2016年08月

2016年08月25日

走ることについての覚え書きPART2 ――長い距離を走ることの魅力と、1万時間の法則批判

 以前「走ることについての覚え書きと『脳を鍛えるには運動しかない!』のインパクト」という記事を書いたが、今回もランニングやスポーツにまつわる本を続けて3冊ほど読んだので、「走ることについての覚え書き」のパート2という感じでお送りする。
 今回取り上げるのは次の3冊。










 前2冊はいずれもマラソンを超える距離を走るレースについての本だ。ウルトラマラソンや100マイルレース、そしてトレイルランニングといったレースを概観していく。
 『EAT&RUN』は副題にもある通り、「僕」ことスコット・ジュレクが自伝的に書いた一冊で、学生時代にクロスカントリースキーの選手だった自分自身の生い立ちや、多発性硬化症を患い、次第に介護が必要になるまでに病状が悪化していく母について記述するなかで「走ること」へと情熱を傾けるようになるまでを非常にエモーショナルに書いている。
 そう、エモい。この本の肝はそのエモさだろう。レースをともにする友人たちとの関係、愛したはずの妻と別れ、そして再び恋をするまでのいきさつ。家族への愛。あるいは、日本人ランナーが食糧としてたずさえていたおにぎりへの感動、などなど。ランニングそのものに興味がなくとも、最初の部分を読んでスコット・ジュレクという一人の人間の人生に興味を持つことができたなら面白く読める一冊になっているのではないか。
 章末には短いコラムも挟まれていて、ランニング初心者へ向けた諸々のアドバイスもはさまっている。クロカンの選手だったジュレクはなにも元々ランニングの専門家ではない。彼とて、素人からのスタートなのだ。

 ウルトラランナーでもありヴィーガンでもある彼はタイトルに付してある通りEATの側面からも切り込んでいく。長い距離を走るには身体を形作る食べ物こそが重要だ、というシンプルな指摘だ。
 このへんはヴィーガンでない自分にとっては参考程度でしかないわけだけど(立場的にはダルビッシュがよく言ってるように日本人はもっと肉を食って筋肉つけろ派である)、おそらく食べ物を完全菜食という形でシンプルにすることも、ジュレクにとっては重要なルーティーンになっている。日々のすべてが100マイルもの距離を走るレースにつながるわけだから、確かに重要でないわけがない。
 まさに「食べることと走ること」によって幸せを獲得したジュレクという人間のストーリーが、そのまま本になっているといったところだろう。



 対して走ることの楽しさというのが次の『激走! 日本アルプス大縦断』からひしひしと伝わってくる。これは副題にもある通りトランスジャパンアルプスレース(TJAR)という、2年に1度8月に行われる8日間で415キロを走行するレースを追ったNHKスペシャルの書籍化なのだけど、日本海から太平洋の静岡まで415キロというとてつもない距離に、逆に『EAT&RUN』で提示される100マイルという距離が小さく思えてしまう不思議さがあった。
 いやまあそれはたまたま続けて読んだからなのだけど、今年のレースの覇者にもなった望月将悟はわずか5日間で駆け抜けるのだからもうわけがわからない。
 NHKオンデマンドで当時の放映(2012年)の内容も残っているので見てみたのだけど、全員フルマラソンを3時間20分以内(セレクションの基準の一つ)という強者揃いの中でも群を抜いて速く、いくつもの日本アルプスの山々を軽装で軽々と駆け抜けていく様は天狗か忍者のようにも見えてしまう。

