Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

2016年04月


監督:石原立也
脚本:花田十輝
出演:黒沢ともよ(黄前久美子役)、朝井彩加(加藤葉月役)、豊田萌絵(川島緑輝役)、安済知佳(高坂麗奈役) 他
制作:京都アニメーション
見:イオンシネマ綾川



 公開初日からネット上の評判は芳しく、自分のよく知っている人たちの何人かが初日に足を運んでいたためこれはいかなくてはと思い、綾川のイオンシネマまで足を伸ばして鑑賞してきた。この前は宇多津のイオンシネマで『同級生』を見ることができたし、高松市内では難しくても少し足を伸ばせば評判のアニメ映画を直に見られる環境が香川にもあるということは悪くない。かつての、たとえば『時をかける少女』を見に行ったのが夏ではなくもはや秋だった10年前を考えると、少し隔世の感もある。

 ということはひとまずさておき、テレビシリーズを劇場版に再構成したこの映画はクライマックスからうまく引き算した形の完成度となっていた。ということは後半部分、とりわけ終盤の京都府の吹奏楽コンクールとそれに至るまでの一連の展開(県大会出場者を選ぶためのオーディション、県大会までの「ガチ」な練習の日々、高坂麗奈と中世古香織によるトランペットのソロパートをかけたオーディション)が中心となる。アニメの話数で言うと9話以降の5話分に、映画ではほぼ半分の時間を費やしていた。ちなみに9話のひとつ手前にあたる8話は、(もはや説明するまでもないかもしれないが)あがた祭りの喧騒から離れた麗奈と黄前久美子による象徴的な「愛の告白」に至るシーンだ。

 麗奈と久美子の関係を強固にする象徴的な8話や、サンライズフェスティバルを描いた5話をいずれも前半に織り込んで後半の県大会にぶつけてくるということは、過剰なだけの説明を省略しているという戦略につながっている。ねりまさんがブログの中で触れているように、「『黄前久美子が高坂麗奈を知ることを通して変化する物語』を軸に再構成されている」のがこの映画の構成であり、戦略だろう。(*1) つまり、二人が同時に登場する様々なシーンを描くことで捨象されてしまうキャラクターたちが多数存在することによって劇場版は成り立っていると言っていい。1年生4人組のうち川島緑輝や加藤葉月の目立つシーンはさほど多くない。特に前半では久美子を含めた3人の絡みが描かれていたが、麗奈の存在感が増してくるにしたがって緑輝や葉月の登場回数は減っていく。

 他の先輩キャラクター、たとえばポニテ先輩という愛称でネットでは知られている中川夏紀の葛藤はほとんど描かれないままにオーディションのエピソードへと入っていく。吉川優子が高坂麗奈を前にして語ったように、現2年生たちは部の中でかつて小さくはない騒動を起こした学年であり、夏紀もその2年生の一人だ。夏紀や優子たちの苦悩や、あるいは部長と副部長の関係である小笠原晴香と田中あすかの間の葛藤にも入りこまない。もはやなかったかのようにされることで、逆にクライマックスである県大会へのダイナミックさを生み出す。

 こうした展開の軸になっているのはまぎれもなく麗奈であり、その麗奈を映し出しているのは彼女にこがれてやまない久美子の視点だ。久美子が見る麗奈、それは中学三年生時のコンクールで麗奈が流していた涙の意味を久美子が知るまでの軌跡。もっと言えば、久美子が「あのときの麗奈になる」までの軌跡だと言っていいだろう。あのとき麗奈の持っていた悔しさを素直に共有できなかった久美子は、約1年経ってようやく自分の中にもっと上手くなりたいという気持ちを知る。それは後に麗奈が久美子に対して語った特別になりたいという気持ちと重なっているし、さらには中三のときの涙の意味を知るに至る要因でもあるのだ。一年かけてようやく、そして不意に、久美子はあのときの麗奈の立っていたところに立つことができた。その時の久美子に涙が浮かんでいることも、彼女が思わず走りだしてしまっていることも、一年前の麗奈の立ち位置にたどり着いたからこそだろう。

 このへんはねりまさんがテレビシリーズの感想記事で詳しく書いていることと重なるのでこれ以上はあまり触れない。(*2) その上で、久美子という視点をひとつ外すと劇場版ではもう一人麗奈に並び立とうとする存在がいることに気づかされる。それがトランペットの3年生、中世古香織だ。再オーディションを滝先生が提示したときに、手を挙げたのも唯一彼女だった。優子曰く、2年生の時の彼女はもっともトランペットがうまかったにも関わらず序列でコンクールでソロパートに入ることができず、結果として全然練習していない3年生が当時のソロパートに入ってしまった。だから香織は最後である3年生の夏こそ絶対にソロで吹きたいと思っているはずだ、と。優子が多くのことを代弁してしまうがゆえに香織自身はあまり多くのことを語らないが、あのとき音楽室で真っ先に手を挙げた彼女の思いの裏に様々な思いがあることは、優子の話を聞く限り想像に難くない。

