2016年02月

2016年02月27日

1995年から2011年、そして2015年へと ――『神戸在住』(日本、2015年)



監督:白羽弥仁
脚本:安田真奈
主演:藤本泉(辰木桂役)


 阪神大震災から20年という題材と木村紺のマンガ『神戸在住』という組み合わせは確かに悪くないと、企画を知ったときに思った。サンテレビで映像化されたドラマを元に劇場版が作られ、それがDVDになっていたのでTSUTAYAでレンタルして見た。NHKとサンテレビという違いはあるが、こちらも阪神大震災を題材にしている『その街のこども』と映像化の流れが少し通じ合うような気もする。ただ、20年後の神戸をいまを生きる女子大生たちの感覚で描く今回の『神戸在住』は大きく違う。そのことによって原作とも大きな差異が生じているが、登場するキャラクターたちは共通していて、20年経ったいまだからこそ作ることのできる『神戸在住』という作品を新たに産み出したと見るべきだろう。

 大きな違い。それは、彼女たち(18歳や19歳の女子大生)は震災後の世代だということ。彼女たちは震災を知らない。彼女たちの知っている震災は、むしろ2011年の3.11のほうで、たとえば原作でも東京から神戸へ移住(して進学)している主人公の辰木桂は、3.11を東京で経験している設定だ。友人の和歌子とその恋人リン・ハオは東北に何度もボランティアにいっているという話をハオのバイト先で交わしており、そこでは気仙沼、仮設住宅と言ったワードが登場する。阪神大震災以後でもある世代は、同時に3.11以後の世代でもあるということを肌感覚でとらえているところはリアルだなと思った。

 辰木桂は原作の印象よりも美少女としての評価をまわりから受けているが、原作よりも違う点はもうひとつあって、自分に対する自信のなさが際立っているところだろう。原作では大学生活がすでに始まっているが、入学してすぐのオリエンテーションから始まる実写版のほうでは終始おどおどとしていたり自己紹介の番ではほとんど声を出せなかったりしてしまう。なぜ自分にあまりにも自信がないのかということはのちの日和との出会いのシーンで語られることになるが、逆に桂のこうした自信のなさが友人たちを惹きつけていく。和歌子や高美、洋子たちの原作とはあまり変わらない強い個性が逆に桂を画面の中では埋没させたりもするが、目立たない桂の存在をカメラはしっかりととらえていく。基本ラインが桂の成長物語なのだ、ということは強く意識されているのだろう。

 ただ、友人たちとの日常的な交流は尺の関係上あまり多くは描かれない。男友達はほとんど登場しないし、原作にあった部室での自由で多様なやりとりも登場してこない。そのかわり、中心的に焦点があたるのは車イスのイラストレーターである日和との出会いと交流の日々だ。日和を通して桂は自分の生きる道しるべを見つける。また、日和を通じて日和のショップを手伝っている早坂や合田さん、カフェのマスターであり元オペラ歌手でありゲイでもある小西との交流が始まっていく。

 日和自身もそうであるように、日和の周辺にはマイノリティが少なくない。そのことを日和自身もやや自虐的にネタにしているが、だからどうこうというよりはそれが自然なものであるように彼や彼の周辺の人間は桂の前で示す。桂が失われた自信を回復していく過程で、こうしたマイノリティの人たちとの出会いがいくらか意味のあるものになっているのだろうと、安心することもできる。家とも学校とも違う、サードプレイスであり重要な人物である日和の存在の大きさが、物語の後半のドラマチックを引き立てていくのだ。

 とはいえ、ある程度予想できたドラマチックは100分ほどの尺(本編に限ると90分と少し)のでは明らかに短い。後半では特に日和との日々が中心的に当たりすぎたせいで、かえって辰木桂の日常を消してしまっている。大学に通って講義を受けたり、絵を描いたり、友達と講義のあとにショッピングがおでかけをしたりといった要素をもう少し織り込むことができなかったかなと思ってしまう。このへんは究極的には尺の問題なので、構成をいじると逆に日和との関係性を作るパートが減ってしまうので、トレードオフではある。

