2013年02月

2013年02月28日

そしてまた今年も2月が終わる

そして2月が終わる(2011年2月28日)
そして今年も2月が終わる(2012年2月28日)

 2月は俺にとって特別な月だ、ということは以前書いたような気がする。今年は書くつもりはなかったんだが、そういえば今日で2月が最後かと気づくとなにかしらのこみあげるものはあるし、去年、一昨年と続いてきたことでもあるので、内容どうこうよりはいましか残せないものを今年も残しておこう、という気持ち。
 2年分を読み返すと文章の書き方がだいぶ違っていて面白いし、そのときその周辺で何が起こっていたか、あるいは何に、誰に関心を持っていたかが分かるようになっている。ストック型のブログはこういうところにすぐれているなと思い、いまでも日記的な使い方をしているんだろうな、と思う。

 大学生だった時期が終わると、ある種の輝いていた時代に幕を下ろした印象がある。もう同学年の多くの人たちは仕事を持って働いていることもあってか、モラトリアムが伸びたことに後ろめたさを感じないと言えば嘘になる。それでも、そうやって後ろめたさを抱えつつも歳をとって生きていく、ということを改めてかみしめることで、自分なりの姿で前を向いていけるかもしれないな、とも感じている。
 去年書いた、「歳をとることを肯定的にとらえる」云々のことが、ちょっとだけ実感を伴ってきたかもしれない。

 最近「雲のむこう、約束の場所」という映画を見た。新海誠の劇場2作目で、しばらく前に一回見たはずなのだが見返してみると内容をあまり覚えていなくて、純粋に楽しみながら見た。

劇場アニメーション「雲のむこう、約束の場所」 [Blu-ray]
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 バイオリンを弾く男女ふたりのジャケットがきれいなように、映画もとてもきれいな映画だった。
 ややネタバレになるが、これはふたりが出会うための物語なのだと思った。ひき離されてしまったふたりが再び出会うための、青臭い物語だ。
 「ほしのこえ」はひき離されていく男女のコミュニケーションを描き、「秒速5センチメートル」では時間軸を少年少女の成長過程と合わせることで、次第に離れていくふたりを描いた。他方、本作は離れてしまったふたりがもう一度出会う物語だ。「秒速5センチメートル」では、もう出会うことはないと分かるまでの過程が描かれることとは対照的に見える。しかし、再会したふたりにも、「秒速」のような形での別れが今後成長するにつれて起きないとは言えない。
 こういう見方をすると、「雲の向こう」から「秒速」は地続きの印象を受ける。どちらの主人公も、成長してあとは東京で暮らしているというのも印象的だ。未成熟な出会いの物語は地方の小さな町で描かれるが、成熟した一個人は東京のような大都会で、誰かとつながっていなくても生きていかなければならない。

 このエントリーの最初に輝いていた時代、という言葉を用いた。未成熟がゆるされる学生時代のあと、つまりはそれを踏み越えたときには成熟が前提の社会だ。未成熟なままではいられない。だから「雲のむこう」の主人公も、「秒速」の主人公も苦しむ。
 とるべき進路はふたつあって、もがきながら成熟していくか、未成熟なまま苦しみ続けるか、だろう。いずれにせよ選択をしなければならない。
 こうして考えると学生時代がモラトリアムと呼ばれるのがよく分かる。永遠に続かないがゆえに、その時代は輝いて映る。

 ひとつ歳をとり、もうすぐ卒業から1年という今あらためて、過去を振り返りながら未来について考えている。

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2013年02月26日

「主題歌」における「女子」と「日常」の読み解き ―柴崎友香『主題歌』(2008年/2011年)

主題歌 (講談社文庫)
主題歌 (講談社文庫) [文庫]


 たまたま池袋のリブロのサイン本コーナーにこの本の単行本が置いてあったので手にとった一冊。もう文庫もでてるけど、柴崎さんのサイン見てみたい!と思い購入した。3作収められていて、表題作「主題歌」は芥川賞にノミネートされた掌編。他2作は「六十の半分」と「ブルー、イエロー、オレンジ、オレンジ、レッド」という比較的短めのものがおさめられている。「ブルー、イエロー、オレンジ、オレンジ、レッド」が柴崎の文芸での実質的デビュー作、という位置づけらしい。

