難病患者が生き続けるための環境について、番組では触れられることがなかった。
 だから渡邊琢さんのようなケア職の立場の人が番組の構成に疑義を唱えるのは当然だ。日本の医療制度にほとんど言及せず、尊厳死は認められてきたが安楽死は認められないという単純な二項対立でしかこの議論を行わない番組の構成は、あまりにも雑だと感じる。その雑さが誤ったイメージを発信しているとすれば、マスメディアとしての姿勢として大きな疑義がある。

 さらに福祉政策の観点から考えると、重度身障者は訪問、通所、施設系の障害者支援サービスを豊富に受けることはできるし、事業者にはそれなりに加算もつくけれど、難病患者への福祉サービスの受け入れの実態としてはまだまだといったところだ。そして番組の女性が入院していた新潟にその資源があったかというと……という印象は拭えない。
 例えば高齢者は社会的入院が問題になった80年代以降、どんどん病院から出ていける(出て行かざるをえない)ようになったけど、難病患者は病院で社会的入院を続けざるをえない、となるとつらいものがある。可能ならば在宅で、地域で訪問看護や訪問介護などのサービスを使って生きていける選択がもっと広まっても良い。というか、実際にはそういう例は豊富にあるはずだ。なのになぜか番組ではそういった施設外のケアについては触れない。
 故小山剛の先進的な在宅介護の取り組みで知られるこぶし園は新潟(長岡市)だし、地方だから何もないとは思わない。このあたりの掘り下げは、それこそ地域に密着するマスメディアであるNHKならあってもよかったのではないか。

●死ぬことと生きること
 高齢者福祉の世界では死が本当に目の前にあるけど、障害者福祉の世界だとすごいやり方で生きている人と、死にたいが口癖だけどやっぱり生きてる人と、いろいろな人がいる。生と死は単純な二元論ないなと日々この領域で仕事をしていて思うところだ。
 渡邊さんが今回の番組の編集を相模原障害者施設殺傷事件になぞらえてていたように、生きることのグラデーションが窮屈な社会というのは、役割を終えた人や役割を失った人から、生きることを容易に奪ってしまう。生産性がなくなったから死ぬことを目指し、それを容易に容認するような社会なのであれば、そもそも医療も福祉も最低限にしか必要がない。
 もちろん先天的な障害と中途で罹患する難病や確かに状況が異なるものであろうが健常ではない存在を否定し、それを容認してしまうということは、実際に健常な身体や精神を持たずに生きている人たちを見殺しにしてしまうのではないか。彼ら彼女らの尊厳への目配せがあまりにもないのではないか
 治療の見込みが、身体の機能の改善の見込みがないならば不要になるということだ。しかしそれは正にディストピアだし、ナチズムに通じる。このあたりの視野がNHKに欠けていたことも、あまりにも危険だと感じた。

●ヴェーネ・アンスバッハのこと
 番組の女性がやったことは積極的安楽死でもなんでもなく、現代日本社会の中で生きられなかった人の自殺の手段が電車への飛び込みではなくて投薬だった、という風にも理解できるだろう
 難病の進行と希死念慮を経ての安楽死は安楽死というより単なる自殺だと考える。それは、セラブルのエピローグパートにおいて、天使としての役割を終えて、何もない、無の存在となったヴェーネ・アンスバッハの言動とダブる。
 でもヴェーネは二年かけても死ななかったし死ねなかった。ある意味飼い殺しとも解釈できるアフターエピソードはかなり残酷だし、他方で役割がなくなって無になったとしても死ぬ必要はないし生きて良い、という天ぷらのイデオロギーかなとも感じた(なので女性にも安楽死する前にぜひセラブルをやってほしかったな、その上で結論を出してほしかったかなというのが強引な感想)。
 ヴェーネもそうかもしれないが、安楽死した人にも「尊厳」の呪いのようなものがあるかなと思う。結局のところ完全に病気を受容すると尊厳が失われるかのような錯誤をしたまま死んでいったような気がするし、それは本当に幸福な決断なんですかね、と問いかけたい。
 受容した上で自死するならともかく、受容の過程を経ずに病気によって変わってしまった自分自身をただただ否定して自分を殺してしまうというのは、簡単に言ってしまえばエゴだろう。別にエゴであってもよい。
 ただ、そのエゴをさも正しいものかのように振る舞うことについては留保が必要だ。あなたにとって正しいことが、他人にとっても正しいとは限らない。この意味では、同じ病気の別の重度身障者の女性を番組で取り上げていて、ここは数少ないバランスに配慮した部分かなと感じた。

