Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

2017年04月



見:ホールソレイユ
監督/脚本:グザヴィエ・ドラン
原作:ジャン=リュック・ラガルス
出演:ギャスパー・ウリエル、レア・セドゥ、マリオン・コティヤール、ヴァンサン・カッセル、ナタリー・バイ


 見始めてしばらくして、ああこれはなんて退屈な映画なんだと思った。ググってもにたような感想はいくつも見当たる。これまで見たグサヴィエ・ドランの映画ならば、どこかでエモーショナルなドライブが始まるに違いないという期待を持つが、この映画に関してはどこにそれを見いだしていいかがわからない。もちろんダンスのシーンや回想シーン、あるいは突然ラジオから流れ出した「恋のマイアヒ」にノっていくシーンなど、動きをつけるシークエンスがないわけではない。それでも全体的に、退屈な99分であるのは間違いない。前作『Mommy』がクレイジーな作品だったからこそのこの対比はどこからくるのか。

 しかしもう少しじっくり見ていくと、ドランのねらいが見えてくる。まず実家を12年ぶりに訪れる主人公のルイがゲイらしいということがわかること。そしてミニマルに繰り返されていく家族の会話(ほとんどが喧嘩腰のようでもある)は、デビュー当初から一貫して家族という題材へのこだわりを持ってきたドランが、今回もそのこだわりを維持しているということ。まるで村上春樹のように同じようなモチーフを繰り返しこそすれ、世界観や映画そのものの長さなど、与える印象は異なってきた。だから今回も、これまでと同じでいて、どこかが違う。そんなドランの映画なのだ。

 たとえばヒロイン二人のルイへの受け止め方はかなり違う。一番最初にルイを迎え入れてハグをしたシュザンヌはルイを待ち焦がれていたと言っていい。12年の歳月はあこがれや片想いににた感情をシュザンヌに抱かせていて、ルイの送り続けた絵はがきを大事に保管しているし、作家であるルイについて書かれた新聞記事や雑誌記事のスクラップを自分の部屋に張りつけている。言わばルイマニアとも言えるシュザンヌだが、思いをぶちまける自分と違って静かなまま多くを語ろうとしないルイに対する不満も同時に抱く。タバコを誘っても断られてしまうときのシュザンヌの複雑な感情を、ルイは容易に理解できない。

 他方でルイとは初めての対面となるマリオン・コティヤール演じるカトリーヌ(ルイの兄アントワーヌの妻)は、ルイに対してもっともフラットに、そして優しく接することのできるキャラクターだ。ルイもカトリーヌにだけは伝えられる言葉を、いくつか口にするようになる。兄嫁という立場でルイに接するカトリーヌは時にアントワーヌの逆上を買うこともあるが(とはいえアントワーヌは映画のなかで常に「怒っている」キャラクターだ)コティヤールの大きな瞳はそれだけで優しさだと言ってもよくて、ルイがマニアになってしまったシュザンヌに若干引きながらカトリーヌとはまだ会話をできる、と思ってしまうのも無理はない。

 こんな風に、家族の誰もがルイに対する複雑な感情を持っているが、その理由までは明かされるわけではない。ルイも、なぜ自身が12年ぶりにわざわざ実家に帰ってきたのかを、話そうとしない。いや、正確には話せないのだ。話すタイミングのなさ、自身の間の悪さ、あるいは12年間で明確になってしまった自分と家族の断絶。話せない理由を挙げるとキリがなくて、その状況の中で重要な話をする、というのはよほどの条件が整わないと難しい。

 最初にこの映画は退屈だと書いたが、家族の会話なんて外部の人間が見たところで退屈なのは当たり前だ。そこに12年間の断絶が持ち込まれるのだから、単に退屈である以上に様々な混乱を招く結果となっており、そしてその混乱の背景が語られないことで映画の視聴者をさらに困惑させることにもつながっているのだけれど、つまりそれは視聴者もまたルイのことをよく知らないストレンジャーだということをつきつけてくるのだろうと思う。

