百人一首に載っている和歌にちなんで『上の句』と『下の句』との前後編に分かれて構成されたこの映画は原作をなぞるようにしてかるた部の結成から全国大会までを描いたものだ。とはいえ主役の三人が出会う小学生時代はバッサリとカットされていて、高校入学からの日々に焦点を当てているコンパクトさとセットになっている。そのかわり、小学生時代の思い出がたびたび回想シーンとして挿入されているところが、とりわけ『上の句』では重要な要素になっていると言える。
千早が中心となって高校に部活を作る、仲間になるまでが『上の句』だとするならば、それはひとつの青春群像だ。しかし『下の句』はまた少し違った趣を見せる。今度は『上の句』で描いてきたキャラクター個人個人が躍動したり、あるいは思い悩んだりする。つくえくんや肉まんくんにはもはや気負うものはないし、かなちゃんも自分のやり方で着実に力をつけていき、みんなを見守る母性を醸し出す。問題は主役の三人で、いくらか予想されたような千早のフリーダムさが周囲を混乱に巻き込んでいく。近くに新太がいない以上、ストップをかけられるのは太一しかいない。しかしその太一も、そして新太にも克服しなければならない課題があるのが、ありていだが青春っぽくていい。
若宮詩暢を演じる松岡茉優は『下の句』から初登場するが、瑞沢高校かるた部の輪の外にある彼女の存在が重要なのは悩める千早と新太の二人を駆動する(あるいは、かき回すと言ってもいいかもしれない)存在になっているところだ。アニメでもそうだったが、どこか上から目線で周囲をもはや相手にしていないかのように見える彼女の目線、振る舞いは松岡が非常にうまく演じており、真剣佑演じる新太の福井弁に負けず劣らず、松岡演じる詩暢の京都弁のドS感がたまらなくいい。ネイティブじゃないので二人の方言のナチュラルさについての判断は難しいが、大きな違和感なくハマっている印象を受けた。
『上の句』ではゆるやかに成立しているように見えた三角関係は、『下の句』序盤での福井訪問をきっかけに少しあやしくなっていく。まっすぐすぎる千早には太一しか見えていない。その上で、詩暢というまだ出会わぬ存在を過剰に意識してしまう。過去の友人も遠すぎるライバルも、簡単に言ってしまえば手に届かない範囲の存在という意味では同じだ。幻想にすら映る。その彼女を冷静に認識できるのは太一しかいないが、太一もうまい策を持てておらず、かるた部というチームがガタガタになっていく展開は若さゆえの脆さでもあるのだろう。
この二人と新太に欠けているものは知らぬ間に一人相撲してしまっているという現実に対する客観視だ。もちろん、一番欠けているのは千早で、彼女は一人で克服することなどできない。だから北央学園への出稽古でボロボロになるが、そのときにようやく彼女は一人でもがいていたことに気づく。対して太一は太一で、部長というなにか責任めいたものを背負ってしまう。要は、まだできたばかりのかるた部に仲間意識こそあれ、チームマネジメントの能力くはそなわっていないということだ。だから仲間の誰かが混乱しているときに、適切な解を出せない。
三人とも、最終的には自分で答えを見つける。しかしその過程で、自分が一人ではないということを確かめる。千早にとっては無論二人がいるし、新太には千早がいて詩暢がいる。太一には千早がいると思っていたが、遠いようで近いところに因縁の相手である新太がいることを強く実感する。そしてかるた部の仲間たち。部のマネジメントはまだまだ不十分だろう。原作やアニメでは進級してからさらに部員が増える。映画のこのメンバーがどういふうにうまくやっていくかが気になるところ。
新太、太一、千早がそれぞれ自分自身に欠けているものに気づくとき、物語は一気に加速していく。それはもちろん、三人の関係の変化からも逃れられないということだ。現時点で決定的なのは、太一は新太を一人のライバルとして改めて意識したと言うこと。原作やアニメのやや先取りとも言えるこの演出は、仮に千早を抜きにしても二人の関係が成立しうることを示すことにつながった。そして新太と千早の変化は、クイーンたる詩暢をも刺激していく。いや、刺激せずにはいられない。たとえ17枚の大差をつけて千早に勝ったとしても、「しのぶれど」の札を奪われた恨みをきっと、詩暢は忘れはしないはずだ。
『下の句』の公開初日にめでたく続編の製作が決定したようだが、じっくりといいものを作り上げてほしい。高校一年の夏までの間だけで終わるのはさみしすぎる。なにより新太はまだほとんど札をとっていない。そして、詩暢の出番も、彼女の本気もまだまだ見たいところだ。気長に楽しく、続きの物語が見られることを待っていよう。