 「主題歌」については柴崎には珍しく三人称を採用しているのと、にもかかわらずいつもの柴崎の小説として読めるという面白さがある。日常のなかの手の届く範囲の人間関係と幸福感を享受する女性たち、という形ももうお手の物、という気配さえ感じる。その上で本作で試みているのは、女性が女性を見るまなざしで、端的に言えば女性が女性に対する「かわいい」という感覚を小説にちりばめれている、といったところが一番の読みどころだろう。

 帯には「『女子好き』な女性たちのみずみずしい日常の物語」とある。これは2008年刊行で初版のときの帯なのだが、すでにこのころに「女子」という言葉が消費の対象として認識されていることにやや驚いた。言うまでもなく「女子力」ブーム然り、○○女子や○○ガールといった言葉が巷にあふれかえっていて、「女子」が欲望や消費の対象になっているという意味でそれを問題視する向きもある。AKB48グループに代表されるアイドルはその典型だろう。また、ジェンダー的な非対称性を強調しているという意味では、ある種のバックラッシュが見られる。まあこれだけで一つの文章が書けるくらいなので詳しくは述べないが、他方で女性が「女子」を欲望することが十分に語られているとは思わないし、既存の語りのなかでもブラインドになっている印象を受ける。

 前置きがやや長くなったが、女性が女性としてカジュアルに楽しむこと、女性が女子という存在をカジュアルに欲望することが、柴崎の書く「日常」の物語のなかで中心的に書かれているということにはなんらかの意味があると思う。「日常」をあえてかっこにくくったのは、当事者である彼女たちにとっての日常はその周辺、特に男性にとっては異質の次元にうつるものであって、とても日常的な空間ではない。いわゆる「女子会」のようなシーン(俗な言葉で言うと宅飲み)が後半に書かれているが、まだこのころには「女子」という言葉はあれど「女子会」という言葉はなかったように思う。かといって先駆的というほどのことではきっとなくて、カジュアルに女性が女性でいられるということは、ある意味男女雇用機会均等法が浸透し、女性であっても仕事があり稼ぎがあり、といったなかではごくごく自然な光景なのかもしれないと感じた。

 アニメの世界では日常系と呼ばれるジャンルがあって、その中では主に女の子たちの学校生活や街でのコミュニケーションを描写していくスタイルがとられている。四コママンガが原作であるものが多く、大きな筋書きがないわけではないがどちらかというと背後にあり、その上で女の子たちのコミュニケーションを前面に出すことが多い。ここで恋愛は多くの場合で排除され、友だち同士や、せいぜい先輩後輩同士の関係を書き、異性としての男の子も排除されることが多い。

 柴崎友香の小説に置き換えると、本書の「六十の半分」には親子の関係が描写されているが、「主題歌」では女友だちや女性の同僚とのコミュニケーションが前面にある。会社生活の描写もあるので異性は排除されないが、影は薄い。他の柴崎の小説はもっと男性と女性の関係性がフラットに書かれている印象を受けるので(恋愛関係は含みつつなので文体のせいかもしれないが)「主題歌」を読みながら感じたことは、いつのまにか日常系アニメを見るように読んでいた、ということだった。もちろん、アニメ的なセリフの脚色まではないものの、カジュアルに女子同士のコミュニケーションを楽しみ、そして消費しているさまはアニメ「けいおん!」における部室のイメージと重なる。けいおん!の女の子たちの未来がここにある、は言い過ぎだと思うけど、「主題歌」もある世代(柴崎ともほど近い世代)の同世代感を出しているのは着目すべきだろう。

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 残りの2本について。「六十の半分」と「ブルー、イエロー、オレンジ、オレンジ、レッド」はどちらも25ページ前後しかない短編だが、柴崎らしさは垣間見える。「六十の半分」は短いながら電車で出会ったおばあちゃんの話を聞くという形で戦争体験のエピソードが挿入されていて、『わたしがいなかった街で』を発表したいま振り返ると、戦争という道具を使って過去と現在をつなげるということはこのときから意識していたのかもしれないとも(こじつけかもしれないが)見てとれる。表題にも六十という数字が入っているが、短い話のなかの短い会話のなかで時間の流れを表現するのは容易ではない。その意味ではコンパクトではあるが秀作である、と思いながら読んだ。

