2017年08月

2017年08月23日

歩く練習、4年後 ーー加納新太(2017)『言の葉の庭』KADOKAWA

 新海誠の名前を一気に全世界的に広めてしまった『君の名は。』の公開から約1年経ち、今年の夏は円盤が発売されてこちらも売れ行きは好調な様子。で、このタイミングと合わせてなのかどうか分からないが書籍のほうでも過去作と絡んだ動きがある。8月はまず『秒速5センチメートル』の絵コンテ集と、加納版『言の葉の庭』のノベライズだ。この映画は新海自身の手によってすでに長いノベライズが完成しているが、新海のやり方とは異なるアプローチでかかれている。同様なパターンは『秒速5センチメートル』でも『君の名は。』でも繰り返されているので、おなじみのコンビが今回も、というところだろう。しかしいつも思うがある作品のノベライズが複数出るということ、そのこと自体がほぼ恒例になっているのもなかなか不思議な現象だ。





言の葉の庭
加納 新太
2017-08-14


 新海のノベライズのアプローチは映画では描ききれなかった複数の視点を詳細に書くということだった。というわけで、映画そのもののタカオとユキノの二人の恋愛模様を軸に据えつつも、その周縁というか、外延の部分への描写に力をいれたということだった。映画では何度か会話するだけのタカオの兄とは、そしてその恋人とはどのようなキャラクターなのか。あるいはユキノと交際していた伊藤先生は何を考えていたのか。そして相澤祥子は、なにを以てユキノを標的にしたのか(あるいは、しなければならなかったのか)。このように、映画にぽつぽつと登場しては消えていくキャラクターに焦点を当てることで、新海が映画の中で表現しきれなかった部分を一つずつ埋めていく、という形のノベライズになっていた。

 映画を改めて見返して思ったが、46分という短い時間は、タカオとユキノの美しい関係性を描くためには過不足なく、ハマっていると言えるだろう。他方で多様なキャラクターが絡んだ人間ドラマとしてこの映画を見るならば物足りないところが多い。だが、映画で話を広げすぎればタカオとユキノの美しい関係性を、美しいままでは閉じ込められない。こうしたある種のジレンマというか、トレードオフのある46分だな、と受け止めた。『秒速5センチメートル』でもそうだが、語りすぎればいいわけではない。それでも語り切れない部分を小説で補完する、というのが新海のアプローチだった。

言の葉の庭
2014-11-15


 では加納のアプローチはどういったものかというと、これも『秒速』の時と少しダブるが、基本的には元となっている作品の再定義といったところだ。なので今回の場合、タカオのユキノの美しい関係性という基本ラインは変えない。そしてタカオ視点からしか書かない、という形で視点も限定しておく。そのかわり、たとえばタカオがなぜ靴にハマり、今後どうしていきたいのかといった部分を補完したり、映画にも何度か登場する友人とその恋人との関係性についても補足する。この場合の補完や補足は作品全体を埋めるというより、タカオというキャラクターをより濃くするための仕掛けである。

 なので、ユキノについてはさほど詳細には補完されない。ある程度の分量を持ったノベライズなので、映画には描かれなかったユキノとタカオの会話は二次創作的に補完されてはいるものの、新宿御苑で二人が出会い、歩く練習と靴作りをそれぞれのペースで続ける日々がちょっとずつ交錯していく、という映画のストーリーラインからはほとんど大きな変更はない。なので、新海版のノベライズも読んだ人にとっては、少なくとも加納版に書かれている内容だけでは物足りないと思えるだろう。読書メーターなどを見ていると、現にそのような感じの感想は多く見受けられた。

 その上で改めて再定義という文脈から加納版の評価をするならば、『秒速』や『雲のむこう』のノベライズがそうだったように、映画では書き込まれていなかった美しい関係性をもう一度別の形で再現することの面白さだと思う。新海は映画と小説は別物として分けている。それは映画監督新海と、小説家新海を別のものにするためでもあるのだろう。それぞれの仕事に干渉しないためには、まったく異なるアプローチのほうがよい。

