Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

2015年07月

 仕事を始めてようやく半年が経った。
 はやいのか遅かったのかは分からないけど、いつのまにかと言ってしまえばいつのまにか、だと思う。約一年続けたバイトを辞めたその二日後にはもういまの仕事が始まり、それからは気づけば仕事をしているといった感じでだんだん「大人」になってしまっているんだろうかと感じる。年齢的には十分妥当だけれど、学生時代が長く続いたせいか、最近ようやく新しいバイトを始めたという感覚から抜け出せているのかなと思う。
 なかなかいろいろ難しいところの多い仕事だが、職場の人間関係にはおそらくめぐまれているほうで、そのへんのストレスがほとんどないのと毎日定時で上がれること。時々土曜出勤が続いたりするが基本的には土日祝休めるあたりはまあ新卒でちゃんと就職しなかった人間としてはラッキーなほうなのではないか。なのでとりあえず、続けることを念頭に置いて日々を過ごしている。

 その仕事関連の資格をとるための研修で一週間ほど横浜に滞在していた。
 研修場所は三浦郡の葉山で、泊まっていた元町中華街のホテルから1時間ほどはかかる場所だった。約5日間、講義を受けたり、グループワークをしたり、最後にはテストをしたり。
 久しぶりに大学生に戻ったような気がした時間だった。ま、もう一度戻りたいかというと半々というところで、戻れたら楽しいだろうけど、のちに経験するつらさもまた味わう必要がある。どちらかだけを選ぶことは、たぶん自分の場合は難しいんだろうなと思いながら、でもそういう公開の多い日々もいずれ愛おしくなるのだからややこしい。

 横浜滞在中に久しぶりに食べたラーメン二郎(関内店)は思いの外おいしかった。コインランドリーで洗濯物をまわしていなければ、スープまできちんと飲み干したいと初めて思った。


 研修が終わったあとは、研修で仲良くなった栃木から来た女性に桜木町まで送ってもらった。
 研修では多くの人と会話をしたけど、この車中での一時間ほどのドライブがなぜかやたらと楽しかった。半分くらいは語学や留学の話をしていて、途中から小説や音楽の話をしていた。
 気が合う、というほどではないけれど、こういう文化的な話を誰か一人の人とずっと交わすというのも、なんとなく学生時代に戻ったような気がして楽しかった。栃木弁?の強い会話だったけれど、だからこそやたら印象的だった。
 仲良くなった何人かのメンバーでLINEのグループが作られていて、やりとりをゆるゆる続けている。

 桜木町から乃木坂まで行って国立新美術館で行われている「ニッポンのマンガ、アニメ、ゲーム展」を見た。
 これに合わせて東京に行こうと考えていたくらいなので、ちょうどいいタイミングで研修の日程が組まれたことはわりと感謝している。
 せっかくなのでと思ってネットで人を募ったらなつかしいメンバーが集まり、合わせて6人でまわると3時間も費やしていた。ゲームは体験できるものも多いし、一人で行くよりは何人かでわいわいがやがややりながら見るのがとても楽しい展示だなと思う。

 そのあと日比谷野音で9nineのライブサーキットツアーファイナルを見届けたあと(雨降りの野音だったが虹が覗くという素晴らしい演出があった)にオフ会のメンバーと合流し、遅くまで飲んだくれていた。研修中も逗子まで出て飲んだくれていたし、ラーメンばかり食べていた関東滞在だったなと思う。
 滞在最後の日は午前中はのんびり過ごし、昼は中野の大勝軒でつけ麺を食べ(オヤジさん追悼の意を少しだけこめた)、新宿に出て髪を切った。Neoliveという東京にいくつも店を持つサロンの、去年オープンした新店に行ってきた。
 というのは東京を離れる前に髪を切ってもらった知り合いの美容師がこの店に移籍していたからで、以前の店と比べると単価がいくらか上がっている分、かなりオサレな空間で若干ビビったりもした。長らく会っていないはずなのに、出会ったことのことからちゃんと覚えていてくれて嬉しさを覚えつつ、美容師の記憶力のすごさに感動した。
 「そりゃ、最初は店の外で出会ったんだから覚えてますよ!」って言ってたけどいやそれでもすごいでしょ、と返さずにはいられない。あと同い年なこと完全に忘れてましたスミマセヌ、ということと同い年がすでにキャリア5年(専門卒だから)だということを知ると、ああなるほどそういうことかとも感じる。
 久しぶりに会えて単純に楽しかったし、以前会ったときよりも大人っぽくなっていて素敵だった。また東京に、新宿に寄ったときはと声をかけたらまた別の店舗に移籍する見込みらしい。美容師業界はあわただしい(のかな)。

 そのあと紀伊國屋本店で上田岳弘の『私の恋人』を買った。ちゃんと読んでなかったので、ちゃんと読む。
 そのあとまた昔なじみのメンバーに純文学の話を長らくしたあとまた酒を飲み、バスに乗って帰路についた。短いようで長い滞在のうちに、また多くの人とコミュニケーションをとれて非常に充実した日々だった。

 という、ことについてもっと細かく書こうかと思ったけど、完全に日記みたいになってしまった。
 もっとも、一番嬉しかったのはジュンク堂池袋店のイベントで敬愛する柴崎友香に会えたことだ。
 いままでなかなか機会がなくて、初めてで、サイン会もあったから話をしてサインをもらい(サイン本は持ってるけど、改めてああ、ほんとに柴崎だ、と思った)ああもうこれで後悔はなにもないのではないかと大げさな感想を持った。
 でも、自分にとってとても重要な人と直に話をできるというのはほんとうに代えがたい体験だったのは事実で、いつかまたどこかで会いに行こうと思うには十分だった。その日が訪れるまで、また。




