2015年08月

2015年08月22日

7月18日のことと柴崎友香(主に語学と小説について)

 あ、もう一ヶ月も前のことかといまさら気づいたけど、この日の車中の会話がとても新鮮で面白かったので思い起こしながら書いておきたい。電車ではなく、車の車中である。
 この日は葉山での研修最終日で、昼前で終わる研修後にそのまま東京に行く予定だったのを栃木から来たという女性の車に乗せてもらえることになった。前の日にたまたま知り合い、そのまま何人かと飲みに行ったので顔見知りではあったけど、まだ既婚者ということ以外はほとんど知らなかった。これはまあどうでもいいが、最近仲良くなる女性の既婚者率がやたら高い気がするし、女性を助手席に乗せる機会はほとんどないが、逆(女性の助手席に乗ること)は最近よくあるなあとぼんやり考えた。

 栃木にすぐ帰る前に横浜観光をするとのことで桜木町のあたりまでとお願いした。下道を約一時間ほど走行したと思う。途中から音楽の話になって、soundcloudからアイカツ!リミックスをかけ続けるよく分からない展開になりつつ。
 一時間ほどの道中の半分ほどは語学、残り半分ほどは小説の話をしていたような気がする。こういう文化的な話をみっちり誰かとするのはいつのまにか久しくなっていて、単純にとても新鮮だった。いかに大学時代の時間がめぐまれていたのかと強く思う。
 でまあ、語学である、語学。英語の勉強をしているということと、韓国語に通じているということは聞いていた。どういう経緯か分からないけど韓国に留学した経験もあるらしい。前職の話もしたが、語学に関しては仕事にというよりは完全に趣味の領域だろうなと思う。
 もっとも、いくらかは男関係、というようだけれど、恋愛による語学の上達ということを実践しているのならばなかなかベタなやり方ではあろうし、そういう人に実体験を交えながら話を聞くという経験は東京にいたころもほとんどなかったから、この点が一番新鮮な会話だった。
 そしてすごく面白かったのは、人柄というかノリの良さ、共感のポイントが近かったからだろうな。マシンガンってほどではないけど、しゃべり続けることに関して抵抗のないタイプの女性は基本的に好きかもしれない。いつまでもずっと隣でうなずいたり、共感したり、時折り質問を投げたりといった感じ。ともすれば受動的かもしれないけれ、どこちらの応答次第でコミュニケーションの方向性が変わっていく、そういうった時間が好きだ。

 小説の話。前日の飲み会でミヒャエル・エンデの『はてしない物語』の話をしていて、ああ、ちゃんと読んでないけど、『モモ』なら実家にあるよ、と返してたりして。「エンデの話分かる人いた、すごい!」と読んでもないのに驚かれて、確かに自分の好きな小説や作家を知ってる人と出会うと興奮する気持ちは分かるなって思った。
 で、そのノリを車中でも引き継ぐような感じになって、エンデの話をずっとしていて。そのあとに「なんかオススメない? とりあえず三冊!」っていう流れになったので、ケルアック『オンザロード』、米澤穂信『さよなら妖精』、柴崎友香『わたしがいなかった街で』を薦めた。
 読んでくれただろうか、とは強く思っていないけど、しばらくあとに今この本読んでるよ!というLINEがとんできて画像を開いたら『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』だったときの感覚はちょっと面白かった。いや、まあ、有名作だし全然いいと思うんだけど、エンデからだいぶ遠くなってないか、みたいな。

