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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

2016年05月





 百人一首に載っている和歌にちなんで『上の句』と『下の句』との前後編に分かれて構成されたこの映画は原作をなぞるようにしてかるた部の結成から全国大会までを描いたものだ。とはいえ主役の三人が出会う小学生時代はバッサリとカットされていて、高校入学からの日々に焦点を当てているコンパクトさとセットになっている。そのかわり、小学生時代の思い出がたびたび回想シーンとして挿入されているところが、とりわけ『上の句』では重要な要素になっていると言える。

 千早が中心となって高校に部活を作る、仲間になるまでが『上の句』だとするならば、それはひとつの青春群像だ。しかし『下の句』はまた少し違った趣を見せる。今度は『上の句』で描いてきたキャラクター個人個人が躍動したり、あるいは思い悩んだりする。つくえくんや肉まんくんにはもはや気負うものはないし、かなちゃんも自分のやり方で着実に力をつけていき、みんなを見守る母性を醸し出す。問題は主役の三人で、いくらか予想されたような千早のフリーダムさが周囲を混乱に巻き込んでいく。近くに新太がいない以上、ストップをかけられるのは太一しかいない。しかしその太一も、そして新太にも克服しなければならない課題があるのが、ありていだが青春っぽくていい。

 若宮詩暢を演じる松岡茉優は『下の句』から初登場するが、瑞沢高校かるた部の輪の外にある彼女の存在が重要なのは悩める千早と新太の二人を駆動する(あるいは、かき回すと言ってもいいかもしれない)存在になっているところだ。アニメでもそうだったが、どこか上から目線で周囲をもはや相手にしていないかのように見える彼女の目線、振る舞いは松岡が非常にうまく演じており、真剣佑演じる新太の福井弁に負けず劣らず、松岡演じる詩暢の京都弁のドS感がたまらなくいい。ネイティブじゃないので二人の方言のナチュラルさについての判断は難しいが、大きな違和感なくハマっている印象を受けた。

 『上の句』ではゆるやかに成立しているように見えた三角関係は、『下の句』序盤での福井訪問をきっかけに少しあやしくなっていく。まっすぐすぎる千早には太一しか見えていない。その上で、詩暢というまだ出会わぬ存在を過剰に意識してしまう。過去の友人も遠すぎるライバルも、簡単に言ってしまえば手に届かない範囲の存在という意味では同じだ。幻想にすら映る。その彼女を冷静に認識できるのは太一しかいないが、太一もうまい策を持てておらず、かるた部というチームがガタガタになっていく展開は若さゆえの脆さでもあるのだろう。

 この二人と新太に欠けているものは知らぬ間に一人相撲してしまっているという現実に対する客観視だ。もちろん、一番欠けているのは千早で、彼女は一人で克服することなどできない。だから北央学園への出稽古でボロボロになるが、そのときにようやく彼女は一人でもがいていたことに気づく。対して太一は太一で、部長というなにか責任めいたものを背負ってしまう。要は、まだできたばかりのかるた部に仲間意識こそあれ、チームマネジメントの能力くはそなわっていないということだ。だから仲間の誰かが混乱しているときに、適切な解を出せない。

 三人とも、最終的には自分で答えを見つける。しかしその過程で、自分が一人ではないということを確かめる。千早にとっては無論二人がいるし、新太には千早がいて詩暢がいる。太一には千早がいると思っていたが、遠いようで近いところに因縁の相手である新太がいることを強く実感する。そしてかるた部の仲間たち。部のマネジメントはまだまだ不十分だろう。原作やアニメでは進級してからさらに部員が増える。映画のこのメンバーがどういふうにうまくやっていくかが気になるところ。
 
 新太、太一、千早がそれぞれ自分自身に欠けているものに気づくとき、物語は一気に加速していく。それはもちろん、三人の関係の変化からも逃れられないということだ。現時点で決定的なのは、太一は新太を一人のライバルとして改めて意識したと言うこと。原作やアニメのやや先取りとも言えるこの演出は、仮に千早を抜きにしても二人の関係が成立しうることを示すことにつながった。そして新太と千早の変化は、クイーンたる詩暢をも刺激していく。いや、刺激せずにはいられない。たとえ17枚の大差をつけて千早に勝ったとしても、「しのぶれど」の札を奪われた恨みをきっと、詩暢は忘れはしないはずだ。

