Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

2012年12月

 例によって年の瀬恒例の。
 そういえば週末に文フリの記事がはてぶやらRTやらを複数いただいたようで、139PVという過疎ブログにしては年に一度もない3ケタをいただきました。どうもありがとうございました。当ブログを初めて閲覧した人も多いと思いますが、今後もひいきにしていただけると助かります(ぺこり

 それでは本題へ。小説→アニメ→映画→音楽の順。

【小説】
柴崎友香「わたしがいなかった街で」(『新潮』4月号掲載、のち「ここで、ここで」を併収して単行本化)
松家仁之「火山のふもとで」(『新潮』7月号掲載、のち単行本化
綿矢りさ「ひらいて」(『新潮』5月号掲載、のち単行本化
次点:岡本学「架空列車」(第55回群像新人文学賞受賞。『群像』6月号掲載、のち単行本化)

わたしがいなかった街で
わたしがいなかった街で


火山のふもとで
火山のふもとで


ひらいて
ひらいて


架空列車
架空列車


 新潮にやたら固まってしまったが、群像と新潮のなかからいくつか読むということを意識して続けた一年だったのでこうなりました。この2冊なら大学図書館で読めるしね。
 ただ、衝撃の発表でもあった円城、伊藤の『屍者の帝国』は買ったまま大事にしてあってまだ読んでません。年越ししながら読むかという心づもり。あと、現在進行形で読んでいる長谷敏史『BEATLESS』もなかなか評判のいい大作なので、こういうぬけもれはあります。
 他に売れた本のなかで気になってるというほどのものはあまりないかなあ。このミス2013も発売されてたのでぱらぱらとめくったが、もう昔みたくミステリーだからというだけで食指が伸びなくなったのを感じる。なんでかしらん。SFは今も昔も大好物なんだけどね。

 閑話休題。柴崎はいくつか読んでいたのだが今年発表したこの長編が圧倒的でした。オチが弱いんじゃね、という感じはするけれども「いま、ここ」を相対化することから始まり、「いま、ここ」と物理的、時間的に遠いどこかとの距離を見据え、縮まらないと分かりつつ想像力を膨らませようというその試みは2012年のいま必要なんじゃないかな、とも感じる。まあ、こういう見方で小説を評価していいのかどうか問題はあるかもしれないが。詳しくは投稿したエントリーをごらんになってください。
 松家さんの処女長編は、処女作とは思えないほど丁寧で重みのある文章で書かれおり、派手さはないが濃密な人間ドラマがひとつの空間と夏の浅間山を舞台に展開されていく。うまく言葉にはできないが、読書しててよかったと思わせてくれる一冊。文字を、言葉を味わいながら人と人とのドラマを読むことは、最上の楽しみだなあと。
 綿矢は同時期に『群像』にも「人生ゲーム」という短編を発表したり、『かわいそうだね?』で大江健三郎賞を受賞したり、かなり充実した一年だったんだろうと思う。どこかで大江との対談も読んだが、大江が綿矢にこめる期待感をひしひしと感じた。

【アニメ】
氷菓
坂道のアポロン
モーレツ宇宙海賊
次点:夏色キセキ、夏雪ランデブー





 1クール平均10前後は見ているのでアニメは現在放映中のものも含めて40本近くは見たかな。一時期は一日を終えて深夜アニメを見るのが生きるモチベーションだったりもしたので貴重な栄養分だった。これからもたぶんそう。今クール放映中のPSYCO-PASSがどう終わるのかによって個人的ランキングが変わってくるが今クールは個人的に小粒な印象。あーけど中二病見てないのでなんとも言えないか。
 夏色キセキ以外は原作ものということで、2011年に比べるとオリジナルアニメの勢いは若干そがれたかなという気はする。もちろんいくつか見てないのもあるのでそれ以上はなんとも言えないが。シンフォギアも途中まで見たが録画の失敗を繰り返したので完走はしてない。