 よく知らない。それでも血はつながっているし、共有していたはずの過去の記憶がある。家族だとか家だとかいうものがきれいなものではない、というのは冒頭に挿入される歌の歌詞がストレートに物語っているが、だからこそドランがこだわり続けているのもよくわかるし、物語作家である前にキャラクターとキャラクター同士の複雑で繊細なコミュニケーションを描いていく、というところが出発点なのだということもよく分かる。もっと簡単にまとめてしまえば、非常に純文学的なテーマを持った映画作家だなと思う。とりわけ物語らしい物語が薄く、家族5人のたった1日を書いただけのこの映画は、その純文学性がより色濃く表れている。

 音楽とか色づかいとか、触れたいところは他にもいろいろあるのだけど、ただ単に退屈な映画だと片付けるのは(それはそれで間違っていないが)惜しい。言いたいことを容易には言えない、だが言わなければならないと、表情をほとんど変えずに半ば透明な存在としてもがいているルイを演じるギャスパー・ウリエルの演技は見事だ。言葉に頼らない演技をするのもまた容易ではないだろう。苦悩を内に抱えながらそれを表出できないルイというキャラクターに、ウリエルの透明さはよく似合っている。パンフレットで彼が幽霊という表現を使っているのもうなずけるところだ。幽霊だからこそ、たった1日しか現れることができなかったのかもしれない。
このエントリーをはてなブックマークに追加



※大いにネタバレしていますのでご注意ください

 NHKで3月からドラマ版『火花』が放送されていたのをなんとなく見ていたら後半になってかなり面白くなってきたので、残りの話数をNetflixで視聴した。NHKが放映するまではネトフリだけだったからか、原作の話題性に比べるとドラマの話題はネットでも乏しい。たとえば逃げ恥のように、連ドラならネットから話題に火がつくことがあるが、ごくごく一部の視聴者に限定される配信限定ものの場合、火をつけるのはまだ難しいのだろう。だからかどうかわからないが、NHKが放映することをきっかけにネトフリの配信を見てみた、という俺みたいな視聴者はほかにもきっといるはずだ。

 それはさておき、原作のかなり忠実な映像化であるとともに、日本映画のフォーマットを借りた連続ドラマでもあり、純文学的ビルドゥングスロマンだなと改めて感じた。神谷の要請によって徳永は彼の伝記をノートにしたためるわけだが、これってつまり神谷の死だよねという話を創竜(@k_soryu)さんが以前配信で語っていたけれど、だとするならばもはや結末は見えている。神谷の死、つまり先輩芸人である神谷が死に向かって転落していくのであれば、新人芸人の主人公徳永は飛躍していくしかない。そしてその神谷の記録だけは残される。神谷は徳永の目の前から消えることによって、逆に文字の上では生き残るのだろうと。

 また、お笑いコンビを主人公にするのではなく、スパークス、あほんだら両コンビの片方同士を取り上げてその師弟関係を主軸にすえるやり方は、原作が純文学でなければなかなかなかった取り合わせではないか。飛躍していくスパークスの二人に焦点を当てたドキュメンタリーにすればエンタメ的には面白くなる。ただ、原作でもドラマでも、徳永の相方である山下の存在感はさほど大きくない。ドラマでは本業のよしもと芸人が役を当てている山下を差し置いて、徳永のほうがまだ目立つのはボケ担当という役柄上でもあるだろう。そして映像の前ではどうしても、声が大きくてよくしゃべる神谷にかき消されるのだ。その意味では、神谷を演じた波岡一喜は、全話通じて渾身の演技をしていると言っていい。

 最初徳永を林遣都が演じると知って、いや正直もっと地味な俳優でなくてはイケメンすぎるのでは? と思ったがこの徳永演じる林の素朴さがいい。素朴に演技しつつ、次第に徳永という役に入り込んでいく。途中から髪を銀色に染めてキャラ立ちをするが(そしてそのことを神谷は肯定的には受け止めなかったが)そこが徳永にとっても林にとっても一種の分岐点になっていた。要は、今後の展開で「化けていく」のが予感できるし、実際にそうなっていく。対して神谷は、その逆に進むだけだ。あまりにも分かりやすく。