 「ブルー、イエロー、オレンジ、オレンジ、レッド」はWikipediaの記述によれば改題前の「「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」という作品が1999年に文芸誌にのり、柴崎が作家としてのデビューを果たしたとされている。一人称でつづられるカメラアイ、具体的な(大阪の)地名を記述しながら歩き、人と出会う主人公。色がタイトルになっているように、カメラアイで進む記述は具体的な色をもって読者の前に表れる。過剰なものではなくリアルな、どこかにありそうなものとして。

 「主題歌」に関しては内容のレビューというよりは「日常」という切り口からの解題、みたいになってが、そもそも「日常」と「非日常」の差異についてきちっと詰めないとこの方法は不十分になる。だからすでに日常とジャンルされるアニメを持ち出して文章を書いてみたが、この小説そのもののなかから「日常」を論じることをどこかの機会でやってもいいなと思った。そのためには再読が必要だろうけども、「日常」とはなにかを考えることは「非日常」とはなにかを考えることであるし、どちらも主観的で環境的なものである以上、実は本質的に普遍的なものではないということも留意する必要がある。にもかかわらず日常系アニメの光景を日常だと感じる(あるいは、感じてしまう)ことや、「主題歌」という小説が日常という言葉でくくられることそのものはいったいなぜなのか、ということも考えることができるだろう。

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 しかしながら長くなったし小説のレビューからは離れていくので今回はこのへんで!たまにこういう感じの文章も息抜きしながら書けたらな、と思います。最初のほうとかやや雑に書いてしまった感はあるが。
 そういえば24日に発表された第3回Twitter文学賞では『わたしがいなかった街で』が国内編3位になったようで、Ustで発表会的なものを見ていたら柴崎さん本人からのメッセージも届いていた。自分も投票したひとりとしておめでとうございます、とこの場でぼそっと。

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2013年02月24日

終わりを見据える美学か、生への執着か―綿矢りさ「大地のゲーム」

新潮 2013年 03月号 [雑誌]
新潮 2013年 03月号 [雑誌]


・『新潮』3月号掲載の綿矢「大地のゲーム」を読んであれやこれや考えてたら案外に時間が経っていてこわい。いくつかはメモ的に書いたのであとで文章にしたいと思う。主要人物に固有名がないのはなぜか。なぜ「私」は「リーダー」に惹かれ、にもかかわらず殺意を持つようにいたったのか。

・なぜこのテーマを選んだのか。設定を近未来にしたのは(あくまで記述される設定レベルで描写として近未来っぽさはないが)なぜか。なぜ綿矢は利他性ではなく利己性を肯定するような筋書きにしたのか。なぜゲームという言葉を用いてこの小説を書いたのか。

・あらすじを読んで内容に入ったものの、ミニマルな人間関係とその変容を一人称で記述していくという意味では綿矢らしいといってもいいスタイルなのだと思う。前作「人生ゲーム」(『群像』2012年8月号掲載)とはゲームという意味合いがだいぶん違うが、ゲームという仮定を置いて書くという狙い自体は似ている。

・生きることと死ぬことが繰り返し語られるし、登場人物たちは多かれ少なかれ直面せざるをえないが、主人公の語りのせいか深刻なものとしてはとらえられない。深刻さよりは、まだ見ぬ何か、経験していないものへの好奇心に近いものを感じる。

・結末から逆算して読めばどんな形であれ生にしがみつくことを肯定しているように思えるが、必要以上に場所にこだわった「私」と多くの登場人物たちのことを考えると、手触りで生々しい生を実感できるレベルで生きていくことにひとつの(儚い)希望を見いだしたかったのだろうか。

・小さな場所にしがみついても大地の圧倒的な広大さにはかなわない。その上で私たちは生きるしかないし、生きていられることの価値がある。ってところなのかな最後の一文はと思うが、全体的に大きな皮肉に思えるのは大地のゲームと言い切っているせいか、語りのせいか。

・いずれにせよここ最近の綿矢は単に精力的なだけじゃなくてなにかしら強い打ち込みを入れてきてるんだろうなというのは感じる。今後も期待しつつ、息切れしないようにと願う。改めて旧作ちゃんと読まないとなー。

・ある大学(明示されない)が舞台になってるけど14、15、16号館が拠点になるとか政経学部が正門近くとか「本キャン」という呼称があることを鑑みてあああそこだなと脳内変換余裕でした。まあ出身校だしな。

