監督:安藤真裕
脚本:岡田麿里
見:シネマサンシャイン池袋
否定的な書き方ならきっといくらでもできるのだろうと思う。
たとえば長さ。62分という短くもないが長すぎるとは言えない長さの中で何を表現できるか。秒速5センチメートルは70分ほどで3つのオムニバス短編を鮮やかに描いたが、花いろの場合はテレビアニメを経ての劇場版なので、何かしらの後付け、ということになる。テレビでは見られなかったものをやる。けれど、あえて映画という手法をとる必要はない。なぜ、映画なのか。
キャラの書き分けも結構中途半端だ。主に3つの話が軸としてこの映画は進んでいく。ライバル旅館の娘である結名が喜翠荘に「修行」しにくるのがひとつめ。緒花が古い業務日誌を偶然見つけることで(この偶然は結名がもたらしたものである)母である皐月が10代だったころの歴史を知るのがふたつめ。もうひとつは、菜子と家族の関係で、主に姉弟のなかで歳が離れている菜子が母親役をつとめることの献身さと苦悩が描かれる。この3つはそれぞれにアニメの1話分に相当するくらいの幅を持っているし、緒花と皐月のエピソードは2,3話分くらい費やしてもおかしくない。ということを考えても、十分に詰め込みすぎてはいる。
だから考えてみるべきなのは、なぜ映画という手法をとり、なぜ複数の軸で展開される話を詰め込んだのか、だ。
映画であるがゆえの効果は、実はテレビアニメのときにすでに表れている。アニメのOPが象徴的なように(特に2クール目は)、空間の内外を問わずこのアニメのキャラはよく走る。とにかく走る。何かに向かって走る場合もあれば、ただ走る場合もある。
この劇場版でもよく走る。緒花はもちろん、結名も地味に走っているし、皐月も走る。最後のあのシーンは、かなり自覚的に作られたのではないかと思うほど、走るという構図がこのアニメには頻繁に出てくるし、それこそが何より重要なのだろうということが伝わってくる。
テレビアニメで緒花が発する、「わたし、輝きたいんです」という言葉が劇場版でもよく引き合いに出される。当人である緒花であっても、時間の経過を実感するように、あのときとは少し違うのではないか、と小さな不安を抱える。だからこそ、母親である皐月の過去を知る、というエピソードが効果的に効いてくるし、もうひとつの発端はさっきも書いたように結名のアシストがなせる業だ。
テレビアニメが四十万家、松前家の血の物語として幕を下ろしたように、劇場版でも血の物語は引き継がれる。というより、もう一度描写するために映画を持ち出したというのが適切だろう。その大きな根拠のひとつに、テレビでは言葉でしか言及されなかった緒花の実の父親(つまり、皐月の以前の夫)が登場することがあげられる。
ある意味では蛇足と言ってもいい。ぼんぼり祭りという大きなイベントに向かってテレビアニメは終盤に加速度を増し、緒花の物語として26話の幕を下ろす。あとは、また以前の日常が続いていくだけであって、おそらくぼんぼり祭りほどのインパクトは描けない。
そのことに対してもおそらく自覚的であろうと、この劇場版を見て思う。何かが起こることがこの映画の主眼であるというよりは、何かに「気づく」ことが主眼になっているからだ。その意味では、緒花も、菜子も、そしてやや萱の外というか、扱いの小さくなってしまっている民子にとっても同様だ。そしてその効果というのは、大人になることの価値と痛みを知ることでもある。
で、今回のタイトルに使った「想いのリレー」という言葉は脚本を書いている岡田麿里がパンフレットで使っている言葉である。というか、ここでの彼女の言動がこのアニメ(テレビ、劇場版含め)の核心を言い当てていると思うので引用したい。
走ることについてはさっきからさんざん書いたけど(このパンフ読む前から同じことは考えてたので)めっちゃ自覚的ですね、というのがひとつ。テレビアニメの公式ガイドでも仕事をするということをいかに肯定的に前向きに表現できるか、ってのは語ってた気がするが、基本的にはテレビの延長なんだなーっていう見方は間違ってないんだろうと思う。
というのと、リレーという言葉を明確に使ったのも、三代の血の物語を軸にさらにそれを掘り起こす、というこの劇場版のねらいがあるからだろう。あ、てかこの文章もうそろそろ締めていいかもしれないですね。