 ではそうした予言めいた期待通りの展開や、分かりやすい飛躍と転落は視聴者を退屈にさせないのだろうか、という疑問が残る。これについては先ほど書いたようにキャラクターに焦点を当てて丁寧に撮っていく日本映画のフォーマットがうまく功を奏している。物語はもちろん重要だが、まず人が前面に出るような映像を作ることで、ストーリーの平坦さにはあまり退屈さを感じない。たとえば徳永の銀髪を肯定しなかった神谷が、第8話で徳永を模倣したシーンがある。徳永は神谷に対する複雑な思いをためながら、しばらく黙り込む。カメラはその徳永の表情をじっととらえるのだ。神谷に対する不満をぶちまけるという、期待された展開を準備するように。

 あるいは最終話、山下が徳永にコンビ解消を打ち明けるシーンや、徳永が事務所の人たちに芸人引退を告げるシーンなどをあげていい。どれも重要な場面であり、山下にとっても徳永にとっても人生のかかった場面だ。しかしあまりにも静かに、かつ丁寧に交わされる会話を切り取っていく。菜葉菜の感情高ぶった徳永への言葉かけだけが、やや目立つものの、あまりにもあっさりと幕切れを迎えていく。これはもちろん、原作である小説が派手なものではないことを踏まえたものでもあるだろう。

 いずれにせよ、気づいた時には神谷への魅力は失われ、飛躍していく徳永の言葉や行為や彼の見ているものに魅了されていく。そのプロセスの面白さや同時にある悲しさと、一方で人生というものが若者の夢の先には常に横たわっているのだということが感じられる。徳永と神谷を対にしながら、他方で山下という第三者的パートナーを配置することで徳永と神谷との相互行為だけには回収しない、奥行きを持たせることにも成功している。もちろん門脇麦演じる神谷の同居人である真樹(というか神谷がヒモ状態)も、徳永の友人でもある美容師のあゆみといった、脇を固める女性陣の配置もいい。ともすればホモソーシャルになりがちな男性芸人の世界に、幅を持たせてくれるのは彼女たちが徳永と神谷の物語に加わっていくからだ。

 夢の先には人生があるし、そして足下には目の前の生活がある。生活に対しても人生に対しても、徳永と神谷の態度は大きくことなる。ほんとうに神谷は、自身の死によってこそ生まれる特別な何かを、徳永と出会ったときからずっと目指していたのかもしれない。ただひたすらに、馬鹿みたいに、その特別さに向かって生きていたのかもしれない。
このエントリーをはてなブックマークに追加





 タイトルだけ気になっていてすぐに買わなかったし、最初はちょっと情報量が多すぎてだるさもあったのだけど、半分近く読んでから俄然面白くなって下巻は一日で読み終えた。これは間違いなく読むべきというか、いままさに読むに値する本、だと言っていいだろうと思う。

 なぜそう言いきるかというと、著者もあとがきの最初のほうでのべているが本作には膨大な学術的知見が反映されている。主なところは認知心理学、行動経済学だが伝統的な経済学、政治学、あるいは社会学や哲学、文学(スタンダールが度々登場している)といった知見も紹介されていて読みどころが多い。著者のねらいとしては近年特に目覚ましい認知心理学と行動経済学の研究成果を一般読者に還元したいという意識(この意味では様々な研究を紹介したレビュー論文的でもある)と、ルソーが『エミール』で試みたような、架空の人生を通してよりリアルなメッセージをこめたい、という目的を両立させることだろう。