 一方で望月以外の選手にも目を向けると、望月以外に対しては逆に非常に親近感の沸く選手たちが多い。Nスペ本編ではレースを追うことがメインになっていて、あまり選手個々の掘り下げはできていなかったが、書籍版のほうではランニングを始めたそもそものきっかけや、TJARに出るようになるまでのきっかけ、あるいは選手間同士の交友関係など、人間くさい部分についての書き込みが多く、とても身近なものになる。
 驚いたのは、多くの選手が元々は運動が得意でないか嫌いであり、望月のように子どものころから山を駆けるのが大好きで、といった選手のほうが少数派であることだ。たまたま友人や同僚に誘われて、あるいはダイエットのために、あるいは素朴に健康のためにといった形で足を踏み入れたランニングの世界にあれよあれよとハマってしまい、TJARのような過酷なレースに至った、というわけだ。
 という話を読んでもイマイチ最初の動機とのギャップがありすぎだろう、と思ってしまうが、しかしさっきのスコット・ジュレクを思い出してみれば納得がいく。彼のコラムにもあったが、誰もがいきなり長い距離を走れるわけがない。それがふつうだ。だからこそ、最初は歩いてもいいからちょっとずつ進むこと、そして走ることに目的や楽しさを見出すこと。
 それができれば、そしてそれがずっとできるのであれば、415キロという途方もないレースにたどりつくことだって不可能ではない、のかもしれない。それくらい、選手それぞれが山を走ることを楽しんでいるのが印象的だった。過酷に見えるのは事実だろうけれど、それを楽しむことができるのは素晴らしい体験にちがいない。



 最後の一冊、デイヴィッド・エブスタインの『スポーツ遺伝子は勝者を決めるか?』は様々なアスリートの能力を遺伝子レベルで分析するという一冊。専門書ではなく一般向けに書かれているので、分厚いが読みやすく、かつデータや引用論文の数も豊富だ。特定の何かや誰かではなく、スポーツやアスリートそのものに魅力を覚えている人にとっては、読み応えがあるだろう。
 とはいえ個人的に一番関心を覚えたのは、「1万時間の法則」に対する疑義や批判だ。

参考:"天才"に生まれ変わる「10000時間の法則」

 上のまとめでもあるように、最近ではいわゆるビジネス書でもたまに目にするが、はたしてそれはどれほど事実に敵っているのだろうか、という点を具体的に指摘していく。1万時間の法則が誰によっていつ提唱されたか、そしてそれがどのように浸透していったのか、といった言葉のルーツから始まり、実際のアスリートの練習時間を調べ上げて10000時間にはるかに満たない時間でトップレベルにのぼりつめたアスリートを反証として提示していくあたりは、まさに科学的な方法による批判と言えるだろう。
 この部分だけでも読む価値が大きい。つまり、単に10000時間練習したからといってプロになれるわけではないし、プロもみなが10000時間練習したわけではない。プロとアマチュアを分ける差異はもっと別なところ――たとえば遺伝子(ハードウェア)やトレーニング(ソフトウェア)――にある。
 遺伝子という言葉を付加しているが、本作の結論は遺伝子がすべてを決定するという話ではなく、アスリートの才能にとって遺伝子は非常に重要だが、それはあくまでハードウェアであり同時にそのハードを持って生まれたアスリートを育て上げるためのソフトウェアが必要だ、という穏健的な結論なのである。
 その結論にいたるまでの膨大な研究の蓄積が楽しい。4年に1度のオリンピックを見て楽しむようなライトなスポーツファンでも、この本に出会うことでさらにスポーツそのものの魅力にハマる。かもしれない。

 最近週に一回のヨガは継続しているものの暑さのせいでランニングがちょっとおろそかになっており、さらに春先に買ったクロスバイクの影響で・・・といった中で、再び走ることの面白さやスポーツそのものの魅力に触れさせてもらった。
 涼しくなったらちゃんと走ろうな、俺。長い距離を走ることはなんだかんだ言って楽しい。そして自転車も楽しい。
 「まだまだ遠くまで行こう」(by 大空あかり)




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2016年08月16日

東京の限界とワシントンという福音の先で成すべきことは ――『シン・ゴジラ』(2016年)



 自分がゴジラ映画を見たのはいつ以来だろうとパンフレットをめくってみるとご丁寧に作品リストがあって、どうやら1998年の『GODZILLA』以来だということが分かった。もちろんこれはハリウッドで作られた(最初の)ゴジラ映画であるので厳密には除外すべきなのかもしれないが、それはさておき16年。いや、おそらく金曜ロードショーか何かで見ているからもう少し短いだろう。それにしても、もう一度リアルタイムにゴジラ映画を見るという体験を自分自身が選択するとは思わなかった、というのが率直な感想。