 そういえば7月14日、研修の初日が終わったあとに元町中華街から池袋まで直通になった副都心線をひたすらに乗って、ジュンク堂で柴崎友香のトークを聞いたんだった。ちゃっかり『わたしがいなかった街で』の文庫版に日付と名前入りでサインももらった。(単行本のサイン本も持っている)
 自分が暫定で、生きているなかでは一番大好きな作家に会いに行けるというのはとても楽しい。サインはその証明みたいなもので、その人の生の声を聞けるとか、同じ空間にいられるっていう体験は生きてて良かった以外の何ものでもないと思う。サインをもらうときに少し会話もしたし、柴崎は柴崎だなって至るところで感じたし、好きな気持ちがさらに好きになる以外になかった。
 中上健次に関するイベントで、健次の娘である人と、あと早稲田の市川先生がいた。市川先生とすれ違うときに昔講義にもぐってました、一度だけですが、今日は大学の講義のようで楽しかったですと声をかけることもできた。ありがとう、との一言のあとに小さく手を合わせてくれた。つくづくやわらかく、しなやかな人だと思った。
 中上健次はまだ『枯木灘』くらいしかちゃんと読んでおらず、イベントでは基本的に最近出た日本文学全集所収の『鳳仙花』について話が及んでいた。紀州サーガにおけるフサの半生ということで、『枯木灘』のあとにちょうどいいな、と思いつついまだ積んでいる。
 イベントのあとの質疑応答で一個質問したいなと思ったことがあったんだけど、例によって話の長い質問者がいて時間切れになってしまったのは悲しかった。どこにでもいるけど、質疑のときの演説民はほんと困るので勘弁してくれ〜って思った。

 濃密な時間はたいていがあっという間に過ぎていく。だけれど、短い時間だからこそより具体的に思い出すこともできる。ここに書くように、そしてこうして書くことで。
 なにもかもが有限で尊いから美しい、なんて美意識にまで昇華させるつもりなんてないけど、好きなものを好きって言い合うのは楽しいよね、というごくごくありふれたところに落ち着かせようか。

はてしない物語 (上) (岩波少年文庫 (501))
ミヒャエル・エンデ
岩波書店
2000-06-16



P+D BOOKS 鳳仙花
中上健次
小学館
2015-05-25



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2015年08月11日

15年越しの奇妙な再会にて ――米澤穂信「ナイフを失われた思い出の中に」(東京創元社、2010年)



 この前レビューを投稿した『王とサーカス』以前に、米澤穂信は太刀洗万智に関する物語をいくつか書いている。そしていま売りの『ダ・ヴィンチ』で初めて知ったが年内に一冊としてまとまるらしい。
 そんなことは知らずにわざわざ図書館で探したのだが、今回書く「ナイフを失われた思い出の中に」
については非常に読み応えがあったのでとても満足している。一つは、『さよなら妖精』より15年後へと続いていること、そしてつまり『王とサーカス』よりは5年後であること。この二つを勘案しつつ、いまあえて『王とサーカス』後の太刀洗万智の物語として読むのなら、単に『さよなら妖精』の15年後という意味以上の意味を持つのではないか。そんな気がした読書体験だった。
 「失礼、お見苦しいところを」という短い小説を載せた『ユリイカ』の米澤穂信特集が2007年発売なので、ほんとうにようやく一冊になるということだが、このシリーズの時系列としては最初になる『王とサーカス』を刊行したあとに一冊にまとめるというタイミングはいろんな意味で正しいのかもしれない。
 ちなみに、「失礼、お見苦しいところを」はニコニコでノベルゲーム化されていて、こちらもなかなか面白い。 



 さて、「ナイフを失われた思い出の中に」は2010年に東京創元社より刊行された『蝦蟇倉(がまくら)市事件〈2〉』という架空都市での事件をモチーフにしたミステリアンソロジーに収録されている。あれから15年後の太刀洗万智を訪れたヨヴァノヴィッチ、と書けば『さよなら妖精』の読者としてはすぐにピンとくる。あの人しかいない。あの人がいま太刀洗とどういう会話をするのかについての興味を、いきなりかきたてる。しかし、どうやら『王とサーカス』で初めて太刀洗の一人称に踏み込んだらしく、この短編も例によって太刀洗の目線からは書かれない。あくまでも対象として、客観的に書かれている。結果として、だからこそ面白い部分と、だからこそ知り得ない部分が混在している。