 という感じのことを、読み終えて、メモを紙にとったあとついったに連投しました。あれこれ考えつつ、この中篇の核となるねらいはどこにあるんだろうか(そもそもあるのか否か)を考えたら上のようになった、というところ。いくつかのねらいは読んでて感じとれたし、「大地のゲーム」というタイトルや、「私」が最後のほうのシーンで言及する内容を考えると逆算的に読み取れることはある。

 はじめに幼い兄妹の会話が挿入される。本編とはどのような関係なのか最初は分からないが、後半にさしかかったころの「私」の語りによって、少しずつこのはじめの短いやりとりが思い出されるように作られている。誰もいなくなってしまった世界で、はたして生きることができるのだろうか。それはどのような世界なのだろうか。その世界へほのかなあこがれを抱く幼い「私」に、死や破滅など、終わりを見据える美学を感じとれなくもない。

 逆に言うと、「私」自身がその世界を見据えるためには他の誰よりも確実に生き残って、生き続けなければならない。こうした見方をとると、やや中2的な匂いもする美学というよりは、生に確実に執着しようとする「私」の像が浮かぶ。再びあのできごとが起こったあとの「私」の行動を考えると、誰よりも”生きててよかった”と口にするひとりの人間でもある。

 前置きがやたーら長くなったので簡単にあらすじを書くと、はっきりと明示されていないがいくつかの情報から近未来の日本であると考えられる。それも原子力発電をあきらめて自然エネルギーですべてをまかなうようになり、明るすぎる街を知らない世代の人たちが暮らす日本である。いまから地続きの、何十年か先の日本だ。その日本で、「私」たちが通う大学の夏休みの直前に大地震が起きる。数万人規模の死者を出し、自宅が倒壊したり家族や親族を亡くす学生が続出し、学生たちの一部が自宅に帰れず(あるいは、意図的に帰らず)大学の校舎に寝泊まりをして生活するようになる。復旧が進むなかボランティアに繰り出す学生も出始め、大学での生活を自治する学生組織も生まれる。「リーダー」と呼ばれる男はその中心で、文字通りヒーロー的な活躍を見せていた。そして、中止にはならなかったものも12月のクリスマスのあとにずれこんだ学園祭の開催まで、あと少しとせまっていた。

 「私」や「リーダー」や、あと「私」の恋人である「私の男」など、主要人物の固有名を明らかにしない構成にしている。名前を与えられている登場人物は何人かいるがさほど多くはなく、大学にいる学生という形で集団として扱われる。学生という大きな集団のなかに、「リーダー」を支持する者たちや、疑う者たちなど様々登場するが、3人の主要人物に名前が与えられていないのはどういうことか。「私」の一人称で進行する語りの特性上、もっとも重要な存在である。名前がないということによる入れ換え可能性は、つまりは同じ状況に置かれたときに誰もが「私」や「リーダー」のようになりうる、ということを意味しているのかもしれない。この3人は個性的に描かれるが、かなりステレオタイプな個性である。とりわけ「リーダー」は、都市部の大学生なら聞いたことのある「意識の高い学生」を彷彿とさせなくもない。そして間違いなく、3.11のときにもいた。

togetter:学生緊急事態対策本部(#set_j)に対する肯定的コメント
togetter:学生緊急事態対策本部(#set_j)に対する否定的コメント

 「私」が「リーダー」に次第に惹かれていく様を「私」の語りで追体験していくのが話の流れなのだが、このふたりは一見かなり非対称に見える。「私」の性質はさきほど述べたとおりだが、「リーダー」はリーダーで、絶対に自分が死ぬとは思っていない類の人間として描写される。

おれは自分の人生を食い尽くす(p49)

 自己犠牲という言葉を超越するほど利他的に行動し、発言し、政治的活動に近い活動(演説、ビラ配り、演劇など)も行う。「私」は学祭で上映する演劇の手伝いをすることによって「リーダー」に近しい場所に接近していく。そこで「私」が気づくのは、「リーダー」が高い理想を掲げ、声を上げる一方、彼の周りにいる学生達は、支持不支持関係なく無責任であるということだ。「リーダー」というカリスマ的存在に頼ることで、彼を媒介にして存在理由を見いだすのが周辺の学生であって、「リーダー」と同じ理想を持ち、共に行動しようとしている人が多くないことを「私」は知る。一見多くの人に囲まれているようで、誰よりも孤独な存在になっている「リーダー」に対し、「私」は思う。