 ゴジラ以外の膨大なキャラクターによる会議劇というのが事前に仕入れたイメージだった(ネタバレは気にしない派)なので、庵野がどうこうというよりも政治家、官僚、自衛隊、研究者、そしてその他諸々の関連諸機関といった面々たちの会議の様子が気になってしょうがない。政治学ではアクターやプレイヤーといった概念は非常に重要で、ある事象を分析するときに関係するアクターやプレイヤーを整理することで誰がステークホルダーなのか?を特定するのは非常に重要な要素だ。それだけで論文が書けたりする場合だって珍しくないだろう。なのでたとえば会議という場面で誰が発言権を持つのか、その権力はどこから生じるものなのか、などなど、着眼点はあまりにも多い。

 もっともシンプルにまとめるならば、一番のステークホルダーはおそらくアメリカであり、ワシントンだろう。日米安保という逃れようのない呪縛的な同盟と日本に数多く存在する米軍基地のおかげで、対ゴジラという局面においてアメリカが参戦しないわけがない。もっともこれはタイミングというのが重要で、アメリカの存在が脅かされない程度においては参戦する必要がない。それはコストでしかないからだ。もはや日本、東京だけではとうてい太刀打ちできないのではないか、という局面において、なかば東京の意表をついた形で参戦してくる。もっと分かりやすく言えば石原さとみ演じるカヨコの登場もあまりにも唐突だし、いつのまにか巨災対の面々へすっかり溶け込んでしまえるフレンドリーさもなかなか末恐ろしいのだけれど、こういう唐突すぎる「強引さ」と、「友情」という傘をかざす同盟関係は現実の日米関係をかなりうまく批評的にとらえていると言えるだろう。

 政治学、行政学のみならず国際関係論的にもリアリティを担保しているこの映画は、「ゴジラ」という仮想敵を有しているからこそ成立する。パンフレットでもゴジラという虚構以外をいかに現実的に表現するかという点にかなり腐心しており、陸、海、空それぞれの自衛隊との撮影交渉などはまさにこの国の安全保障の核心に迫っていると言えるだろう。ゴジラは現実化しないかもしれない。でもはたして、ゴジラがいないとしたらこの国は常に平和なのかというと、そうではない。庵野がリスペクトしたという1954年のファーストゴジラは、始まったばかりの戦後にも放射能という見えない恐怖が存在し続けているという未だ消えない不安だったに違いない。だからこそ、よりリアルに、限りなくリアルにというスタンスは、たとえゴジラがいないとしてもこの国が持たねばならないものを真摯に表現することに成功していると言えるだろう。

 では何度も連呼される「想定外」の事態が起きたとき、この国は何ができるのだろうか。一つは、東京という中心的な場所を失っても耐えうるオプションを備えておくことだろう。千代田、港、中央区といった都心三区は二度目のゴジラ上陸によってことごとく破壊され、永田町から脱出をはかった総理をはじめとする閣僚たちもゴジラの前にあっけなく倒れてしまう。さらに市ヶ谷という自衛隊にとってもととも重要な場所も破壊されてしまう。それでも地下鉄の駅構内に逃げた矢口や尾頭たち巨災対の面々たちは、立川を新たな拠点とすることで活動を再開する。市ヶ谷が死んでも神奈川が生きていれば自衛隊の機能は死なない。そして筑波や理研が生きていれば、化学的なアプローチでゴジラに対抗することもできる。さらに実に360万人もの避難民を発生させて日本各地が混乱に陥る中、ある意味でこの映画は東京(都心)一極集中に対するアンチテーゼを投げかけているのかもしれない。それだけ、東京が死ぬということに対するダメージが大きすぎるのだ。

 もう一つ、ではどのような戦略がゴジラに対して有効なのだろうか。ここでは巨災対のトップであり、立川に移動後は臨時ではあるが特命の担当大臣にも就任する矢口蘭藤と、内閣総理大臣補佐官であり立川からは官房長官代理をつとめる赤坂秀樹の思惑の差異が表れる。矢口はこの国を救うことと、被害を最小限にとどめることの両立を目指す。対して赤坂は、手段はどうあれ、ゴジラを倒してこの国を救えればいいと考える。矢口に対して明確な反対をすることはないのだが、矢口のやり方を冷ややかに観察している目と口調はなかなかに印象的だ。