 劇場版が描き出そうとした奇跡的な軌跡は二つ。一つはすでに触れた黄前久美子の場合であり、もうひとつは中世古香織の場合だ。久美子にとっての奇跡は他の同級生がいなさそうな北宇治高校を選んだのになぜか麗奈がいたこと。香織の場合の奇跡は、一度は落選したはずのオーディションで再チャンスが与えられたことだ。ともに一年前、久美子は中3の夏、香織が高2の夏に得られなかったものを得るための軌跡だということが、つまり二人には一年間という時間の積み重ねがあってようやく高坂麗奈にたどり着くことができるという過程が非常に面白い。軌跡のたどるアプローチは全然違うのに、高坂麗奈という天才的なルーキーを、もはや無視することはできないのだ。その実力と、奔放でしかしながら魅力的なキャラクターゆえに。

 久美子の場合とは違い、香織の場合は二度目の奇跡は起きない。いや、起こさせないことを自分で選択するのが香織の場合だ、とも言えるだろう。滝先生は練習用に貸しきったホールを使って、他の部員の前で麗奈と香織との再オーディションを実行する。閉ざされた教室という密室ではなく、他の部員という公然とした場面においてならばもはや異論はないだろうとの思いからだ。しかし実際に滝先生は大勢の「みんな」ではなく、他でもない香織自身に決断を迫る。この滝の考えが非常にうまいなと思ったのは、みんなではなく自分で決めさせることで、みんなの納得と同時に香織自身の納得を重視したからだ。仮にみんなが香織を選んだところで香織が香織自身を選ぶことができるかどうかと言えば、それは違う。香織自身も麗奈の演奏を聴いている一人の当事者である以上、その自分に嘘をつくことは相当に難しい。ましてや自分の能力に自信に満ちてやまない、麗奈のいる前では。

 テレビシリーズから追加的に作られたエピソードでは、オーディション落選組の中にも小さな奇跡が生まれていたことを舞台裏の視点で描いていた。(*3) 劇場版では構成の都合上、基本的に表側を描くことしかできない。だから夏紀も、1年生4人組では唯一選外となった葉月も存在感は薄い。けれども、コンクールに出られる、出られなかったは別にして全員が吹奏楽部の部員ではある。だから最後に起こった最大の奇跡を、制服の異なる(コンクール組は冬服だが落選組は夏服)彼ら彼女らは分け隔てなく喜びを分かち合っている。まぎれもなく「みんなの奇跡」になったのは、香織と麗奈のオーディションの結末を、香織の決断をみんなで分かち合ったからではないだろうか。この事実の大きさを、劇場版で改めて感じることができたし、そういう風に仕向けた戦略なのだろうと解釈することができる。

 基本的な軸は麗奈と久美子に置きながらも、みんなで起こした夏の奇跡にするために再オーディションのエピソードを盛大に配置する。テレビ画面、あるいは配信画面ではなく、劇場というこれもまたひとつのホールで再オーディションのトランペットソロパートを聴く時の緊張感はたまらないし、麗奈と香織を見守る観客もまた、他の部員たちの視点ときれいに重なっているのではないだろうか。たとえその結末をテレビシリーズで見て知っていたとしても、あれほど広い場所でたった一人で奏でられるトランペットに思わず聞き入られずにはいられない。

 結局のところ言いたいことはこうだ。劇場に見に行ってこそこの劇場版の価値が上がる、というか限りなく映画館仕様に再構成されている。サンライズフェスティバルも8話も再オーディションも、全部あの大画面で見ることができるのだ、という喜びをもう一度体験することができる。ポニテ先輩好きとしては劇場版の生み出した戦略や新しい解釈に不満がないわけではないが、中世古香織というキャラクターをすごく好きになることができたのは新鮮が驚きであり、喜びだった。麗奈とはまた違う強さを香織が持っていることにようやく気づくことができたし、もっと上手くなりたいという久美子の思いはきっと、みんなにもシンクロしているはずだと強く確信できる。

 最後に一つだけ。コンクールに向けた練習中に、「ずっとこのまま夏が続けばいいのに」とついこぼしてしまったときの田中あすかのちょっとしたもろさが、とても好きだ。彼女とてパーフェクトではない、だからこそとても。