 スロースタートの印象が強かったが愚者のエンドロール編以降じわじわと盛り上げ、クドリャフカ編でピークに達した後、一話完結のものをいくつか続けて一年間の物語をしめくくるという非常に全体の構成がきれいだった。スロースタートなのは原作ゆえの影響もあるのでまあ仕方ないし、ちゃんと見続けることで十分楽しませてくれた。ちょっとというか、ここまで千反田えるってあざとかったっけ?とは思ったものもw まあ原作でも『遠回りする雛』ではなかなかあざとさを発揮していた記憶はあったが。
 ベストエピソードはチョコレート事件の21話。最終回の22話もきれいだったが、伊原摩耶華好きとしてはこのエピソードは至高。原作にない演出もいくつかあったり、ゲーセンでやってるゲームがバーチャロンそのままだったりと、1話のなかでここまでつめこむか、という回でもあった。さすが京アニ。

 シンフォギアにしろ「TARI TARI」にしろ(「夏色キセキ」も部分的にそうか)アニメと音楽の関係が今年は目立っていたかも知れない。そのなかでも坂道のアポロンは音楽の面では丁寧に作られていた印象。時代考証的な問題はあるようだし、まああるかなという気はするが(あんまり50年前の空気感じゃなかったしなあ)最後まで楽しかったです。最後のほうが駆け足になるのはノイタミナなのでしゃーない。
 モーレツパイレーツは最初の方はほとんど見てなかったけど、ニコ生の一挙放送で見て追いつき、そのあとテレビで最後まで楽しく見た。小松未可子という、今後楽しみな声優かつ歌い手と出会えたというだけで個人的には収穫が大きかったが、役割を自覚し、だんだん役割が体に合ってくる、という過程を2クール使ってちゃんと描けていたのでお話としてもいいまとまりになっていったのがこのアニメだった。

 次点のなかからは夏ものの2本。夏色キセキもじわじわと個人的な評価を上げていった作品で、最初は日常系かと思ったら日常系のテイストを生かしつつ、ジュブナイル的なSFの要素もあるという、しっかりとしたストーリーの軸があったからこそうまくいったアニメ。
 夏雪ランデブーは六花ちゃんかわいいよ六花ちゃんでFA。大原さやかは至高。

【映画】
(邦画)
ヒミズ
次点:桐島、部活やめるってよ





 映画館で見たのが多くないのでこんなところかな。ヒミズは染谷くんと二階堂ふみがとても生き生きしていてよかったと思います。「かぞくのくに」を結局見に行けなかったのが大きな後悔。ちゃんと時間作れというお話ですね。
 桐島はいろんな意味で話題の尽きない(語り甲斐があるという意味で)作品なので、人とあれやこれや言いながら見ると楽しそうだなーと思います。

(洋画)
ものすごくうるさくて、ありえないほど近い [Extremey Loud and Incredibly Close]





 これも主演の男の子のオスカーくんがすばらしかった。別にショタコンでもなんでもないがこれはよかった。映画館とニコ生の有料放送で2回見た。

(ノンフィクション)
相馬看花 第一部
次点:フタバから遠く離れて







 「相馬看花」はエントリーに書いたので省略。
 「フタバから遠く離れて」はある人が薦めていたこともあって見たのだが、非常に淡々と出来事を見つめている。もちろん、出てくる人、主に双葉町からの避難民の方の語りはあるし、井戸川町長へのインタビューなども試みてはいるが、時間の経過が残酷なまでに感じられるのは現状がよくなっていっているようには思えないからだろう。
 ではやるせないのか、と言えばそうでもない。町長も住民の多くも、戻ろうとしているし戻りたがっている。確固たる地元というものを持つ人たちにとって、ずっと生きてきた地元を離れ、ある日突然どこかで生きていくしかないという現実をつきつけられたのはそれ自体かなり酷なことだ。


