Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

2016年07月



 村田沙耶香の書くヒロインは往々にしてどこかズレていることが多い。多くの場合小さいころのトラウマ(性的なものが多い)やあまりよろしくない家庭環境の影響を引きずったものであることが多く、自身の性的な衝動でたまりたまった鬱憤を解消していく。それが攻撃的であり、暴力的になることも珍しくない(『ギンイロノウタ』や『しろいろの街の、その骨の体温の』など)が、ではそれは彼女たちだけが悪いのか? というと、もちろんそうではないだろう。表面的には見えてこないものにこそ、すべての原因はある。

 それなのに、きっと彼女たちは表面的にしか理解されない。彼女たちが他人に理解してもらえないかのように振る舞うせいかもしれないが、かといって、というアンバランスでもろく壊れやすい日常を、村田沙耶香はずっと書いてきた。「殺人出産」や「消滅世界」のようなSFテイストを盛り込んだ小説にしても、仮にある規範が日常化された場合の社会を書いただけで(たぶん)、社会とのズレやそこで生まれる日常の奇異さをある意味では愛するかのようにまるっと引き受けてしまうところが村田の書く小説の魅力ではないかと思う。

 デビュー作から 『しろいろの街の、その骨の体温の』までは、いくつかの例外はあるが多くの場合において少女と呼べるほどの年齢の女性が主人公だった(小学生や中学生から、大学生まで)が、『殺人出産』以降の村田は主人公の選択においてそのスタンスを明らかに変えてきている。もっともそれは、単なる作風の変化によるものかもしれないし、より社会に対して大きなインパクトを与えるために大人の目線を導入したいという欲望かもしれない。

 「コンビニ人間」が面白いのは、かつてなら性に敏感で、男をもてあそぶようなキャラクターを主人公に据えることも珍しくなかった村田が、交際経験なしの非コミュな36歳女性というキャラクターを主人公に据えたことだろう。ある意味、セックスの意味を根本から否定するかのような「消滅世界」の延長、もしくはセックスをごくごく限定的にとらえた「清潔な結婚」(『殺人出産』所収)の問題意識とも地続きのように見える。

 そんなことを考えながら、ひらりささんがKAI-YOUに書いた記事(B&Bで行われたイベントのレポート)を読んでいるといくつか腑に落ちることがあった。
 不倫SF『あげくの果てのカノン』米代恭 × 芥川賞受賞の村田沙耶香 対談「イヤな人ほど愛おしい」

 たとえば次のやりとり。
「この世にはパターン化されている恋愛もいっぱいあるんだけど、わたしはなんでもありだと思っているんです。既婚者同士が『他の人とセックスしてOK』と同意しているならそれでいいと思うし、処女だけど人工授精で子供を産むみたいなのもアリだと思う。本人たちの間のなかで解決していることなのに『世界がそうだからという理由でさばく』というのが一番グロテスクで怖いこと」(村田さん)

「『コンビニ人間』のラストも、世界の常識からみて自分が間違っていてもわたしの世界はここなんだという選択をする話ですよね。それって本当に勇気がいること。だけど村田さんはそういう選択もアリということを教えてくれる。それが素晴らしいなと思います」(米代さん)

 これまでの村田の書いてきたキャラクターの中にも生きづらさを抱える主人公は多くいた。たとえば『ギンイロノウタ』に所収されている二つの中編では、いずれも独特な家庭環境の中でストレスを抱えながら生きる少女を書いていた。少女たちは自室で破壊衝動をヒートアップさせ、そして外の世界へと出る。外へ出ることが究極的には生き延びるための方法だったのだろう。あるいは 『しろいろの街の、その骨の体温の』では教室という息苦しい場所から逃れ、郊外のニュータウンという「しろいろの街」に価値を見出していく。ある閉ざされた空間は、生きづらさや息苦しさの象徴でしかない。

 ここまできてようやく「コンビニ人間」の内容に入っていくことができる。この小説がこれまでの村田の小説と違って特殊なのは、コンビニという空間こそが生きることのできる場所だ、ということだ。コンビニの外の世界は生きづらい、息苦しい場所である。それは社会規範や常識というものが支配する場所であり、どこに行っても逃れようのない現実が待ち受けているからだ。ゆえに18年間コンビニバイトしかしてこなかった古倉恵子は、よく言えばコンビニに最適化されてしまったキャラクターだと言える。そしてそのことが、彼女にとっては至上なのである。