◆注釈
*1 ねりま「彼女を知る、そして私も変わる――『劇場版 響け!ユーフォニアム〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜』」(2016年4月24日)
 『アイカツ!』の有栖川おとめ役や文化放送A&Gでやってる番組なんかを見ても黒沢ともよすげえ、とよく思うわけだけど、この映画の後半に向けてギアを変えていくあたりはなかなかに圧巻で、「クライマックスの「上手くなりたい」という魂の叫びはより強烈に胸を打つ」というのはほんとうにそのとおりだった。テレビシリーズで見て知っているはずなのに、と。

*2 ねりま「特別さ」と二つの涙 ――『響け!ユーフォニアム』感想」(2016年2月13日) 
 高坂麗奈や黄前久美子の「特別さ」の探究(あるいはそれによる十字架)と同じ京アニの『氷菓』を並べるあたりはねりまさんらしい面白い見方だなと思った。『氷菓』のことを考えると、青春というのは多数者の平凡と少数者の特別さによって形作られるなのかもしれない。『響け!ユーフォニアム』と絡めてみれば、吹奏楽という「チームプレ−」にはどちらも必要な存在だ。

*3 BD、DVDの最終巻にあたる7巻に収録されているエピソード。葉月の明るさと元気さはとても好きだったので、彼女のその持ち前のエネルギーが大活躍するのがとても楽しいエピソード。舞台には立てなかった彼女にとっても、夏は輝く。
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 表題作の「シェア」が芥川賞候補になっていたので読んでみたのだが、これが予想外に面白く、受賞するのはおそらく滝口悠生だと読んでいたがこちらも別な角度からもっと評価されていい小説だと思った。純文学として読むにはいささか軽さが際立ってはいるものの、表題作の「シェア」も、文学界受賞作を受賞した「サバイブ」も異質な他者と共存する方法をめぐる小説だ。前者が女性同士、後者が男性同士のホモソーシャルになっていて、百合ともBLとも読めなくないような構造になっているが、同性である相手に不思議と惹かれていくのはなぜなのかであったり、それぞれ仕事、家事という関係で共同して生活する中に何が見つかるのだろうか、という探求は文学的な好奇心に満ちている。

 「シェア」は池袋でAirbnbのような民泊システムを立ち上げて運営する元IT企業勤務のデザイナーであるミワと、ベトナム人留学生であるプログラマーのミーの物語。タイトルにあるシェアは私とミーの共同作業のことをも表すのだろうが、民泊という形で見知らぬ誰かと部屋をシェアするという意味もこめられている。あともう一つ、ミワが元夫との間で元夫の立ち上げた会社の株をシェアしているという状況をも指すかもしれない。いずれにせよ、シェアによる可能性と窮屈さの先に何が見えてくるのかという探求だ。

 池袋の前は荒川の一軒家で民泊を運営していた二人だが、ご近所の視線というマイナス要因によって池袋のマンションへと方向性をチェンジする。「サバイブ」もそうだが、同性同士の関係を書きながら外部から異性がやってくることで物語が加速していくところもポイントだろう。私は元夫との関係をなんとかしなければならないし、ミーはいつのまにか同じマンションで一人暮らしをしている男子大学生から分かりやすい好意を向けられてしまう。それでもそんなことは小さな壁でしかない二人にとってはロジックを使って乗り越えていこうとする。ミワもミーも、基本的に現代的でエネルギッシュな女性だ。男なんて、という思考は常に垣間見えるし、ミーの場合は日本社会なんて、という俯瞰すら持っていたりする。

 ミワはミーのそうした怖い者知らずなところに私は汗をかいたりするが、ミーは奔放なままに大学生との「勉強会」や就活の面接にも行ったりする。楽勝という本人の言と私の実感が食い違うところはまさにコモンセンスや慣習の違いがあらわになるところだろうけれど、私とミーの関係はしかしそうした差異があるからこそ成立していることが逆に強調されるのではないか。ミーは奔放ながらもミワを慕い、日本でミワのビジネスを支える。ミワはミーの奔放さと素直さを嫌いになれないどころか惹かれてゆく。もちろんふたりがどうなる、というタイプの小説ではないが、日本社会で女性が、しかもミーのような異国の女性が「活躍」するなんてのはまだまだ難しいだろう。能力があったとしても様々なものが彼女たちと阻む。だけれど、だからこそ、二人なら大丈夫だと言える強さを二人は持っている。

