横山秀夫原作の『64』はまずはピエール瀧主演のNHKドラマ(全5話)で見て、その面白さから原作をとってまた興奮し、今回の映画にという流れになる。前編はタイミングを逃してしまって見ていないのだが(パンフレットだけは買った)、後編では原作やドラマとも違う展開になっているらしいと聞いて見ることにした。パンフレットには横山秀夫のコメントもあるが、改編する内容や展開については横山もいい印象を持っているらしい。主演の佐藤浩市をはじめとするスタッフと瀬々監督とのディスカッションも内容に盛り込まれたとあるだけに、スタッフと役者の共作とも言っていいのかもしれない。さてその結末は。
この作品は警察の広報官という比較的地味な仕事にスポットをあてながら、ある大きな未解決事件(昭和64年に起きたことから、「ロクヨン」と呼ばれている)を背負ったしまった男たちの物語、という流れがある。ただ厳密には男たちだけではなく、何人かの女性も重要なポジションを果たしているし、刑事ドラマとしては新しいし、そもそも広報官が主役のドラマは厳密には刑事ドラマと呼べない。しかしその広報官である三上は元刑事という経歴を持つだけに、刑事ドラマに期せずして接近していく面白さははらんでいる。広報官という仕事をどう見せるのかというところと、刑事ドラマとしてのコミュニケーションや情熱、あるいは犯人を追いかける展開の面白さといった分かりやすい形の刑事ドラマとの間のバランスをどのようにとっていくかが演出の仕方で変わってくるのだ。
簡単にまとめると、原作をほぼ踏襲した形のドラマ版と、より刑事ドラマとしての人間くさい、男くさい物語へと加速していく展開を見せる劇場版という差異がある。この点についてもパンフレットを読むと自覚的に構成が作られていて、瀬々自身は原作の魅力を認めながらも映画として成立するにはどうすべきか、という思案を重ねていることを明かしている。主演の佐藤浩市ももちろんその点は織り込んでいるし、他の共演者たちも本作がすぐれた日本映画になっていることを自負する。この時点で、この映画は単なる二度目の映像化というよりは、横山秀夫の原作を日本映画として再構築した、言わばオリジナル要素を多分に含む二次創作、と解釈してもいい。
三上を演じた主役二人を比較してみよう。ピエール瀧の比較的地味な演技が光ることによって、組織人としての苦悩をあぶり出すことに成功したのがドラマ版だとするならば、組織人としていきる苦悩を持ちながらも刑事としての魂のような情熱と、父親として、というもうひとつの人間くさい要素を解放させる方向に佐藤浩市が歩みを進めていくのが劇場版だ。5話構成ということで原作をややはしょる形をとりながらも、たとえば報道協定をきっかけとしたマスコミとの激闘の様子を丁寧に書いたところが組織人としての苦悩をうまく表出していた。
このシーンは映画ではドラマ版ほど長い尺をとっていないが、ドラマ版ではもはやループものと言ってもいいくらいの反復した演技を役者に強い、そしてその光景をつぶさにカメラにおさえることで、目に見えて分かる体力と気力の消耗を視聴者に強いインパクトとして訴えることに成功している。地味な撮影であるからこそ大きなインパクトを持つことができるのは、あらかじめ複数の話数を持つ連続ドラマの魅力のひとつだろう。尺そのものは劇場版もドラマ版もさほど大きくは変わらないが、話数という制限を持つドラマの場合では構成の方法がやはり違ってくる。
パンフレットには直接的な言及はなかったが、ドラマ版はもちろん瀬々監督は「先行研究」として調査済みだろう。その上で構成を変えたからこそ、佐藤浩市の映画として成立する魅力と危うさが共存していると推測できる。もっとも、この二人の名前を最初に見つけたときに思い付いたのは大作『ヘヴンズストーリー』だっただけに、物語の終結に向けてエモーショナルな要素が大きくなっていくこともあらかじめ想像がついていた。最後まで禁欲的だったドラマ版とは対照的に欲を見せていくところでの危うさも同時に存在する。いままでの、組織人としての三上という像を破壊することは視聴者に対してどれだけの説得力を持つのかという危うさだ。
そこにはドラマ版にはない一つの救済的アプローチがある。それは子どもたちの存在だ。この映画には重要な子どもたち、それも全員娘という形で4人の少女たちが登場する。ドラマ版にももちろん何人かは登場するが、広報官の三上を組織人として描くというアプローチからすると、子どもたちの存在はそれほど重要ではなかった。ただ劇場版では再び刑事化する三上と、父親としての三上をシンクロさせたクライマックスへと足取りを進めていく。このドラマチックさも、そういえば『ヘヴンズストーリー』で大きなインパクトを持っていたアプローチではあった。あの映画といちいち比較するのも意味はないと思うが、あの映画で出演者の一人であった佐藤浩市の頭の中にもなにかよぎるものがあったのではないか。彼自身も受け入れたはずの原作改編は、だからこそ成立したのではないか。
ドラマ版では新井浩文や山本美月といった共演者たちや、記者会見で三上や捜査二課長たちと激闘を演じた数多くの共演者たちの演技の魅力も相まって、地味な演出の中にディティールの面白さを発見することができた。劇場版でも途中までそのようなアプローチを取りながら、途中から分かりやすくそのアプローチを放棄していく。好きか嫌いかと言われればまだ少し難しくて、ドラマ版の評価の高さを崩したくないのだけれど、とはいえこういう形で三上を書くのもアリだろう。
それともうひとつ、最後の最後にこれは昭和64年の1月に始まった物語だったということを再確認させる演出がいい。これもかなり映画的なものであろうけれど、この演出は素直に評価していい。甦った「ロクヨン」はそもそも、世代を超えた数々の人々思いが交差した悲劇であり、再会だったはずだ。