 逆に加納の場合は、ある意味では純粋に映画に沿ったノベライズを行っている。その上でさすがだな、と思うのは今回の小説の視点になっているタカオの靴作りに対する情熱を、加納がしっかり表現していることだ。実際に靴作りの専門学校に取材したことがクレジットされているし、地の文や会話文の中にもタカオだからわかる靴のディティールに関する内容が多く見られる。靴を作る15歳の少年というタカオのキャラクターを加納なりに再定義したことでこれらの描写が生まれており、それは転じてユキノとの関係性をより美しいものにすることにもつながっているのでは、と思う。

 それが確認できるのは、ユキノが東京を離れてからタカオにあてた手紙が文章化されているからだ。映画では一部だけだった手紙が、加納なりの解釈と二次創作で新たに付け加えられている。ユキノ先生がまさかそっちに、というのはやや意外だったものの、重要なのは「タカオと出会ったことによる変化」をユキノが真正面から受け止めていることだ。それもまあ、映画を見ていたらわかることではあるけれど、それも一つの再定義ではある。

 そんなわけで、新海版ノベライズとはまた違った味わいを、ぜひ楽しんでほしいと思う。映画公開から4年経ち、気づけば俺もユキノ先生と同じ27歳になったからかもしれないが、歩く練習の4年後は、ユキノにとってもきっとポジティブなものになっているだろうと、祈るように思いたい。




雲のむこう、約束の場所
加納 新太
2005-12-28




このエントリーをはてなブックマークに追加
burningday at 23:41|PermalinkComments(0)books 

2017年08月22日

プロ野球と甲子園の盛り上がる季節に山際淳司を3冊

 気づけば夏の甲子園も残すところあと一試合という感じになっており、夏の終わりを感じている。気温はまだまだ高いので(東日本はそうではないようだが)、体感的な夏はまだ続きそうだが。今年は東北勢がベスト8に2つ残ったりとか、16強&8強唯一の公立校として香川の三本松が健闘したりだとか、あるいは広陵の中村がホームランを6本放ったりだとか、清宮がいないことや絶対的なエース級の投手が少ないことで開幕前はやや盛り上がりを欠いた印象もあった。とはいえそれこそベスト8級が7校集結した日があったりだとか、ソフトバンクの今宮健太のいた年以来の飛躍を見せた大分の明豊打線だとか、始まってみると話題に事欠かないのも甲子園のなかなかこわいところかなと思う。

 このタイミングに合わせてかどうかまではわからないが、山際淳司の『江夏の21球』が角川新書から再刊され、売れているらしいということを知った。発売は7月で、買ったのは8月のはじめ。たしか甲子園が始まる直前に梅田駅構内の紀伊国屋で、だったと思うが、高松に戻って宮脇書店に足を運んでも平積みされていることを見ると、どうやら各地でそこそこ売れている(あるいは売り出されている)らしいことがわかる。「江夏の21球」という逸話は確かに野球ファンとしてはよく耳にするがちゃんと読んだことはねえな、という思いがあったので今回買ってみた。


江夏の21球 (角川新書)
山際 淳司
2017-07-10


 この本自体はなにかしらの底本があったわけではなく、山際の書いたエッセイやノンフィクションからセレクトした感じのアンソロジーになっており、いまになって改めて編み直した一冊というところらしい。山際は1980年に「江夏の21球」をスポーツ雑誌『Number』の創刊号に寄せており、さらにその文章を含む著書『スローカーブを、もう一球』ではノンフィクションの賞もとっている。95年に若くして亡くなっているので、現役時代のことはほとんど知らないが、この本に触れたことをきっかけに山際淳司を追ってみようと思った。