 対して「サバイブ」のダイスケは客観的には持たざる者だ。しかしともにハイスペックで高年収の亮介、ケーヤ(と、犬のマイケル)との共同生活の中では彼は持てる者になる。家事は万能、料理も洗濯も掃除もばっちりこなす。請われればフットサルチームの助っ人にも参戦する。自分自身が二人のような存在と同居することに違和感を捨てられないダイスケは女じゃなくていいのか、と聞くがお前でいいよ、と返されるのだ。飲食店で働くフリーターのダイスケにとっては、亮介とケーヤの与えてくれる承認は単なる存在の肯定ではなく、自分自身も持たざる者ではない、という自負を与えてくれることだろう。

 そのダイスケの前にレナという女性が現れる。彼女もまたハイスペックで高年収の部類で、高級マンションで一人暮らしをしている。「頭を使う人と時間を共有すると成長するのよ」(p.178)と語る彼女は奨学金女という異名を持っており、慶應大学在学時に授業料免除を得るために努力をしたという、天才肌とは違うタイプだ。対して、亮介とケーヤの過去はあまり明らかにされない。ダイスケと二人の会話の中で昔どうだったの、という話題が出ることもあるが、亮介とケーヤの現在はいくらか見えている程度だ。だからこそ終盤にダイスケが下した決断に対するケーヤの態度と亮介の態度の差異にダイスケは驚く。二人を保証するものがなんだったのかを、垣間見ることになるのだ。

 「シェア」における異性、つまり男性キャラクターはあまり好意的に書かれないしさほど魅力的とは言えなかった。対して「サバイブ」のレナは非常に魅力的だ。彼女がダイスケの何を気に入ったのかは最後にほんの少し明らかにされるだけだが、同じハイスペックな高年収クラスタの亮介とケーヤとは少し違う匂いがする。彼女自身が努力の人であり、また自分自身の努力の可能性と限界をはっきりと見据えているからだろうか。(それはケーヤに欠けていたことかもしれない)

 いくら近くにいたとしても、他人はしょせん他人かもしれない。しかし他人だからこそ見えてくる可能性がある。それにどれだけ賭けることができるだろうというのが、ミワとダイスケの持っていた問いだ。二人はそれぞれ違った決断を下すが、どちらが正解とは言えない。決断はいずれまた成さねばならないかもしれない。ただ重要なのは、身近な他人とのコミュニケーションの密度だ。お互いをもっと知っていくこと、それができなければ可能性はしぼんでいくが、それさえできれば可能性は開けていく。たとえば、「サバイブ」のダイスケがレナに対して抱く好奇心、つまり彼女と彼女の部屋に見た「コード」に。


文學界2015年6月号
文藝春秋
2015-05-07

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 あちこちでこの映画の評判を見ていただけに、香川だと宇多津(のイオンシネマ)でやってるよと書店バイト時代の先輩から教えてもらいこれは行かねばと思い見てきた。2月からやってたことなんかつゆ知らず、4月の22日には公開終了なのでパンフレット完売は仕方なかったとしてもこれをスクリーンで見られてよかったマジで、というのがすごく率直な感想。いや、ほんとうに駆け込みになってしまったけど時間作って休日の朝から電車に乗って行ってよかったです、と。

 それ以外でまずでてくるのは音楽のすばらしさで、映画が終わったあとにたとえ話を出したのだが、『ARIA』シリーズにChoroClubの音楽が不可欠でそれが素晴らしいマッチングだったように、『同級生』に押尾コータローは不可欠だった。エンディングで奏でられるガリレオ・ガリレイボーカルとのコラボ曲もまた素晴らしいが、優しいギターが全編的に漂っていなければこれほど世界観にどっぷり浸ることもなかったのではないか。

 という本編の内容に触れない書き出しから始めて見たが、中村明日美子原作という都合からか客層が見事に女性陣で、原作のファン層的には俺と同世代が少し上が大半だろうと思っていたら10代や20代前半に見える女の子たちも多くて(みんなたいてい2人か3人組で来てるあたりがなんとなくいいなと思ってしまった)思った以上にファン層の分厚さを感じる。これが関西や関東だとまた少し違うのかもしれないが、地方都市で男性が一人で見に行くのはややハードルがあるかもしれない。(もちろんそんなんのはまったく気にしない主義なのだが)

 とはいえ、というかそんなハードルを気にするのがもったいないと声に出して言いたいくらい美麗な背景とキャラデザは圧巻で、モブキャラがほとんど目立たないくらいに(あえて顔を描かなかったりとかして目立たせなくしている)主人公の金髪ボサボサ頭の草壁と、その草壁が興味を持つ佐条というメガネの優等生。なぜ草壁のようなキャラと佐条のようなキャラがいるのかという疑問はあるものの(後半で少し明らかになる)佐条がそのままでいて異質になるくらいには草壁とはギャップがある。たとえるならば『ちはやふる』におけるつくえくんのような位置づけだが、佐条はあることがきっかけで草壁と接点を持つ。それも音楽だ。

