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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

2018年04月

「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由(阿部 幸大)

 上の記事がここ最近よくバズっている。これはまず間違いないタイトルがバズるようなものになっているというのもあるだろうし、こういう格差の話題は浸透しやすい。この記事から始まる田舎側の共感と批判、そして都会側のわたしたちとは違う感みたいな、そういう反応は容易に予想される。これまでにもよくあったことだからだ。
 次のような批判エントリーは面白く読んだ。

見えている世界が違うのは田舎という場所の問題なのか(Tomohiro Nishi) 
共感だけして満足する人たちについて(ひらりさ)

 あと覚えている人がどれだけいるかはわからないが、かつてはてなでgudachanと名乗っていたアカウントがあり(というかアカウント消しているのをさっき知った)大卒後にニートっぽいなにかになったからかはてなブログとNAVERまとめを2013年〜15年あたりに大量に更新していたアカウントなのだけど、このアカウントもよく地方に絶望して都会を礼賛していた。(*1)
 気持ちはわかる、わからなくもないが、しかしここで言いたいのは、最初の記事を書いた阿部幸大もgudachanも田舎や地方を多様なものとして受け止めて記述しているわけではないということだ。もちろん彼らもすべての田舎や地方を同質のものと思っているわけではないだろう。
 しかし「東京」という補助線を引いたとき、「田舎」とか「地方」は似たようなものに見えてくる。なぜか。

 せっかくなので少し個人的な話をしよう。これは自分のツイッターに書いたことの再掲載のようなものになるけど、1990年の香川生まれ、大学だけ東京だった人間としていくつか所感を書いておきたい。
 香川はなんだかんだ教育県なので親に学歴なくても塾通いさせるし大学にも行かせるという不思議なところがある。一般的に言って学歴は再生産されがちだが、公教育が充実している日本では教育熱の地域差も手伝って学歴が再生産されるとはかぎらないパターンもう珍しくないと思う。仮説だけど。
 地方の教育県でどういうことが起こることかというと結果的に若い人口がどんどん流出して有効求人倍率は高止まり、だったりもする。高校で地元の町を離れたので詳しく知っているほどではないのだが、中学の同級生の半分以上は短大、専門、4大に進学していた。4大に限っても、関西の私立を中心に半分ほどは進学しているはずで。
 それがなぜ可能なのかというと彼ら彼女らは小学校高学年の時点ですでに塾通いをしていたからだ。それだけ親の教育に対する資本があり、かつ周りがそうしているから、という同調圧力(というかピアプレッシャーのほうがよいかな)があったからだろう。
 田舎なので文化的にすごく恵まれていたわけではないが、これもまた有名な話として香川県には日本で唯一全市町村に書店がある県だ。宮脇書店という高松の新刊書店のチェーンがあちこちにあることが主な理由で、さらに小豆島の場合二つの大きい図書館があり、大人となったいまでは物足りないかもしれないが子どものころの自分には十分な蔵書があり、手塚治虫の漫画や子ども向けにリライトされたホームズをよく借りて読んでいた。ある程度の規模の図書館と書店があれば、少なくともある程度の教養はアクセス可能だ。
 
 個人的に地方と東京という関係性においては、「東京があなたにとってどういう場所であるのかは、個人が主観で決定すればいいこと」だと思っている。このことについて詳しくは直前のリンクにも貼ったmediumで書いたのでそっちを見てほしいし、地方と東京との関係を等身大の趣味の視点からとらえるならば、という切り口で作られた(と思う)『悪友』vol.3はほんとうにいい本になっていると思う。
 ここで再度触れるならば、ローカルなものというのはそれ自体が多くの場合固有のものであって、他とは比較的ない多様性を持っているからだ。もちろん地方の郊外やベッドタウンのような、どこにでもあるような風景は社会学的に比較可能な構造になっているかもしれないけれど、それよりさらに田舎の地域に行けば良くも悪くもそこに形成されてきた歴史性があるものだし、なおかつ現代ならばほとんどだれもがインターネットにアクセスできる時代でもある。教養はともかく、情報だけならばどんな田舎にいても、回線さえ確保できれば得られるのだ。
 であるならばむしろ、今度は都会のほうが実は均質に見えてくるかもしれない。田舎での固有の経験を持たない都会生まれ都会育ちの人間が田舎や地方の人間に対して理解を示すことができなくても不思議ではない。不思議ではないが、しかし同じ日本という国で共存しており、税や社会保障といった形で相互にわたしたちは依存しながら日々を暮らしている。
 逆に田舎や地方の人間は東京のような都会の人間を詳しく知っているわけではない。これはほとんどそのまま対照的な関係だ。もちろん、テレビを通して東京を見る機会を地方の人間は持っているので、微妙にズレはあるのだけど、それでも東京の人間のリアルを知る機会はそれをつかまなくては得られるものではない。
 だとするならば、結局のところ関係性の分断をなんとかして乗り越えていくしかないだろうし、さっきも書いたように社会保障制度などでは分断ではなく連帯してしまっているので何らかの形で違う立場を知る、という機会があったほうがよいだろうと思う。