 この短編では弟の姉殺しという事件を題材にしており、未成年者による家族の殺人はこれも例によってセンセーショナルな話題として扱われる。家庭内の不和や10代なりの不安や不満が動機として想定できるが、太刀洗によると不可解な点もいくつかあるらしい。彼女の目から見て説明できないこととはなにか、それをヨヴァノヴィッチは蝦蟇倉市の各地を太刀洗とめぐりながら思いめぐらす。
 
 ヨヴァノヴィッチは太刀洗から事件に関する不可解な点と太刀洗のこの事件に対するスタンスを一通り聞いた後、次のような見解を持つ。

太刀洗女子の言葉はロマンティシズムを排した冷徹なリアリズムから発せられたように聞こえる。(p.303)

 ヨヴァノヴィッチはこのあとはっきりと失望という思いも抱くが、冷徹なリアリズムしか持ち得ない人間に対しては確かに失望を抱きかねないだろう。この直前にわたしたちのような仕事は何だと思いますか?という問いかけを太刀洗は投げていて、これは『王とサーカス』におけるある対話を思い起こすと5年間の間に太刀洗が積み上げたものをいくらか推察することができる。『王とサーカス』が教訓になっているように(もちろん、「ナイフを〜」の地点から逆算して米澤は太刀洗の過去を創作したはずである)。

 ロマンティシズムとリアリズム。これを対立するものだとこの時点でのヨヴァノヴィッチは考えている。もしかしたらかつてのマーヤも、出会った当初の太刀洗について同じ感想を持ったかもしれない。太刀洗としては、『王とサーカス』での最後のサガル対話に見られるように、素朴に「知りたい」という気持ちが自分自身を駆動させているはずだ(15年間ずっとそうだった、かどうかまでは分からないとしても)。なので、知りたいというロマンティシズムと、知るべき、知りうるというリアリズムをいかに合致させていくかという葛藤が、常にあるのではないか。この葛藤を上手に見せる術を太刀洗は持っているわけではない。結果として人を試すように、一つずつ手の内を明かしていくこと。その先でどう思われるかが、もっとも重要だったのだろうと思う。

 事件そのものの話はこれも例によって悲しい事件ではある。その悲しさと、太刀洗がかつて経験した別れの悲しさは同質ではないが、手の届かない引力によって家族が引き裂かれる悲劇を共有してしまっているとは言えるだろう。素朴でありながらやたら凝って書かれた手記の文章が重要なテキストとして読まれること。それを読み解く行為というのは、まさに守屋と白河、そして太刀洗がかつてマーヤについて試みたことの延長ではないだろうか。(ちなみに『氷菓』こそ徹底的なテキストの読解としてのミステリーであるから、米澤の原典かもしれない)

 ヨヴァノヴィッチは太刀洗についての評価を最終的には改めることになるが、最後に交わされるいくつかの会話はいかにも太刀洗という部分が垣間見えてとてもにやりとする。ただ、あくまでここで登場するのは『王とサーカス』を経験したあとの太刀洗だ。ライターとしてリアリズムに徹しなければ身を失いかねないという前提の上で、とはいえロマンティシズムを完全には排除しきれない。4W1Hを駆使しながら、どこまでイシューを記述するのか。自分の仕事を目にたとえたシーンの会話は非常に秀逸で、『王とサーカス』を読み終えてからこれを読むとちょっとした震えも感じるほどだ。

 『ダ・ヴィンチ』9月号のインタビューで米澤はビルディングス・ロマンを書きたいと述べている。その上での青春小説、そしてその先へとしてのベルーフシリーズ。妖精自体の続編なんかいらないと思っていたが、太刀洗のその後を読むのはなかなかに面白かった。秋に予定されているシリーズの短編集刊行がいまから楽しみでやまない。

ダ・ヴィンチ 2015年9月号 05987‐09
KADOKAWA/メディアファクトリー
2015-08-06



さよなら妖精 (創元推理文庫)
米澤 穂信
東京創元社
2013-10-18



王とサーカス
米澤 穂信
東京創元社
2015-07-29



関連エントリー:10年後の太刀洗万智が確かにいた ――米澤穂信『王とサーカス』(東京創元社、2015年)(2015年8月8日)