 「江夏の21球」は広島時代の江夏が近鉄と対峙した日本シリーズ最終戦、9回裏に投じた21球を追った文章だ。ただ単に21球のプロセスを追ったというより、江夏がそのときになるまで何を考えていたかだとか、21球にまつわる周辺事情や前後関係を詳細に拾い上げている。拾い上げた上でクライマックスに持っていくというライティングを山際は選んでいる。このすぐあとに収録されている「落球伝説」(こっちには阪神時代の江夏が登場する)でもそうだが、タイトルにもなっているシーンは意外とあっさり描写されたりもするのだが、そのかわりにそこにいたるまでに彼らが何を感じ、何を考えていたのかという人間性の部分をより引き立てようとするのだ。

 確かにそうした文章がスポーツライティングを(良くも悪くも)変えたとも言われる『Number』の創刊号に載っていた、というのは象徴的なように思う。いまのNumberのライターで山際と同じレベルの文章を書く人は、サッカー以外では中村計あたりだろうか。ここしばらくのNumberはサッカージャーナリズム的な雑誌になっているので、トータルのライティングセンスは落ちているんじゃないかと思われるが、中村計の文章はもっと読まれてもよいだろう。




 話がそれた。つまりまあ、山際の試みるような、スポーツにおけるエキサイティングな瞬間をとりあげるためにその周辺事情を人間ドラマで埋めていくというスタイルは今日では珍しくはない。昔のことはよく知らないし、どちらかというと熱くなってというよりは肩の力を抜いて書いているようにも見える山際の文体には、同時代にそれこそ角川で活躍した片岡義男を思い起こさせる。肩の力は抜いているが、山際のやろうとしているのはつまるところハードボイルドであって、それをフィクションではなくノンフィクションでやろうとしているのではないかと。もちろんそうした文章は好き嫌いが別れるだろうが、個性というのはえてしてそういうものだということにしておく。

 『江夏の21球』を読んだあと、続けて次の2冊を読んだ。





 『スローカーブを、もう一球』には「江夏の21球」も所収されているので最初に読んだ本と多少ダブりはあるが、あの有名な星稜対箕島を書いた「八月のカクテル光線」はこっちにしか入っていない。この文章はタイトルからしてできすぎているが、あの伝説の一戦は当該日程の最後の試合として組まれており、球児たちが甲子園でのナイトゲームを楽しみにしていた、というエピソードを引き合いに出しているところが非常によい。確かに、練習以外でナイターを組むことは公式戦ではほとんどない。夢に見た甲子園でカクテル光線に包まれながら、そしていつまでも終わらない延長戦を戦うのは疲れはすれども記憶にさぞ焼き付いたものだろうと思う。

 『男たちのゲームセット』は巨人がV9を決めた年の阪神との戦いの記録。巨人側、阪神側の両サイドから追っているが、阪神球団側の優勝は別にせんでええんや、2位争いでちょうどええんや、とかいう逸話や阪神時代の江夏の話、そして激情して監督に手を上げる選手たち・・・などなど昭和野球らしい(らしいというのもあれだが)エピソードがたくさんあってなかなか楽しめた。個人的には、名もなき後楽園球場のビール売りバイト青年の発言が、さっきの「八月のカクテル光線」での球児の心情と少しダブっていいものだな、と思った。

 スポーツはそのものが生き物であるということと、そのスポーツに身を投じるのは生身の人間だということ。だからこそ生まれるスポーツならではの魅力を、肩の力の抜けた文体で、かつストイックに書いていたのが山際淳司だった、ということはこれらの3冊でよくわかる。あまり触れなかったが、彼が野球だけを愛していたわけではないこともわかる。(香川県の棒高跳び選手を追った「ポール・ヴォルター」も非常に面白く読めた)

 プロ野球ももうあと一ヶ月と少し、甲子園もあと一日。クライマックスが近づくいまだからこそ読むにふさわしいと思えた。熱く楽しい読書体験だった。

このエントリーをはてなブックマークに追加
burningday at 23:47|PermalinkComments(0)books