 ある部分では持ちつもたれつといったところで、フィクションに関する部分のディティールのバランスが崩れたりもしているが、そこはあくまで研究成果を反映される部分としてサブなものとして割りきればいいだろう。とはいえメインの部分だけを伝えるのなら実際に論文や本を読めばいい。そうではなく、ハロルドとエリカという一組のカップルを題材にしたフィクションを見せることで、読者に読み物としての面白さを提供することに成功している。なにせ二人が誕生するところから、二人の死までを通して書こうとするのだ。70年とか80年とかあるだろうスパンの読み物を文庫二冊で、しかもそれが単なるフィクションではなく限りなくリアルな世界に立脚したものであるという点が非常に試みとして面白く、成功していると言えるのだ。

 先に書いたように本作で取り入れられている知見は数多いが、ベースになっているのはおそらく行動経済学だろう。伝統的な経済学のオルタナティブとして出現した行動経済学は、人間や人生といったものを表すのにも向いている。アリエリーの数々の著書や『ファスト&スロー』といった日本でも訳されて有名になった固有名詞が多々出現するし、主人公のうちエリカはカーネマンをリスペクトするキャラクターでもある。ビジネススクール的な合理性を嫌い、そうではない部分、つまりヒューマニティや人間の非合理性に着目して、やがてビジネスを起こすのだ。



ファスト&スロー (上)
ダニエル カーネマン
早川書房
2012-12-28


ファスト&スロー (下)
ダニエル カーネマン
早川書房
2012-12-28



 ブルックスのねらいは人々の「無意識」に焦点を当てるところにある。『ファスト&スロー』で言うところのファストの部分とほぼ重なるし、非認知能力と呼ばれる最近の教育界隈で話題になっている要素にも近いだろう。ハロルドは中流以上の家庭で育ち、教育水準も高いがエリカはシングルマザーの家庭で育ち、生活水準も下流に近いところで子ども時代を送る。ここしばらくの傾向としては一般的に、階層によって教育水準が決まり、教育水準によって次の世代の階層も決まるという、階層の固定化がアメリカでも日本でも指摘されている。日本でも「貧困」がゼロ年代以降注目されてきたが、移民を多く抱え、南北の格差が大きいアメリカでは日本の比ではないのだろう。こうした状況の中、エリカは貧困から脱出するためのプログラムに参加するのだ。

 エリカはプログラムによってまず違う階層の人々の存在を実感する。大学進学後はよりそれを大きく感じることになるわけだが、教育というものがこうして階層を引き上げるのではなく固定化してしまっている現実がやはりアメリカでも問題視されているのだろう。エリカは大学に進学しなければ後々自分がCOEとなって会社を立ち上げることもなかっただろうし、その会社が傾いたあとに転職することも容易ではなかっただろう。高等教育は機会とスキルを提供することによって、人生の可能性を広げる。逆に言えば、その恩恵に預かれない可能性もまた存在するわけだ。

 行動経済学の話に戻ろう。この本は行動経済学の知見に満ちている。教育だけではなく友人関係や恋愛関係、結婚やセックス、そして幸福といった、人生や生活にあらゆるところに一般的な傾向としての知見が紹介される。ではそれらの知見を踏まえれば人生は成功するかというと、必ずしもそうではない。エリカは事業に失敗するし、ハロルドは鬱傾向からアル中一歩手前までいく。二人は離婚の危機をも迎えてしまうのだ。これはつまり、人生には自分の選択でコントロールできるものもあれば、コントロールできないもの(運や権力、あらゆる人間関係に左右されてしまう何か)が存在することになる。ではどうすれば、それらの限界を知りつつ人生を豊かにすることができるのか。

 人生を豊かにすることもまた、選択の範疇なのだとこの本は教えてくれる。ハロルドはかなりの回数転職を重ねているが(とはいえ平均して10回以上転職sるアメリカ人としては珍しくないのだろう)、そのたびに自身の可能性と限界を知ることになる。エリカもまた、野心に満ちてはいるが成功だけではない人生を歩んでいる。この本のねらいはそうした成功と失敗の繰り返しの中で、いかに内省をすることによって次の失敗の機会を減らしていくか、というところにあるように思う。人生すべてをマネジメントすることは難しいが、人生を細分化すれば個々のリスクに対応したマネジメントをとることはできる。たとえば家庭内でのスキンシップであるとか、お酒を控えて外に出ることとかだ。

