2017年10月

2017年10月30日

久しぶりに競馬が楽しい

 今年は久しぶりに競馬が楽しい。理由はいろいろあるが、去年くらいからまたコツコツ馬券を買うようになったことだろうと思う。ウインズが近くにあることと、可処分所得がちょっと増えたことが大きい。余裕資金で馬券を買うくらいならのめりこまなくてよいし、当たったときの喜びは大きい。外れたらしゃーないなと思って切り替えていく。
 まあ無精なので昔からG1メインに重賞をたまにくらいの予想しかしないが、いまもその傾向はあんまり変わってない。(ちなみにゼロ年代の中盤くらいまでは毎週末に予想を公開していました。ブログの過去ログに残ってるかも)
 去年の春競馬ではダービーでマカヒキに勝たせてもらったり、宝塚ではマリアライトがとんできたおかげで地味に収支をプラスにしたりと、個人的に気に入っている馬が走ってくれるのはやはりでかいな、と思う。好きな馬がいる(そして馬券に絡む)ことと、馬券が予想通り当たること。この両方が続いてくれれば競馬はなんだかんだ楽しい。

 記憶の中にあるリアルタイムで見た最初のレースが2001年の有馬記念で、テイエムオペラオーの引退レースであり、当時3歳だったマンハッタンカフェが鮮やかに勝ってアメリカンボスが穴をあけるという、世代交代と波乱含みというところに競馬の面白さを知った。
 中学や高校のような、馬券の買えない時期によく競馬を見ていた。関西テレビ制作のドリーム競馬がなければ、ここまでのめりこまなかったかもしれない。ディープインパクトの競馬ブームのときもよく覚えているが、それ以上に競馬を見始めたばかりのころのシンボリクリスエスの強さとオリビエ・ペリエというとてつもない天才ジョッキーを目の当たりにしたことのほうが印象に残っている。
 あるいはアドマイヤグルーヴやダンスインザムードのような古馬相手にも健闘する牝馬の活躍も面白かった。福永祐一を背中に乗せたシーザリオがアメリカンオークスを制したときは、そのニュースがNHKで何度も繰り返し流れたことにとても興奮したのを覚えている。
 大学時代はウオッカとダイワスカーレットの世紀の一騎打ちになった天皇賞のインパクトが強すぎて、そのあとのことはよく覚えていない。有馬記念にはコツコツ足を運んで、寒い中山競馬場で何度も歓声を上げていた。

 そしていまになってはここで挙げた馬たちが親世代になり、子どもたちが活躍する時代になっている。競馬を見始めた当時はギャロップレーサーで昔の馬の名前を覚えたりしたが、いまはむしろ自分の記憶をたどるほうが多い。
 名馬が必ずしもいい親になるわけではないが、血のロマンというのはあるなと思う。いまおそらく一番強いキタサンブラックで言うと、ブラックタイドというやや地味な戦績だったが良血統を持つ少しなつかしい馬の血を引いている、という時点でロマンが大きい。北島三郎が馬主であるというのはささいなことで、現役のときは重賞がやっとだったブラックタイドの子どもが、ディープインパクトやテイエムオペラオーの稼いだ賞金額に匹敵しているというのは、やはりロマンだと思う。

 東京時代に府中と中山によく足を運んでいたが、高松に戻ってからはさすがに行けてない。せいぜい新宿のウインズが限界だ。いまは西にいるのだから、いずれ阪神や京都に、というモチベーションもまた出てきたころ合いかなと思う。
 今年はオークスダービーを二週連続でプラスにして以降は自分の予想がイマイチはまらなかったが、この前の菊花賞と天皇賞でようやく自分の読みが当たってきたかなと感じた。当たる当たらないも大事だが、長く馬券を買うためには自分の勘をちゃんときたえたほうがいい。なによりそのほうが楽しい。
 天皇賞のソウルスターリングやカデナがそうだったが、秋競馬は3歳馬と古馬が初めて相まみえる展開が続く面白さがある。キタサンブラックの最後のシーズンでもあるし、今年も有馬記念まで楽しませてくれそうだなと思う。

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2017年10月21日

成長する黄前久美子と役割を果たす小笠原晴香 ――『劇場版 響け!ユーフォニアム 〜届けたいメロディー〜』(2017年)