 なぜならば彼女もまた村田沙耶香がこれまで書いてきた多くの少女たちのように、家庭や学校という空間になじんできたとは言えないからだ。その生きづらさや息苦しさから逃れるために、しかしながらこれまでの少女たちのように性の衝動に任せるほど異性の男子とのコミュニケーションに長けているわけではない。彼女がコンビニを選択したのは大学生になってから初めて経験したバイト、という点では偶然のようだが、その偶然が彼女にもたらしたのは福音だったのだろう。

 かくして新店オープンから足かけ18年、店長が何人も入れ替わる間に自分だけが店に残り続けるとなれば、まぎれもない「コンビニ人間」だと言っていい。白羽という誰からも嫌われるタイプのキャラクターに言い放つ最後の言葉は、古倉恵子というキャラクターを適切に、再帰的に表現していると言えるだろう。かつて『しろいろの街の、その骨の体温の』のレビューで「村田沙耶香は「途上」の人間を書くのがうまい」と評したことがあるが、彼女の場合はもはや途上ではなく完成されていると言っていい。白羽という「異性」に出会っても結局は彼女の本質は変わらなかったじゃないかという批判は賞の選考でもあったようだが、その不変さこそが平倉圭子が18年間にわたって築き上げた強固さに他ならない。彼女が容易に変わっていたとしたら、そのほうが批判されるべきだろう。

 36歳で交際経験もなく仕事もコンビニバイトの経験しかまともにない彼女の不変さは、地元の友人たちからも奇異の目にさらされる。かばってくれる妹が地味にけなげなのがいい。敵ばかりではないのだ。そして地元の重たい空気を吸ったあとにコンビニに吸い寄せられていく姿が、いかに生き生きとしていることか。

 先ほどの引用で米代恭が述べている通り、古倉恵子の姿は「世界の常識からみて自分が間違っていてもわたしの世界はここなんだという選択をする」んだということがよく分かるし、彼女もそのことが分かっていないわけではない。だからこそ地元の友人にもうまい言い訳を使う(その言い訳の元ネタは妹のアイデアだったりする)し、適当にやりすごす程度のコミュニケーションはできるのだ。しかし、かといってコンビニ人間である以上、コンビニの外の世界(異性だとか)にも過剰な関心を持つことはない。逆に、コンビニという世界を利用して生き延びるということが、もっとも適切な選択肢だと言えるのだ。もちろん、主観的なレベルにおいて。

 思えば数々のSF路線はキャラクターを構成する主観も客観もがすべて現代とはずれていく話であったわけだけど、改めて現代に舞台を置いたときに主観的なレベルでの周囲とのズレを書くことは、ズレを形成してしまう客観を疑うには有効な方法だった。クレイジーを通り越してエクストリームな路線に走っていた村田にしてはマイルドだと思った今作も、見方を変えれば同じ路線にあるかもしれない。

 もし、村田沙耶香という作家の真骨頂はまだまだこれからなのだとしたら、それは本当に楽しみでならないし、ここまできたら思い切ってどんどんエクストリームな方向に行ってもいい。文壇は適切な評価を下せないかもしれないが、行くところまで行く村田を見てみたいと、初期からのファンとしては期待せずにいられない。ひとまずは芥川賞受賞を祝いつつ。

 あと、今日が単行本『コンビニ人間』の発売日で、すでに電子書籍化もされているようなので、リアルないしネット書店で見かけた方はぜひ一読を。ある意味、これも現代文学の最前線です。

コンビニ人間 (文春e-book)
村田沙耶香
文藝春秋
2016-07-27



しろいろの街の、その骨の体温の
村田沙耶香
朝日新聞出版
2013-03-11



消滅世界
村田沙耶香
河出書房新社
2016-01-08



殺人出産
村田沙耶香
講談社
2014-11-28




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 久しぶりに事前に全部読んだので、発表直前ながらちゃんと予想してみます。芥川賞は最近ほぼ毎回当ててきているが果たして。
 全部読んでいるのと、今回は全部手元にあるので受賞した作品については長めのレビューも書いて載せたいなと思っている。