 人生は難しいが生きるに値することを、最終的にブルックスは伝えたかったのだろう。老年期に入ってからのハロルドとエリカの充実度は、二人が青春時代に感じていたそれと同等か凌駕するかのようだ(そしてなぜそうなのか、という知見も合わせて紹介されている)。これはつまり、加齢、老いることに対してネガティブな現代社会に対する痛烈なアンチテーゼとも言える。誰もがやがて若さを失うし、老いるし、やがて死ぬ。そうしてごく当たり前の事実に丁寧に向き合うことが、やがて幸福な人生を招くのかもしれない。たとえ遠回りであっても、人生が続いていく意外なところに幸福が落ちているのかもしれない。




 これもハヤカワNFになるけど、類書としてはこれかなーという気がする。人生という長いスパンで見たときに、20代までの歩みが大きく影響を与えることを、これもまた豊富な知見を用いて紹介していく。
 いま何をすべきか、そしていま何をすべきでないかというヒントを与えてくれる重要な一冊。
このエントリーをはてなブックマークに追加



 『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』がついに最終回を迎えた。ギリギリの中で追ってくる敵を追い払いつつ、ビスケット以外は目立った死を出さなかった一期は最終話において地球で無事目的を果たす、という分かりやすいカタルシスに包まれていた。だが二期に入ってみるとどうだ。地球と火星のディスコミュニケーションによって無駄な戦争に参加させられたり、身内から裏切りが出たり、あるいはどこまでそもそも身内と呼べるのかというほど組織が大きくなってしまったり。急速に大きくなりすぎた組織は瓦解するのも早いが、二期の場合大きくなりすぎた鉄華団は、戦う相手もまた大きすぎる、という現状に向き合うしかなくなっていく。その最たる敵が、ラスタル率いるアリアンロッド艦隊だった、と見るべきだろう。

 本当に鉄華団が滅ぶしかなかったかは分からない。シノがあのときラスタルを仕留めていれば展開は違っただろう。逆に言うとあのときにラスタルを討てなかった時点で、圧倒的な戦力差の前には滅びの道しかない。シノとラスタルとの、あの一瞬の攻防が終わりの始まりだった。 そしてなにより、監督の長井とシリーズ構成の岡田が組んでいる以上、生やさしい展開など待ってはいない。待っているのは演繹的に導かれる残酷な現実だけだ。その意味では、ラスタルを敵に回してマクギリスと組んだ鉄華団に勝ち目など残っていない。イチかゼロかで言えば、ゼロなのだ。

 さらに言うと、二期は結局のところ政治的な内ゲバでしかなかった。革命は成らずとも、ギャラルホルンをはじめとする火星を統治する政治的な体制は変わっていく。50話のAパートとBパートの間でなにがあったか分からない。敵だったはずのクーデリアと相まみえるラスタルの笑みが意味するところは、平和的な政治闘争の一部分だろう。マクギリスによって艦隊が襲撃されたときも動かなかったラスタルの静の姿勢は、一人の政治家としての強みだと言える。個人的な野心に最後は迷走したマクギリスは、小物でしかなかった。そしてさっきも書いたように、小物と組むことを決めたオルガが舞台を去っていくのも、必然的な流れである。

 では二期にはそうした絶望しか見出せないのだろうか。新しいガンダムは多数登場するが、三日月の操るバルバトスの才能を超えるほどではなかった。その三日月も負傷してからは本領を発揮できないまま、最期を迎えてしまう。であるならば、二期のカタルシスはどこに見出せばいいのだろう。

 という感じでここまでが長い前置きで、ここからが本題。鉄華団もギャラルホルンもつまるところホモソーシャルだよなーと思っていたが、最後の最後にクーデリアとアトラの百合が完成して「二人の母」に見守られるアカツキ、という構図にホモソーシャル解体後の新しい世界観を見せてくれたなって思った。ホモソーシャル自体がどうこうではなく、その意味についてはたとえば岩川ありささんがブログでつづっているように、ホモソーシャルが生み出す希望を見出すこともできる。