見:イオンシネマ綾川

 ユーフォの劇場版第二作を見た。率直な感想は、黄前久美子はどれほどの活躍をすれば気がすむのだろうというくらい、彼女がいないと成り立たない物語を延々と見せつけられている思いがした。一作目のクライマックスは以前ブログにも書いたように、高坂麗奈と香織の再オーディションの場面だと思っている。あのシーンのためだけにというか、あのシーンから逆算されて物語が再構築されたのだろうと強く思ったからだ。ここでは実は、久美子の果たす役割はそう多くない。彼女は二人の行く末を、たぶんかなり近い場所から(麗奈に限りなく寄り添いつつも香織を否定するわけではない立場として)見守る。ある意味、それだけだ。

 本作はアニメ二期を焼き直すと思われていたが、結果的に後半部分だけをとりあげた作品になっていた。パンフレットを読んでいると、みぞれや希美のあれこれがそもそもなかった世界が描かれているという語りもあってなるほどなあと思った。そしてもうひとつ、麗奈の滝先生への片想いや、滝先生の過去の話などもきれいなくらい一切触れられていない。今回もまたドラスティックなくらい、物語の密度を濃く圧縮した形になっている。たとえばOPにいきなり関西大会のエピソードを持ってくるあたりもなかなかな判断だと思う。

 OPが関西大会ならば、本編で語られるのは関西大会後から全国大会までの、田中あすかをめぐる大いなる一悶着と、その後の卒業までを描いたいくつかのエピソードといったところ。一作目は麗奈の持つ特別さを久美子を含む他の部員たちが同じ場所で確認するための物語だったと思う。では今回は田中あすかの特別さを、ということには簡単にはならない。あすかの場合、彼女が特別だということはもうすでにみんなが知っていることだ。改めてみんなで確認し合う必要はない。そうではなくて、彼女の特別さという「仮面」をはがしていくための、そしてそれを導くのが黄前久美子だという、そういう物語になっている。だからこそ、麗奈の片想いや希美とみぞれの関係はすべて蛇足なものとしてなかったことにされているのだ。

 田中あすかの全国大会出場が危ぶまれる(主に家庭の事情で)というのが今回の筋立てだが、ここで重要なのはなにもあすかと母親の間の問題を解決することではない。今回に関しては、いや、今回もというべきかもしれないが、黄前久美子の役割は探偵ではなくカウンセラーだ。同じ楽器を演奏し、もっとも近い場所で田中あすかを見ていながら、おそらく彼女に物怖じせずに物を言える数少ない下級生として、田中あすかの心理に少しずつ迫っていく。

 あすか不在によりぎこちない演奏を見せた部員たちに対し滝先生はもちろん激怒する。そのすぐあとに小笠原晴香が言う、あすかは特別なんかじゃない(わたしたちが彼女を特別にしていた)という言葉が田中あすかの特別さをはがす一助ともなる。久美子にしてみれば、そうだろうという自覚はあっただろうが、晴香の言葉は久美子に何らかの納得感を与えたに違いない。もちろんそれは同時に、あすかの呪いを少しずつ解いていくきっかけにもなる。


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 ここからは久美子とあすかの二人の世界だ。子どものころから母子家庭だからかもしれないし、あるいは受験と部活を天秤にかけられた状態だからかもしれない。あすかは久美子の前ではとにかく年上の先輩として対応する。まあ妥当かもしれないと思われる正論を久美子にぶつけていく。合理的で論理的な彼女を論破するのは容易ではない。

 だからこそ、映画後半の一つのクライマックスの場面で放たれるだったらなんだって言うんですか!という言葉の重みがある。すべての前提を否定する久美子のエモーショナルな言葉は強く響く。映画の副題にもなっていること、そしてパンフレットで製作陣が語っていたようにこの作品のテーマは「届け」という言葉に集約されている。妥当かどうかではない、わたし(久美子)があなた(あすか)に対して届けたい素直な気持ちを届けること。それがもっとも大事なことなのだということが分かっているから、久美子はあすかの威圧感にも負けない。