リレーとは繋ぐことだ。何と何を繋ぐのか。ひとつは過去から現在へであり、現在から未来へという時間軸だ。そしてもうひとつは、湯乃鷺(この地名は実在しないが、モデルになったのは金沢のある場所)と東京という場所だろう。皐月自身が場所を越えることを願い、そしてそれを実現したが痛みも伴ったし、得たものもあれば失うものもあった。緒花はそれらの歴史をほとんど知らないに等しい状況のなかで生きてきたし、今現在の生身の皐月と緒花が向き合うことはテレビアニメでもよくあったが、皐月の過去を知るという機会はほとんどなかった。
緒花にとって皐月の過去を知ると言うことは、自分がどのように生まれてきたのかを知ることでもある。それは文字通り命のリレーであるが、場所を越える痛みを伴っている。具体的なものよりも、精神的な意味、つまり決断は決別といった、何かを決めなければならないという状況の中で、いかなる選択を皐月がしてきたかだ。それらを緒花が知るということは、皐月の選択によってもたらされたもの、あるいはもたらされなかったものを情報としてリレーすることを意味するだろう。
これはもう長く触れることはしないが、命のリレーをもっとも等身大に理解しているのはきっと菜子だ。彼女は3人の弟や妹たちの前で、姉としてはもちろん、母のように振る舞わなければならない。それを菜子は自覚しているけれど、彼女とて緒花や民子と同じ10代の女の子だ。緒花が菜子に対して、大人みたいだと思ってたけどやっぱりそうじゃなかった、というような趣旨のセリフを発するシーンがあるが、これは菜子にとって意味があるだけでなく、菜子にとって子どもが大人を演じるということがいかに自分の負担になっていたかを緒花が外部から実感するという意味でも重要になっている。生きることは難しいけれども、かといって抑圧や演じることで困難さを回避することがすべてではない。いつかその困難さと向き合うことができれば、いつのまにか背負っていた重荷を少し軽くすることもできるのだ。
つまるところ、この重層的で複数的な想いのリレー(これは欠点でもあるエピソードの詰め込みによってもたらされるものだ)は人生をいかに生きるか、につながってくる。もちろんその生き様は人によって異なるから、はっきりといった答えは自分自身が決断するしかない。そのために、過去や歴史を知ることや、抑圧を解き放すこと、あるいは独りよがりを脱すること(民子が料理修行をするいくつかのシーンでこれは描かれている)など、いくつかの方法がここで提示される。
とはいえ、もっとシンプルに考えることもできる。それは映画の最後に、若かりしころ、幼い緒花を携えた皐月が発するそのセリフに、十分なほど表現されているといっていい。まあでもそれが現実にはなかなか難しいから、岡田麿里は仕事という誰もが向き合わなければならない事態を、向き合わなければならないからこそ前向きに、肯定的に描こうとしたのではないか。
こう書くときれいに一本線がつながったような気はするけれど、でもまあそれらは岡田麿里が自覚的に言っているようにすでにテレビアニメに散りばめられてきたことでもある。最初の問いであるなぜ映画なのか、という問いに戻ると、OVAというマニア向けのものではなくて、もっとポピュラーで、もっと一般的でアクセシブルな手法を使った、ということもできるだろう。そのほうがきっと、このアニメが描きたかったものや岡田麿里が伝えたかったことのためにはふさわしいし、何よりアニメの地元金沢や能登、モデルになった湯桶への祝福でもある。
キャスト、スタッフ、そして地元の人たち。もう一度、もう一度「花咲くいろは」という作品で、一体となって盛り上がりたいというその心意気を、わたしたちは覚えておいていいはずだ。
関連エントリー:「花咲くいろは」を待ち望んでた日々を (2012年1月14日)
脚本:岡田麿里
見:シネマサンシャイン池袋
否定的な書き方ならきっといくらでもできるのだろうと思う。
たとえば長さ。62分という短くもないが長すぎるとは言えない長さの中で何を表現できるか。秒速5センチメートルは70分ほどで3つのオムニバス短編を鮮やかに描いたが、花いろの場合はテレビアニメを経ての劇場版なので、何かしらの後付け、ということになる。テレビでは見られなかったものをやる。けれど、あえて映画という手法をとる必要はない。なぜ、映画なのか。