婚ひ星(よばひぼし)― 地下室のアーカイブス(岩川ありさBLOG) 

 とはいえクーデリアやアトラ、そしてラフタやジュリエッタといった数々のヒロインたちは、その中では霞んでしまう存在だ。唯一ラフタだけはちょっと立ち位置が違っていて、彼女の場合はむしろ名瀬の作り出した女性のホモソーシャルコミュニティを象徴する存在でもある。だからこれらのヒロインの中で、彼女だけは性別役割分業を果たしてはいない。アキヒロに恋心を抱き、ちょっとした誘惑を繰り返しこそすれ、彼女は最期まで一個人として戦い、死んでいく。銃後ではなく、最前線で戦うラフタのその美貌と勇気に、多くの視聴者は目を奪われたことだろう。(とてもよかったです、はい)

 そう考えるとジュリエッタの立場もまた面白いものとして見えてくる。最前線に立つのは彼女も一緒だ。しかし、ラフタのナゼに対するそれと比較にならないほど、ラスタルに忠誠を誓うジュリエッタの場合は、むしろ個人を殺している。個人としてではなく、ラスタルの従者として、最前線に立つのだ。情けないお坊ちゃまであるイオクに対しては上から目線で退けつつ、自分がラスタルの最たる従者として、力を証明しようとする。言わば自己実現として、モビルスーツに乗るわけだ。

 50話で三日月とモビルスーツ越しで交わす会話のやりとりが印象的だ。合理的なジュリエッタは、負けるのが分かっていてもなお最期まで戦う三日月の心境が分からない。三日月もまた、頭ではなく体で動いていることをジュリエッタに理解されるとは思っていないだろう。二人ともそれぞれ、ラスタルのため、オルガのため、というところは共通している。ただ、生きているラスタルのために戦うジュリエッタと、死んでしまったオルガのために戦う三日月の間には、決定的な溝がある。三日月の忠誠は、この時点では個人的な欲望でしかない。ジュリエッタの持つ公共的な忠誠とは、次元が異なるのだ。

 反体制的でしかないテロリスト集団のような鉄華団は滅ぼされる敵であり、ラスタルをはじめとする側に理がある。マクギリスのやろうとしたことはある意味では正論だが、しかし政治学的に考えれば、統治の正統性を確保するための手段としてバエルを利用することが妥当かと問われると、やはりラスタルのほうに分がある。歴史は歴史でしかない。そして歴史には異なる「解釈」が存在する。歴史的産物には一定の客観的意味があるかもしれないが、ではそこに統治の正統性を見ていいかとなるとラスタルが語ったようにまた別の話になるだろう。時間を巻き戻せるのならば、マクギリスくんには正統性をめぐる政治学の議論であるとか、あるいは社会学の社会運動論やカルチュラル・スタディーズを勉強してほしいところだろう。(学んだところでラスタルの前には屈してしまうかもしれないが,もう少し善戦できたかもしれない)



社会学 (New Liberal Arts Selection)
長谷川 公一
有斐閣
2007-11-21




 まあそれはそれとして、どれだけ物語的に悲しい結末であったとしても、無謀すぎる戦いが実ることを長井も岡田も望んではいないだろう。岡田には『シムーン』という前例もあるし、なにより個人の欲望よりも組織・集団としての目的を最後にもう一度重視したことに意味がある。これはある意味、オルガの不在によって再び強化されたものだ。オルガが死ぬ前にみんなを集めて伝えたメッセージが、オルガが死んだことによってより大きな意味を持つ。一度は組織を去ろうとしたザックがなぜ帰ってきたのかと考えると、組織に対する愛着を完全に失ったわけではなかったからだろう。ハーシュマンの三要素を借りるとザックは二期の間で組織に対する不満の発現、いったんの離脱、そして忠誠からの復帰までを全て見せてくれた。みんなのことを考えられる公共的な精神が、最後に彼ら彼女らを救うことになる。これは自分を殺してラスタルとアリアンロッドのために生きることを選択した、ジュリエッタとも重なる精神であり、思想である。