私は弱い。でもあなたの苦しみを背負いたい。(p54)

 「リーダー」は自分のことを万能だと思っているわけではないが、責務によって自分を動かしている。無力とは思っていないだろう。他方で「私」は、自分以外の人のための利他的行動を自分がとれないことを、大地震のあとの行動を通して自覚していく。

でも私にはできない。したくない。(p46)

 ミニマルな人間関係が思わぬ方向へ向き、若さゆえの欲をつきつめていったら突拍子もない展開になったのが『ひらいて』だった。今回の結末は、比較的落ち着くであろうところに落ち着いているように見える。「リーダー」をよく思わなかった「私の男」は何かしらのたくらみを実行しようとするし、「私」はある程度それに同意を与える。

 この「私」のブレ、つまり「リーダー」に惹かれながらも、リーダーを嫌う「私の男」をも肯定するのは、はっきりとした態度が決まらず、起きている事態に常に影響を受けながら変容している「私」を表しているようにも思う。「私の男」とつきあうようになった経緯は書かれていないし、さほど仲のよい存在とも書かれていないが、タイプの違う異性が近くに二人いる、という状況が「私」の実存を支えているのは間違いないのだろう。

 ここであらためて表題にした、「私」のねらいは結局なんだったのだろうか、というところに立ち戻ってみよう。ブレが意味するのは、どちらかを選ぶことのできない「私」の弱さといってもいい。弱さが自覚できているからこそ、身近な存在にしがみつこうとするという意味では、大地震のあとの出来事を通じて生に執着するようになって、と考えることができる。

 しかし、これはあくまで「大地のゲーム」と名付けられている小説なのだ、というところにも立ち戻る必要がある。

私たちは、何度でも大地の賭けに乗る。(p77)
 
 これは物語のかなり終盤の「私」の語りからの引用だが、大地という広大で圧倒的な存在に対して、小さな存在でしかない人間はまるで大地というゲーム盤に乗せられた駒のように見える、ととらえることもできるだろう。ゲームから退場していく多くの死者たちと、生き残ってゲームを続ける生者たち。次がいつくるかは分からないからこそ、次に備え、次におびえる。あるいは、次が来ることなど露とも思わない人もいる。これがゲームであると認識している「私」はおそらく前者なのだろう。「私」のこの自覚は、最初の会話に戻ることでようやくはっきりとつかめる。対して、生きることに精一杯な「リーダー」は後者に近い。

 生きることへの執着が、終わってしまった世界のあとを生き続けるためという絶望的な中にうまれるかすかな希望から生まれている。ストーリーの中の「私」はかなり淡々としていて、冷静に周りを見ている。「私」自身が直接的で具体的な何らかの行動をとるわけではない。ただ、傍観しているだけではなく、内に秘めた決意だけははっきりと固まっていく。それを誰かに明かすことは想定されていないし、そのつもりもないのだろうと思う。ただ利他的に、自分の欲を果たすために生きるようになるまでの、「私」の物語なのである。

 たぶんアフター3.11的な切り口で大きな枠組みから語ることもできるのだろうとは思う。ただ、「私」が行き着いたのは自分の中の決意を固めるという、小さくても強固な希望であり、ある意味ではそれしかないとも言える。何かを果たそうと思った人間は先に倒れていき、変容しながらも私性を貫く人間が生きのびる。もっとも弱さを自覚している人間が実はたくましかった、というのは皮肉以外の何でもないのかもしれないが、どうやって生きてもある日突然訪れてしまう死に、人は究極的には抗うことはできない。最低限、大地のゲームに勝ち続けるということを、自覚しないかぎりにおいては。 


※追記(2013/2/28)
 アクセスがいつも以上に伸びてるなあと思ってログを調べたところ、ちょうど最近の日経新聞の春秋欄に載ったことも一因のようで、せっかくなのでリンクを貼っておきます。
 日経はふだんチェックしてないのでこの記事を書かなければ春秋欄を見ることもなかったんだな、と思うと不思議な巡り合わせにも感じますね。
日本経済新聞 春秋 2013/2/24付