キャラの書き分けも結構中途半端だ。主に3つの話が軸としてこの映画は進んでいく。ライバル旅館の娘である結名が喜翠荘に「修行」しにくるのがひとつめ。緒花が古い業務日誌を偶然見つけることで(この偶然は結名がもたらしたものである)母である皐月が10代だったころの歴史を知るのがふたつめ。もうひとつは、菜子と家族の関係で、主に姉弟のなかで歳が離れている菜子が母親役をつとめることの献身さと苦悩が描かれる。この3つはそれぞれにアニメの1話分に相当するくらいの幅を持っているし、緒花と皐月のエピソードは2,3話分くらい費やしてもおかしくない。ということを考えても、十分に詰め込みすぎてはいる。
だから考えてみるべきなのは、なぜ映画という手法をとり、なぜ複数の軸で展開される話を詰め込んだのか、だ。
映画であるがゆえの効果は、実はテレビアニメのときにすでに表れている。アニメのOPが象徴的なように(特に2クール目は)、空間の内外を問わずこのアニメのキャラはよく走る。とにかく走る。何かに向かって走る場合もあれば、ただ走る場合もある。
この劇場版でもよく走る。緒花はもちろん、結名も地味に走っているし、皐月も走る。最後のあのシーンは、かなり自覚的に作られたのではないかと思うほど、走るという構図がこのアニメには頻繁に出てくるし、それこそが何より重要なのだろうということが伝わってくる。
テレビアニメで緒花が発する、「わたし、輝きたいんです」という言葉が劇場版でもよく引き合いに出される。当人である緒花であっても、時間の経過を実感するように、あのときとは少し違うのではないか、と小さな不安を抱える。だからこそ、母親である皐月の過去を知る、というエピソードが効果的に効いてくるし、もうひとつの発端はさっきも書いたように結名のアシストがなせる業だ。
テレビアニメが四十万家、松前家の血の物語として幕を下ろしたように、劇場版でも血の物語は引き継がれる。というより、もう一度描写するために映画を持ち出したというのが適切だろう。その大きな根拠のひとつに、テレビでは言葉でしか言及されなかった緒花の実の父親(つまり、皐月の以前の夫)が登場することがあげられる。
ある意味では蛇足と言ってもいい。ぼんぼり祭りという大きなイベントに向かってテレビアニメは終盤に加速度を増し、緒花の物語として26話の幕を下ろす。あとは、また以前の日常が続いていくだけであって、おそらくぼんぼり祭りほどのインパクトは描けない。
そのことに対してもおそらく自覚的であろうと、この劇場版を見て思う。何かが起こることがこの映画の主眼であるというよりは、何かに「気づく」ことが主眼になっているからだ。その意味では、緒花も、菜子も、そしてやや萱の外というか、扱いの小さくなってしまっている民子にとっても同様だ。そしてその効果というのは、大人になることの価値と痛みを知ることでもある。
で、今回のタイトルに使った「想いのリレー」という言葉は脚本を書いている岡田麿里がパンフレットで使っている言葉である。というか、ここでの彼女の言動がこのアニメ(テレビ、劇場版含め)の核心を言い当てていると思うので引用したい。
テーマは、個人的には”想いのリレー”です。『花いろ』のオープニングって、一期も二期も走りまくるんですよね。もともと走るシーンを書くのは好きなのですが、オリジナル作品だと「言葉で説明できない感情が押し寄せて、じっとしていられない」という気分を乗せることが多い。でも『花いろ』のオープニングで走る緒花達は、どこに行こうとしているのかはわからないけれど、確実に「どこか目指してるんだな」って言うのがわかるんです。その感じを、シナリオにも生かしてみたいと思いました。「名前のついた感情を抱いて、まっすぐ走る」感じ・・・・・・と言えばいいのかな。その姿って、『花いろ』本編でさんざん悩んできた”仕事”というものの、ある意味での答えになるかなって思ったんです。