EMOTION the Best Simoun(シムーン) DVD-BOX
新野美知
バンダイビジュアル
2011-01-28




 最後にクーデリアとアトラについても触れよう。クーデリアも元々の野心だった(と思われる)政治家への転身を果たして、理想の実現に近づいている。自分のためじゃない、誰かのために生きることの尊さみたいなものを追求しようとしている。アトラは自らに宿った三日月の子どもを、育てている。これも誰かのために生きることの、一つの表れだ。そしてそばにはクーデリアがいる。最後の最後に、クーデリアとアトラの「百合」は完成するのだ。

 百合とは離して考えても、二人の母と一人の息子という家族像は、セブンスターズによる合議という貴族制(あるいは寡頭制)を廃止してラスタル閣下のもとで新しい世界へと(より民主的な形で)踏み出した世界に生きる一市民として、新しいイメージを提供しているように見える。とはいえラスタルは軍人出身だから文民統制ではないし、クーデリアとアトラも子育てを始めたばかりだ。この世界には今後再び様々なことが起こるだろう。そこを乗り越えられるかどうかは分からないが、次の世界へとステップを踏んでいることは確かだ。

 最終回を経てもなおプロセスの中にあるというのは政治闘争を描いたロボットものではある意味おなじみの展開ではある。だからこそ、クーデリアとアトラと彼女たちの息子や、もっとも悲しい結末を迎えたラフタ、あるいは最後まで自身の精神を貫徹したジュリエッタといった、全体から見るとマイノリティであったヒロインたちのことを静かに思いながら、この文章も幕を下ろしたいと思う。

 公共的な精神と新しい親密圏。死んでいった者たちのことを悼みつつ、それでもたどりついたこの結末を、肯定的にとらえられるように。

公共性 (思考のフロンティア)
齋藤 純一
岩波書店
2000-05-19



このエントリーをはてなブックマークに追加



 登山にはさほど興味があったわけではないのだが、ランニングを続ける上でトレランというジャンルがあることを知ったりだとか、職場の先輩がシーズンに入ると山を登りまくっていたりとかで、一応並み程度の興味を持ってこの映画を見た。いや、もう一つの理由としては、昔『イントゥ・ザ・ワイルド』という映画を見たのだが、この映画の原作者であるジョン・クラカウアーも本作に関わっていて、インタビュイーとして出演していることも、十分な動機ではあった。あと、本作は登山の映画ではなく「登山家の映画」という触れ込みがあるけど、どちらかというと「冬山ロッククライマーの映画」というのが適切な気がする、素人目には。

荒野へ (集英社文庫)
ジョン クラカワー
集英社
2007-03



 メル―。ヒマラヤ山脈にそびえるメル―中央峰において、シャークスフィンと名付けられた岸壁があった。その岸壁はもちろん雪と氷に覆われており、文字通りサメの背中のような鋭利さを持ってして人を寄せ付けようとしない。その、誰もたどりついたことのなかった高度6500メートルの地点に挑んだ3人のアメリカ人、コンラッド、レナン、そして本作の監督でもあり多くの撮影も担当とした中国系アメリカ人のジミー・チンの物語。3人はゼロ年代に一度トライするが嵐によって予定以上の日数を費やし残り100メートル少しで断念。そして下山後に3人の身に起きた数々の困難を経て数年後に再挑戦するくだりがクライマックス。

