村田沙耶香の書くヒロインは往々にしてどこかズレていることが多い。多くの場合小さいころのトラウマ(性的なものが多い)やあまりよろしくない家庭環境の影響を引きずったものであることが多く、自身の性的な衝動でたまりたまった鬱憤を解消していく。それが攻撃的であり、暴力的になることも珍しくない(『ギンイロノウタ』や『しろいろの街の、その骨の体温の』など)が、ではそれは彼女たちだけが悪いのか? というと、もちろんそうではないだろう。表面的には見えてこないものにこそ、すべての原因はある。
それなのに、きっと彼女たちは表面的にしか理解されない。彼女たちが他人に理解してもらえないかのように振る舞うせいかもしれないが、かといって、というアンバランスでもろく壊れやすい日常を、村田沙耶香はずっと書いてきた。「殺人出産」や「消滅世界」のようなSFテイストを盛り込んだ小説にしても、仮にある規範が日常化された場合の社会を書いただけで(たぶん)、社会とのズレやそこで生まれる日常の奇異さをある意味では愛するかのようにまるっと引き受けてしまうところが村田の書く小説の魅力ではないかと思う。
デビュー作から 『しろいろの街の、その骨の体温の』までは、いくつかの例外はあるが多くの場合において少女と呼べるほどの年齢の女性が主人公だった(小学生や中学生から、大学生まで)が、『殺人出産』以降の村田は主人公の選択においてそのスタンスを明らかに変えてきている。もっともそれは、単なる作風の変化によるものかもしれないし、より社会に対して大きなインパクトを与えるために大人の目線を導入したいという欲望かもしれない。
「コンビニ人間」が面白いのは、かつてなら性に敏感で、男をもてあそぶようなキャラクターを主人公に据えることも珍しくなかった村田が、交際経験なしの非コミュな36歳女性というキャラクターを主人公に据えたことだろう。ある意味、セックスの意味を根本から否定するかのような「消滅世界」の延長、もしくはセックスをごくごく限定的にとらえた「清潔な結婚」(『殺人出産』所収)の問題意識とも地続きのように見える。
そんなことを考えながら、ひらりささんがKAI-YOUに書いた記事(B&Bで行われたイベントのレポート)を読んでいるといくつか腑に落ちることがあった。
不倫SF『あげくの果てのカノン』米代恭 × 芥川賞受賞の村田沙耶香 対談「イヤな人ほど愛おしい」
たとえば次のやりとり。
「この世にはパターン化されている恋愛もいっぱいあるんだけど、わたしはなんでもありだと思っているんです。既婚者同士が『他の人とセックスしてOK』と同意しているならそれでいいと思うし、処女だけど人工授精で子供を産むみたいなのもアリだと思う。本人たちの間のなかで解決していることなのに『世界がそうだからという理由でさばく』というのが一番グロテスクで怖いこと」(村田さん)
「『コンビニ人間』のラストも、世界の常識からみて自分が間違っていてもわたしの世界はここなんだという選択をする話ですよね。それって本当に勇気がいること。だけど村田さんはそういう選択もアリということを教えてくれる。それが素晴らしいなと思います」(米代さん)
これまでの村田の書いてきたキャラクターの中にも生きづらさを抱える主人公は多くいた。たとえば『ギンイロノウタ』に所収されている二つの中編では、いずれも独特な家庭環境の中でストレスを抱えながら生きる少女を書いていた。少女たちは自室で破壊衝動をヒートアップさせ、そして外の世界へと出る。外へ出ることが究極的には生き延びるための方法だったのだろう。あるいは 『しろいろの街の、その骨の体温の』では教室という息苦しい場所から逃れ、郊外のニュータウンという「しろいろの街」に価値を見出していく。ある閉ざされた空間は、生きづらさや息苦しさの象徴でしかない。
