2019年05月

2019年05月31日

2019年4月の読書記録

4月の読書メーター
読んだ本の数:6
読んだページ数:2155
ナイス数:40

騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(下) (新潮文庫)騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(下) (新潮文庫)感想
まだまだ序盤。第二部が本編ってところですかね。
読了日:04月07日 著者:村上 春樹
奥のほそ道奥のほそ道感想
ドリゴ・エヴァンス医師という核となるキャラクターはいるが、それ以外の膨大な、そしてバックグラウンドや国籍も様々なキャラクターが登場し厚みを与えてくれる。戦時下だけを書かす、一見平凡にもなる戦後の彼ら彼女らの日々を書いていることが、この小説の本当の魅力だと思う。そこに気付いてなお圧倒される。
読了日:04月13日 著者:リチャード・フラナガン
このまま今の会社にいていいのか?と一度でも思ったら読む 転職の思考法このまま今の会社にいていいのか?と一度でも思ったら読む 転職の思考法感想
新刊が話題だがこの本もなかなかいい。20代のうちに読めたのはよかった。
読了日:04月13日 著者:北野 唯我
わたしが看護師だったころ 命の声に耳を傾けた20年わたしが看護師だったころ 命の声に耳を傾けた20年
読了日:04月24日 著者:クリスティー・ワトスン
GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代 (単行本)GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代 (単行本)感想
似たようなケースがざっくりと紹介され続けるのがちょっと萎えてくるが、127ページあたりの患者の死亡率の話は面白かった。
読了日:04月24日 著者:アダム グラント
バブル :日本迷走の原点 (新潮文庫)バブル :日本迷走の原点 (新潮文庫)感想
80年代以降、市場が急激に変動していく現場を取材していただけあり、文章に臨場感がある。悪が多数はびこっていたというべきか、根本的な大蔵省を頂点とする金融制度の欠陥というべきか、一言でまとめられないからこそちゃんと読んで記憶しておくべきなのだろう。
読了日:04月29日 著者:永野 健二

読書メーター


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2019年05月16日

格差社会、フィクションと消失、そしてビニールハウスのメタファー ――『バーニング 劇場版』(韓国、2018年)



見:第七藝術劇場

 村上春樹の短編「納屋を焼く」を現代韓国を舞台にイ・チャンドンが映像化したのが本作。「納屋を焼く」は読んでいないのでネットでざっとあらすじだけおさえたが、基本的には小説の筋を追って映像化しているなということが分かった。ただ2時間半近くの映画にするにあたって、かなり大胆な換骨奪胎、あるいは二次創作を試みているといってもよい。その結果として、オーディションで抜擢された新人女優チョン・ジョンソの奔放な美しさとその儚さを堪能できるといってもよい。映画デビューが本作でありながらもおっぱいを大胆に露出するような濡れ場を演じ切る彼女のタフさはなかなかによいし、それでいてカードで作った借金が多すぎるゆえに家族にも見放された薄幸さをも同時に兼ね備えているのだ。

 チョン・ジョンソの話をせっかくなので続けると、彼女が演じるヘミという女の子について書こう。主人公のイ・ジョンス(ユ・アイン)とヘミは地元が同じで、ある日たまたま街角でキャンギャルのバイトをやっていたヘミとジョンスが会うことで物語が始まる。整形をしたヘミに最初ジョンスは気づかないが、一緒にたばこを吸っているううちに「やっぱりヘミだ」と気づき、いつのまにか二人は付き合うようになっていく。兵役を終え、大学を卒業したが何もせず小説を書く生活を細々と送るジョンスと、カード借金の返済のためにバイトに明け暮れるもののアフリカに旅をしに行きたいという若者らしい夢を持っている奔放なヘミ。都市でひとりぼっちで生きてきた二人が繋がるのは自然な流れなのだろう。

 ところがヘミがアフリカに行って帰国し、彼女を迎えに行ったところから物語がさらに動き出す。ヘミの隣にいた年上の韓国人、ベンと名乗る彼(スティーブン・ユアン)はヘミと仲良さそうにしており、ヘミの側もそれを隠さない。ベンが何者か分からず興味を持ったジョンスは、ヘミとともにベンの開いたホームパーティを訪れ、そこでヤバイ代物を発見して。