 そのなかでもうまくいっているなと思うのは日和の描く猫と、桂の猫に対する思いの部分だ。もう少し彼女の過去を語らせたり回想をつくってもよかったんじゃないかなと思うのだけれど、桂の猫への思いというだけでなく日和の描く猫に桂自身の気持ちや思いが投影されているということをうまく絡めている。この要素がなければ単に桂や日和が猫好きだということでしかなかったのだけど、猫のおかげで桂と日和はより強く結ばれているのだ、ということを表現することに成功している。でなければ、日和が死の直前にとっさに桂に対して起こしたあの行動の意味もまた変わってくるだろう。共感を強く求めてしまうのは、罪ではない。

 というような感じで、原作ファンとしては物足りないところもあったし、もっと神戸感のある映像をいっぱいちりばめてもよかったんじゃないかな(三宮の東遊園地や元町の中華街は分かりやすかった)という気はするけれど、神戸という場所や空間を大事にしつつ、桂と日和の関係性に深くフォーカスしていくという方法自体はとてもよかったと思うし、ある程度うまくいっているなと思う。かなり別物になってしまってはいるが物足りない分は原作で補完する、くらいでいいのかもしれない。あとは、和歌子とリン・ハオのイチャイチャやリン・ハオの苦悩や葛藤をもっと見たかったですが、桂と日和の関係がメインだとするとここらは欲張りかな。


劇場版 神戸在住 [DVD]
藤本泉
ポニーキャニオン
2015-09-16






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2016年02月22日

みどりちゃんを好きになっていく物語 ――『たまこラブストーリー』(2014年)



監督:山田尚子
脚本:吉田玲子
主演:洲崎綾(北白川たまこ)


 テレビシリーズ『たまこまーけっと』の印象は実はあまり強く残っていない。まあ当時個人的にいろいろあった、という要因もあるのだろうけれど毎週楽しく待ち構えて見るアニメというほどではなかった。それでも中盤での臨海学校のシーンの青春感とかキャラクター同士の駆け引きは純粋に面白くて、山田尚子監督の前作『けいおん!』ほどのインパクトはないものの良質な群像劇(かつ地域密着もの)という印象は残っていた。少し。

 冒頭の南国編は置いておいて(しかし一番おいしいところを持っていくのはさすがだと思う)、この映画はもち蔵の視点から始まっていく。いままでずっとうまく伝えられなかったもち蔵のたまこを好きな気持ちを、いまこそ伝えよう。そんな風にある意味では分かりやすい青春映画のモノローグでは、カラフルな傘が空に舞い上がっていくシーンがある。もち蔵の気持ちと今後の物語の展開を示唆しているように見えるシーンだ。長くはないものの、映画館の大画面でこのシーンを眺めるとなかなか感動的かもしれない。まだ冒頭だけれど。そして2012年のカナダ映画、『わたしはロランス』の中盤ににたようなシーンがあったことをふと思い出した。気持ちの高ぶりを周辺の風景の変化で表現していくのは実写でもアニメでも珍しくはないのだろう。(『ちなみにロランス』では傘ではなく衣服などあらゆるものが舞い下りてくることによるカラフルな色彩で画面を覆っていた)



 だからストレートにこの映画を眺めるならばもち蔵とたまこの物語だ。基本的には相思相愛なはずの二人のラブストーリーであること、それは間違いない。でも、第三者としての常磐みどりという視点を意識的に導入したことでこの映画は豊かな青春群像劇となっていく。みどり以外にもたまこの妹のあんこであったり、バトン部仲間のかんなや史織であったり、あるいはたまこやもち蔵の家族であったりと見るべき要素はたくさんあるけれど、第三者として二人のラブストーリーを動かしているのはみどりだ。臨海学校ではどちらかというと動かさない方向に動いていた彼女が積極的にアシストを重ねていくのはなかなかに痛快だ。