 先ほど押尾コータローの音楽が素晴らしいという話をしたが、音楽そのものがかなり重要な位置づけを持つ。バンドマンでギター弾きでもある草壁にとって音楽は放課後の生活を彩る重要なものだし、友人とのつながりを保つものでもある。佐条にとって音楽は遠く縁のないものだったが、冒頭に挿入される合唱祭へ向けての練習で黒板に書かれた楽譜がうまく見えなかった佐条は、放課後の教室で一人で練習しているところを草壁に発見されるのだ。一瞬引くような動作を見せるものの、佐条に対して自然に入っていく草壁に対して佐条のほうも興味を覚える。

 こうして「付き合っている」とも言えるし、そうでもないような二人の関係がオムニバス形式で続いていく。60分しかない映画の中で高二の夏、秋、冬、そしてもう一度くる高三の夏という4つの季節を描いて見せるのだから内容的にはかなり圧縮しているのだろうと思うものの、逆に草壁と佐条の二人の関係性に焦点を当てるところで分かりやすくメリハリがきいているのは演出としてうまい。一つ一つのシーンもあまり長く引っ張るところはないが、二人だけのシーンはかなりじっくりと描く。この方法はBLを映像化するにあたって参考になるやり方かもしれない。

 それにしても、二人の間にはいつも音楽が挟まっているかのように思える映画だった。出会いのとき、関係を深めていくとき、そしてライブハウスでの佐条の嫉妬のとき。音楽が流れてないかのように見える一瞬止まっているような場面も重要だけれど、関係性が一歩前に進むときにはつねに音楽が流れていた。実際に合唱で使われている曲に中村明日美子が関わっているのも、この映画と音楽の関係の重要性を認識していたからだろうか。音というのは映像メディアだからこそなせる魅力的な方法だ。『四月は君の嘘』のように、マンガでも音を多彩に表現することはもちろん可能だが、よりストレートに届けるためには映像と組み合わせるほうがやりやすい。

 原作に続編があるということは知っていたので、どのあたりでどういうオチをつけるのかだけが最後とても気になったのだが、オチに向かうまでの流れで草壁の葛藤がはさまれているのがいい。キャラ的に深くて暗いような葛藤ではないものの、草壁は草壁なりに自分自身と佐条の関係については思いをめぐらしているということ。そして佐条が常に受け身であることに対するいらだち、など。思いの空回りと言ってもいいようなシークエンスに入りながらも二度目の夏はあまりにも優しい奇跡を残してくれる。佐条にとってはなかなかにたまらないのではないか。そしてその佐条の安心は、草壁にとっても欲しかったものだ。

 せっかくならば公開を冬ではなく夏にすればよかったのでは思ってしまうほど最初と最後の夏の鮮やかさが印象に残る。しかし公開が冬ならば円盤が夏、というところを逆手にとって、またじっくり見返してみたい。暑い夏の、蝉の鳴く「音」が大きく聞こえるような、そんな部屋の中で。

同級生 (EDGE COMIX)
中村明日美子
茜新社
2013-07-05



卒業生-春- (EDGE COMIX)
中村明日美子
茜新社
2013-07-05



卒業生-冬- (EDGE COMIX)
中村明日美子
茜新社
2013-07-05



O.B.1 (EDGE COMIX)
中村明日美子
茜新社
2014-12-10

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 『スコーレ No.4』に続いて2冊目の宮下だったが、思いの外面白かった。ちょっと『スコーレ』に近い筋なんじゃないかと思うが(小さな挫折と小さな成功を繰り返して主人公の女性が自信を得ていくあたりとか)描写の仕方や文体には大分差異があるが、柴崎友香を読んでいるように宮下奈都を読んでいる部分もあるかもしれない。かもしれない、というのはまだ2冊しか読んでいないし、柴崎とは共通点よりも差異のほうが多いので、あくまで個人的な所感にとどまるだろうなとは思うけれども。

