見:ソレイユ・2
公式:http://www.uplink.co.jp/dancer/
この映画を見ようと思った動機はひらりささんだったりする(最近いろいろなところで影響を受けている気がする)わけですが、彼女の書いたnoteの記事以外の情報をほとんど入れずに見に行ったので、なんとなく面白いのだろうというくらいのノリだった。果たして、そのノリは完全に間違っていたことに気づくわけだが、なんというかこれは、現代のヴェーネ・アンスバッハなのでは、という思いがとても強く残った。ああこれは、運命に支配されていた人間の格闘の物語であり、失われた青春でもあり、そして(ヴェーネが果たすことのできなかった)運命を乗り越えていく若者の物語なのだと。
ウクライナ生まれのセルゲイはまずは母によって教育を受け、のちにロシアにわたり、そしてイギリスへという夢を果たす。それまでの道のりがまず長い。父は出稼ぎのため海外へ行き、父と母のコミュニケーションは次第に薄れていく。それはおそらく、父と子の関係においても言えるのかもしれない。バレエの練習に日々励むことになるセルゲイは、実質的に孤独な青春を送ることになる。育ち盛りの10代の男の子にとって、その孤独はとてもつらかったはずだ。
イギリスに渡ってからのアカデミーでセルゲイは寮生活を送ることになるが、ここで何かから解放されたかのように生き始める。彼の「悪友たち」何人かがインタビューで登場しているが(逆にロシアやウクライナ時代の友人は登場しなかったはず)悪友たちとのいたずらや夜の遊び、タバコや酒、ドラッグといった、おそらく一般的にも好ましくないこれらの要素は逆にセルゲイという人間をようやく冷静にとらえることができたように思う。あまりにもこうした形跡のなかったロシア時代は、一種の踊るマシーンのようにしか見えなかったからだ。それはまさに、「救世の道具」として幼きころから養育され、人間らしさを形成しないまま成長を重ねたヴェーネとダブってしまう。
ヴェーネよろしくセルゲイも、親によって与えられた役割を果たすという意味では、忠実な子どもである。あるいはそれ以外の選択肢をはじめから与えられない親の道具である。ジークベルトは子育てをゲームに例えていたが、セルゲイの母親も躍りの世界でのしあがっていくというゲームの成功を夢見ていたに違いない。夢をかなえてもなお人生は続くということを、どれだけ分かっていたかは別として。
だからイギリスにいたころも、セルゲイが一度も両親を自分の舞台に招かなかった、というのは合点がいった。そんなに容易に、自身の親を容認することなどできないという意思の表れでもあるだろうし、この世界でプロになり、自身のパフォーマンスで稼ぐことができるようになったという意味でもはや子どもではないという思いもあったのだろう。
*******
そうして次第にセルゲイ自身の抱える葛藤へと物語の焦点が当たっていくにつれ、そういえばセルゲイは最終的に死ぬのだろうかとあらぬことを考えてしまったが、イギリス時代の終盤、つまりもうほとんどのことを叶えてしまい、目指すべきものがなくなってしまったセルゲイにとって、生きる意味そのものを再び見いだせるだろうか、という悩みが深刻化していくこの時期のつらさは、幼少期のつらさとはまた異なる次元のものだろう。夢を叶えれば苦しみから逃れられるのではなく、また新たな苦しみに出会うことになる。葛藤は永遠に続くかのように思われるのだ。
それはヴェーネが越えることのできなかった壁でもある。一人で苦しんだという意味ではヴェーネとセルゲイは似ているし、セルゲイの役割は理論的には代替可能だが、ここまでの次元の存在になるとそれも容易ではなく、ほとんど唯一無二の存在だ。この壁を乗り越えるためのセルゲイの選択は、イギリスを離れることだというのはなるほどと思った。
数々のスキャンダルも起こしてきたイギリスにとどまりつづけることは、もはやセルゲイにとって何の意味ももたらさない、とするならば、場所を変えるのが確かに一番手っとりばやい。そのための場所は、一つの候補であったアメリカでは難航したことからロシアになる。再び返り咲いたロシアの舞台で、いまもセルゲイは躍りつづけているようだ。
幼きころに選択肢を持たなかったセルゲイにとって、何かを自身で選択することは容易ではなかったに違いない。しかしイギリスを離れるという選択をすることによって自分の人生を生きなおすことができた。何度も復唱するようだが、イギリスにとどまっていればヴェーネ・アンスバッハになったかもしれないセルゲイ・ポルーニンは、その呪縛を解き放つことができたのだ。場所を変えるという、シンプルな選択によって。そしてすぐれた指導者という他者を頼るという、人間関係の回復によって。
考えられるのは二つの方法だ。一つはヴェーネ自身が「外部」へと手を伸ばすこ
と。もう一つは、「他者」や「社会」の側がヴェーネの人生に介入していくことだ。要は、セカイ(そんなものはもう存在しないのに)に閉じこもっているヴェーネを、「外部」へと引っ張ってくることだ。
「ヴェーネ論」p.20
セルゲイは自身がイギリスという世界の外部を知っているからこそ、外部に手を伸ばすことができたし、また外部からセルゲイに対してアプローチが送られた。その過程もまた容易ではなかったものの、生きなおす過程のセルゲイの輝くような笑顔は美しい。新しい舞台で苦しみもがく姿もまた、彼が望んで得たものだろう。だからこそ、物語のクライマックスでセルゲイが躍る"Take Me To Church"の静謐さと荘厳さ、そして美しさを、おそらくセルゲイ自身が一つのターニングポイントとして背負いながら、またこれからも新しい人生を生きなおしていくのだろうと、素朴に信じることができる。