2018年10月

2018年10月20日

2018年9月の読書記録

9月の読書メーター
読んだ本の数:19
読んだページ数:5989
ナイス数:43

はじめての人のJ-REIT 基礎知識&儲けのポイントはじめての人のJ-REIT 基礎知識&儲けのポイント
読了日:09月05日 著者:北野 琴奈
発達障害を生きる発達障害を生きる感想
テレビをちゃんと見てないせいかもしれないが、思ったより丁寧なつくりだった。発達障害の当事者女性による座談会が一番読みごたえあり。
読了日:09月05日 著者:NHKスペシャル取材班
戦う姫、働く少女 (POSSE叢書)戦う姫、働く少女 (POSSE叢書)感想
読みながら気付いたがこれまで三浦玲一の提示してきた構図を受け継いでいる感じが強い。ただ、であるならば、分析に用いる作品群の幅が広すぎるのはどうにかならなかったか。連載の宿命かもしれないが、一冊を通してのメッセージが結果として薄いように思えたし、最終的に連帯でケリをつけるのは性急すぎる。無理に急な結論を出さなくても、これまでの議論をまとめてさえくれたらよかったはず。
読了日:09月08日 著者:河野 真太郎
ユリイカ 2018年9月号 総特集=濱口竜介 ―『PASSION』『ハッピーアワー』『寝ても覚めても』・・・映画監督という営為―ユリイカ 2018年9月号 総特集=濱口竜介 ―『PASSION』『ハッピーアワー』『寝ても覚めても』・・・映画監督という営為―
読了日:09月12日 著者:濱口竜介,蓮實重彦,平倉圭,砂連尾理,三浦哲哉,柴崎友香,東出昌大,岡本英之,tofubeats,松野泉,志賀理江子
砂に咲く花砂に咲く花感想
すぐれた記録であり、文学でもあり、戦後間もない頃に生きた少女たちの証でもある。
読了日:09月12日 著者:古川賢一郎
アニメーターの社会学―職業規範と労働問題アニメーターの社会学―職業規範と労働問題
読了日:09月15日 著者:松永 伸太朗
WORK DESIGN(ワークデザイン):行動経済学でジェンダー格差を克服するWORK DESIGN(ワークデザイン):行動経済学でジェンダー格差を克服する
読了日:09月18日 著者:イリス・ボネット
新築がお好きですか?:日本における住宅と政治 (叢書・知を究める)新築がお好きですか?:日本における住宅と政治 (叢書・知を究める)感想
おもしろかった。日本における住宅の供給や取得にかかわるもろもろをひとつの制度として見立て、かつてはそれなりにうまくいった制度も人口減少社会における新築の過剰供給や空き家問題など制度疲労を指摘。新築に比べてなかなか市場化されないできた中古住宅や空き家をどうするかという問題を含め、人口減少社会における制度に長期的に移行すべき、と言うのが大きな筋かな。青森や富山のコンパクトシティがなぜ失敗したのかも触れていて、郊外化という現状変更の困難さや市街地に住むコストなどを考えればさもありなんかもしれない。
読了日:09月18日 著者:砂原庸介
それでも、読書をやめない理由それでも、読書をやめない理由感想
ちょっとノスタルジーかなと言う気はするが、情報化社会でかつ忙しすぎる現代でいかに本を読むか、そしてなぜ文学を読むか、を考えるのは大事な視点。
読了日:09月18日 著者:デヴィッド・L. ユーリン
21世紀のアニメーションがわかる本21世紀のアニメーションがわかる本
読了日:09月19日 著者:土居伸彰
失われた時を求めて(8)――ソドムとゴモラI (岩波文庫)失われた時を求めて(8)――ソドムとゴモラI (岩波文庫)感想
アルベルチーヌ回。主人公のアルベルチーヌへの嫉妬がなかなか醜い。
読了日:09月19日 著者:プルースト
介助現場の社会学―身体障害者の自立生活と介助者のリアリティ介助現場の社会学―身体障害者の自立生活と介助者のリアリティ感想
おもしろかった。障害者介助の経験が多少なりともあるので、本書の切り口にリアリティがあるのも面白かった。パンツ一枚の攻防とか、ウンコへの慣れ?とか、介助経験者ならうんうんあるよねということの問い直しやとらえ直しの連続。
読了日:09月23日 著者:前田 拓也
文系と理系はなぜ分かれたのか (星海社新書)文系と理系はなぜ分かれたのか (星海社新書)感想
文系理系論争はおうおうにして現代の日本に限定された議論になりがちだが、古代から近代に至るまでの学問分類の歴史を振り返りながら、現代の先進国との比較も行なうバランスのとれた本。文系理系とジェンダーの問題や、現代における人文社会科学と自然科学の位置づけなど、新書ながらあつかう話題が幅広くこのあたりはさすが隠岐先生と言ったところ。
読了日:09月23日 著者:隠岐 さや香
ユリイカ 2016年12月臨時増刊号 総特集◎『シン・ゴジラ』とはなにかユリイカ 2016年12月臨時増刊号 総特集◎『シン・ゴジラ』とはなにか感想
最初だけ読んで積んでたのを読む。小泉悠、中尾、石田、稲葉の論考を面白く読んだ。高橋一生のインタビューもよかったし、佐倉綾音のインタビューは声優として演技と演出を分析する視点や周りの友人知人家族がどのようにシンゴジラを体感したのか、という点への言及が面白く。
読了日:09月24日 著者:塚本晋也,高橋一生,竹谷隆之,佐倉綾音,原一男,白倉伸一郎
失われた時を求めて(9) ソドムとゴモラ II (岩波文庫)失われた時を求めて(9) ソドムとゴモラ II (岩波文庫)感想
最後まで読んでおい!と思ったが解説を読んで納得した。アンチロマンをあえてつき進む私、ときましたか。アルベルチーヌには幸せになってほしい。
読了日:09月26日 著者:プルースト
現代経済学-ゲーム理論・行動経済学・制度論 (中公新書)現代経済学-ゲーム理論・行動経済学・制度論 (中公新書)感想
新書という枠の中で「現代」の経済学についてっ十分にまとめているように思う。終章にあるように金融やファイナンスには触れていないものの、アダムスミスからピケティまで、広大な経済学の地平に対するいい見取り図だと思う。経済学入門として読むにはややハードなので、ある程度前提知識がある人向けだとは思うが。
読了日:09月29日 著者:瀧澤 弘和
10万円から始める高配当株投資術10万円から始める高配当株投資術
読了日:09月29日 著者:坂本 彰
オープン・シティ (新潮クレスト・ブックス)オープン・シティ (新潮クレスト・ブックス)
読了日:09月30日 著者:テジュ コール
スポーツ国家アメリカ - 民主主義と巨大ビジネスのはざまで (中公新書)スポーツ国家アメリカ - 民主主義と巨大ビジネスのはざまで (中公新書)感想
積読消化のつもりがかなり面白かった。アメリカ由来のスポーツの歴史とその発展は、近代化と民主主義の道のりだったのだ、とストーリーはなるほどうなずける。黒人や女性がアメリカのスポーツ界でどのように扱われたきたのか、というくだりが非常に面白かった。
読了日:09月30日 著者:鈴木 透