 みどりにどういう心境の変化があったのかははっきりと語られないが、部活仲間以上に大切な友人であるたまこの背中を押したい気持ちは本心としてずっとあったのかもしれない。もち蔵へのやや冷たい当たり方は相変わらずのもち蔵いじりといったところだろう。はっきりしているのは、もち蔵が意識した青春の終わりを、みどりもまたどこかで意識しているのではないかということだ。だからみどりはもち蔵がようやくたまこに気持ちを伝えたことを素直に評価する。「言ったんだ」という多少の素っ気なさを伴って(でもそこがみどりらしくてとてもかわいい)

 青春の終わり。明らかになるのは明確な距離だ。東京に行きたいと明確に視聴者にもち蔵が伝えるとき、彼の目線は同時に撮りためた映像の中のたまこにも向けられている。東京、大学という未来を見据えながら過去から現在へとつながる存在であるたまこのことも同時に意識する。一種の危機感というか焦りというか、自分の思いを素直に表現すればするほどたまこから離れていくことを、同時に受け止めなければならない。逆にたまこにとっては明確な終わりを意識しているわけではなくて、かんなのあるアイデアが「みんなでいられる季節の最後」が近づいていることをようやく実感する。その上でのもち蔵のカミングアウトが重なるのだから、たまこの脳内と心が現実をまっすぐ受け止められなくてもおかしくはない。自然なことだと言うべきだろう。

 だから、だからこそ最後にみどりがたまこに告げる優しい嘘がたまらなくいじらしい! 冷静な視聴者は瞬間的に嘘だと気づくだろうけどただでさえ天然でさらに気が動転しまくっているたまこにはそんな余裕なんてなくて、「良いアニメ」のお手本のように(たぶん京都駅へ向かって)走り出していく。だからもうどうしようもなく、ますますみどりちゃんを好きになっていく映画だなって思った。

 『たまこラブストーリー』にとってのラブストーリーはおそらく映画が終わってからが本番だ。そこまでの下地をしれっと準備してみどりの策士っぷりには盛大な拍手を。彼女の見つめるどこか遠くを思いながら。

 常磐みどり、最高か。

映画「たまこラブストーリー」 [Blu-ray]
洲崎綾
ポニーキャニオン
2014-10-10






ブログリンク:
・くろじゅ「『たまこラブストーリー』見たけどやっぱし京アニ好きです ※微ネタバレ」(『そのねこがうたうとき』)
→この文章書いたあとにくろじゅさんの記事読んだけど共感ポイントがいろいろと重なってとても楽しい。「休校の教室での「ありがと、かんな」の台詞で私は一番泣きそうになりました」はとてもわかる、わかりすぎる。そしてあの自分一人しかいなくなった(かんなにすぐ見つかるけど)教室のみどりちゃんのことを、そっと思いたい。

・ねりま「変わる世界を抱きしめて―『たまこラブストーリー』感想」(『宇宙、日本、練馬』)
→たまこの受け止め方について、「母との死別は、彼女の世界を大きく変えたはずで、そうして変わってしまった世界を受け入れて、今の彼女はあるはず」ってのは少し軽視していたかもしれない。性格に由来する部分と、積み重ねてきた彼女の歴史に由来する部分は物語後半のたまこという少女の意思と決意なのかなって思った。だから「変わる世界を、彼女はその都度抱きしめて、そして愛していけるのだから」というのも、あの希望的で感動的なエンディングを見るまでもなく、たまこなら大丈夫、と思うべきなのだろう。

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2016年02月20日

狂気が招く変容とその帰結 ――羽田圭介『メタモルフォシス』(新潮社、2014年)


  文庫版をひっくり返した帯文にはこう書いてある。「『スクラップ・アンド・ビルド』以上に、自分の名刺代わりにしたい作品です」と。本書にはいずれもSM嬢による調教を受けることを選択する主人公が二人登場(関連性はおそらくない)していて、それぞれサトウとカトウという名前を持っている。「メタモルフォシス」は野外プレイを望むようになってしまった証券マンのサトウの話で、「トーキョーの調教」は女子大生SM嬢と思わぬ場面で再開してしまうテレビマンのカトウと、嬢である武内愛子(マナ)の話だ。