 『下の句』の公開初日にめでたく続編の製作が決定したようだが、じっくりといいものを作り上げてほしい。高校一年の夏までの間だけで終わるのはさみしすぎる。なにより新太はまだほとんど札をとっていない。そして、詩暢の出番も、彼女の本気もまだまだ見たいところだ。気長に楽しく、続きの物語が見られることを待っていよう。





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監督:土方宏史 (※土の字は正確には土に、をつけたもの)
プロデューサー:阿武野勝彦
映像強力:関西テレビ
制作:東海テレビ放送
見:ソレイユ・2


 現代の日本アニメには日常系というジャンルがあって、その元祖が『あずまんが大王』であるとか、多くが原作を四コマまんがに持つとかするのだけれど、その日常系というのはかなり極端にまとめると特別な(=非日常的な)出来事があまり起こらない風景を描く作品だ。具体的には、主人公たちが暮らす学校や自宅のある街からほとんど出ていかなかった(『けいおん!』シリーズ、『ゆゆ式』など)り、そもそも空間的な移動をほとんど起こさない(『GJ部』や『じょしらく』のAパートなど)場合であったりといくつかのパターンに分類されるが、『ヤクザと憲法』もまたそうした日常系の作品群に位置づけることが案外可能なのではないかと思いながらこの特殊なドキュメンタリー作品を見ていた。

 96分の尺を持つ『ヤクザと憲法』は一般的なテレビシリーズのアニメに換算すると大体4話分強と言ったところだろう。パンフレットを見ると、ちょうど4つのタイトルがつけられそうだ。すなわち、第1話「ヤクザとドキュメンタリー」(映画そのものの導入)、第2話「ヤクザと警察」(警察とヤクザの攻防史と、現代の警察、暴対法の成立や暴排条例との関連)、第3話「ヤクザと弁護士」(法廷に立つ機会の多いヤクザとっての顧問弁護士の存在について)、そしてクライマックスとなる第4話「ヤクザと憲法」(ヤクザにとって権利とは、人権とは何か)といった感じだ。

 パンフレットにあるディレクターズノートを見ると、「ヤクザと憲法」というタイトルそのものはあとづけのものらしい。そもそもねらいは彼らの日常を撮影することであって、あとは「アマノジャク」な「ドキュメンタリーの神様」にゆだねようというスタンス。大阪の堺市にある二代目清勇会の事務所が撮影の舞台に選ばれた経緯やどのような取材交渉があったかは明らかにされてない。ただ、3点だけ。取材の謝礼はなし、収録テープ等は事前に見せない、モザイクは原則なしということは視聴者にも明らかにされる。要は、可能な限りの素を撮影しますがそれでいいですか、というヤクザ側からするとあまり好ましくない条件に見える。現に、清勇会の上位組織に当たる東組を撮影スタッフが訪れた際は(東組には取材許可を出していなかったせいかもしれないが)露骨に撮影を拒絶される。

 おそらくは東組のような対応がこの世界のベターなのだろうと思う。映画の中でもヤクザと警察権力をめぐる戦後史と現在がおおまかに紹介されるが、ヤクザにとってはより生きづらい社会になっているのは間違いない。存在自体は違法ではないが、ちょっとでもなにかしらの権利を行使しようとすると摩擦や衝突が起き、たとえ小さなことでも警察は立件しようとする。その実例として、清勇会の構成員が自家用車の修理代を保険会社と交渉していた際に、詐欺なのではないかと疑われるシーンがある。この構成員の生活にしばらく密着したあとのこのシーンはちょっとした緊迫感をはらむことになる。彼が違法性のある行為をただちにしたわけではない。しかし「ヤクザである」ということそれ自体がすぐさま困難になってしまうのだ。