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2015年08月08日

10年後の太刀洗万智が確かにいた ――米澤穂信『王とサーカス』(東京創元社、2015年)

 『さよなら妖精』から10年後の太刀洗万智の物語・・・・・・こう聞いてまず胸が躍らずにはいられないことと、短編として続編のようなものがいくつかあることは知っていたが10年という時を超えて、しかも守屋ではなく太刀洗を書くのかという驚きと期待を半分ずつくらい持って本書を手に取った。当初キンドルで買おうと思ったが、装丁が思いの外美しかったので、書店で立ち読みしたあとそのままレジに持っていった。単行本は図書館ガチ勢な自分にとって、こんなことはそう易々とはない。

 というのはさておき、10年後、である。『さよなら妖精』を最初に読んだのは2006年のこと(文庫化されたタイミング)だったので、最初に読んでから自分自身が重ねてきた年数とほぼダブる。10代の半ばで触れた作品の続きを20代の半ばで触れるということ、しかもキャラクターもほぼ同じ数だけ歳を重ね、その歳もそう遠くはないということ。なので否が応でもこの二つの小説は、自分自身と結びつけてしまう。それはもうどうしようもないバイアスだけれど、そうやって物語に触れることがとても貴重だということも事実で、個人的に読むという前提の上で本作を読み解いていきたい。

 簡潔に言えば、『さよなら妖精』が群像劇に見せかけた守屋の私的な冒険だったとするならば、本作は太刀洗の冒険だ。そこには二つの意味で個人的である。一つは10年前にマーヤとの別れを経験した太刀洗として、もう一つは新聞記者を辞めライターとして独立した、職業物書きとしての太刀洗として、である。ライター仕事で2001年のネパールを訪れるという設定から始まるし、ネパールでいくつかの事件に巻き込まれていく中で発揮されるのは後者としての太刀洗がほとんどだ。たとえば次のような問いかけが挿入される。

 
 なんのために階段を下りるのか?
 なぜ他の誰かではなく太刀洗万智が、ここを下りていかなければならないのか?
「・・・・・・それがわたしの仕事だから」
 そう呟く。
 知は尊く、それを広く知らせることにも気高さは宿る。そう信じているからこそ、退職してかららも記者として生きていこうと決めたのだ。いまこの場にいるのはわたしなのだから、わたしがやらなくてはならない。
(p.163)


 元々は観光の記事を書くためにネパール入りしていた太刀洗だったが、王室で起きたある事件(動乱、クーデターと言ってもいい)とその余波に巻き込まれることによって観光に関するライティングどころではなくなる。そして、「いま、ここ」に「わたし」が存在する意味を、自分自身の背負った職業と相まって自問していくことになるのだ。これは『さよなら妖精』において守屋がマーヤに抱いた私的な感情とは明確に一線を画した、気高い思いだと言えるだろう。使命感とも言っていい。そうとらえるならば、マーヤが旧ユーゴから日本に来た理由――自分の国の政治をよりよくするために――のほうを思い起こすことだってできる。

 太刀洗は王室の事件のあとにある重要な取材対象者に接近する。そこで彼女は自分自身のペンの大きさと小ささを実感させられることになる。BBCやNHKとは違い、新聞記者でなくなった自分がペンを振るうことはちっぽけなことではある。しかし、そのちっぽけなことが与える影響は実は計り知れないかもしれない。使命感があるからこそ、同時に迷いも背負わねばならないという苦悩が、太刀洗を追い詰める。ただ、その上で太刀洗がペンを振るおうとするのは、やはり10年前の別れ――という意味での私的な理由――が介在するからなのだ。
 わたしの大切なユーゴスラヴィア人の友人は、なぜ死ななければならなかったのか?
 なぜ、誰も彼女を助けることができなかったのか?
 わたしが、知りたい。知らずにはいられない。だからわたしはここにいる。目の前の死に怯えながら、危険を見極めて留まろうとしている。なぜ訊くのかと自らに問えば、答えはエゴイズムに行き着いてしまうのだ。知りたいという衝動がわたしを突き動かし、わたしに問いを発させている。それが覗き屋根性だというのなら違うとは言えない。どう罵られても、やはり知りたい。知らねばならないとさえ思っている。
(p.198)