◎崔実(チェ・シル)「ジニのパズル」
○村田沙耶香「コンビニ人間」
▲高橋弘希「短冊流し」
△今村夏子「あひる」
×山崎ナオコーラ「美しい距離」

 
 タイトルに書いたように、実力と実績から考えても村田沙耶香が一歩リードしているように見える。というか、もはや中堅と言ってもいいくらいだ。(ナオコーラもその部類だが)
 その上であえての本命は「ジニのパズル」で。講談社がここまでガンガン押してくるのは想定してなかったが、ガンガン押されている作家自身のルックスと言い、粗削りながらも逆にそのエッジの効いた感じがハマってくる「ジニのパズル」は強い。
 ひとつ分かりやすい弱さがあるとすれば、ステファニーというアメリカでのホームステイ先の女性に回想を話す、という構造をとりながらも、その構造があまりうまく言っているとは思えないこと。悪くもはたらいていないが、ジニにとっての二度目の退学、というエピソードを引き出す以上のものがあるのか。
 とはいえ、90年代後半を舞台にしたこの作品の空気感は、在日朝鮮人の学校生活という政治的にも際どい路線の小説としてはかなりビビッドだ。勢いを感じるし、宇多田ヒカルの「Automatic」やソニーのMDウォークマンという固有名を持ち込んでくるあたりの時代の空気感も匂わせる。

 村田の「コンビニ人間」は「殺人出産」を書いてきたような最近の村田に比べると控えめにうつるものの、村田が書いてきたこれまでのヒロイン像である社会からズレまくりながら自分の境地を信じていきるよくわからない強さ、みたいなのは感じることができる。
 「コンビニ人間」の主人公は非コミュに見えて妹や同僚たちとのコミュニケーションに長けているあたり、表面的にはうまくやれているわけだ。学生時代はうまくなじめなくても、社会に出てから地味な強さを見せていくタイプのヒロインは、自身がコンビニ店員でもある(少なくとも「であった」)村田自身の思いや経験がいささか投影されているようにも見える。私小説では決してないのだけれど。

 実力的にこの次に来るとすればナオコーラだろうが、ガンとなった妻の看取りをいくらか新しい、かつ社会批判的な切り口で書いた面白さはあるがそれ以上のものをあまり感じなかった。
 対照的に、かなり短い部類ではあるが同じく死の匂いを感じさせる高橋の「短冊流し」のほうが感情の繊細さを事細かに書けていて好感を持てる。オリジナリティや短いがゆえの弱さはあるものの、キャリアは浅いながら三度目の候補となった今回、二作受賞なら高橋が来てもいいだろう。
 今村夏子の「あひる」もいささか風変わりな家族小説であるが、日常のささいなやりとりの中に不穏さを織り込んでいくスタイルは上手さを感じる。もっと長いものを読んでみたい。

 以上、ざっと見てきたが村田を追随する崔のあとに三者が続くという感じだろう。崔を本命にしているが、あるとすれば崔と村田の二作受賞が妥当ではないかと踏んでいる。
ナオコーラと今村夏子は今回はない、という見立ての上で高橋が穴を開ける可能性も微レ存。

ちなみに直木賞は米澤穂信しか読んでないので、とってくれたらとても嬉しいです。
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 『卯月の雪のレター・レター』という短編集を手に取ったのが最初の相沢で、本作が二冊目になる。ちなみに講談社タイガから出ているのは野崎まど、紅玉いづきを経て三冊目で、『卯月の雪』の解説を書いていたのが紅玉だったことも考えると紅玉が相沢を読め、と言っているようなものだと勝手に理解した。本作『小説の神様』はそのストレートすぎるタイトルを体現したようなヒロインが美少女転校生として登場する一方、かなりひねくれたタイプの主人公が対峙するエンタメとなっている。

 千谷一夜という名義で中学生のときに作家デビューを果たしたもののデビュー作の売り上げは芳しくなく、二作目も出せずに数年が経過した。高校では友人の九ノ里に誘われて部員不足で廃部寸前の文芸部に参加するものの、書くことへの意欲は戻らないまま。そんな中で同じクラスにやってきた小余綾詩凪は、同い年でありながら不動詩凪として人気作をとばす売れっ子の作家だった。あることをきっかけに彼女と話をするきっかけを得るがそのときには小説に対する価値観で対立し、決別。しかし二人に共通する編集、河埜の提案によって、新作の共作を試みることになる。

 最悪の出会いを経たあとに一緒に仕事を試みることは果たして可能なのか、という問題もあるが分かりやすいくらいに対立していく二人の価値観の相違は分かりやすい。千谷は自分の小説が売れなかったことや、病気で長期入院中の妹への思いから売れる小説に絶対的な重きを置くようになる。これが本音なのかは別として、千谷の言うことは出版不況や書店の閉店や取次の倒産が相次ぐ昨今の状況下では一面的なただしさを持っている。さらに彼の父がかつて(あまり売れない)小説家だったことも、売れることへの執着は強くなっていく。