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2018年10月13日

差別主義的テロリズムの脅威とそれに対峙する社会の強さ ――『7月22日』(アメリカ、2018年)




見:Netflix

 グリーングラス作品を見るのは実は初めてなのだけど、まるでドキュメンタリーのようにリアルで生生しい映像に仕立て上げられている。これは2011年の7月22日に起きたノルウェー政府庁舎の爆破事件及びオスロ近郊のウトヤ島で起きた青少年たちのサマーキャンプ襲撃事件を題材にしている。77人もの人命が亡くなり(大半はウトヤ島で射殺された若者たちである)、数百人の負傷者を出したこの事件は、単独犯としては史上最悪の事件として大々的に世界でも報道された。

 その当時のことはよく覚えているし、昔起きた津山三十人殺しですら胸糞悪いほどなのだが、数百人を射撃したブレイビクという差別主義者は、確かに怪物のように見えてならない。本人はそのことをよく理解しており、自分の主義主張を勾留中の面会や裁判でも容赦なく浴びせる。あなたたちは私のことを怪物だと思っているだろうだとか、あなたたちは間違っていて私は正しいだとか、あるいはこれはすでに始まっている戦争であり私がやめても他の誰かが始めるだろうであるとか。その一つ一つのフレーズもまた生々しく、ブレイビクを演じたノルウェー人俳優のすさまじさにただただ脱帽していた。