(アニメ)
伏 鉄砲娘の捕物帖
ヱヴァQ
ねらわれた学園
次点:おおかみこどもの雨と雪

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 下半期に上映されたものが固まったが、春に上映されたものでいくつか見てないのもあるので(BLOOD-Cとか図書館戦争とか)こんな感じ。あと見ていなくて気になってるのだとゴティックメードかな。年内に見る時間があるか。
 この3作はいずれもブログエントリーに起こしているので詳しくはそちらを。まどマギ劇場版をあえて外したのは総集編という重みが強いので、単体として評価するならこっちかな。
 おおかみこどもは後半の展開がすさまじかった。12年間を2時間に圧縮しているなかでどこまでを表現するのかと思ったけど、前半部の説明的な展開とは違って後半部分はかなりドラマチックな展開。あの広く壮大な絵の中で見せる手腕はさすがだなあと感じた。
 おおかみこどもとまどマギとヱヴァが重なったこともあったし、見ていなかったものも含め劇場アニメの収穫は多い一年だったように思う。テレビアニメが2011年に比べると勢いがやや弱かった印象がある(個性の強い作品は多かったと思うが)し、来年も年明け以降STAR DRIVER、花咲くいろはなどなどが予定されていることもあり、劇場でのアニメを見る機会は来年も多くありそうだ。ああ、今年の最終週には青エクも上映が始まるんだったか。
 
【音楽】
(メジャー)
宇多田ヒカル「桜流し」
古川本舗『ガールフレンド・フロム・キョウト』
Tomato 'n Pine『POP SONG 4U』
次点:中島愛『Be with you』、livetune feat.初音ミク「Tell Your World」

 耳が幸せという基準で選んだらこの3つになりました。桜流しはもう100回以上聞いてるんじゃないかと思われます。古川さんの2ndもエントリーに書いたけどほんとにすごかった・・・
 トマパイのPSP4Uがでたときには、まさか解散するとは思ってなかったので最初で最後の3人でのアルバムになったんだなあと思うと宝物かもしれないな。それは言い過ぎか。





PS4U(初回生産限定盤)(DVD付)
PS4U(初回生産限定盤)(DVD付)


Be With You(初回限定盤)(DVD付)
Be With You(初回限定盤)(DVD付)



(同人)
QUADROPHENIA『slow』
fhana『New World Line』
沙野カモメ『夏の星空 E.P.』
次点:acane madder『ライトガール』

 エレクトロニカを好きになってよかったと再確認させてくれたアルバムをチョイス。宮沢もよよさん、村上くるるさんといっサークル所属のメンバーにLeggysaladくんがリミックスで参加していたりわっふーである。いまはとらのあなの通販で手に入れられるようです。


 そのLeggysaladくんも所属しているfhanaの『New World Line』もすばらしかった。歌っているボーカリストが好みすぎてもうね、という。「kotonoha breakdown」もかなりの回数聞き込んだなあ。monoral in the stereoというバンドのボーカルをつとめていたtowanaさんが2曲歌っているのもよくて、モノステのライブは2年前に1回見たことがあるがこのときよりも格段に歌が上達しているのが分かる。独特なはかなさと甘美さを持った声そのままに、迫力もついてきたなという感じ。amazonでも流通しているので手に入れられます。
New World Line
New World Line



 今年も精力的に製作をしていた沙野カモメさんですが、一番お気に入りはこの4曲入りのE.P.でした。冬に出した『science(non)fiction』もすごく好きなアルバム。カモメさんの曲は公式サイトで視聴できたり購入できたりダウンロードできるのでぜひぜひ。


 週末のボーマス23でようやくげっとした茜さんの2ndアルバムを次点として滑り込みで。コンセプトも素敵だし、茶ころさんと夏さんのアートワークも素敵だし、茜さんの音楽に出会えてよかったと再確認。


 というわけで、こんなところかな。今年は読んだ小説の数は減ったが見た映画とアニメの数はたぶん増えてるはず。来年はあまりゆとりのない一年になりそうだけど、まあ合間合間にいろんなコンテンツに触れていたいなと思います。というか触れないとひからびる体質だろうしなあ。
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2012年9月の読書メーター
読んだ本の数:1冊
読んだページ数:116ページ
ナイス数:12ナイス

正義 (思考のフロンティア)正義 (思考のフロンティア)感想
読書会で扱った。<あいだ>概念を理解しきれていないので、ここの勉強をすればもっと理解できるだろうということを確認しあった。
読了日:9月11日 著者:大川 正彦

読書メーター


これ以外(再読)
米沢穂信『さよなら妖精』『ふたりの距離の概算』

◆10月の読了本(6冊)
夏目漱石『こころ』『三四郎』
柴崎友香『ドリーマーズ』
園子温『非道に生きる』
川上未映子『六つの星星』
橋本健二『階級都市 格差が街を浸食する』