 譲さんとの結婚が直前で破談になってしまった明日羽は失意の中の日々を送っていた。二人で住む住居も、新婚旅行のプランも決まっていた中での破談の理由は作中で(断片的には言及されるものの)明らかにされない。そんな中、叔母のロッカさんにヒントをもらう。それはドリフターズ・リストという、簡単に言えばやりたいことリストを作れ、という指示だった。最初はリストの作成に悩みながらも日常を少しずつ回復していく中で、美容師の京さん、あとは整体の人であったり、他者の存在に助けられていく。ここがかなり重要で、他者との関わりやコミュニケーションの中で主人公である明日羽の中にある何かが少しずつ触発されていくのだ。

 明日羽にとっていくつかのターニングポイントがあうが、まず大きなのは京に会うために髪を切りに行くことだろう。就業後のカットモデルという役得を利用し、髪を切った姿を翌日職場にさらすシーンの心理描写がおそらく宮下が書きたかったことの一つであるはず。つまり、これはのちのち同僚であり友人でもある郁美から指摘されることでもあるのだが、リストの消化自体が重要なのではない。リストを消化していくというステップを通じて、譲との結婚生活を考えていた明日羽を現実に自然な形で引き戻すとともに、かつ新しい日常に軌道を載せていくための道具としてドリフターズ・リストはうまく機能している。そしてもちろん、小説全体の展開の軸にもなっている。 

 もう一つ、この髪を切るという行為は明日羽も作中で実際に予感したように失恋を想起させやすい。ただ、明日羽はあくまで京という一人の男性に、ある程度の好意とリストの消化という二つの要因を抱えて会いに行った。髪を切るという行為や、切られた髪は単なるプロセスの帰結でしかない。しかし、その単なるプロセスの消化が明日羽を前進させるきっかけにはなっているし、明日羽はしだいにリストそのものに書かれたではなく、自分自身の欲求を取り戻していく。何をしたい、誰と会いたい、そして自分はこうなりたい、と言った風に。
 
 終盤に明日羽が会社のプロジェクトチームへの参加を打診され、考えた末に誘われたプロジェクトに参加するというエピソードが書かれる。このエピソードではまず明日羽に対する期待が示され、明日羽自身の自信や仕事への思いが描写されていく。小説の前半から中盤にかけては仕事や職場に対する不安ばかりが書き込まれ、仕事を辞める手前まで気持ちが動いていた明日羽だったが、終盤では非常に対照的だ。そしてこのエピソードがもっとも『スコーレ No.4』と類似しているように思う。

 ありていに言えば回復、再生、成長といった言葉が思い浮かぶ。しかしそれ以上に意識したのは冒頭に書いたような柴崎友香との類似、つまりどこにでもいそうな一人の女性の生活を書き込むことで彼女が立っている場所、あるいは生きている時間の意味を問い直していくようなスタイルが印象的だった。柴崎よりもよほど読みやすく分かりやすく具体的な文章を書く宮下は場合によっては過剰あるいは過少な柴崎の文章とは違って、多くの人に共感を得られやすいだろう。個人的にはもう少し、宮下なりの味を文章や文体に出していっても面白いのかもしれないと勝手な期待をしている。


※元となったのは2014年夏頃に書いた文章。最新作『羊と鋼の森』が本屋大賞を受賞したことを記念して今回アップロードしました。

羊と鋼の森 (文春e-book)
宮下奈都
文藝春秋
2015-10-02




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 怒濤のようなジョブズの早口から始まっていくこの映画は状況をわかりやすくは教えてくれない。第一幕、それが1984年のマッキントッシュ発売を控えた発表会直前の出来事、というのは分かる。あと40分、なんとかしてマックに「ハロー」と言わせたいジョブズの思惑と、なんでわざわざ「ハロー」にそこまでこだわらなあかんのや〜という他のスタッフたちとの格闘。この時点で基本的にジョブズがいかに偏屈とも言えるほどのこだわりを持っており、そのこだわりを意地でも商品に投入したいかがよく分かる。分かりすぎてめんどうくさくなるほどに分かる。

 この映画は大きく分けて三部構成だ。第一幕は前述した1984年、続く第二幕はNext社に移籍したあとに生み出した教育機関用のコンピュータCube、そして第三幕は1998年のiMac。2013年版のジョブズの映画は見ていないのでどのようなものだったかは適切に比較できないが、2013年版の予告編を見るとかなりアプローチが違うことは分かる。2015年版となるこの映画はとにかく新作発表会とその楽屋裏にこだわっているからだ。

(参考:2013年版の予告編)


 だからこの映画にはビル・ゲイツの名前や本人の実際の映像が一瞬出てくることはあっても、ゲイツ役の俳優はどこにもでてこない。アップルとジョブズにまつわる重要な関係者たちは勢揃いして集うし、有能な秘書でもあるマーケターのジョアンナはNext社に移籍したジョブズのそばにもしっかりいたりする。ジョブズがウォズと呼ぶウォズニアックはジョブズの実家のガレージでアップルを立ち上げた時の創業メンバーだが、そのウォズとも徹底的に対立する。