 そしてそれをアシストしたのは、晴香や香織といったあすかと同じ3年生たちである。二人は久美子があすかの家を訪問する際にさりげない気配りをしているように、あすかへの思いと久美子に対する信頼の両方があることがよくわかるし、それはとてもあたたかい。テレビシリーズで晴香はあすかについてやや達観めいた言葉も教室で発していたが、それはおそらくあすかの能力と立ち位置を認めているからだろう。だからこそ、「彼女はわたしとは違う」という明確な現実に対し、フラットに立ち回ることができる。滝先生に怒鳴られたあとに、部員に向かって短い演説を弄するところでも、「あすかとは違う私」が部長をやっているからこそできることがあるのだということを、彼女は信じたいのだなと思った。

 テレビシリーズでもこの二人の関係性を象徴する意味で印象的だったのはえきビルコンサートの回だろう。「私を支えて」の言葉は、相手の能力を認め、かつ信頼しているから出てくる言葉だ。ネガティブを自称する彼女にとって、「宝島」を演奏するシーンでのソロパートは容易なものではないだろう。

 この一連のシーンで劇場版がうまいな、と思ったのは晴香のソロパートが終わればそのまま画面がフェードアウトしていくテレビシリーズに対して、立ち上がってのソロパートを終えてから席に戻るまで、そしてそのあとあすかと短いやりとりを交わすまでの流れも新作カットとして追加していることだ。この追加の意味はまさしく、先ほども触れたあすかとの関係性を再確認させるような(二人にとってだけではなく、観客に対しても)一連のシーンだったのではと思う。(ちなみにテレビシリーズでは立華高校に進学した久美子の中学時代の同級生あずさが登場するが、劇場版に彼女は出てこない)

 あすかは特別ではないかもしれない。彼女を特別なものにしてしまうのかそうでないのかは第三者が決めればよいのだ。久美子にとっては特別な先輩である一方、特別さを檻にするあすかへの嫌悪は久美子らしい。晴香にとってはある意味特別で、でもあくまで同じ学年の、同じ部活の部員だという視点も失わない。あすかは自分は他人とは違う存在になりたかったのだろうし、音楽や勉強の能力といった意味ではそれを目指すのは悪くない。完全な個人ワークの世界で上の世界を目指すのは当然だ。ただ、「吹奏楽部の一員」としての彼女は、特別な存在たりうることが周囲と自分を引き離してしまったことに、もう少し早く気づいてもよかったのかもしれない。

 もっとも、久美子があの場面で彼女に気づかせたのは、タイミングとしては悪くないものだ。久美子がアクションを起こさなくても結果は変わらなかったかもしれない。しかしそれはあくまで客観性の問題であって、あすかの心の内で何かが変わっていく可能性を、久美子は期待していたのだろう。それは果たして、かなったか。

 いずれにせよ、黄前久美子の成長と、テレビシリーズで常にあすかや香織の存在感の前に弱くなっていた小笠原晴香の活躍が見られたという意味では、一作目とはまた異なる充実感のある劇場版だった。成長という意味では久美子の姉である麻美子の決断と姉妹の関係性についてもう少し触れてよかったかもしれないが、このへんはねりまさんが存分に語っているのでそちらをどうぞ、という気分です。


◆参考
高坂麗奈へとたどりつくまでの奇跡的な軌跡 ――『劇場版 響け!ユーフォニアム 〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜』(2016年)






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2017年10月09日

カズオ・イシグロの創作論を聞いて自分に置き換えてみた

ノーベル文学賞にカズオ・イシグロ氏 英国の小説家

 カズオ・イシグロが今年のノーベル文学賞に輝いたということで、あちこちで報道がなされたり、日本での版元になっている早川書房が忙しそうだったり、ちょっとしたお祭りになっているなと感じる。彼は日本人なのかそうでないのかみたいな話はどうでもいいので(というか二年連続英語圏から、というのに驚いた)そのへんの話は置いておいて、彼の語る創作論が興味深いなと思って報道を眺めていた。

 この流れで、だと思うが、NHKが以前放送していた文学白熱教室という番組を日曜深夜に再放送していたので見ていた。
 日本のどこかで、様々な国籍の学生相手に自身の創作論を報告する、という流れで、55分バージョンと74分バージョンがあるらしいが昨日やってたのは短い方。そのなかでも、小説を書き始めたきっかけの部分が印象に残った。