2012年11月の読書メーター
読んだ本の数:7冊
読んだページ数:1821ページ
ナイス数:12ナイス

ウェブで政治を動かす!ウェブで政治を動かす!感想
津田さんをふだんから追っかけている人ならとりたてて新しいことはないような気もするが、津田さんの信条を知りたい人が入門的に読むには適しているともう。
読了日:11月30日 著者:津田 大介
メディア文化とジェンダーの政治学―第三波フェミニズムの視点からメディア文化とジェンダーの政治学―第三波フェミニズムの視点から感想
4章以降の各論も面白かったが、本作の理論構築部分にあたる1〜3章が白眉。いま、フェミニズムが蓄積したものが何を意味するかについて真摯に向き合っている姿勢に、強く感銘を受けた。
読了日:11月25日 著者:田中 東子
情報の呼吸法 (アイデアインク)情報の呼吸法 (アイデアインク)感想
訪れたカフェに置いてあったので手に取り40分ちょいで読了。ツイッター社会論とダブるところや常々津田さんがツイッターで書いてあるところは端折って読んだのでこんなところかなという感じ。後半部分の、どのように情報を摂取し、どのように自分に生かすかというところが肝なので既に津田さんのことをよく知っている人たちは3章から読んで十分ではなかろか。
読了日:11月23日 著者:津田 大介
華竜の宮(上) (ハヤカワ文庫JA)華竜の宮(上) (ハヤカワ文庫JA)感想
さあ舞台は整った、というところで上巻は終わり。スケールの大きさとキャラの造形をきちんと両立させてくるのはさすが上田早夕里だ。
読了日:11月17日 著者:上田 早夕里
批評時空間批評時空間感想
意欲的な一冊。あくまでも主眼は作品論ではなく表現論なんだということに着目して読むとより楽しめる。というのは出てくる作品はリアルタイムのものが多いし、演劇や映画など必ずしも簡単には網羅できないものが多いから。ただその分、より「現在」の在処に忠実なようにも思える。
読了日:11月14日 著者:佐々木 敦
タペストリーホワイト (文春文庫)タペストリーホワイト (文春文庫)感想
再読。モノローグ中心なのでこの時代のリアリティはおそらく不足しているのだろうけれど、それでも伝わる質感を覚えておきたいとは思った。自由とは何か。これは普遍的な問いであるだろうから。
読了日:11月12日 著者:大崎 善生
ゼロの王国(上) (講談社文庫)ゼロの王国(上) (講談社文庫)感想
最初は読みづらさもあったが、吉田くんの思想や会話のテンポに慣れてきたら一気に読めた。嫌いではないが、まだ上巻なので何を表現しようとしているのかはきちんとつかめていない。
読了日:11月10日 著者:鹿島田 真希

読書メーター


11月時点の今年通算:87冊
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 思考とか読んだものや見たものについてのあれこれは書いていたがそういえば生活、くらし的な話はほとんど書いてなかった。
 3月の頭に多摩地域にある西東京市から23区内の豊島区雑司が谷に引っ越して、かれこれ9ヶ月ほどになる。最初はあまり実感がなかったが過ぎ去った日々は早いものであって、年が明ければ1年なんてすぐそこにある。今年の総括的なこともいろんなところで始まっているし、紅白にももクロが初出場というニュースがあったり、12月さまさまだ。

 まあそれはそれとして本題に入ると、雑司ヶ谷を選んだ理由は大学に近かったからというのと、提示されたいくつかの物件のなかで間取りが一番広かったからである。本が膨大にあるので基本的に広さを求める(ぜいたくではあるが)ので、完全に土地とか駅との距離よりもそっちで選んだ。大学まではチャリで10分もかからないが、帰りはのぼり坂になるからたぶん10分以上はかかる。それでもまあ、徒歩→電車→徒歩で約1時間かけて通学していた西東京時代に比べると格段に近い。
 大学の徒歩圏内だとあまりにも味気がない気がするので、チャリでなんとか通えるあたりに住むのはなかなかによいと思う。特に豊島区雑司が谷は山手線圏内なので、都心への移動もチャリで行えてしまうのがとてもよい。新宿までなら20分少々、渋谷も35分くらいあれば行けなくはない。盗難と警察のマーキングが不安なので有料の駐輪場を使うことになるが、だいたい100円とか多くても200円しかかからないので、電車で移動することと比べると交通費としては十分に安い。まあ、電車に乗る生活をしなくなったからか、電車に乗りながら本を読む、という習慣はなくなってしまったので小説を読むペースは落ちたかもしれない。