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2013年02月07日

2013年1月の読了本

2013年1月の読書メーター
読んだ本の数:13冊
読んだページ数:3539ページ
ナイス数:38ナイス

窓の外は向日葵の畑 (文春文庫)窓の外は向日葵の畑 (文春文庫)感想
話の完成度は『ぼくと、ぼくらの夏』より高く、こなれている。それでも、『ぼくと、ぼくらの夏』ほどのみずみずしさは感じなくて、どう評価していいかちょっと迷うところ。でも二木真夏というキャラと彼女の書き方はいままでの樋口小説にはなかったところだし、個人的にはかなり気に入っている。本編にはまったく関係ないのにインパクトある幼なじみの女の子だ。
読了日:1月31日 著者:樋口 有介
入門 医療政策 - 誰が決めるか、何を目指すのか (中公新書)入門 医療政策 - 誰が決めるか、何を目指すのか (中公新書)
読了日:1月31日 著者:真野 俊樹
主題歌主題歌感想
柴崎友香は大人の日常系とでも言えばいいのかな、と思うくらい大きな起伏がなく、会社か家が飲み屋かという、どこにでもあるような風景が描写されていく。大阪弁のやらかくて軽いリズムが日常をより日常化してるというか、はじまりも終わりもつづきもない物語のアクセントにもなっている。お話としては年齢について思うことは世代によって様々であることを軽やかに書いた「六十の半分」が好き。年齢という観点だと表題作「主題歌」も、登場する「女の子たち」と彼女ら以外の人との年齢の開きとその分のズレに着目すると面白いかも。
読了日:1月30日 著者:柴崎 友香
芥川賞物語芥川賞物語感想
HP「直木賞のすべて」が有名だが、芥川賞にもかなり造詣がある人ではないか、ということが発覚した一冊。単に芥川賞の歴史をひもとくだけでなく、周りの反応(新聞や雑誌などの文芸ジャーナリズム、当選作家や候補作家のコメント、選考委員の発言などなど)をまとめた言説史として一読の価値あり。ここで書き留められているような言説が、芥川賞のいまの地位を築いたものなのだろう、ということが想像できる。他の文芸賞との比較もなされており、載っている作品については無知でも楽しめる一冊となっているのは読み物として優れている点だろう。
読了日:1月28日 著者:川口則弘
スタッキング可能スタッキング可能
読了日:1月22日 著者:松田 青子
黒冷水 (河出文庫)黒冷水 (河出文庫)感想
とりわけ中盤にはいてから強烈だ、と思いながら読み進めていた。そしてラストのあの転回は、まあ確かにそういう手法は珍しくはないにせよ、作者から感じる執拗さのようなものを感じた。その執拗さは作中の正気、修作兄弟をも上回るかもしれない。安直なハッピーエンドを求めず、あるいはハッピーエンドすら否定しかねないのは、何があっても現実は続いていってしまうことへの嫌悪感が作中の登場人物だけでなく作者にもあったのかもしれない。17歳だからこそ書けた登場人物の未熟さや視野の狭さはピカイチで、世に出されたことを祝うべきだろう。
読了日:1月22日 著者:羽田 圭介
等伯 〈上〉等伯 〈上〉感想
直木賞受賞を知って購入。等伯である長谷川信春の一人称で、時折り心情を挟みながらも全体的に淡々と進んでいく印象を受ける。単行本で350ページある上巻のなかで延暦寺焼き討ちから本能寺の変までといった信長の絶頂期から末路までの帰還を書いていて、この動乱のなかで信春や彼の家族がどのように生き抜いてきたのかが記述されていく。そうした記述が主になることからか、小説としての面白さというよりは史実のなかに信春を置くことで、彼の人生を浮き彫りにしていこうという趣旨なのだろうと感じる。テンポよく進むので意外と早く読み終えた。
読了日:1月22日 著者:安部 龍太郎
門感想
『三四郎』、『それから』(ビブリア1話のネタにもなってましたね )とつづく前期三部作をこれでぜんぶ読み終えた。全部キャラは違うが学生時代、恋愛と結婚、夫婦生活と仕事と、さらに過去の回想といった、ひとつの人生を追いかけながら読めるようになっているのは面白かった。『門』は過去のエピソードが多くじわじわくる感覚が前2作と違っているのも面白さのひとつ。そして過去が積み上がるということは、大きな後悔が今の人生にのしかかってくる。過去と向き合うことと、今を生きること。このふたつの難しさは、明治でも今でも変わらない。
読了日:1月15日 著者:夏目 漱石
ココロコネクト7 ユメランダム (ファミ通文庫)ココロコネクト7 ユメランダム (ファミ通文庫)感想
今回の五角形内の対立構造で面白かったのは、見ているもの、信じているものの違いだ。太一と唯はいいことをすることはいいことだ、と純粋に信じているが、それは彼らが助けをする人しか見ていない。対して稲葉は人ひとりの行為が与える影響も見えている。ある行為によって誰かが救われるということは、誰かが救われないということの裏返しでもあるからだ。それでも稲葉に欠けている「あえてリスクをとる勇気」を太一がつかめるかどうかが物語のキーにもなってきていて、太一個人の成長物語のひとつの成果として読むことができるだろう。
読了日:1月14日 著者:庵田 定夏,白身魚
ココロコネクト6 ニセランダム (ファミ通文庫)ココロコネクト6 ニセランダム (ファミ通文庫)感想
1年間の五角形の関係が下敷きになっているからこそ成立しえた巻になっている。新入部員2人の居場所の確保と五角形に加わるという承認はどのようになされるのかが鍵になると思っていたが、五角形を揺るがすことでこじあけようとする発想は悪くない。その上で、簡単に崩れない五角形と5人と2人という微妙な関係性を接着剤のように演出しているのは、能力を授けたふうせんかずらではなかったか。
読了日:1月7日 著者:庵田 定夏,白身魚
オモロマンティック・ボム! (新潮文庫)オモロマンティック・ボム! (新潮文庫)感想
安定の未映子節である。薄いし、あっというまに読んでしまった。楽しかった。
読了日:1月4日 著者:川上 未映子
ココロコネクト クリップタイム (ファミ通文庫)ココロコネクト クリップタイム (ファミ通文庫)感想
アニメの続きの展開が気になったので交流。本編で描かれなかった1年間の補完的な一冊なので大きな事件はナシ。桐山唯の初デートの回が個人的には好き。変わっていくためのきっかけは常に外部からもたらされるが決断するのは自分しかいないという、自明ではあるが難しい問題に向き合う彼女が安定のポジティブさも相まっていい。
読了日:1月4日 著者:庵田 定夏
両さんと歩く下町 ―「こち亀」の扉絵で綴る東京情景 (集英社新書)両さんと歩く下町 ―「こち亀」の扉絵で綴る東京情景 (集英社新書)感想
実家に帰省して昔集めたこち亀のマンガを読み返してたらこの本も一緒に置いてあったので何年ぶりかの再読。当時どう読んだのかはわからないが東京に住むようになった今は見知った景色も多く読んでいて楽しかった。
読了日:1月4日 著者:秋本 治