 「ヴェーネ論」の結論で書いたことは、ヴェーネにいかに生き方の幅をもたらすかであった。安楽死を選んだ女性にとっても、これまでの生き方を失ったからと言って、今後の人生の生き方の幅を全否定しなければならなかったのだろうか。ここには留保が必要である。
 また、生き方の幅を失った、あるいはそもそも持たない人間が一つの役割を終えたから死んでしまうというのであれば、この世界には死者だらけになってしまう。そうではなくて、何か大きなことを終えたあとでも死ななくて良いという話をしたかった。あるいは、何か大きなことが難病等でできなくなったとしても、それでも何か別のことはできたのではないだろうか。
 もっとも、ヴェーネの場合は希死念慮が容認されたわけではない。番組の女性は二人の姉に容認され(一人の妹には否定されていたが)ここは大きい違いだろう。そして自殺未遂を繰り返すものの、彼女は死ねなかった。ここには迷いもあるのかなと感じました。生きること、死ぬことのいずれのが出来ない戸惑いのようなものがある。
 番組の女性はあまりにも死にとりつかれていて、そして姉もそれを容認する、死以外の外部性を失わせるという、「ヴェーネ論」で出した結論と対のアプローチをしていた。死による救済を掲げるキャラがセラブルには複数出てくるが、ヴェーネはその敵に抗した。ヴェーネが死ねなかったのも、もしかしたらここに理由があるのかもしれない。

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 以上、かなり番組に批判的なコメントを書いてきたが、ケア職の立場として言いたいことはすでに渡邊さんが詳細に論点を提示しながら批判していたので、分厚く書くことはなかった。
 その代わり、ヴェーネ・アンスバッハのことを考えずにはいられない自分の性分をしたためたつもりだ。当初番組の女性がヴェーネっぽいのではと思っていた部分はむしろそうではなく、ヴェーネとは遠いところに番組の女性はいた、という風に結論付けたい。
 そういうわけで、来るべき「ミネルヴァ論」のための布石としては、いい思考のトレーニングになりました。





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見:ソレイユ・2

 2018年に公開されたNetflix製作、ポール・グリーングラス監督の『7月22日』を配信後すぐに見て、強く印象に残った映画となった。ウトヤ島での生存者の再生と苦悩、そして犯人であるブレイビクという男の憎悪を、一つの(事実をベースにした)フィクションとしてドラマチックに描いて見せたと感じた。翻って本作である。"U July 22"というこちらもシンプルなタイトルで、97分という短い映画である。そしてその大半は、カヤという一人の少女を中心に展開されていく。しかもワンカットで、である。

 率直に、どちらが映画として面白かったかと問われれば断然グリーングラスの方だろう。映画を一つのまとまりのある物語、フィクションとしてとらえるならば、被害者側と犯人側それぞれに濃く密着内容と終盤での法廷のやりとりなどは、印象に強く残る。逆に本作は、そういったドラマを一切排除していることで成り立っている。パンフレットを読む限りセリフはアドリブではなく脚本に沿ったものであるらしいが、この映画の持つ緊迫感たるや錚々たるものである。

 その緊迫感において中心となるのはカヤとエミリエという姉妹だ。優等生タイプで男子との政治的なディスカッションでも引けをとらない。と同時に、仲の良い女友達を大事にし、ややだらしない妹にはしっかり小言を言う。後に姿の見えないブレイビクに追われながら語る将来の夢は国会議員であると語るあたり、親の立場からするとあまりにもできすぎた、理想の娘だろう。