 少し前から不定期に日暮里で読書会に混ぜてもらっているだが、日暮里への移動も自転車を使っている。不忍通りまで出るとひたすら東へ行くと日暮里、谷中、千駄木界隈に着く。ここまでの道のりは6,7キロしかないのだが、この間に大きなアップダウンを3回ほど繰り返す。最初に護国寺を経て茗荷谷に向かう春日通りとの交差点、次に千石一丁目の信号がある白山通りとの交差点、最後に本郷通りと接する交差点(駒込のあたり)の3回。
 山の手とは言うが、ここまで坂に囲まれた土地であり、坂の上と下の高低差がそれなりにあるというのはこのへんを走って見て初めて気づいた。知識としてないわけではなかったが、実際自分の足で上り下りを繰り返してみるとけっこう足に来るし、それ以上に東京という土地の構造が思った以上にダイナミックだったと気づかされる。で、そのダイナミックな場所に街と街が非常に近接してある、ということが東京の特徴なのだろう。少し進めばすぐ地名が変わるし、街並みも変わる。
 地方だと(まあ多摩地域もだろうが)だらだらとした道が続いたあとに街にたどりつく、みたいなRPGでいうフィールドのような空間が街と街の間にある。でも東京の山手線圏内を走っていると、あまりにも街と街が近すぎていつのまにか通り過ぎてしまった、ということもあるくらいだ。当然、街には人が訪れるし、それぞれの街には固有の文化がある、という前提で成り立っているから、ああここは文字通り都市なんだ、ということを実感する。多様性とエネルギーを持ちそなえた空間としての、都市。
 
 雑司ヶ谷は豊島区でもあるが大学にも近いと書いたように、少し坂を下れば新宿区だし、少し東にいけばすぐ文京区だ。やべーゴミ出し忘れたーというときはチャリを漕いで次の日に出しに行くこともまあできなくはないがまだそこまでゴミに困ったことはない。
 雑司ヶ谷は完全に住宅地という感じの場所なので、鬼子母神の参道を除けば飲食店はあまりない。ただ、チャリで少し足を伸ばすと池袋だし、東に行けば護国寺や音羽界隈、もうすこし行けば茗荷谷や小石川、という界隈なのでふらっと足を伸ばすための拠点として悪くないな、と思っている。
 少し前の日曜日にかつて筑波大学があった教育の森公園というところに足を伸ばしてきたが、都内でこれだけの規模の公園があるのはQOLとしてはよいんだろうな、と感じる。(*1)日曜日なので家族連れが多かったし。あと、イスの上で抱き合ってちゅーしているカポーがいたがそういうことは違うところでやっていただきたい。まあ、紅葉がいい具合だったので文句は言わないでおこうか。
 たまたまこの日は教育の森公園内にある文京スポーツセンターでミニバスに交流試合が行われていたので、ママさんやすでに試合を終えた小学生がいるスタンドにこっそり混じって試合を見ていた。ダブルスコアになっていただけあって明確に力量差があったが、チームとしてのプレーの質が全然違うのでしょうがないかな、という感じだった。戦術理解、は言いすぎかもしれないがディフェンス時のプレッシャーのかけ方だとか、PGのパスセンスや視野は勝っている方のチームが圧倒的に優れていた。4Q目の最後の数分は主力メンバーが途中のタイムアウトで下級生に交代する、という展開もあったりしたし。(*2)
 とりわけうまいなと思った子は二人いて、特にPGの子は自分でディフェンスもしてボールを奪いに行くし、パスで打開できないような状況では自分で切り込んでシュートに行ったりして小学生離れしている感じがすごかった。が、まあサッカーやバレーなんかでもそうだけど基本的な技術がチームで平均的に高いとか、チームスポーツである以上すぐれた個人はすぐれたチームで初めて生きることも、あらためて確認したわけだけれど。