読書メーター


松田青子『スタッキング可能』は近いうちにレビュー記事を投稿します。お楽しみに。

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2013年02月03日

これはただの言葉遊びではない―松田青子『スタッキング可能』(2013年)

早稲田文学5
早稲田文学5
 

スタッキング可能
スタッキング可能


 松田青子を初めて読んだのは通っている大学の人たちが出している文芸誌『早稲田文学』のπ号(3号と4号の間という意味での増刊号)に掲載されていた「もうすぐ結婚する女」という短編である。発の単行本となった本作にも収められているが、ユニークな文章でいて展開の作り方に長けている印象を受けた。特別なことが起こるわけではないのだが、視点の持ち方で世界の見え方は変わってくる。そんな印象だ。

 本作には表題作「スタッキング可能」を含む3つの短編と、さらに3つの連作的ショートショートがおさめられている。いずれも『早稲田文学』関連の誌面に発表されていたもので、『早稲田文学』によって発掘された作家と言ってもいいだろう。1979年生まれでの単著デビューは最近の若手作家の隆盛からすると特別早いわけではないが、黒田夏子が75歳で芥川賞を受ける時代なので若さだけが喧伝される必要もかつてほどないのかもしれない。ちなみに松田と黒田は『早稲田文学』5号でともに表紙とグラビアを飾っている(記事一番上の画像)という巡り合わせもあったりする。