私の恋人
上田 岳弘
新潮社
2015-06-30







 つけ麺は基本的に苦手だけど、大勝軒のつけ麺はやさしい味がするので好きだ。
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 羽田圭介を読むのはそういえば久しぶりだなと気づいたのは読み始めてしばらくしてからで、そしてそもそもこういう文体をする人だったのかとも考えたが、高齢者介護問題という社会派になりそうなテーマを投げてきたわりには純文学の方面に流れていくのは羽田の腕なのだろうと思う。後半の展開はある意味エンタメといっちゃエンタメだけど、タイトルにおける「スクラップ」と「ビルド」の妙味、この分離と重なり合いが見せる物語の行く末は、そうやすやすと作れるものではない。

 三流大を出た後カーディーラーを5年つとめたあと職を辞め、行政書士の資格の勉強(という名目だと思う)をしながら祖父の介護を行う健斗が主人公。羽田圭介の書くキャラクターがいくらかぶっとんでいるのはおなじみであるが、職を辞して資格の勉強というあたりは、作家生活に不安を感じて公務員試験の勉強をしていたという27歳ごろの羽田(であったと、第153回芥川賞の受賞会見で話していた)をちょっとダブらせてしまう。

 まあそれはさておき、健斗は20代の貧困を象徴しているし、認知症が進行する祖父は祖父で人生の終わりが近づいている。二人はそれぞれ生き延び方を模索しないといけないはずだが、先は遠い。祖父に対する健斗の母の視線も冷たく、デイやショートに通所する以外は健斗に頼るという日々を送っていた。健斗は健斗で、祖父の介護を引き受けざるをえない自分自身の境遇を改善するために、特養に勤務している友人と会食をすることになる。

 そこで出てくるのが「足し算の介護」、「引き算の介護」という発想だ。前者はバリアフリーの発想に近い。要は、要介護者によって快適な生活を保障することを目指す支援のあり方だ。けれども後者、「引き算の介護」が比較としてあげられるのは、「足し算の介護」は「要介護者のためになるのか」どうかはあやしいからである。たとえば手すりをつけることで歩きやすくはなるが、常に手すりを持ちながら歩くことになってしまうと手すりのないところでは生きていけない。何かを足すことで、生活の質はあがる。けれども、生活の質を上げることが返って身体の質を損ねるのならば、実はこの二つの質はトレードオフなのではないかという視点が産まれる。

 ここであえて健斗が「足し算の介護」を試みるのが面白い。「引き算の介護」をしたほうが身体の質は低下しない。身体の質を保つことは生活の質の保証にもつながりうる。けれども「足し算の介護」を試みるのは、祖父の早く死にたいとつぶやく言葉を実現するためだ。健斗はこのように考える。そして彼は自分自身の身体の質を向上しようと試みる。身体の質を低下させて死へ誘う死に神のような存在たる健斗は、マッチョ化する現代の若者という不思議な構図になるのだ。

 健斗には亜美という恋人がいて、身体の質を向上させていく健斗のセックスに亜美は満足感を覚える。しかし自分では努力しようとしない亜美に対しての不満を募らせていく。がんばらない人は嫌いです、というのはなんという意識の高さかと思ってしまう(そしてそれはストイックさとも無縁である)が、だらだらと家にこもって行政書士の勉強をしていたころの健斗は存在しない。健斗にとってもおそらく予想外の流れでありながら、身体の質の向上が生活の質の確保につながりうることを示している。

 対して祖父のほうはどうか。祖父は健斗の思わぬ方向で生き延びようとしていく。多くを書くとネタバレになるので書かないが、本作のテーマは介護問題であるけれど、それはあくまで世代間対立のツールとして使っているだけであって、羽田自身が介護にどうこう言いたいわけではおそらくない。身体の質を向上させることで周りを違った目線で良くも悪くも見てしまう健斗自身の身勝手と、健斗の身勝手が招いた祖父の意外な余生は、それが重なり合うことでようやく意味を持つ。

 健斗の思い通りにすべてが運んでいたのなら、健斗と祖父の間の断絶は続いたままだ。身体の接触はあれど、すでに家庭内でのけ者にされている祖父との心理的距離は縮まりようがない。だからその先へ進むためにはいかに意外性を容易するかが重要なのだと祖父はその身を以て示す。人間の可能性と言えば大げさだが、祖父はもちろんはじめから祖父であったわけでもなく、長い人生、歴史を背負った一人の生き証人であるということを、案外(特に世代が遠くなればなるほど)見逃しがちである。祖父であること、要介護者であるということ、そうした属性をとっぱらった上で一人の生身の人間が生きていて、さらに生き延びようとしていること。それ自体にどのように向き合えばいいのか。それがおそらく本作の根本的なテーマであろうと、当初辿り着くとは思えなかった結末を読み終えて、強く思う。

 同時受賞の又吉直樹の『火花』にしても、主人公と先輩という異なる世代のコミュニケーションが主な小説だった。後輩は先輩をいずれ超えていくようにできているかもしれない。でも年齢は超えられないし、家族の関係は容易には変わらない。超えられないからあきらめるのか、つきはなすのか。いや、それ以外もいくらでもあるんじゃないか。そんな希望的観測も少し感じるほど、高齢者介護の問題を取り上げた小説にしてはすがすがしい小説だった。


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