 改めてこの映画を構成すると、事件を追ったドキュメンタリー形式として淡々と事は運んでいくわけだけど、主に3つのパートである。1つはブレイビク視点で彼の犯罪の経過や勾留後の経過を見つめたパート。もう1つは首相始め政府側がブレイビクと対峙していくパート。そしてもう1つは、息子2人が襲撃され、兄が重傷を負い、弟は無傷で生き延びたある家族の顛末を描くパートだ。この3つのパートが絡み合い、クライマックスとなる法廷ではこのパートがいずれも交差していく。

 ブレイビクと被害者家族を描いただけでも一つの映画としては十分なものになっただろう。むしろ、それぞれのパートの密度を考えるとそうしたほうがよかったかもしれない。ノルウェー政府側のパートをあえて描いたのは、国としてブレイビクにどのように対峙していくのか、という姿勢を描くためだろう。その意味では、後半登場する司法サイド(裁判官や弁護士集団など)のパートもこの政府パートに含めてよい。

 ずいぶん前に死刑を廃止した国であり、受刑者に対しても包摂的な処遇を見せるノルウェーにおいて、ブレイビクという存在を「適切に裁く」のは容易ではない。他方で、彼だけを特別扱いしないという姿勢もまた、それは実際の世論としてあったようだし、この映画にも描かれる。国選弁護人は仕事を全うするし、精神鑑定を司法の取引材料にもする。ある意味、日本でもありふれた殺人犯に対する司法の動きと似ている。だからこのパートで常に提示されるのは、現行の制度において、いかにしてブレイビクと戦うか、という問いへの格闘である。

 そのうえで、被害者であるビリヤルとその家族を描いたのは、ブレイビクと対峙する社会の側を見せるためだ。「この男の前で泣きたくなかった。強くいたかった。仲間のために」とビリヤルは法廷の場でブレイビクに向かって語る。彼は頭蓋骨に銃弾を複数浴び、生死の境を生き延びてきた。片手はマヒしているし片目は失われた。当初は杖がなければ歩けなかった彼も、もがき苦しんだあと「ブレイビクに会うため」にリハビリをやり遂げる。なぜビリヤルは、絶望の淵から這い上がり、再び生きようと思ったのか。「ブレイビクに会うため」という目的以外に、彼が多くの人に支えられていたからだろう。たった一人のブレイビクに対して、「仲間のために」と語るビリヤルの強さ。おそらく彼の言う「仲間」には多くの死者も含まれる。

 「仲間」の一人であろう、映画後半から登場するララという移民の女の子がとても良い。リハビリ中のビリヤルと交流する彼女の献身が救いになるのはもちろんだが、彼女もまたブレイビク(のような右翼的差別主義者)が憎んでいた存在でもある。だが、彼女は彼女なりに、したたかな闘いを続ける。女性で、移民であるということは、たとえ寛容な社会ノルウェーであっても生きていくことには困難がつきまとうはずだ。それでも、いやだからこそ彼女が他者とともに生きていく姿勢を見せることが、その生きざまが最も、この映画を、そして現代のノルウェー社会を象徴しているのではなかろうか。

 ブレイビクに罵声を浴びせようとするキャラクターも登場する(「木に吊るせ」とか「精神鑑定許さん」とか)が、ビリヤルとララは、いずれも確固たる主張を以てブレイビクを、そしてその思想を退ける。もっとも感情的になっていいはずの直接的な被害者であるこの二人が、理性的に、そして淡々とブレイビクを退けようとするのはその言葉に信念があるからなのだろう。つまり、寛容な社会というのは常に社会的に議論をする中で勝ち取っていくものなのだということ、不正義に対しては安易な厳罰ではなく正義を示し続けることで対峙していくべきだということを、この映画は如実に表している。

 いずれにせよ、約2時間半の間、私たちは刮目してこの映画を見たほうがよい。それは、ゼロ年代以降厳罰化の一途をたどる日本の視聴者からしたら遠い世界の出来事かもしれないが、でも確かに、この映画で描かれているのもまた、私たちの生きる国際社会の一片なのであるからだ。