 もっともカヤとエミリエもフィクションの存在で、実在はしない。ただ、労働党青年部のサマーキャンプという性質を考えると、多数のカヤやエミリエのような少女たちがあの場にいたことは容易に想像できる。ブレイビクに追われながらテントへ戻りエミリエの姿を探したカヤのように、兄弟や姉妹、あるいは仲の良い友人同士でキャンプに参加したメンバーは、必ずしも自分だけが生き残りたいと思っておらず、身近な親しい人を救いたいという正義感にあふれていたのだろう。

 カヤを突き動かすのもそういった正義である。しかし正義は、無差別な銃乱射の前にはあまりにも無力である。・・・・・・と思っていたが、本当にカヤは最後まで無力だっただろうか。ネタバレを承知で書くが、映画の本編で描かれるのは、逃げきれなかったカヤの姿と生き残っていたエミリエの姿だ。ずっとエミリエを探していたカヤが狙撃され、エミリエが無傷で生き残っているという結果は残酷なものだ。

 ただ、事件前は姉妹喧嘩をしていた二人も、この場においてはそんなことをしていられない。事件によって姉妹関係が修復されたとするなら、あるいは、これが本来の姉妹の関係だったのだということならば、悲しいとはいえなんと尊いことなのだろう。

 72分のガンシューティングを観客にリアルタイムで追体験させることがこの映画の醍醐味であると思っていた。それは実際に間違っていない。ただ、多数の若い役者を配置しながら、徹底的にカヤに向き合い続けたこと。エミリエが見つからないことをiPhone越しの電話で母親に泣きながら声にならない声で嗚咽を漏らしながら通話するカヤの姿が、目にも耳にも焼き付く。

 生存者の再生と葛藤を一つの大きなヒューマンドラマとして描き、かつブレイビクとの対話の可能性を探る社会派の作品として完成させたグリーングラス作品と異なり、エリック・ポッペはもっとミニマムな親密さに目を向けた。そこが、本作でもっとも評価されるべきだと思う。映画のパンフレットにはグリーングラスと比べて本作を持ち上げるようなライターもいたが、そういう問題ではなく、どちらもノルウェーで起こった惨劇を題材にした映画として個々に評価したほうがよい。そうでなければ、どちらの作品も異なるアプローチで同じ題材を調理しているのだから、その味を正しく評価できない。

 優しくて正義感あふれて、壮大な夢を持つ少女。そんなカヤと、出来の良すぎる姉との関係にきっと苦慮しているんだろうけれど、そんな姉のことをただただ救いたいと無言で行動するエミリエの、姉妹二人の尊い関係がただただ美しくて、最後の最後に息をのんだ。正義と親密さが、排外主義と暴力に勝利した瞬間でもあった。
 
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見:第七藝術劇場

 1990年代のある時期に中野で展開されていた「沈没ハウス」という営みを最初に知ったのは一年前のハフポストのインタビューだったかなと記憶している。その後、「沈没ハウス」で成長した青年がドキュメンタリー監督となり、「沈没家族」という映画を武蔵大学社会学部の卒業制作として仕上げる。それが映画祭にも出展され、主題歌や挿入歌付きのロングバージョンが改めて制作され、今回劇場公開という形になったようだ。

 公開のタイミングでたまたま大阪に滞在していたので絶対に見に行きたいと思ったし、監督の舞台挨拶にも居合わせることができて幸運だったと思う(質疑応答にも参加した)。その話なんかも聞きながら、90年代の活動を2010年代ももう終わる今日この頃に振り返る意味はどのへんにあるのだろうかということを考えていた。

 「沈没ハウス」の活動に当時のだめ連メンバーも加わっていたことから、当時はどちらかというと左派的な意味で評価されたらしい。立ち上げたシングルマザーである加納穂子は、実子である監督(加納土)以外にもシングルマザー家庭を巻き込んでいて、その意味では小さいけれども社会運動といえる。そもそも家族というのは最小単位の社会とも社会学的な文脈では語られたりするわけだけど、ごくごく一般的な家族以上に「沈没家族」は社会的な存在であったはずだ。血のつながりのないメンバーが随時出入りする、という意味においては。