 「トーキョーーの調教」では主に相互の駆け引きを、「メタモルフォシス」ではM男としてSMを極めようとしてしまう快感とそのいく先を書いているが、なにかを極めようとしながら目の前の相手との駆け引きを書くことで二者間の関係を意外な方向へと立体化させていった「スクラップ・アンド・ビルド」に通じるものが両作から垣間見ることができる。そういう意味でも面白い読書だった。

 順番としてはあとに書かれている表題作「メタモルフォシス」はとにかく過激だ。野外プレイは序の口のうちで、その時点でも警察官や周囲の人間との距離を駆け引きしなければならない究極のプレイなのに、さらにSMを極めようとしてしまう本性がとにかくおそろしい。嬢のほうはある程度仕事としてわりきっているところが印象的で、とにかく極めよう、ハマっていこうとするサトウと、サトウを試しながら明確に一線を引いてある嬢の間にははっきりとした距離感がある。でなければできない仕事ではあるのだろうけれど、脱糞からの一連の流れのすさまじいリアリティ(一連の内容というより感情の面で)はまぎれもない狂気の表れだけども、一線を引いた嬢に対するサトウの挑戦として読むと痛快ではある。(勝ち負けというのがあるわけではないとは思うが)

 そのサトウが当然のように食中毒をこじらせて搬送された病院で、さらなる挑戦を思い付く。それは嬢に対してでも自分に対してでもなく、自分を超える他者に対しての無謀な挑戦だ。証券マンとしてのあまりにもドライな日々も描写されるが、いかにそのときのサトウが虚飾に満ちているかがよくわかる。体も心も素になった状態にならなければたどりつけない地平がはたして幸福なものなのかどうかももはや重要ではなく、純粋なあこがれとして。サトウの選んだプロセスは、無意識のうちに日々すり減っていく感情を、狂気という別の感情でリセットしているかのようだ。だから客観的には絶望的な結末すらもサトウの主観ではそうは映らない。新しい未知の体験として、さらなる狂気を快感なものとして受け止めるのだ。

 対して「トーキョーの調教」では狂気という言葉は少し控えめに見ておいたほうがいい。表題作が最初から最後までやたら強烈なことに比べると、テレビマンとして長いキャリアを歩いてきた中堅のポジションにいるカトウにとって、狂気に至るまでの自分探しはもはや必要ない。それでもSM嬢のマナと出会うことで、彼の中にあった何かが刺激されていく。妻との他愛ない会話よりも、よほどマナとの会話(それは必ずしも許されたものではない)に真剣に向き合ってしまうようになる。

 そのマナと別の場所で(もちろん別の名前で)再会するところからがこちらの短編の醍醐味だ。ホテルの一室の中では奴隷と嬢という関係性が、別の場所では違うものに変換される。そのことに気づいたとき、相手の狙いが一瞬わからなくなる。ただの偶然なのか、狙っているものなのか。そして真の狙いはどこにあるのか。ちょっとしたミステリー仕立てとして、新しい二人の関係性が始まっていく。

 いずれの場所でも二人の関係性は少しずつ前進していく。互いが互いを意識し合うことで、コミュニケーションの駆け引きはよりスリリングになっていく。二人の関係性が異なっていても、最初から最後まで言葉が重要な要素になっているところが小説(あるいは純文学)という方法と非常に相性がいい。言葉が表現する関係性と、言葉が生み出す新しい緊張感。最後の面接のシーンは本当に圧巻で、面接というアイデンティティを問いながらも虚飾を覆いがちな場面において虚飾を一気に解き放つ瞬間は最高にエモーショナルだ。その戦略性の高さに、女子大生であるとかSM嬢であるとかといった肩書きなど忘れて、一人の強烈な個性が目の前に現れることに驚かされる。

 「トーキョーの調教」においてカトウは当初サトウという名前でマナに近づく。この時点で読者にはいくらか「メタモルフォシス」のサトウがダブってしまうわけだけど(このために掲載の順番を設定したのかと少し思う)新しい関係性が立ち上がってくるときに名前ながなんであるかなど実は重要ではないという要素と、いやそれでも名前がアイデンティティに影響を与えてしまうといういずれの要素もうまく絡み合った、面白い設定だ。そのことはもちろん、マナこと武内愛子にもあてはまる。わたしはいったい誰ですか、という問いはわたしはわたしである、というトートロジーが究極の解なのだろう。