 というように、どう考えてもあやしいベンと、そのベンに惹かれていくヘミにいら立ちを隠せないジョンスではあるが、ジョンスから見て「ギャッツビー」であるベンに、ジョンスはあらゆるもので勝てない。彼のように贅沢なマンションやポルシェを持っているわけでもなく(スマートにポルシェを乗り回すベント、父親の乗っていたぼろい大型車を乗るジョンスの対比が分かりやすい)若い女たち(ヘミ以外にも複数の女性を交際があることが窺える)に囲まれるのでもない。韓国には三放ないし五放世代という言葉があるが、あらかじめあらゆるものが失われた彼ら彼女ら(ベンだけではなく)ヘミを含めるべきだろう)にとって、ベンは違う世界の人間のようだ。


*******

 タイトルに書いたように、本作の導入が原作を換骨奪胎した上で韓国の格差社会をある意味分かりやすいくらいに表現しているとすれば、そこから深まっていく本作のテーマの一つが「フィクションと消失」であると思う。村上春樹のよく用いるモチーフでいうと、井戸が挙げられる。井戸はどこか別の世界(多くの場合、それは実在しない世界)につながっていて、ヘミはかつて自分が井戸に落ちて、ジョンスに助けられたことをベンの前で語るシーンがある。しかしそのことをジョンスは覚えていない。

 また、ヘミはアフリカ旅行中に自分の部屋にいる猫に餌をやってほしいとジョンスに頼み、部屋のロックキーをジョンスに教える。ジョンスはたびたびヘミの部屋を訪れ、キャットフードと水を用意するが、猫の姿はどこにも見えない。あるいは、ベンはたびたびビニールハウスを焼くという趣味があるらしく、興味を持ったジョンスはビニールハウスを地図と照らし合わせて調べるが、ベンの焼いたらしきビニールハウスはどこにも存在しない。(ちなみに原作では「納屋」を焼いているが、作劇上の都合でビニールハウスに変更されている)

 思い出そう。まずもってジョンスは小説家志望、つまりフィクションを生み出すことを職業としたがっている。ヘミはヘミで、パントマイムを習っており、たびたび実現してみせる。パントマイムのコツをジョンスに語るシーンがなかなか面白くて、ミカンをむいて彼女が言うには「ミカンがあるかのように見せる」のではなく、「ミカンがないことを忘れる」のが大事だというのだ。彼女もまた、フィクション(虚構)を生み出すことを試みている。

 ベンの自宅に三人が集まったとき、ベンがヘミに対してメタファーという言葉を使い、ヘミがその意味を理解できないとき、ベンはジョンスに聞いてみな、というシーンがある。このシーンではヘミとジョンスが似たもの同士であること(そしてベンは笑顔でその関係を切り離すということ)や、メタファーという、小説の創作においては重要で、そしてこれもまた村上春樹がよく言及するワードだ。

 メタファー。それは焼かれないビニールハウスのことをも意味している。ベンはビニールハウスを焼くという趣味を暴露し、予告までするが、実際にジョンスの家の近くにあるビニールハウスは一つも焼かれない。だが、ほとんど同じタイミングで、ヘミが姿を消す。電話にも出なくなるし、自宅のロックキーは変更されている。ここから一気にミステリーの様相を見せてくるわけだが(もちろん探偵役はジョンスで、被疑者はベンだ)間接的な証拠がたくさん見つかるだけで、ベンは一向に心の内を明かさない。まるでジョンスに謎を解いてほしいかのように、ヒントを提供することに遠慮はないし、ベンからジョンスへ危害を加えることもない。僕と君とは違うのだよと、高いところであざ笑うかのように。


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 ヘミやジョンスたちの世代にとって、失われたものを取り戻すのはほんとうに大変で根気がいる作業であることだろう。多くの場合、ほとんど不可能かもしれない。その場合、ベンのような「ギャッツビー」たち、要は1%対99%の1%の側に立つ人間のような「持てる者」には一生なれないのかもしれない。