 エゴイズムによって未知のものに手を伸ばそうとするのは、守屋によく似ている。ただ、決定的に違うのは備えている能力と経験値だろう。一介の高校生だった守屋は自らのエゴイズムを断念せざるをえなかった。しかし本作での太刀洗は違う。うまくやれば、誰もなしえないことができるかもしれない。死を含め、多くのリスクが存在するという前提の上でではあるが、10年経って守屋にたどりついたのではなく、10年経って確実にかつての守屋を超えようとしていることがよく分かる。それはかつて守屋を突き放した自分自身に対する思いからくるものかもしれない。守屋のやり方を否定はしたものの、守屋の思いまでは否定しなかった、かつての太刀洗自身の方法に向き合うために。

 本作はミステリーとしては大きな新鮮味があるわけではない。読み終えてみれば明らかに怪しい奴らが怪しかったというオチではあるものの、読み進めていくうちに当初覚えた怪しさが薄らいでいくのはなかなか見事だとは思った。新鮮味こそはないものの、太刀洗と同じ宿に滞在する各部屋の住人たちとの攻防戦が、宿の外で起きる太刀洗の冒険と相まって謎解きの魅力を増している。そこにはやはり、仕事に対する思いとそのすれ違いがヒントになって現れる。そして、たった一人の仕事ぶりが、思わぬところで波及するかもしれないとき、それでも自らのエゴイズムを貫くことはいかにして正当化されるのかという問いも。

 最後まで徹底的にエゴイズムを隠さないでおきながら、職業人としての真っ当さの所在を考える太刀洗の存在は、やはり他のキャラクターにもいささか奇異なものに映るらしい。しかし、その迷い、動揺こそが太刀洗の魅力なのだとやはり強く思う。彼女は元々冷たいキャラだったわけじゃなく、『さよなら妖精』のエピローグにける彼女の台詞を借りれば、冷たく見積もりすぎていただけなのではないか、ということだ。本作ではもうその冷たさ自体も武器に変えてしまっているところがあるが、冷たさの裏にある熱を感じ取らなければ、太刀洗万智というキャラクターについて適切な説明を与えるのは難しい。

 10年の時を経て、確かに成長した。そうしたことが実感できると同時に、10年前の青さや痛々しさに思いを馳せることもできる。内容としては別物なので続編として読まなくてもいいですよと米澤は語っていたが、個人的には逆で、徹底的に地続きのものとして読んだ方がいい。個人的に、強く個人的にではあるが、そう確かに思う。10年後の太刀洗万智が確かにいた、と思えるように。

関連エントリー:あのころに感じた切なさを思い返しながら ――『さよなら妖精』再訪(2012年10月12日)

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2015年08月03日

とにかく無茶苦茶だった ――『セッション(WHIPLASH)』(アメリカ、2014年)



 たとえば画面の使い方とか、音楽以上に熱の入るシンプルでスラング満載の台詞回しだとか、うまくまとめようとすればいくらでもまとめるんだけれど、こういうとにかく見ろ、タイプの映画を批評するのはなかなかに難しい。見れば分かる、けれども見ないと分からない。そんな単純なことを言うのなら、わざわざ長い文章を費やす必要はない。
 素朴に思い出したのは先日まで放映されていたアニメ『響け!ユーフォニアム』の最終回だ。