 話がそれたが、本作に収められている3つの短編はそれぞれなかなかに白眉といっていい。いずれにおいても松田節と言わんばかりの独特の文体のリズムがあって、評価するのはいずれも簡単ではないのだが、文章として読む分にはかなり面白い部類に入るだろうと思う。具体的な記述だけが何かを訴えるものではないのだ、と。

 「スタッキング可能」 はA田とB田が会話をしていると思いきや、そのあとを受けるようにC川だのD田だのやたらと素顔の見えない登場人物が多数入り乱れる、いわば人の取り替え可能性をつきつめたような小説になっている。スタッキングとは積み重ねるという程度の意味らしいが、人の名前が何重にも積み重なっていくのは壮観でもある。ある会社のオフィスが舞台になっているらしいことは分かるので、その熱気を十分に伝えてくれる。しかしながら個人は取り替え可能な匿名的存在でしかない。無情なことに。

 「スタッキング可能」が個人を匿名的に描くことである種の悲哀や皮肉を書き出したものだとするなら、「マーガレットは植える」と「もうすぐ結婚する女」は個人と個人の関係に焦点を当てたものなので、少し質が異なる。松田らしいのは、後者の2作においても個人を明確に名指ししないことではあるが、前述したように具体的に書きすぎないことによって新しい表現のありかたを模索しているようでもある。

 「マーガレットは植える」は3.11後に出版された『早稲田文学』記録増刊 震災とフィクションの”距離”におさめられたものであるため、震災や3.11といった事象に何らかの意識が向けられているのは分かる。逆に、それ以外のことを読み取るのは難しい。「スタッキング可能」の積み重ねと比較して言うなら、「マーガレットは植える」は植えるという行為の反復だ。反復することによって希望を見いだす方法があるとするなら、この小説の終わり方にあるのがひとつの方法だろう。ベタな気はするけども、小説の終盤にリズムがいったん加速したあとに見いだしたものであるなら悪いものでもない。

 さて、個人的に一番気に入っているのが初めて読んだ「もうすぐ結婚する女」である。お話としての筋道はいちおうあって、もうすぐ結婚する女の行為やもうすぐ結婚する女に対する雑感を語り手がだらだらと述べていくうちに、ある女の視点に切り替わって終わる。「マーガレットは植える」と違い何人かの登場人物と、視点の幅が出てくるが、「マーガレットは植える」に近いのはお話の終わらせ方の明るさだろう。いずれにおいても、行為の描写が続きこそすれ、明確な筋立ては見えにくい。そうなるとどこかでぶつっと切るように終わらせるしかないが、「マーガレットは植える」よりももっと自然な形で、かつ今までの筋立てを見失うことなく終わらせられたのが「もうすぐ結婚する女」という掌編だろうと思う。結婚にまつわるあれやこれやはそれだけで話の種になるとしても、それでもひとつの小説としてどうやって見立てるかは作家の腕によるものだ。

 最後に。ショートショートの3編というのは「ウォータープルーフ嘘ばっかり!」と「ウォータープルーフ嘘ばっかり!」と「ウォータープルーフ嘘ばっかりじゃない!」の3編である。書き方としては「スタッキング可能」に近い匿名性とリズムのよさがある。前2編はまっったく同じ表題だが違うものとして書かれている。いずれも続きものとして書かれているようだが、本書の構成として入れ子構造になっているのが面白い。これらの3編の描かれている世界はいずれも同じなのだろうと考えられるが、何らかの明確な断絶があるのだ。その断絶を戯画化、あるいは皮肉めいて嘘ばっかり!だとか嘘ばっかりじゃない!という形でまとめてしまうのが松田青子という作家、ということらしい。ということにとりあえずしておこう。

 いろいろ書いてきたが、いずれにしてもただの言葉遊びではないし、ただの散文ではなくてこれは小説だ。今後何らかの賞レースにのぼってきたときに文壇が彼女にどのような評価を下すのかが個人的には気になっている。たぶん「マーガレットは植える」や「もうすぐ結婚する女」のような形で書く限りにおいては、舞城王太郎よりはふつうに評価されそうな気もするが、まあそれはまた別の話ということで筆を置く。

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burningday at 02:52|PermalinkComments(1)TrackBack(0)books