 ただ、加納穂子も、大人になった土自身もこれが新しい家族像だとか社会運動だという気持ちはさほど強くはなかったらしい。穂子には穂子のやりたいことがあり、その手段として沈没ハウスという場所で共同保育をするというアイデアを思いつき、実行した。そこで育てられた土は、よその家庭との違いを感じながらも、大人になったいまではいい経験だと振り返っている。

 同じように沈没ハウスで育って大人になった女性と再会する場面では、加納穂子の行った実験はうまくいったね、と笑い合うシーンがあり、そこが個人的には大きく印象に残った。ともすれば自分史にとどまりそうなテーマを、自分以外の誰かの視点で雄弁に物語って見せるのは、加納土が社会学を専攻したこととも無縁ではないだろう。私の質疑応答ではこのあたりのことを質問したが、マスメディア出身の指導教員の下、同じゼミの学生たちと議論しながら一本の映画を作り上げるという経験は、かなり大きいものだったと語っていた。

 ふと振り返って見ると、子育てというのは何も実の母親一人が抱え込むものではなかったのではないか。労働力として期待されるがゆえに多産が当たり前の農村地域では、兄や姉が弟や妹たちの面倒を見るという光景は珍しくなかっただろうし、田舎では近所の人が良くも悪くも随時干渉したり出入りしたりする。つまり、子育てという営みは、母親だけのものではないし、一つの家族に閉じているわけではない。保育園が整備されたことで子育ては「社会化」されるわけだが、それはつまり近代化や都市化によって従来のような子育てが難しくなったがゆえの策である。逆にそういう環境では、保育園に社会化できない場合に母親がワンオペで育児をするという、タフな構図が出来上がる。

 だからこの映画を見て感じたのは、新しさというよりは復古的なイメージである。かといって守旧的なやり方ではなく、ラディカルであると言えるだろう。その営みの中でずっと参与観察していた当の本人が、改めて現代でフィルムに収めるというのは価値がある。あらゆる意味で息苦しさと戦う必要がある育児の現場において、たとえ古いやり方だとしても現代的な形で再提示することには、そういう息苦しさを少し取り除く意義がある。加納穂子をわがままな母親だと攻めることもできるだろうし、加納土の人生がずっと平坦だったわけではないようだが、それでも一風変わった環境でも自分が大人になれたことを舞台挨拶で楽しそうに語る加納土の姿が焼き付いた。

 とりわけ戦後に閉じてしまった家族という形態、概念を改めて拡張することが、結果的に生きづらい人たちを救うことになったり、「普通」とは違う生き方でもちゃんと子どもは育つということは、なかなか面白いものだと思う。けれどあえて強調すると、実母である穂子と、実父である「山くん」の存在は、あまりにもこの映画で大きい。共同保育という営みを描きながらも血のつながりをあえて強調する試みは、これもまた面白いドキュメントの撮り方だなと感じた。

A・I・A・O・U
SPACE SHOWER NETWORKS INC.
2019-04-03

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 5月はほとんど大阪にいて、現地調達して読んだ本がほとんどというところ。あわただしいわりに10冊読めたのはまーまーかな。