 日本でも格差や階層の固定化が言われて久しいが、それでもこの国に兵役はないし、人手不足によって求人倍率は上向いている。男女の平等ランキングでは常に下位にランクされるようなこの国ではあるが(これは韓国とも共通しているだろう)不思議と韓国社会ほどの悲壮感はない。チョ・ナムジュの『82年生まれ、キムジヨン』のような不正義を告発する小説がヒットするような韓国と(日本でも輸入する形でヒットしたが)少し古い言葉では「絶望の国の幸福な若者たち」が住む日本とでは、社会状況は類似すれどそこで生きている人たちの受け止め方が違いすぎるようにも思う。

 翻ってこの映画の後半の展開と結末を考えてみると、日本映画としてもしこの結末が作られたのならばあ、あまりにも攻撃性が強いと思ってしまう。ただ、現代の韓国を舞台としてこの映画が作られたという前提を加味すると、こういったカタルシスがなければ何も起きずにただただ不幸な物語として終わってしまうのだろうと感じた。

 村上春樹の小説はもちろん後者の立場でもいい、とするはずだ。強いて言うなら『1Q84』のBOOK3を想像しなくもないが、それは春樹の小説としては例外的で、彼の小説は常に多くの謎が残されたまま終わったり、主人公の置かれた状況が大きく変わらないまま終わることが珍しくない。それがちゃんとオチがつくエンタメ小説と、キャラクターの感情や内面の描写を重視する純文学との違いかもしれないし、小説と映画という表現方法の違いなのかもしれない。

 いずれにせよ、この結末を日本人としてどう受け止めていいのかに自分の中ではっきりと結論を出せていない(そもそも日本と韓国の差異にデリケートにならなくてもよいのかもしれないし、過剰に還元主義になる必要もない)が、そうかこれをやってしまえるのがいまの韓国の現実なのだな、と素朴に受け止めることにした。少なくとも現時点では。








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2019年05月10日

ゆったりと激しくかき鳴らす音とダンス ――RAMMELLS Mirrors release tour@心斎橋CONPASS(2019.5.9)



 確かlucky tapesをようつべで流し聞いていた時だったと思うが、ようつべによくあるように自動的に次の曲(url)に変わったとき、流れていたのがRAMMELLSというバンドだった。確か次の曲だったと思う。イントロのゆるいメローな感じの音と、サビの歌詞が印象に残った。



 すごく特徴があるわけではないが色っぽくて力強いボーカル(黒田秋子)と、さっきも書いたようにゆったりした、でも力強さはちゃんとあるサウンドが印象に残った。それと唇のアップが何回も繰り返し現れるMVは、攻めの気を感じる。ガンガン攻めるぞというよりは、脱力するときは脱力もして、時にキレを見せる感じがある。
 現代のJ-ROCKの世界でここまでBPMを落としたサウンドだけで攻めていくのはかなり意欲的だなと思ったのと、たまたま今年出たアルバムのツアーをGWの間からやっていて、なおかつ昨日は休みだったので、ふらっと心斎橋まで足を運んだわけである。

 正直最近聞き始めたので、知っている曲も知らない曲も両方ばらばらという感じではあったが、1時間半の本編とプラス2曲のアンコールをゆったり楽しむことができた。いや、ゆったりというのはやや語弊があるか。ベースの村山がベースを置いてマニピュレーターをいじる曲が数曲あったのだが、この時の迫力たるよ。でもこのバンドが「踊る」ことを要求しているから、こういうアプローチはとても正しい。正しいし、このBPMでも踊れるだろってことを伝えてきているように思えた。
 最新アルバム『Mirrors』のリード曲である「真っ赤な太陽」の歌詞にも、「踊れ yeah」という歌詞から始まるように、踊るという意識が強くある。