 生粋の技術者であるウォズはジョブズのこだわりを理解できない。たとえば、ウォズはApple兇箸い主力商品の立役者になった人物でもあるが、常に新しいものにこだわりを見せるジョブズはウォズやApple兇粒発メンバーに謝辞を述べることずら拒絶する。たったそれだけのことを、と多くの人はウォズに共感することだろう。でもしかし、それだけのことを拒絶するところにジョブズのやっかいなキャラクターがあって、ある意味ではそこが大きな魅力でもあるのだろう。

 84年のマックで失敗したジョブズはアップルを追われるが、88年のCubeもセールス的にはうまくいったとは言いがたい。しかしこの映画は、あえてこの間の時間のジョブズになにがあったかはあまり触れない。三つの舞台と楽屋裏へのこだわり、そしてジョブズの早口はさながら演劇的にも映るほど身体的で、空間的にはあまり外へ出て行かないのだ。もちろん回想のような形でジョブズとウォズのガレージ時代の話や、スカリーというペプシ出身のCEOとの出会いや対立も映画には登場する。それでもあえて舞台を(規模や装飾などは豪華ではあるが)ミニマムな空間に限定したのは、ジョブズにとっての家族との関係を核に据えたかったからだろう。

 起業家としてのジョブズに焦点を当てながら、ちょっとずつ家族にスライドさせていく。元恋人のアンと、認知していない娘であるリサはたびたび楽屋に現れる。もちろん、リサはちょっとずつ成長した姿を見せて。5歳のリサがマックのペイントで絵を描くシーンは感動的に作られていてジョブズも感動するが、同時にリサとアンを突き放す。なぜなのかはあまり説明されない。アンは自分の困窮具合を訴えるし、リサも成長するに従って不在の父へのいらだちを隠さない。

 当時のウィンドウズに対抗する機体として登場したiMacでようやくジョブズの名声とアップルの業績は回復する。だが、ジョブズにとってはまだ回復させなければならないものがある、というのがこの映画のクライマックスにおける分岐点だろう。起業家としてのジョブズに焦点を当てただけならiMacの場面は成功した、という事実だけで終わってしまうが、もっとエモーショナルな部分、たとえばなぜジョブズはアンだけでなくリサをも突き放すのかという問いは残っている。

 いったいいつになったら外へ出るのか。このブログのタイトルにつけた疑問は、最後の最後にようやく氷解する。14年もかけてこのオッサンは、と思わずにはいられないが、外へ出るということはジョブズにとっては演技を辞めるということなのかもしれない。それが一時的であるにせよ、舞台を降りたならばスティーブ・ジョブズという起業家を常に演じる必要はない。元恋人であるアンの前では難しいかもしれないが、少なくともリサの前では父親として、一人の人間として向き合えばいい。14年間はリサにとっては長すぎただろうが、父親としてのジョブズは感情表現が不器用などこにでもいそうな一人のオッサンにすぎなかったのだ、と。

 外へ出たあとに抜けるような青空が広がるのは、ジョブズとリサの関係だけでなくその後のアップルの幸先の良さにもつながっているのだろう。ラストシーン、リサが身につけているあるものは、数年後にアップルの主力製品として生まれ変わる。そこでのやりとりは、来るべきゼロ年代を予感させるほんの小さな家族劇。


スティーブ・ジョブズ 1 (講談社+α文庫)
ウォルター・アイザックソン
講談社
2015-09-18



スティーブ・ジョブズ 2 (講談社+α文庫)
ウォルター・アイザックソン
講談社
2015-09-18


 映画の原作となったアイザックソンの伝記。ぱらぱらとめくったがなかなかの分量。

スティーブ・ジョブズ [Blu-ray]
アシュトン・カッチャー
ポニーキャニオン
2014-06-03


 2013年版。こっちも見てみたい。
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 間違えて最初から下巻を読むというアクロバティックなことをしてしまい、しかもそのまましばらく気づかないという事態になってから上巻に戻ってようやくスタート地点に。ミステリー小説風の展開を装っているので完全にネタバレしてしまったが、逆に言うとあくまで装っているだけなので(だけというのも正確ではないかもしれないが、あくまで村上春樹の小説であってミステリー小説ではない)結果オーライではあった。しかし解かれないものも含め、謎は満ちている。たとえば本作には二人の重要なヒロインが登場するが、彼女たちの名前がすぐに明らかになるわけではない。二人のメインヒロイン(?)以外にも多数のヒロインが登場し、多くがカタカナ二文字で表記される(メイ、キキ、ユキなど)が、彼女たちもやがて去って行くという展開は村上春樹の小説にしては新鮮なものに映った。メインヒロインが去って行く、主人公が喪失するというだけにとどまらない。