 「メタモルフォシス」の時点では芥川賞にはいたらなかったが、いずれの短編も羽田圭介という作家の才能を見せつけるには十分すぎる。作中のキャラクターと同一視するわけではないが、こういう小説を書いてしまえる羽田自身、内面では相当狂気な作家なのだろうと思ってしまう。もちろん、真実かどうかはさておいて。


関連記事:いかにして生き延びるのかということ ――羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」(『文学界』2015年3月号)




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2016年02月15日

美しき青春の幕切れのために ――『ザ・ウォーク』(アメリカ、2015年)



監督:ロバート・ゼメキス
脚本:ロバート・ゼメキス&クリストファー・ブラウン
原作:フィリップ・プティ『マン・オン・ワイヤー
主演:ジョセフ・ゴードン=レヴィット:フィリップ・プティ


 2009年に日本で公開された『マン・オン・ワイヤー』というドキュメンタリー映画がある。1974年のニューヨークに存在したワールドトレードセンターのツインタワー間をワイヤーウォーク(綱渡り)するという芸当をなしとげたフランス人のドキュメンタリーで、09年のオスカーで長編ドキュメンタリー賞部門などの賞を獲得した映画だった。09年の夏ごろに新宿高島屋のテナントとしてかつて存在したテアトルタイムズスクエアでこの映画を見ていて、もうずいぶんと内容は忘れていたがツインタワーを綱渡りしたという事実には強い印象を持っていた。そろそろ前置きが長くなってきたが、その『マン・オン・ワイヤー』を今度は劇映画にしたのが本作『ザ・ウォーク』である。ちなみに『マン・オン・ワイヤー』の映画パンフレットにはすでにロバート・ゼメキス監督が長編映画化を構想、と書かれてあるのでアイデアから公開まではそれなりの時間が流れたことがわかる。

関連記事:MAN ON WIRE 【2007年 イギリス】

 この映画を見たあとにTSUTAYAで『マン・オン・ワイヤー』をレンタルして再視聴してみたが、ドキュメンタリーのほうではワールドトレードセンターの綱渡りについての証言を集めたという感じ。付け加えて、ビルへの侵入方法や綱渡りにいたるまでのもろもろのセッティングなど、再現映像も多数織り混ぜたまさにドキュメントという撮影を行っている。『ザ・ウォーク』ではもう少し時間のスパンが長く、フィリップ・プティというフランス人の青年が25歳でワールドトレードセンターを綱渡りする場面をクライマックスにおいた群像劇という仕立て上げ方だ。

 たとえば『マン・オン・ワイヤー』においてはニューヨークでの日々が主になっているが、『ザ・ウォーク』ではまずフランスでのプティと彼の愉快な仲間たち(カメラマンのジャン・ルイ、内気な数学教師のジェフことジャン・フランソワ、そして美大生であり路上のシンガーでもある恋人のアニーなど)との日々が、青春時代のアルバムをめくっていくように生き生きと描かれている。主演のジョセフ・ゴードン=レヴィットはまさに『マン・オン・ワイヤー』のプティのように陽気で明るく、無謀でやたら早口で協調性をいくらか欠いていて、でも彼のすさまじいエネルギーと才能にまわりに愛される、そういうキャラクターをとてもうまく演じている。

 なぜフランスでの日々に焦点を当てたかというと、ワールドトレードセンターを渡ってしまおうという突飛な思い付きのきっかけが面白いせいもあるだろうけど、当時のプティがこの偉業にいかに賭けていたかを伝えるための構成、というところだろうか。『マン・オン・ワイヤー』で彼のすごさはもう十分にわかっているが、それが彼の実力や才能とどれだけみあった業績なのかまでは分からない。だからそれより過去、フランスでの日々を描くことによってプティがなぜ綱渡りを志すようになったかであったり、なぜワールドトレードセンターに憧れを抱いてしまったのかという動機の部分を掘り下げていくことに成功している。もっとも、あくまで動機であって理由ではない。ニューヨークでの綱渡りを成功させたあとにプティはなぜこんなことをしようと思ったのですか、とさんざん取材で聞かれることに辟易したというのはこの映画を見ているとよくわかる。理由があるとしても、登山家ではないが、山があれば上るのであって、綱渡りができるのだからやってみた、というところが関の山だ。