 困難になっているのはとりわけ自由権だろう。近隣との関係を考えると居住移転の自由があるとはとうてい言えないし、銀行口座を作ったり保険を契約したりといった経済的自由も暴排条例以降はかなり困難になっている様が窺える。予告編でも少し明かされているが、会長である川口和秀が彼の自室で取材スタッフに明かす事例は権利侵害だと言ってもおかしくない事例ばかりだ。暴対法条例はなにも構成員だけを縛るものではなく、家族のような関係者にも影響を与えてしまう。とするならばヤクザの子どもは、親がヤクザというだけで保育園に入れなかったりするのだろうか。

 山口組の顧問弁護士を引き受けたことで茨の道を歩むことになった弁護士(正確には、現在は元弁護士である)山之内幸夫は微罪で逮捕された前例を持つ(裁判で無罪を勝ち取っている)弁護士だ。彼の中にある違和感、おかしいという衝動がヤクザの弁護士を引き受けたという同期だと語るが、そのことが結果的に他の顧客を減らし、仕事を減らし、複数いた事務員もベテランの女性一人という小さな小さな法律事務所へと変えてしまう。それでも、大阪人ゆえなのかどうかは分からないが、巨大な権力というものに対して抵抗しようとするその身のこなしの軽さはすがすがしいものがある。ある一つの縁が結びつけた山口組の弁護士という経歴は、山之内自身の人生も大きく変えるものになっていく。

 さて、ここまで来てこの映画における日常系という話に戻ろう。一つは明確なストーリーラインを持つことなく、大阪の堺市と大阪市から大きく外に出ることもなく撮影が行われているという点だ。大きく分けて、清勇会の事務所と、山之内弁護士事務所の二つの空間が撮影の主になり、そこでの語りであったり、くつろぎであったりを丹念に撮影している「だけ」のドキュメンタリーにすぎない。しかしそこにはやはりヤクザの世界というものがはっきりとあって、冒頭で流れている甲子園の映像とテーブルで動くお金からは、巨人の元選手が何人も関わったとされる野球賭博を容易に想像できる。(もちろん、想像できるだけで、賭博という言葉はただの一回も出てこない)

 もう一つ、あくまでヤクザの日常を撮影しようというスタンスだからこそ生まれた映像が多々あふれる点だ。ヤクザの生活空間というものは不思議なもので、そもそも構成員は組織にとって従業員なのかどうなのかも定かではない。どのような形で仕事が発生し、収入が発生し、また負担が発生しているのかもよくわからない。しかし彼らは当たり前のようにタバコを吸い、酒を飲み、若手構成員の入れてくれたコーヒーをすすり、本や新聞を読んだりする。もちろん厳しく明確な上下関係があるがゆえに怒号がとびかうこともあるし、それ以上の行為も起きたりする。しかしそこまでいってもやはり、カメラの前で明確な違法行為、それこそクスリであったりギャンブルであったりが行われているわけではない。もちろん、銃すら出てこない。

 つまり一見すれば何も起きていない、かのように見える。合法的な形で排除することをもくろむ警察にとってはもちろんそれは面白くない。だから小さなことでも穴を見つけるとつけいろうとする。実際に警察はある日突然やってくる。それこそがこの作品の中での唯一の非日常と言ってもいい。もう一つあげるならば葬儀のシーンだろうか。日常系のアニメに死を直接的に表現するシーンはふさわしくない。ただ、これがヤクザが主役ならば、死は身近にあってもおかしくはない。それすらも日常なのだ、というのはこれもフィクションの見過ぎだとあるメガネの構成員に怒られるかもしれないが。

 もう一度、何も起きていないかのように見える、という印象に戻ろう。日常系アニメの面白さはそうした何も起きていないかのような、無限にも続くと思わせるコミュニケーションの連鎖だ。そしてその面白さはこの映画とも共通してくる。つまり、ヤクザという特殊(に思える)な世界におけるコミュニケーションと人間ドラマ。それこそが、何も起きていないかのように見える映画の中で確実に繰り返されている確かなことであり、この映画の変えがたい魅力だ。事件そのものが魅力なのではない。このよく分からない、窮屈になっていく社会の中でも衆院選の投票日にはしっかり足を運ぶようなヤクザがいるということも含め、彼らの日常の風景をありありと見ることそのものが、このドキュメンタリーにとってもっとも重要な行為ではないか。あらゆる想像を頭の中ではりめぐらしながら。
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