 という中で上巻に戻って気づいたのは、本作が『風の歌を聴け』から『1973年のピンボール』、そして『羊をめぐる冒険』までつながっていく僕と鼠にまつわる小説の続きにあたるということだ。三部作じゃなかったのかよ、とツッコミを入れたくなったがそれはさておき、歳を重ねた僕は札幌で羊男に出会う。札幌でさらに魅力的なヒロインとも出会い、恋をするというのはおなじみの春樹の路線だ。しかしこれまでのシリーズと異なり、青春小説というには僕がいささか歳をとりすぎている。彼の言葉を借りると翻訳業を辞めた彼は「文化的雪かき」の仕事をして生活をしている。雪かきとはつまり道路から雪をよけて人を歩きやすくする行為だが、文化的と冠のつく雪かきには仕事を選ばないライターとしての僕の仕事ぶりが表れている。重要なのは、他者に仕事の説明をする際にライターだと名乗らずに文化的雪かきという(春樹)らしい、そして札幌のような雪国らしいレトリックを付け加える程度には、仕事に嫌気が差しているころだ。

 羊男と遭遇するのはドルフィン・ホテルという場所だが、同じ場所には以前いるかホテルという建物があった。不思議に思って僕はドルフィン・ホテルのフロントで尋ねるが誰もいるかホテルのことを知らない。しかしドルフィン・ホテルを散策していると何かに導かれるように進んだ先に羊男が存在していた。そこはドルフィン・ホテル内のいるかホテルだった。ホテルの中にホテルが存在しているのか、あるいは別の世界に迷い込んだのか。いまになって振り返ると、『1Q84』で月が2つ存在する世界を生み出したアイデアに類似している。とはいえ、本作は『1Q84』ほど厳密なパラレルワールドの世界を想定せず、認識の問題にとどめる。すなわち、僕の視点から見て「いま、ここ」に存在する世界は現実なのか? という問いだ。

 僕は本作の中で度々夢を見る。夢の中にもヒロインが登場する。下巻に入って、現実の世界で自分が接してきた様々な女性や友人たちの間につながりがあることに気づく(丁寧に手書き風の人物相関図も用意されている)。下巻ではわりと唐突にホノルルに行ったりするのだが、ホノルルでも接点を得てしまう僕は自分の周囲に疑問を覚えるのだ。そして次々と消えていく人たち。ある時には関係者として事情を聞かれにいった警察で僕の人生の不可解さを同情されたりもするが、僕にとって必要なのは同情よりも「現実感」だ。リアリティ。

 タイトルにおける「ダンス、ダンス、ダンス」は上巻で羊男が発した言葉に由来している。すなわち、
「音楽が鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。踊るんだ、躍り続けろ」(上巻、p.182)

 というわけだ。僕はこのとき自分の仕事や人生に対するやりきれなさから、羊男に何かをやり直したいんだと告げている。その相談に対する問いが踊り続けること。現代風に言えば、tofubeatsの「朝が来るまで終わることのないダンスを」と言ったところだろうか。もちろんクラブの中だけではない、人生において踊り続けろ、というのが羊男からのメッセージだろう。音楽はいたるところから流れている。

 翻って、自分の仕事に対するやりきれなさ以上に大きい不安と対面することになる僕に救いとなるのもやはりヒロインの存在だ。喪失を続けた僕が喪失で終わらないエンディングになったことはいささか予想外なハッピーエンドとも言えるけれど、一方でそれは果たしてエンディングなのか、という疑問も当然ある。たまたま物語はそこで完結しているが、その先がどうなるかは分からない。なぜならば謎はまだまだ満ちているからだ。謎が生み出す不安感は、現実の複数性といった現象を伴い、さらなる不安を生み出す。

 踊り続けることが現実にとどまるという方法であり、そしてもう一つの現実にとりこまれないようにするための抵抗なのだということが分かったとき、羊男の存在をまた思い起こす。wikipediaにはご丁寧に「羊男」の項目があって、彼は春樹の小説の随所に登場するらしい。やれやれ、まだまだこれからも出会うことになりそうだ。






 上巻で僕がカフカの「審問」を思い出すシーンがあるのでそのうち読んでみたい。



 「踊り続けろ」と言えば個人的にはこの曲かなと。
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