 対する(とはいっても仕事の関係上対立してばかりでもいられない)小余綾に「小説の神様」が見えるのだと語る。その彼女が振りかざす正論は少しずつ千谷のゆがんでしまった心を砕いていく。彼女はも物語の力を純粋に、そして強烈なまでに信じるタイプの作家で、その強力な新年は作品の中にも投影されているし、なにより作家としての、個人としてのかのじょを形作るアイデンティティーにもなっているところがヒロインとしての魅力にもつながる。千谷は何度か「天は二物を」と彼女を評してつぶやくが、では次に容姿端麗で成績もよく、なんでもできるように見えてしまう彼女がなぜ物語の強さにこだわるのか? という問いが千谷の中に生まれていく。

 千谷はもちろん小説を、書くことそのものを捨てたわけではない。捨てたわけではないから、自分とはあまりにも違う小余綾の姿勢に対立してしまうし新しい部員の小説指導も引き受けてしまう。千谷のデビュー作を好きだと言った小余綾の言葉には動揺するが、その彼のデビュー作の文庫化を機に再び目の前が雲っていく。こういう時代に作家という仕事を引き受けてしまった人間の辛さが分かりやすく表れているし、そのことを自覚的に書いている相沢が憎らしくもなる。

 とはいえ、共作がスタートし、対立を重ねながらも少しずつ接近していく中での断絶は、『小説の神様』という物語の核心部分に深く入っていくきっかけにもなる。物語をつづる人間にとって、小説とはどういうものなのか。そして読者にとって、物語はどのような意味を持つのか、っという根源的な問いだ。もっとも、これらの問いはそもそも意味がない、と当初の千谷の言うように蹴落としてしまうことも可能だろう。だからこそ、あえて、あえて向き合うことができなければ、これらの問いへの答えはみいだせない。

 最近読んだ川上未映子の『安心毛布』というエッセイに、この小説の核心につながるような一節があったので引用してみよう。

 なにとも比較できないなにか。誰かにとやかく言われようのないなにか。学校や職場以外の場所にこそ、仕事や人間関係以外のものにこそ、自分にとって素晴らしいものがあるという自信をもつこと。(中略)なにかひとつ、誰にもわかってもらえない自分だけの大事なものを見つけることが、明日また、学校や職場でがんばるためのちからになると思うのだ。人からどう思われようと、決して揺るがないものをひとつだけでいいから胸にもっておく。それは本当にわたしたちが困ったときに、わたしたちを必ず助けてくれるちからになる。(川上未映子(2016)『安心毛布』中公文庫、p.92)


 翻って『小説の神様』は物語の力を信じる者と否定する者の間の物語だった。どちらが優勢なのかは言うまでもない。重要なのは、一度見失ったものでも再び見いだすことができるかもしれない、というところだろう。千谷の場合それは小余綾や妹、それに九ノ里や成瀬といった文芸部員の存在によってもたらされた。きっかけを与えてくれた河埜の存在も大きい。しかしこれだけだとちょっといい話で終わりかねない。だからこそ、千谷のみが再生することだけが本作のねらいではない。小余綾もまた、再生を必要とするのだ。

 基本的に千谷に一人称で書かれるがゆえに、小余綾についてはあまり多くのことが触れられない。だから彼女についてはある意味では、叙述トリック型のミステリーだと言えるだろう。その謎を解くことで、「小説の神様」に対するこだわりのゆえんもまた見えてくるようになる。共作を始めたばかりのころ、彼女が発する言葉が印象的だ。

 物語を読むことで、心に湧き上がる力があるのなら。それを用いて、現実に立ち向かってほしい。苦しいことも、辛いことも、物語があるのなら、人は必ず立ち向かえるから(p.128)

 本作の終盤で小余綾はあることに苦しむ。千谷は彼女を救おうとするが、真に彼女の救えるのはかつての彼女自身の、物語に対する思いの強さなのかもしれない。それは川上未映子がエッセイで書いたことにも通じる。物語を必要とするのは、もちろん純粋にそれが読まれうるという時もあるだろうけれど、物語が選ばれる時にこそ、確かな力を発揮するのかもしれない。小余綾の信念は一見すれば青臭いけれど、それこそが大事な時こそ。

安心毛布 (中公文庫)
川上 未映子
中央公論新社
2016-03-18

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