 近場で不定期に出没している音羽のcafe otowayaという店はなかなかよいです。無線も飛んでるし。ひとりで行くとカウンターに回されることが多いけど、ソファ席がかなりゆったりとした感じでよい。カウンター席も長時間座っていてもさほど腰に来る感じではないし、平日だと人もまばらなのでかなりゆったりと読書ができてよい。カウンターで時々料理の仕込みをしているマスターと目が合うが、店に置いてあった本を読み終えたときに会釈したくらいでまだ会話してない俺である。(*3)
 一番気になるのは、このお店のブログによく登場する猫だったりする。お店の近所にいるというだけで、店で飼っているわけではないらしいけども。

 そんな感じで週末に遠出する用事がないときは雑司ヶ谷「周辺」ライフを過ごしております。
 チャリでぐるぐる回っている話が中心になってしまい、ぜんぜん雑司ヶ谷のことは書いてないので今度ちゃんと書くか。そういやそろそろチャリの空気も補充しないとな。

*1 正確に言うと東京教育大学時代の筑波大学があった場所。ただ、いまも公園の隣の敷地に筑波大学東京キャンパスとして一部残っていて人もいた。筑波大学附属小学校もこの敷地内にある。

*2 あとで帰ってから調べてみると都大会でベスト3に入ったチームらしい。そらすげーわ。ちなみに見てたのは女子チームだったけど、女子だからという退屈さは全然なかったし、負けている側も個人のプレーは悪くなかったからチームの戦術をちょっといじれば変わるんじゃないかと思った。あまりコーチから声は出てなかったけれど、無理やりシュート打たされたり30秒が来て相手ボール、ということが何回かあったのでもったいないなと思いつつ見てた。

*3 津田さんの『情報の呼吸法』が置いてあったので40分ほどで読了。コーヒー一杯少しで読み切れるのでカフェに置くにはちょうどいいのかもしれない。

情報の呼吸法 (アイデアインク)
情報の呼吸法 (アイデアインク)
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 少し前だけどTRCで行われた文学フリマ15に行ってきたので軽く雑感を。数週間前に同じ会場で行われたM3にも行ってきたが、最近はイベント関連だとここにいくか池袋のサンシャインにいくかの2択になりつつある。
 文学フリマと同日開催になってしまっていたコミティアにも行きたかったけどそんなにお金に余裕がないのでパス。また次回。

■イベントそのもの感想
 
 半年前の5月6日に行われたときと同じ会場配置だったし、今回は開場後ほぼすぐに行ったこともあってか人の動きをじっくり見ることができた。
 買いたい物は最初の30分くらいで全部買えたので、そのあとは現地で人に落ち合ったりブースの人とお話したりわりとのんびり。だいたいイベントにはいつも遅刻する感じで午後から行くことが多いが開場してすぐだと人の入りもまばらなのでのんびり買い物できるし、ブースで多少話し込んでも他の人の失礼にもならないのでいいなーと思った。
 とはいえ2Fを中心にまわってたので(1Fではひとつくらいしか買い物してない気がする)あくまで2Fの印象だけにはなるが、面白かったのは14時〜15時あたりか、それ以降に少しずつ人が増えてきたことである。コミティア組がもしかしたら来ていたのかも知れない。大体この時間になるとどのイベントでも人が引いていくので、こういう光景を見られたこと自体はレアだった。

 次回開催は4月上旬に大阪のなかもず、下旬に幕張メッセ(ニコニコ超会議内の開催)ということでいろんな意味で無理をしているので大丈夫か、という思いが強い。大阪の人と話していても感じたが大阪開催だとまた違う客層が多いだろうし、実際東京からわざわざ遠征していく人がどれだけいるのか。
 同じ月に超会議での開催が決まってしまっただけに、よほどでないと遠征するインセンティブがないような気がするし、そのことが結果的により東京ローカルを強めてしまうんじゃないかという懸念はある。

■買った本について
 


 ざっと数えたところフリー配布も含めて27種類ほど。ざっと全部には目を通し、読みたいところだけを読む方式を採用しているので通読したものはわずかしかない、という前提でいくつか雑感を書いていく。