 あの一瞬、一刹那、最後の夏、最後の舞台、最後のメンバー・・・クライマックスと同時に訪れる最終回はあっという間の幕切れで、それはこの映画も同じだ。いや、この映画の場合はクライマックスが多すぎてどこが最終回なのか分からないくらいだし、逆においそこで終わるのかというツッコミもできるくらいだけど。
 つまりはまあ、圧倒的という言葉よりも無茶苦茶という言葉のほうがきっとかみ合う。それはJKシモンズ演じるフレッチャーの破天荒さと厳格さに表れている(というかそれしかない)し、フレッチャーになんとなくついていってたらいつの間にか憎しみがモチベーションになっていた19歳のドラマー、ニーマンの変容にも見てとれる。
 どう考えてって普通ではない連中。優れたアーティストとかクリエイターというのはそもそもそういう生き物なのかもしれないが、狂気だけでは映画は作れない。

 狂気だけでは映画は作れないが、それでもこの作品が映画たりえているのははっきりとした筋書きがあるからだ。最高峰の音楽学院に入ったニーマンと、その学院でジャズバンドを率いるフレッチャー。スポ根ものにありがちな、優れた指導者と出会った主人公が才能を開花させていくという、ある意味ものすごく分かりやすいパターンにあえてはめこんでいる。
 でもそれはおそらく、「上げてから落とす」フレッチャーのやり方そのままでもある。たとえば、オタク君とされた太っちょの演奏家は、ある練習で音がずれていることを自白できずに退場を余儀なくされた。ほんとうにずれていたかどうかは分からないのが残酷だ。フレッチャーこそが真実であり、ルールだということを観客は感じるだろうし、新入りのニーマンもおそらく感じていることだろう。
 だから観客の多くはニーマンを応援しようとするだろう。頑張れ、くじけるな、もっと頑張れ。フレッチャーとは別の視点からニーマンのサポーターを作り出すこと。それがこの映画の前半のねらいなのだろうと思う。

 だからあるコンサートに遅刻したニーマンの姿とそのあとの変容ぶりは、筋書きをもはや無視しまくっている。もっとも、ラストシーンから換算すればよくできた、うまく作っているシナリオだと言える。起承転結というパターンにもきれいに当てはまっていると言える。しかしほんとうにそうとらえていいのかどうかは、見ている最中にはまったく予測もつかない。
 それは、この映画のクライマックスが文字通り即興になっていることからも言える。JAZZの世界にさほど明るくはないが、JAZZと言えば即興というイメージはある。しかしこの映画において、即興をフレッチャーが許す余地など露とも感じない。重要なのはマシーンのような正確さと速さなのであって、フォアザバンドのために個人のセルフィッシュなどあってはならない。
 にも関わらず即興は続いていく。果たしてそれでいいのかと、即興を演じる彼以外の多くは彼を見つめながら思うはずだ。重要なのは、フレッチャーですら彼以外の大多数になってしまっているところなのではないか。彼、フレッチャー、そして多くの第三者たちという構図はもはや存在しない。その構図を最後の最後に持ってくることが、この映画が映画としてもっとも輝くところなのだとうということは、わざわざ言わなくてもきっと十分だ。(けどまあ重要なので書いておく)

 圧倒的な熱量は憎しみを生み出す。そのことを音楽の世界で教えてくれたのは新川直司の『四月は君の嘘』だった。誰かのために演奏することしかできなかった人が、自分のために演奏することを覚える。それは単なるセルフィッシュだろうか、確かな成長だろうか。
 『響け!ユーフォニアム』も、『四月は君の嘘』も、そしてこの映画も、もっとも重要なところで区切りをつけてしまうがゆえにその後への関心もかきたてる。でもそれは、その後への期待を多分に残してしまうほどに、たった一回の演奏が、ライブが限りなく魅力的だったことの表れでもあるのではないか。
 最初から最後まで人を圧倒する物語とその熱量を表現するのは容易ではない。そのことを改めて認識しながら、この映画の無茶苦茶さについてもう一度考えるためにもう一度映画館に行く。そんなことを、見終えたあとすぐに思うくらいには、取り憑かれそうになる魔力を秘めている。
 
 いや、とりあえず冷静になって考えよう。とりあえず、グサヴィエ・ドランよりは少し年上だが、また北米からおそろしい若手が登場したことだけはちゃんと覚えていようと思う。










WHIPLASH
マイルズテラー
2015




 

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