 『悪友』vol.3の例でいうならば都会の人間が地方に聖地巡礼するとか、逆に地方の人間が遠征して全国や海外をめぐるとか。趣味は容易に場所を超えるし、そのことによって単に場所を移動するだけではない体験を得ることがわたしたちは可能なのではないか。さらに言えば、その体験を誰かに伝えることも(それは同人誌でなくてもブログやツイッターでも、なんなら居酒屋での飲み会でもいいと思う)できるのではないか。
 一人の人間が経験できることなんてたいしたことではないが、それを誰かに伝えたり逆に誰かから伝えられることによって一人の人間の視界が開けていくのであれば、それはつまるところ阿部幸大の言う「文化と教育の地域格差」を少しでも埋めることに役立つのではないだろうか。文化も教育も、格差を知った時点で絶望したとしてもそのあとにその格差を小さくすることは十分可能だろうという道筋は、示しておいてよいと思う。

 もう一つ最後に個人的な経験を書いておくと、子どものころに海で釣りをしたり総合学習の一環で農業(米作りとか生花栽培の体験)をしたことも、いまとなっては貴重なものとして、そして田舎に固有なものとして受け止めることができる。都会は機会の優位さを地方に比べると持っているだろうが、すべてを持っているわけではない。
 でもまあ、それで別に構わないのであって、田舎も都会も、地方も中央も、そういういろいろな地域があって一つの国が成り立っているのだということを改めて認識すればいいのではないだろうか。格差格差と言ったところでアメリカに比べれば大したものではないし(アメリカと比較するのはどうか、とはまあ思うが)義務教育と健康保険の強制加入は最低限のレベルで日本人の格差を開かせない方向には一役を買っているはずである。

 長くなったし話も少しそれてきたのでまとめると、タイトルに付したようにまず田舎も都会も一様ではないので一くくりにして議論しようとする人は基本的にそこを改めたほうがよい(とさんざんあちこちで言っている)ということと、田舎と都会ではそれぞれに固有の経験があるはずであって、それをまず尊重したほうがよいということ。
 その上で格差の話をするのであれば、18歳の時点で生まれてしまった格差を、18歳以降の人生で埋めていく方向で考えようということと。
 釧路や小豆島のようなところで18まで育った人間と、東京の23区で18まで育った人間の経験値が異なるのは当然だ。しかしまたその質も異なるはずである。どちらが優劣というわけではなく、互いに無いものを補いあっていけばよい。そのための方法ならばいくらでもあるだろうし、そのほうが現実的で建設的なのではないか、と思う。

 まあもちろん、俺の親が二人とも大卒だったというのも幸運なのだろうとは思うが、しかし両親が大卒ではない同級生も普通に関西の大学に行ってはいるので、田舎に生まれて所得が少ないからと言ってすぐに人生を絶望しなくてもいい、と言っておいたほうがいいとは思う。
 それでも家庭環境に何か問題があるならばどちらかというとそこは福祉の領域かもしれないので、そうであれば市町村や福祉の専門機関に援助を求めよう。といった風に、問題を大きく語るのではなく個別化して語ったほうが、現実的に子どもの未来を救えるし開いていけるのでは、というのが私見である。

 あと最後にもっと個人的なことを言うと、このブログは2004年、俺が14歳(中三)だったころからのエントリーがまだ残っているので、田舎の14歳がどのような経験をして(主に挫折)東京に行ってそして戻ってきたのか、という一つの小さな歴史が記録されているので、興味のある暇な人は昔のエントリーも見てください。めっちゃ恥ずかしいけど。


*1 ちなみに2014年ごろにtumblrでgudachanへの反論記事を書いたことがある。
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 レイズさんの以下のツイートに対する個人的な見解について。




 簡単にまとめて自分のタイムラインに流しましたが流れていくのもあれかなと思い、もう一度ここで参考文献も載せつつまとめてみます。一部訂正も含みつつ。

・たとえば健康保険は戦前に原型や一部の被用者保険があったりして戦後の60年代に国民皆保険となり、合わせて年金制度も整う。介護のルーツは70年代に成立した老人福祉法だと思うけど、高齢者医療費無料化が主だったのでどちらかというと医療制度の一環な気がしている。
→老人福祉法の制定は1963年だが1972年の一部改正による老人医療費無料化が実際に与えた影響力としては大きいと考えられる。一部の地方自治体が先行していた左派的な政策(いわゆる革新自治体)を国レベルで取り入れた形。










・もちろん医療制度と言っても当時の「老人」たちは病院に「社会的入院」をしていたのであって、それはつまり病院が実質的な介護施設を兼ねていたと言っていいと思うのだけどそれだとベッドをどんどん埋めるし医療費も膨らむというのが80年代の議論であって。
→「社会的入院」は入院に対するネガティブなイメージであり、行き先のない高齢者や精神病患者に対して用いられていた言葉。当時のことはリアタイで知らないので一般的に使われていたかはわからないが、医療政策をやっている人間なら知っているであろう概念の一つ。かつては精神保健福祉が未整備で、精神病院への入院は数十年単位を数えるのも例外ではなかった。