 ノルウェーは修復的司法を積極的に取り入れている国としても知られるが、ここ数十年にわたる司法制度、刑事政策に大きく関与したのがニルス・クリスティだ。少し前に彼は亡くなったが、彼の遺した功績が現代のノルウェー社会の様々なところに息づいていることはよくわかる。

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2018年10月01日

とどまる男と離れてゆく女の紡ぐ人生 ――木尾士目『四年生』(1997-98年)/『五年生』(1998-2001年)











 最近『げんしけん』で知られる木尾士目の初期作がどういうわけか新装版としてリリースされているのでたて続けに読んでいる。その中で、『四年生』という一巻完結の漫画と、その続編である『五年生』を読み終えた。大学生編である『四年生』は比較的ハッピーエンド志向の作品だが、男が留年し、女が就職するというどう考えてもうまくいかないシチュエーションを想定している。あとがきを読むと、意図的に二人の仲を引き裂いたあとにどうやって再生していくのかを書きたかったらしい。しかし最後の最後まで再生どころか決裂している関係をどうやって戻すのかと、やきもきしながら読んでいた。

 そしてどことなく『イエスタデイをうたって』に似ているなと(時系列的にはダブる部分もあるし)思いながら、より直情的というか、理屈よりもその場の感情で動いていくキャラクターがあまりにも多くて、つらい部分もあった。とはいえ、これは結局は距離を描いたお話なんじゃないかと思いながら読むとしっくりくる。心理的な距離と物理的な距離があったとして、そのいずれもが近くにあるのが『四年生』で、そのいずれもが遠くあるのが『五年生』だったんじゃないかと。

 『イエスタデイをうたって』のヒロインは榀子とハルという、分かりやすく言えば理性と感情、大人っぽさと子どもっぽさという二人の女性を登場させていたけれども、木尾士目の描くキャラクターはどのキャラクターも感情を表現しようとする。まわりくどい場合もであるが、それでもわかりやすく感情をぶつけてくるのだ。『五年生』に登場するアキオの下級生である吉村はその典型だろう。どう考えても悪い女風に登場して、最後まで一貫している。アキオもそのことをある程度予感しながら吉村を受け入れていく。この時点ではもはや、かつての恋人である相馬芳乃の存在なんてない。アキオは、物理的にも心理的にも、距離の近さを好むのだ。

 対して芳乃のほうは達観しているというか、就職したあとは一貫して東京で暮らし続ける。アキオ(は木更津にいる)と会うとしてもたいていは東京だ。アキオがまだ大学に残り、細々とながらゼミの学生やOBたちと交流するのに比べると、大学卒業後の芳乃のまわりには仕事と家があるだけだ。これは明確に、学生時代と社会人時代のラインを引きたい芳乃の感情の表れだろうし、そうすることが正しいと思っている彼女の生きざまなのだろうと思う。だから学生時代はなあなあで交際していたアキオに対して、かつてほどの思いは持たないし、「アキオがダメな男であるとわかっていながら付き合っていた自分」を相対化させていくのが『五年生』のストーリーだろう。その中に彼女の不倫も含まれて、同時に彼女自身もまだ脆い、不完全な存在であるという事実に直面したりするわけだが。

 結局のところ、とどまるか離れるかが正解というわけではない。私たちは生きていく場所を選べたり選べなかったりするわけだが、それでも結局生きていくしかないんだよなということ、そのときに、遠くにいようがいまいが、だれかと寄り添うことは可能なのか? というのが最終的に『五年生』を通じて表現したかったことのように思う。ある意味で、『イエスタデイをうたって』のリクオが最後に選んだ選択と似ていて、近いところにすべてをゆだねればいいのではなくて、あるいは受動的に何かを選択するのではなくて、遠くにあってもそこに手を伸ばすことに、それを積極的に選び取ることに人生の意味があるんじゃないか、ということだと思う。

 まあしかし人生なんてものは20代のうちはまだ序の口で、そもそも二人の関係がうまくいくような気はしない。気はしないが、それもあらかじめ分かっていたことではある。その感覚を再帰的に受け入れながら選び取った芳乃とアキオの選択、その思いや悩みというものは、なるほど案外尊いのかもしれないな、と思った。俗っぽいと言えばそれまでだけれど、うまくいかないコミュニケーションを費やした上での選択であるならば、意味がない、とは言えないんじゃないか。きっと。




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