 もう一つこのバンドの狙いがどこにあるのだろうと思ってインタビューをあさってみたら、リーダーでギターの真田徹の経歴が面白いことが分かった。Suchmosのメンバーとかつてバンドを組んでいたことや、最初に俺が聞いていたlucky tapesが友達であるということ。
 元々真田がやっていたバンドが解散したあと、先にデビューして有名になっていった彼らと比べて自分たちに何ができるのか、という時にボーカルの黒田秋子に声をかけて結成されたとのことで、まだ結成から4年弱しか経ってない新しいバンドだ。

 黒田秋子の人柄や音楽性を知るには、次のインタビューが面白い。

—『マッドマックス』って、ジェンダー論的な見方があるじゃないですか? 男性社会のなかの女性の強さと弱さを描くと同時に、男性の強さと弱さも描いている。黒田さんは以前“Blue”について話をしたときに(RAMMELLSインタビュー 結成わずか半年で注目の的へ駆け上がる)、「右か左かどっちかじゃない」みたいな話をしてくれたり、「こうあるべき」ということに対してすごく違和感を感じている印象があって、“2way traffic”もそういうことを歌った曲なのかなって。

黒田:『マッドマックス』は関係ないんですけど(笑)、うちはお父さんが「大体のルールとか規則は破るためにある」って言うような人だったんです。小さい頃は「なに言ってんだ?」と思ってたんですけど(笑)、だんだんそれが理解できるようになってきて。

たとえば、学校の校則の「スカートが膝上何cmじゃなきゃダメ」とかって、意味わからないじゃないですか? 「こうあるべき」じゃなくて、「自分がどういたいのか」が大事なんじゃないかなって。

—そういうことが、黒田さんが音楽に込めるメッセージでもある?

黒田:誰かが聴いてくれた瞬間からその曲はその人にとっての曲でよくて、好きなように聴いてもらえればいいとは思ってます。でも、「女性だから、笑ってなきゃいけない」とか、そういうのは「うるせえよ」って思っちゃうんですよね。まあ、笑ってたほうが楽しいからいいとは思うけど、「女性だから、じゃないだろ」とは思っちゃいます。

期待の新鋭RAMMELLSが語る「誰も窮屈にならないための歌を」


 「2 way traffic」はデビューアルバムに入っている曲だが、確かに彼女のスタンスっていうのは思っていることをそのままメッセージにこめているように思えた。昨日のライブでも、曲はみんなに自由に聞いてほしい、というような話を冒頭のMCでこめていたけど、自分たちの曲に饒舌じゃないバンドもなかなか珍しいなと思う。
 もちろん彼ら彼女らなりのメッセージはちゃんとあるし、解釈もあるだろうけど、作って発表したあとは自由にというのは、テキスト論的な立場を持ったミュージシャンと言えばいいだろうか。とにかく、「好きなように聴いてもらえればいい」はリスナーとしてはうれしい言葉である。



 「ゆったりと激しく」は語弊があるかなという話をさっきも書いたけど、確かに曲によってはそうかもしれないけど、この両方を兼ね備えているバンドなのは確かだと思った。特に激しさはライブに行ってこそ際立つ。その激しさに負けない、黒田のボーカルがある。楽しそうに、自由に歌う彼女を見る時間は幸福な時間だった。

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2019年05月02日

関係性があいまいでコミュニケーションが不足している男女たち ――『愛がなんだ』(2019年)



見:テアトル梅田

 愛がなんだ、というタイトルは角田光代原作の小説からそのままとっているが、しかしまあ、なんともこうダメ人間ばかりが出てくる映画だなと思う。正確に言えば全員が全員ダメなわけではないしまともな人がいる。ただ、あえてダメな方向に走ろうとすることをやめないキャラクターの、なんと多いことか。それはフィクションゆえだからこそ許されるものかもしれない。だってリアルな場にいたらイライラしてしょうがないからだ。

 さて、その本作の登場人物だが、主に5人、である。男2女3の5人は、それぞれはバラバラな関係であるが、ゆるくつながってしまい、関係性が少しずつこじれていく。片思いが複数あるがあらかじめ破綻しているので三角関係とかそういうのではない。ただ、「関係性があいまいな男女」が複数集まると、ややこしくもおかしいシチュエーションが生まれるのかもしれないという、角田の実験が見えてくる。(ただ、映画にするにあたって、キャラクターの関係性や登場の仕方などはややアレンジを加えているようだ。それはそれで、原作の換骨奪胎という意味では面白いと思う)