関連記事:日本の戦後精神医療史の凝縮 ――NHKEテレ(2018)『ETV特集 「長すぎた入院」』(2018年2月14日)

・1987年に社会福祉士及び介護福祉士法ができて社会福祉士、介護福祉士という福祉の国家資格が生まれるわけだけど、ここから2000年の介護保険まではまだ開きがある。そのためには1990年の福祉八法改正をまず経過せねばならない、という感じですかね。制度史的には。
→ちなみに精神保健福祉士の資格の整備には1987年からさらに10年を待たねばならない。この意味でも精神科領域の福祉の整備は遅れているイメージが強い。

・レイズさんの指摘する「家族で介護をやるのは、病院で見てる限りはかなり無理があるように思う」のは昔もおそらくそうであって、おそらく家庭内における何らかの女性(嫁や娘など)がその役割を担うとされていたはずだから、女性への負担は大きかったはず。もちろんいまも、ですが。
・しかしながらそうして無理を通してきてしまった歴史がそれなりにあってしまうことによって、いまでも介護は家で女性がするものだとか、介護業界は女性が数的に優位であることとかも、ジェンダー的に偏った認識のままきてしまった歴史的な産物なのではと思う。
→ジェンダー的な視点ももちろん指摘できる。介護は専門職が家の外で行うものでなく、「女」が「家の中」で行うものだという時代が長く続いたことの弊害はいまでも散見される

・直接的な回答にはなっていないかもだけど制度史的にはこんな感じです。ちなみに制度だけでいうと精神科領域も別の形で遅れをとっている・・・ような気はします。こちらも木村敏や中井久夫のようなすぐれた精神科医は戦後出てきているが精神保健福祉の領域では遅れがあるのではと。








 介護のみならず福祉制度を政治の視点から見るならば最初に挙げた3冊が適していると思う。医療もそうだが、どの時代も福祉は政治の争点になってきたし、いまでもそうであることがよくわかる。そこには一定の党派性や流行があり、90年代以降に加速する高齢化によって財政赤字の問題とセットで議論される領域になっている。

 介護だけに限定すると、
・福祉制度的な優先順位が政治のレベルで高くなかったこと
・高齢者の社会的入院が実質的な介護を兼ねていたこと
・ジェンダー的な偏りが長く続いたことによる弊害
 この3点が主要因だと考えられる。

 高齢化問題は早くから指摘されていたものの老人福祉法から介護保険へと移行するまでには時間がかかったことも、結果的に介護に関する制度やサービスの整備の遅れにつながっている。
 介護保険以降は小規模施設や地域密着型サービスの整備が進んでおり外形的には「施設から地域へ」という移行が進んでいるが、これも財政赤字が前提にあることは指摘しておいていいと思う。特養などの大規模施設で丸がかえしてみるべきなのは比較的要介護度の高い高齢者だけという流れは、今後も大きくは変わらないだろう。
 

 ざっくりとしたまとめだけどこちらからの回答はこんなところ。何かあればご質問ください。
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【SBI証券】
国内ETF:¥142,946
投資信託:¥91,496

(つみたてNISA含む)

【ロボアドバイザー】
Wealthnavi:¥536,159
THEO:¥144,720


TOTAL:¥915,321
(前月比+93,339)

◆現時点(4/4 22時50分ごろ)の指数
日経平均:21319.55
TOPIX:1706.13
NYダウ:23629.22
ナスダック:6863.86
S&P500:2585.48



 以下感想。

 まず事情あってテオから7万ほど出金した。これに伴っていくらか損失が確定してはいますがこのまとめ記事ではとりあえず淡々と保有資産の現状を書いていこうと思っている。なので現金部分のプラスマイナスは記載なし、ということで。
 以前ウェルスナビよりテオを、みたいな話を書いたがウェルスナビが長期利用者には手数料を割り引くというキャンペーンを始めたことや、幅は広くないがVTIやVWOのような魅力的なETFを中心に買っていくことに現在は魅力を感じているので、ウェルスナビをどんどん増やしていくという方針でいきたい。
 テオのほうはそのかわり出金とあわせてリバランスも行って、株式の比率を約8割に設定した。ここしばらくの相場だと株式が高いとダメージが出ているが、長期で見るのでこのあたりは気にしない。

 国内ETFについては1475、1478を1つずつと1655を10枚買い足し。REITの1476と1659も1枚ずつ買い足した。現状株式が95%(国内:国外で1:2くらい)でREITが5%という配分になっているが、今後REITを増やしていく、かも。国内外の比率は1:2くらいで維持したい。
 1655は今週年初来安値に最接近したりしたのでさらに買い足している。平均購入単価をだいぶ下げられたので、引き続き気を見て買っていきたいがこればかりが分厚くなってもということで他への買い増しも同時に意識したい。
 1655については3月に少額ながら配当も入っている。ご丁寧に封筒で通知が来て驚いた。

 順調にいけば今月中には有価証券だけで100万超えるはずなので、11月に投資を始めて半年足らずでこのラインにいけるというのは悪くないのではと思う。
 転職してベースは上がっているので、今年はさらに着実に増やしていきたい。
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