宮内を読んだのは『ヨハネスブルグの恋人たち』が最初で、デビュー作の『盤上の敵』はいまだ読めていないが、大森望編の『NOVA』シリーズで短編を読んだりしつつ本作にたどりついた。宮内悠介という作家のイメージはまだそんなに固まっていなくて、『恋人たち』では紛争地で落下する初音ミクのようなロボットたちのなれの果てを美しい文章で彩っていた記憶があるが、今回も音楽という意味では共通しているところがある。そしてストレートではない、少しひねくれたような美しさもここにある。青春とはそういうこと、かもしれない。
グレッグ音楽学院。入学するのは極めて困難な難関音楽学院として知られるこの学校の入学試験を控える日本人、脩。アメリカ西海岸において困難な挑戦を試みる理由の一つは父親の存在で、脩の父親である俊一はグレッグ音楽楽員の入試を突破し、そしてのちに失踪する。事実上の母子家庭で育った脩は母親の愛情にも反発を覚え、不在の父親にも憎しみを覚える中足跡をたどることも試みていた。音楽がつなげる縁は「アメリカ最初の実験」と題された事件から始まる連続(しているかのように見える)殺人事件とも重なる。父親の足跡、ナンバリングが進んでいく事件、そして近づいてくる最終試験の日。脩の選択が迫ってくる。
というあらすじを書くと脩視点のビルディングスロマンかと思い、最初はそのように読んでいたが少し違う。いや、この小説を群像劇、アメリカ西海岸を舞台にした青春小説として読むならば脩はキャラクターの一人にすぎな。マッシモ、ザカリーといったグレッグ音楽学院の入試に挑むライバルたちから始まりリューイや針生(ハリー)といった友人たちの存在はこの小説には不可欠だ。「アメリカ最初の実験」から「最後の実験」につらなっていくナンバリングされた事件そのものは料理としては面白いけれど、メインディッシュではない。メインに偽装された、とはいえまずいわけではない、味わいの不思議な料理と言ったところだ。
宮内自身がニューヨークで過ごした時間があるようだが、本作は西海岸が舞台となっているので彼の経験とはまた別ものとしてとらえるべきだろう。小説家としてのキャリアを考えると、『恋人たち』で横断的に世界各国のワンシーンをとりあげたその能力を西海岸という舞台に移して大きな物語として構築したと位置づけたほうがいい。そして例によって、日本語で書かれた異国を思わせる文体は健在で、小説の中で随所において奏でられるピアノの音色は魅力的だ。知っている曲はさほど多くはないが、演奏する者、あるいは聴く者の視点でつづられていくその文章はうっとりとしてしまうほどだ。
ビジュアルとして思い浮かべるならば、新川直司の『四月は君の嘘』が思い浮かぶ。他人と競争するものとしての音楽に身を投じる彼ら彼女らは、一瞬一瞬の判断や感情の揺れ動きが激しい。その激しさが音楽にフィードバックされ、また感情が盛り上がっていく。演奏中にいくらか波があるとはいえ、この繰り返しが演奏のシーンを絵で表現することに新川は力を注いだ。
宮内も新川の方法に近いことを試みている。一つは視点の頻繁な切り替えだ。主人公である脩だけの視点の箇所は実はさほど多くはない。特に演奏のシーンにおいては、たとえば脩が演奏している場合では脩以外の聴く者の視点が頻繁に入り込む。だから文章を読み進めていると頻繁に主語が変わることに注意しなければならないが、三人称多元(一人称が入り込むこともあるが、ベースは三人称)の文体だからこそできる視点の複雑さといったところだろう。
第三章でザカリー、第四章でリロイ、そして第五章でマッシモの過去に触れたあとに見せる第六章の「最終試験」の息詰まる展開が非常にスリリング。(試験における)演奏も、実験もそれぞれが終わりに向かっていくとき、一瞬クロスする刹那の緊迫感! 第六章のタイトルが「ルート66」なあたりアメリカにおける青春小説として王道を行きすぎだろうとは思うものの、演奏に人生をかけてきたキャラクターたちが一転旅に出る、その爽快さはたまらなく気持ちいい。
『四月は君の嘘』がそうであったように、本作も演奏を通してつながっていくキャラクターたちの珠玉の人間ドラマだ。『君嘘』よりは少し大人な彼らも、まだまだ青臭さが残る。あまり触れられなかったが、俊一のことも知っているリューイというヒロインの存在も多分に魅力的で、物語の奥行きをつくってくれる。最後までたどりついて、もう一度すぐに読み返したいと思えてしまうくらい、物語の終わりがいささか寂しい。果たして、最後に勝ったのは誰だ。