 矢口を演じる長谷川博己はかつて『鈴木先生』を演じたときの冷静さよりは、エモーショナルな存在になっており、頭はキレるが好感を持たれるタイプだろう。しかし政治家として誰かの上に立つ存在になると、赤坂や、あるいは友人の泉(与党の政調副会長)のほうが上手と言えるだろう。この差異はおそらく狡猾さ、つまり自分のとった戦略は政治的な意味での自身の将来を保証しうるかどうかというところまで見据えているかどうかだろ。立川に移動したあと、泉が気持ちを高ぶらせる矢口に対して「お前こそ落ち着けよ!」と声をかけるシーンは、実は冷静ではいられない矢口の脆さと、そうした彼の人間くささがあふれているいいシーンだった。ダカラこその矢口のやり方というものがこの映画の後半一時間に凝縮されていると言っていい。最終的には中ロをはじめとした国連安保理まで巻き込むことになるゴジラ対策の決着はいかに。

 また映画のパンフレットの話になるが、まるでどこかのアスカさんのように異国から急に現れそして輪の中に押し入っていくカヨコの存在はかなり重要だ。ともすれば東京という狭い世界の話になってしまいな会議劇を、もっと広いグローバルな視点から捉え直す必要性を感じさせる。東京対ゴジラであってはいけないし、世界対ゴジラであってはいけない。日米対ゴジラというラインを貫徹させなければ、ゴジラを倒せない。これはもうどうしようもないくらいに日米安保の呪いとしか言いようがないが、対ゴジラを乗り越えるためには福音と言ってもいい。少なくとも赤坂と矢口のどちらの立場に立ったとしても有効であり、強大なパワーであることは間違いないだろう。さっきの筑波や理研の例ではないが、使えるリソースは使ってこそだし、もちろんそのための狡猾さは必要だ。

 カヨコ演じる石原さとみがパンフレットで語っている言葉が非常にいい。ディティールにこだわればいくらでもこだわるところができるし、後半はとりわけ大味になるシナリオも捨てがたい。けれども、最後に石原さとみが語っている言葉こそ、現代に生きるわたしたちにできる一つの希望なのではないだろうか。最後に希望は必要だと、誰かが昔言ってた気がする。この国が民主主義の形式をとっている以上、わたしたちにこそできることはある。
 
石原さとみ:この映画をきっかけに自分が生きる未来の為にもっと深く学んでいこうと決意しました。この映画は、皆さんの経験や知識で捉え方や感想が変わる作品だと思います。どこに引っかかり、誰のひと言に怒りや悲しみを覚え、なぜその感情になったのか、そしてゴジラはいったい何なのか。是非、観終えた後にそれぞれの感想を言い合う時間を持っていただけたら嬉しいです。
 

関連作品

 最後に希望がどうだという話と、今回はあえてあまり踏み込んでないけど3.11をいくらか意識した映画(『シン・ゴジラ』の場合最後の避難所と思われる体育館のシーンはかなり重要だろう)として園子温監督の『希望の国』を思い出した。これは希望という言葉とは残酷な展開も含んでいるが、戦後はまだ続いているように3.11という災後もまた続いている現代の日本にとっては重要な作品の一つだろう。

希望の国(Blu-ray)
夏八木勲
松竹
2013-03-07


 もうひとつ、「想定外」の事態と「東京の限界」というイメージから思い出したのは福井晴敏原作、阪本順治監督の『亡国のイージス』でした。小説が99年、映画が2005年なのでどちらももう10年以上前になるわけだけど、いま見返すとまた違ったものが見えるかもしれない。



亡国のイージス プレミアム・エディション [DVD]
真田広之
ジェネオン エンタテインメント
2005-12-22



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burningday at 23:43|PermalinkComments(0)TrackBack(0)movie