5月の読書メーター
読んだ本の数:11
読んだページ数:2810
ナイス数:38

ドナルド・キーン自伝-増補新版 (中公文庫)ドナルド・キーン自伝-増補新版 (中公文庫)感想
元号の変わり目に本当に貴重な人を忘くしたわけだが、長く生きてくれて、日本の文化を丸ごと愛してくれてありがとうという気持ちを改めて抱くエッセイ。太平洋戦争従軍、ハーバードでの修行、ケンブリッジへの留学など、数々の偶然がもたらしたのが日本文学の豊穣さの発見だったというのは、本当に嬉しいことだとひとりの日本人としておもう。
読了日:05月01日 著者:ドナルド・キーン
大阪 (ちくま新書)大阪 (ちくま新書)感想
大阪にいるタイミングで読めたのがよかった。あああのへんの話かというのがなんとなくわかりつつ、歴史を知れるのもまた面白い。
読了日:05月03日 著者:加藤 政洋
90年代の若者たち90年代の若者たち
読了日:05月06日 著者:島田 潤一郎
中国に関係ないことばっかり 20170905 20180706 福州留学滞在記中国に関係ないことばっかり 20170905 20180706 福州留学滞在記感想
https://medium.com/@burningsan/2574f5014277
読了日:05月12日 著者:山本佳奈子
君と漕ぐ: ながとろ高校カヌー部 (新潮文庫)君と漕ぐ: ながとろ高校カヌー部 (新潮文庫)感想
控えめに言ってもめちゃくちゃ楽しい。武田綾乃が書く女の子はみんなどこかとがっていて、そしてどこか欠けている。だからそれぞれの個性がぶつかり合うことも珍しくはなくて、その小さなぶつかり合いの連続が物語を駆動していくし、自己に閉じずに他者に開くことの意味をそれぞれのキャラクターが実感していく構図にもなっている。ちなみに愛奈を黄前久美子、恵梨香を高坂麗奈に読み替えても十分楽しいし、そうなると芦田さんは滝先生的かも(滝先生よりはフランクな付き合いだけど)。続く予定とのことで、引き続き楽しみ。
読了日:05月13日 著者:武田 綾乃
愛と家事愛と家事感想
太田さんには以前お会いしたこともあり、元々のZINE版で読んでいたが、再編集版は太田さんの半生を思いながら一気に読めるような構成になっていると感じた。失われつつ故郷のエピソードから始まり、成長期、大人になってからの反抗期、実の母や最初の夫に対する複雑な葛藤。人生は平坦ではないが、その平坦ではない道のりを生きていこうと前を向く著者に励まされもする。
読了日:05月15日 著者:太田 明日香
ままならないから私とあなた (文春文庫 あ 68-3)ままならないから私とあなた (文春文庫 あ 68-3)感想
価値観の違いというやさしいものではなく、生き方そのものの違いを書いた二編。表題作は百合要素もあって面白いんだけど、ここ最近朝井リョウが受けたインタビューを読んでいると多様性が許容される現代だからこそ生まれる差異と分断を書いているかなという感じ。現代らしい緻密な技術至上主義と、ファジーさを好むタイプは確かにウマが合わないかもしれない。だけれど、断絶を見過ごすのではなくて、わたしたちは違うけれど、なぜそうなのかを相手にちゃんと伝え続けることだ大事なのかもしれない。衝突をおそれるなという意味で。
読了日:05月17日 著者:朝井 リョウ
ユリイカ 2019年4月臨時増刊号 総特集◎梅原猛ユリイカ 2019年4月臨時増刊号 総特集◎梅原猛
読了日:05月19日 著者:中沢新一,山岸凉子,梅原賢一郎,瀬戸内寂聴,河合雅雄,中西進,伊東俊太郎
平成金融史-バブル崩壊からアベノミクスまで (中公新書)平成金融史-バブル崩壊からアベノミクスまで (中公新書)
読了日:05月19日 著者:西野 智彦
響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章 前編 (宝島社文庫)響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章 前編 (宝島社文庫)
読了日:05月19日 著者:武田 綾乃
アーのようなカー (新鋭短歌シリーズ46)アーのようなカー (新鋭短歌シリーズ46)感想
生活というか暮らしというか日々の日常の中にあるなにげないものをとらえる視点が優しくて面白おかしい。「アーのようなカー」といういい意味で気の抜けたタイトルも面白いし、そういうあいまいなもの、はっきりしない何かに対する好奇心がこの歌集を支えているように思うし、それらは往々にして見過ごされがちでもあるから、大切に抱えている著者の視点が愛おしい。
読了日:05月20日 著者:寺井奈緒美

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