 根底にあった動機は薄らいでいく世界を保存したいという思いだったのだ。
 (中略)小説を書くことが私の世界を安全に保存する方法だったからだ。


 これまで書いてきたいくつかの小説のうち、ネット上にあげてない短編がいくつかあるのだけど、2013年の冬に書いた「あらかじめ約束された未来」という短編があって、まあオープンにしていないまま語るのも変な感じだが、端的に言うと自伝的な小説に仕立てたつもりの小説だった。
 このすぐあとにRaiseさんに誘われて「三月は浮遊する」を小説ストーリーテラーに書くことになり、オファーやイベントがあったらなんか書く、くらいのゆるいスタンスで小説を書くようになった。続けていると言っていいのかは分からないが、まあなんか書いてます、くらいの感覚は持っている。
 「三月は浮遊する」の舞台はいちおう高松ということにしているが、ストーリー自体は完全に架空のもので、いくつかの場所のイメージはあるけれど登場させているキャラクターにモデルがいるわけでもなく、思いつくままに書いただけだった。文章レベルでの稚拙さを指摘されつつも、内容自体がわりと評価されたのは素朴に嬉しかった。

 「あらかじめた約束された未来」についてだが、「薄らいでいく世界を保存したい」とか「私の世界を安全に保存」という言葉にかなり敏感に反応してしまったのは内緒だ。こればかりはもう、自伝というほど大それたものではないが、学生時代の終わりに経験した恋にも至らないような関係を、できるだけ具体的に書きとめておこうとだけ考えた、青臭い動機だったとしか言えない。
 ほんとうにそれ以上でもそれ以下でもないし、この小説に関しては具体的なモデルが存在するわけで、さすがにネットにオープンにするわけにはいかねえな、と思っている。いちおう、クローズドな形で何人かの方には読んでもらって、感想もいただいたりしているのだけれど、そのへんはまあ許してほしい。

 言いたいことはなにかというと、「世界を保存」という動機はそれほど珍しいことでもないのだなと思ったということだ。カズオ・イシグロの場合もいくばくかの青臭さがあったに違いないが(谷崎潤一郎に深く感化されたという話もしていたくらいだし)、まあそれでも三作目でブッカー賞をとるのだからほんと大した作家だ、と思う。(そりゃそうだ)
 自分の動機が肯定されたというのは大げさだと思っているが、ああそういえば俺も似たようなことを考えて小説を書いたな、ということを思い出すきっかけにはなった。別に小説を書くためにパソコンに向かっていたのではなくって、Evernoteの画面を見ながら記憶をたどって覚えている限りのことを書きとめておこう、くらいの気持ちだった。気づいたらそれが一つの物語になっているんだからおそろしい。予期せぬところから創作というのは生まれるのだな、とも感じた。

 「あらかじめ約束された未来」で表現したかったのも、たぶん自分の人生とか決断とかの肯定なのだと思う。そして、違う世界にいった誰かに対する祝福。
 こういう未来はあらかじめ決まっていたかもしれないが、だからといってこれまでの過程をすべて無駄にしたくはない(という青臭さ)気持ちを、どうやって表現すればいいかと考えたら自然と小説になっていたのかもしれない。もちろん小説でありフィクションなので、ベースはあるにしても大半は虚構だ。自分が書いたほどに、自分自身の人生は美しいものではないし、それは誰だってそうだろう。
 でもまあ、30まで数えるほどの年月になってしまった身からすると(この小説を書き上げたのはまだ23になったばかりのときだった)、それはそれでいいのだと思う。美しくなんかなくたってよいし、泥臭いくらいが人生というものだろう。いつか歳をとって昔の自分を振り返ってみたときに、そこには後悔がつきものかもしれないが、肯定できるものが少しでもあったならば、辛うじて祝福してもいいのではないか。
 
 カズオ・イシグロはなぜ小説なのか、と学生たちに説いたあと、他の表現やメディアでは達成できない、小説にしかできない物語の構築のプロセスを語っていく。
 俺がこの領域にたどりつけるなんて思ってもいないが、小説だから表現できることの可能性みたいなものは探究してもよいな、と思った。
 とりあえず目下の予定は、第3回半空文学賞である。

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