今年の群像新人文学賞受賞作。
例によって著者のコメントと選評を読んで、あえてバイアスをいくつか入れ込んでから読み始める。(そうでもしないと、どこの誰かも分からない文章をいきなり最初から読むのはちょっとしんどい)
読み始めてすぐに非常に読みにくい小説だということがよく分かる。これも例によって図書館で読んだことによって手元にないのですぐに引用することはできないが、まあやたら複雑にメタにメタに書かれた文章を読者は読まされることになるのだ。よくこれが下読みを順調に通過して一番最後まで上がってきたものだと思う。
純文学である以上、その筋よりも文体という形式にこだわりを見せるのは珍しいことではない。なんらかのオリジナリティや新規性を織り込まずして、新人が評価を受けるのは難しい。
だからなのかどうなのかは分からないが、本作は作家のこだわりだらけである。書いていたらとりあえずできあがったものを、なんとなく群像に応募したというようなことを乗代は受賞コメントで述べていたが、過度に力を入れずにこういうものを書くとしたらその時点でまずめんどうくさい作家だ、と思う。とはいえそれ自体は悪いことではないのだろう、あくまで読み物として面白いのならば。
内容は「十七八より」とあるとおり、ある女性が少女(女子高生)だった17, 18だったころを回想する形の文章になっている。体育教師のセクハラめいた言動から始まり、国語教師との世阿弥『風姿花伝』をめぐるやりとりや、家族とのなにげないとは言えない焼き肉屋での風景、あるいは病院の待合室での叔母とのやりとりなど、多様なコミュニケーションの記憶がつまっている小説だ。
ひととおり時系列で少女の記憶を追いかけてはいるが、それ以上のことをあえて試みているとは思わない。むしろ、『群像』誌面の紹介文にある「凝りに凝った文体」にあえてだまされるか、だまされないように筋を追うかという大まかに分けて二つの読み方ができる。
要は、少女の過去を語るのは少女のようでいて少女ではない。それがまず一つのトリックであり、とはいえ書き手が小説に登場しているわけではない。少女の意識に覆い被さるように(メタ的に)表れるのが著者という神の視点だ。
その神がやたらしつこいので選評では割れているが、それでも最終的に本作が選ばれたのは、何人かが述べていたようにこれが受賞作であることについては(〇や△をつけていなくても)同意するという合意がとれたからなのだろう。
確かに、焼き肉のシーンにしても世阿弥に関する問答、あるいは病院での叔母とのやりとりのあとに目の前で生じる一瞬の緊張感など、作家としての力は随所に示している。とはいえそのしつこさが果たして必要だったのかはまだ別の話だ。
結局のところ、書き手の自意識に少女は付き合わされるし、読者は付き合わされる。めんどくせえなあと思いながら読んでいたら、それでも引き込まれてしまうのは少女を中心としたコミュニケーションを書くことに特化した面白さがあったからだ。
しかしまあ、良くも悪くも評されやすい書き方を選ばなければならなかった必然性は、前述したようにない。書き手の都合というか気分のようなものがそのまま表れていることや、ウェイン・ルーニーの比喩で性を語る女子高生なんてのは分かりやすくフィクショナルな産物だ。
面白い箇所はたくさんあった。し、それと同じくらいめんどうくさいと思う箇所もたくさんあった。そしてやたらしつこいくらいの引用は、書き手としての能力の高さというよりは読み手である自分(作者)が顕示したものだろう。それも含めてやっぱりこの小説はめんどうくさいのだ。それ以外のことは、いまのところまだ何も言えないし言いたくない。