ここまできてようやく「コンビニ人間」の内容に入っていくことができる。この小説がこれまでの村田の小説と違って特殊なのは、コンビニという空間こそが生きることのできる場所だ、ということだ。コンビニの外の世界は生きづらい、息苦しい場所である。それは社会規範や常識というものが支配する場所であり、どこに行っても逃れようのない現実が待ち受けているからだ。ゆえに18年間コンビニバイトしかしてこなかった古倉恵子は、よく言えばコンビニに最適化されてしまったキャラクターだと言える。そしてそのことが、彼女にとっては至上なのである。
なぜならば彼女もまた村田沙耶香がこれまで書いてきた多くの少女たちのように、家庭や学校という空間になじんできたとは言えないからだ。その生きづらさや息苦しさから逃れるために、しかしながらこれまでの少女たちのように性の衝動に任せるほど異性の男子とのコミュニケーションに長けているわけではない。彼女がコンビニを選択したのは大学生になってから初めて経験したバイト、という点では偶然のようだが、その偶然が彼女にもたらしたのは福音だったのだろう。
かくして新店オープンから足かけ18年、店長が何人も入れ替わる間に自分だけが店に残り続けるとなれば、まぎれもない「コンビニ人間」だと言っていい。白羽という誰からも嫌われるタイプのキャラクターに言い放つ最後の言葉は、古倉恵子というキャラクターを適切に、再帰的に表現していると言えるだろう。かつて『しろいろの街の、その骨の体温の』のレビューで「村田沙耶香は「途上」の人間を書くのがうまい」と評したことがあるが、彼女の場合はもはや途上ではなく完成されていると言っていい。白羽という「異性」に出会っても結局は彼女の本質は変わらなかったじゃないかという批判は賞の選考でもあったようだが、その不変さこそが平倉圭子が18年間にわたって築き上げた強固さに他ならない。彼女が容易に変わっていたとしたら、そのほうが批判されるべきだろう。
36歳で交際経験もなく仕事もコンビニバイトの経験しかまともにない彼女の不変さは、地元の友人たちからも奇異の目にさらされる。かばってくれる妹が地味にけなげなのがいい。敵ばかりではないのだ。そして地元の重たい空気を吸ったあとにコンビニに吸い寄せられていく姿が、いかに生き生きとしていることか。
先ほどの引用で米代恭が述べている通り、古倉恵子の姿は「世界の常識からみて自分が間違っていてもわたしの世界はここなんだという選択をする」んだということがよく分かるし、彼女もそのことが分かっていないわけではない。だからこそ地元の友人にもうまい言い訳を使う(その言い訳の元ネタは妹のアイデアだったりする)し、適当にやりすごす程度のコミュニケーションはできるのだ。しかし、かといってコンビニ人間である以上、コンビニの外の世界(異性だとか)にも過剰な関心を持つことはない。逆に、コンビニという世界を利用して生き延びるということが、もっとも適切な選択肢だと言えるのだ。もちろん、主観的なレベルにおいて。
思えば数々のSF路線はキャラクターを構成する主観も客観もがすべて現代とはずれていく話であったわけだけど、改めて現代に舞台を置いたときに主観的なレベルでの周囲とのズレを書くことは、ズレを形成してしまう客観を疑うには有効な方法だった。クレイジーを通り越してエクストリームな路線に走っていた村田にしてはマイルドだと思った今作も、見方を変えれば同じ路線にあるかもしれない。
もし、村田沙耶香という作家の真骨頂はまだまだこれからなのだとしたら、それは本当に楽しみでならないし、ここまできたら思い切ってどんどんエクストリームな方向に行ってもいい。文壇は適切な評価を下せないかもしれないが、行くところまで行く村田を見てみたいと、初期からのファンとしては期待せずにいられない。ひとまずは芥川賞受賞を祝いつつ。
あと、今日が単行本『コンビニ人間』の発売日で、すでに電子書籍化もされているようなので、リアルないしネット書店で見かけた方はぜひ一読を。ある意味、これも現代文学の最前線です。