 5人はそれぞれテルコ(主人公。しがないOLを経て無職となる)、守(出版社編集)、すみれ(美術予備校事務)、葉子(出版業界)、仲原(カメラマンアシスタント)という布陣になっていて、テルコは友人の結婚式二次会で知り合った守に一目ぼれして接近するが守はさほどでもなく気づけばすみれに惚れている、という関係。テルコと葉子は友人同士で、葉子のことが好きな仲原と3人で葉子の実家に集まってごはんを食べることもある。仲原は葉子に「うまく使われている」し肉体関係もあるが葉子は仲原のことを恋人とは認めていない、というような関係だ。要は5人ともそれぞれややこしい関係であり、関係性に明確な名前はない。

 純度100%の恋愛映画とか究極の片想いという触れ込みもみたけど、個人的にはこれは結局のところ関係性があいまいなままで生きていくことはできないという現実と、それを逆手にとってコミュニケーションを要求していくことで現実を変えられるかもしれない、という一つのこれもやはり実験なのだと思う。大きなきっかけは仲原が葉子との関係に悩み、深夜テルコを呼び出して打ち明ける場面(この一連のシーンはかなり好きだ)があるが、ここでもコミュニケーションを試みているはずなのに徹底的に二人は分かり合えない。仲原の気持ちをテルコはまったく理解できないのだ。

 なぜなのか。それは仲原が自己完結しすぎているからだ。葉子の気持ちを忖度していると言ってもいい。それは結局のところ、葉子自身を愛しているとは言えない。偶像としての葉子を愛し、そして偶像としての葉子に仲原の思いが負けただけなのだからだ。

 正直テルコはずっとイライラするキャラクターとして見ていたのだけれど、その彼女が仲原にイライラしたところから、別のキャラクターへもコミュニケーションを要求していくところがいい。関係性は全然違うけれど、最近見た『響け!ユーフォニアム 〜誓いのフィナーレ〜』において、久美子が奏に要求したことに近い。奏も他人の気持ちを先回りしすぎて忖度し、自分の感情を押し殺すキャラクターだ。久美子はそれが許せないから、奏に感情の開示を要求する。テルコも同じだ。仲原に、葉子に、彼女は要求していく。

 「関係性があいまいな男女」というのはつまるところ、十分なコミュニケーションをサボっているがゆえに「あいまいな」関係というぬるま湯につかっているだけなのかもしれない。それが悪いとは言わないし、じゃあ「恋人」とか「友達」のように関係性を常に明快にする必要があるかというと、それはまた論点が違うということになる。契約自由の原則に基づけば、関係性は自由に結べばいいはずだ。ただ、いったん関係性を構築したあとに十分なコミュニケーションが行われないのなら、それは関係性が親密な(少なくともそう期待される)「恋人」関係であっても容易に破綻する。

 だからテルコは破綻させたくなかったのだ。自分の人生は容易に破綻させてしまうくせに、自分と他者との関係性や、友達と友達の関係性など、自分にとって大事な他人の人間関係を破綻させたくはなかったのだろう。その方法として正解かどうかはわからないが、テルコは自分の本音をぶつける。相手を傷つけてでも、ぶつける。相手の本音を引き出すために、自分の本音を伝えるのだ。

 テルコと守は、個人としてとらえれば平凡で面白みのないキャラクターだと思う。だから前半は退屈な場面も多かったが、後半の展開は気に入っている。特に仲原と葉子の関係性、とりわけ葉子(元乃木坂46の深川麻衣がとてもいい。自然体ながら存在感のある女性をうまく演じている)のポジションなんか、テルコにキレたくなる気持ちも含めて面白いなと思う。女の感情はとりわけ複雑だ。でもだからこそ、閉じていてはこじれるだけなのだろう。最後に葉子のとったある行動を見て、葉子というキャラクターをもっと好きになった。


愛がなんだ (角川文庫)
角田 光代
KADOKAWA
2006-02-24



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