走ることについてはさっきからさんざん書いたけど(このパンフ読む前から同じことは考えてたので)めっちゃ自覚的ですね、というのがひとつ。テレビアニメの公式ガイドでも仕事をするということをいかに肯定的に前向きに表現できるか、ってのは語ってた気がするが、基本的にはテレビの延長なんだなーっていう見方は間違ってないんだろうと思う。
というのと、リレーという言葉を明確に使ったのも、三代の血の物語を軸にさらにそれを掘り起こす、というこの劇場版のねらいがあるからだろう。あ、てかこの文章もうそろそろ締めていいかもしれないですね。
リレーとは繋ぐことだ。何と何を繋ぐのか。ひとつは過去から現在へであり、現在から未来へという時間軸だ。そしてもうひとつは、湯乃鷺(この地名は実在しないが、モデルになったのは金沢のある場所)と東京という場所だろう。皐月自身が場所を越えることを願い、そしてそれを実現したが痛みも伴ったし、得たものもあれば失うものもあった。緒花はそれらの歴史をほとんど知らないに等しい状況のなかで生きてきたし、今現在の生身の皐月と緒花が向き合うことはテレビアニメでもよくあったが、皐月の過去を知るという機会はほとんどなかった。
緒花にとって皐月の過去を知ると言うことは、自分がどのように生まれてきたのかを知ることでもある。それは文字通り命のリレーであるが、場所を越える痛みを伴っている。具体的なものよりも、精神的な意味、つまり決断は決別といった、何かを決めなければならないという状況の中で、いかなる選択を皐月がしてきたかだ。それらを緒花が知るということは、皐月の選択によってもたらされたもの、あるいはもたらされなかったものを情報としてリレーすることを意味するだろう。
これはもう長く触れることはしないが、命のリレーをもっとも等身大に理解しているのはきっと菜子だ。彼女は3人の弟や妹たちの前で、姉としてはもちろん、母のように振る舞わなければならない。それを菜子は自覚しているけれど、彼女とて緒花や民子と同じ10代の女の子だ。緒花が菜子に対して、大人みたいだと思ってたけどやっぱりそうじゃなかった、というような趣旨のセリフを発するシーンがあるが、これは菜子にとって意味があるだけでなく、菜子にとって子どもが大人を演じるということがいかに自分の負担になっていたかを緒花が外部から実感するという意味でも重要になっている。生きることは難しいけれども、かといって抑圧や演じることで困難さを回避することがすべてではない。いつかその困難さと向き合うことができれば、いつのまにか背負っていた重荷を少し軽くすることもできるのだ。
つまるところ、この重層的で複数的な想いのリレー(これは欠点でもあるエピソードの詰め込みによってもたらされるものだ)は人生をいかに生きるか、につながってくる。もちろんその生き様は人によって異なるから、はっきりといった答えは自分自身が決断するしかない。そのために、過去や歴史を知ることや、抑圧を解き放すこと、あるいは独りよがりを脱すること(民子が料理修行をするいくつかのシーンでこれは描かれている)など、いくつかの方法がここで提示される。
とはいえ、もっとシンプルに考えることもできる。それは映画の最後に、若かりしころ、幼い緒花を携えた皐月が発するそのセリフに、十分なほど表現されているといっていい。まあでもそれが現実にはなかなか難しいから、岡田麿里は仕事という誰もが向き合わなければならない事態を、向き合わなければならないからこそ前向きに、肯定的に描こうとしたのではないか。
こう書くときれいに一本線がつながったような気はするけれど、でもまあそれらは岡田麿里が自覚的に言っているようにすでにテレビアニメに散りばめられてきたことでもある。最初の問いであるなぜ映画なのか、という問いに戻ると、OVAというマニア向けのものではなくて、もっとポピュラーで、もっと一般的でアクセシブルな手法を使った、ということもできるだろう。そのほうがきっと、このアニメが描きたかったものや岡田麿里が伝えたかったことのためにはふさわしいし、何よりアニメの地元金沢や能登、モデルになった湯桶への祝福でもある。
キャスト、スタッフ、そして地元の人たち。もう一度、もう一度「花咲くいろは」という作品で、一体となって盛り上がりたいというその心意気を、わたしたちは覚えておいていいはずだ。
関連エントリー:「花咲くいろは」を待ち望んでた日々を (2012年1月14日)