 青春には友情と恋愛がつきもので、ジャン・ルイやジェフとの友情はほんとうに面白い。ジャン・ルイとはノリのようなもので協調し、性格的にはおそらくプティとはかなり対照的で、内気で控えめなジェフとも不思議な信頼関係が生まれる。ニューヨークでも新たに仲間を探し、実際に何人かを「共犯者」として仲間に引き込むわけだが、フランスからの友情とニューヨークでの新しい仲間意識とはやはり距離があって、当日までのちょっとした喧嘩や仲間割れのきっかけになってしまう。

 結局のところ、プティという人間のことをどれだけ知っていて、いかに無謀でも最後は彼を信じることができるかどうかが重要なのだ。そのことを一番体現しているのは恋人であるアニーで、彼女にとっては見たことのない景色を見せてくれるプティにあこがれ(少し嫉妬混じりの)を抱きながら、恋人として彼の死をおそれる。ニューヨークに来てからプティはしばしばアニーと対立することになるが、二人がともに見せる焦りそのものが本番までのカウントダウンをしている緊迫感となって画面に出てくる。事実をもとにした映画だから基本的に安心して見ていいのだけれど、ニューヨークでの日々ははらはらさせられることだらけだ。(現場の視察でプティが釘を踏んづけてケガをしたりもするし)

 そんなプティたちの青春のまさに到達点となったのがワールドトレードセンターなのだ。当時の最高峰とはいえ、ニューヨーク市民にとっては単なる新しい摩天楼でしかなかったこの二つのビルに、まるで命を吹き込むような芸当をプティはなしとげる。このことによってもちろん逮捕もされるのだが、マスコミで大きく騒ぎ立てられることによって、あるいは直接目撃されることによって多くの市民にプティは歓迎される。『マン・オン・ワイヤー』では現場に居合わせた警察官に"once in a lifetime"とまで言わしめるのだから、「美しい犯罪」という言葉は大げさではない。

 そしてこのポイント、つまり綱渡りを成し遂げたあとと以前ではなにもかもが変わってしまう。「なにかが終わったの」とアニーは証言しているが、フランスからずっと見守ってきたアニーでさえも、ここで青春に一区切りをつけなければならなかったのだ。おそらくまずは(まだなにもなしとげていない)自分のために、そして偉業をやってのけたプティと一線を引くために。それ以外にもいろいろ理由はあるのだろうが、プティだけがニューヨークに残ることを決め、アニーやジャン・ルイ、ジェフはフランスへ帰る。ジャン・ルイは確か「友情の終わり」だと表現していた。友情も恋愛も、ここまで一つのポイントできれいに区切りがついてしまうなんて、そのこと自体がとても美しい幕切れなんじゃないかと思わずにはいられない。

 もちろん、ワールドトレードセンターも2011年の9月11日に終わりを迎えてしまう。仏教的な視点に立てばあらゆるものは儚いということになるわけだけど、この映画を見たあとではその儚さに幾重もの思いを重ねてしまうことができてしまう。クライマックスにあたる綱渡りの実演の場面では「エリーゼのために」がBGMとして流れることもあって、切なさや寂しさが駆り立てられてしまう不思議なクライマックスとして成立している。アニーたちにとって歓喜と喪失を、両方受け入れることを思いながら。

 まだ一度しか見ていないが、二度目に見ることがあれば前半のフランスでの日々をとてもいとおしく眺めることになるかもしれない。プティの思い付きによってあらかじめ設定されているゴールラインを通り過ぎるまでの、長いようで短いその日々もまた、美しく尊いものに他ならない。







マン・オン・ワイヤー
フィリップ プティ
白揚社
2009-06



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