 まずコンラッドという男の絶対的な信頼感についてレナンやジミー、そしてコンラッドの妻であるジェニファー、そしてクラカウアーにとって語られる。ジェニファーも元は登山家であり、かつての夫だったアレックス・ロウもまた、コンラッドと登山を共にするパートナーだった(アレックスは登山中に雪崩に巻き込まれ、コンラッドの目の前で姿を消している)。クラカウアーは『空へ』というノンフィクションで全米から賞賛を浴びるが、かつて南極での登頂をコンラッドと共に経験しており、本作でも物書きとしての側面とコンラッドの元パートナーとしての視点から、メル―最高峰の登頂に向けた無謀さと偉大さについて語る。




 無謀さと偉大さ。この二つが、本作に関わるあらゆる人たちを動かしていると言っていい。コンラッドはいかに死なないで戻ってくるかということを語りつつ、実際の登頂を目指すプロセスにおいては、リスクを冒さないということもまた困難だ。となると、ゼロイチで考えるのではなく、どの程度のリスクなら許容できるのかというファジーな領域の判断になってくる。

 それはつまり、リスクマネージメント。天候や地形といった周囲の環境、パートナーに関するあらゆること(健康状態や経験値、メンタルなど)、そして最後は自分自身をつき動かすものについてdこまで許容できるか。クラカワーが語るように、コンラッドにはスタンプという師と、アレックスという親友がいた。この二人のおかげでコンラッドはめきめきと実力をつけていくが、二人はともに山で命を落とすことになる。その都度コンラッドは深く思い悩みながらも、再び山の世界に戻ってくる。山でしか生きられない人間の宿命と言うべきか、しかしだからこそそこに人生を見つけようとするコンラッドの欲望は誰も否定できないし、経緯しかない。(常に待つだけのジェニファーはたいへんだろうが)

 もう一人、アジア人としては中国人の両親を持つ中国系アメリカ人のジミー・チンの語りが強く印象に残った。ノースフェイス社に所属しながら世界各地で撮影の仕事をこなす彼は、その流れでメル―の登頂も試みる。ジミーにしか語れない目線としては、いかに山での撮影が難しい(そして面白い)かということと、カメラを持っていかなければならないジレンマだったりももちろんあるわけだが、コンラッドとの世代を超えたパートナーシップがとてもいい。これはつまり、かつてスタンプがコンラッドにしたようなことを、コンラッドはジミーに対して行っているのだろうと思う。映画のパンフレットには何度も友情という言葉が出てくるが、確かにこの二人の間には、それに近い絶大な信頼感があるのだろうと思えた。

 そのジミーも、レナンとの撮影の仕事の最中にレナンがスキーで滑落してからはふさぎ込む。死の淵から寸前で戻ってきて、再びメルーを目指すレナンもすごすぎるが(だからこそ回復し、生きようとも思えたのだろう)目の前でパートナーを危険に晒してしまったジミーの心境の複雑さにも思いを寄せたくなる。コンラッドもそうだが、それぞれに家族がいる。子どもがいる。ジミーの場合、離婚して行く当てのなかった実姉も、同じ家で暮らす大切な家族の一員だ。一方では世界最高クラスの岸壁を登頂したいという個人的な野望がありながら、自身の家族という大切なつながりを無下にはできない。

 もっとも、この天秤の間で悩み、もがき、苦しむからこそ、もっとも最適なリスクマネジメントができるのかもしれない。コンラッドのセリフだと思ったが、死んでしまっては意味がないのだ。家を出るときに家族と約束したように、必ず無事に下山し、必ず家に帰らなければならない。これが登山家として、果たさなければならない原則なのだと、二人の死を背負って山に登っているコンラッドの中に刻まれている。ジミーはコンラッドを絶大的に信頼することによって、そしてレナンは自身の大けがによって、必ず生きて帰ることと、登頂するための最低限必要なリスクテイクを、両立させようとする。

 技術だけではない。そしてもちろん、魂だけではない。あらゆるものが最高のバランスとクオリティを持ってして、ようやく達成できることがある。人生のあらゆるものがある、みたいなこともコンラッドは言っていたような気がするが、確かにそういうものがある。だから彼らは死の一歩手前までトライすることをやめないし、実際に実現させるのだろう。野望と人生の交わるところにある夢を。
このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