『Project AMNIS』vol.01
『RE:AMNIS』
http://lamer-e.tv/amnis/
 ちゃんと確かめたわけではないがたぶん東大とかその周辺の学部生の人たちが作ったっぽい一冊。ニコニコ動画でもいくつか投稿して名前を知っている茶ころさんの印象的な表紙と、オフ会で一度お会いしたことのある透明ランナーさんが論考を載せている、ということで購入を決めた。
 本誌の付属のような形で無料配布されたREのほうでは刊行に至った経緯などを読めて面白かった。どのようにして作られたのか、っていうのは同人誌を読むときのひとつの楽しみでもある。
 本誌のほうでは仮想vs.現実というふうに名を打っているが、そうした境界性というよりはインターネットを使うという体験だとか、それによってもたらされるものという形の論考が多かった。PAST、NOW、FUTUREの3部立てになっていて、特にPASTと、NOWの仲山ひふみさんの論考はその色が強い。

 Pasta-KさんやShinさんの論考を読んでいて思ったのは、パーソナルなインターネット利用について考えるとするとSNSの利用という見方が中心に据えられるということ。今後もその傾向が続くかどうかは分からないが、SNS的なものは昔からあったし、SNS的なものはこれからも生まれるのだろうということが、Web2.0から3.0への架橋、もしくはポストWeb3.0を見据えたときの視点の置き方になるんだろうなと感じた。
 架橋がうまくいったのはスマートフォンの発明といったテクノロジーの影響はあまりにも大きすぎるので、ハード部分のテクノロジーがどのように変容していくか、みたいな論考があれば面白かったかもしれないな、と感じてもいる。逆に、テクノロジーによってどのような表現が現れてきたかという趣旨の論考を書いた透明ランナーさんの「インターネットとアートの諸相」は読んでいて面白かった。

『辺境私論』平成24年春号、秋号 http://our-age.jugem.jp/
 新刊は秋号。前回の文フリが初出展らしいこのサークルは高校1,2年生集団というだけあってびっくり。中心メンバーは麻布高校生と聞いてやや納得。事前チェックはしてなかったけど売り子の女の子がかわいかったのと(不純な動機でごめんなさい)辺境私論、というタイトルネーミングが面白かったのもあり立ち読みした後購入。
 評論を中心に秋号では小説の創作もあるなど、等身大ながら意欲的なことをやっているのはよく分かる。明らかに自作だと思われる冊子は文集的なそれに近くもあるが(そのせいか価格設定が低めで少し得した)内容的には年齢的なフィルターを外しても十分読むことはできる。

 とはいえ文学フリマという、最低でも大学生以上だと思われる空間に高校生が出典しているのはレアなので書き手の一人である大熊美優さんと少し立ち話をした。今の高校2年生は95,96年生まれで、オウムや阪神大震災は知らないというよりもそもそも通過すらしていない可能性もあるし、2001年の9.11の記憶はあるかと聞いてもない、という返答が返ってきた。
 秋号の巻頭言には「巨大なるもの」というフレーズがいくつかでてくるが。これはまだ10代であるということと、90年代の空気感を知らない/通過していないことから来る経験していないものに対する畏れ、のようなものがあるのかもしれない。いやほんとはどうなのかわかんないし俺自身も90年代前半はほとんど覚えていないが、90年代後半の空気感、とりわけ1999年の終末論への恐怖みたいなものは小学校低学年のときには共有されていただけに、ゼロ年代以降しかリアルタイムに体感していない彼ら/彼女らの世代はいったいどのような感覚を共有しているんだろうか、というのは気になった。
 大半のメンバーが2年生であることから今後は受験勉強に専念するためサークルとしての活動は休止する模様。残念だが仕方ない。読んだなかだと秋号にある大熊美優さんの論考『「自由、平等、友愛」から愛と自由の関係性を見る』が面白かった。政治学やってる身というのと、最近夏目漱石をいくつか読んだというのも影響しているだろうな。

『フミカレコーズ』 http://fumikarecords.com/
『VOCALOID CRITIQUE』vol.03,05
『UTAU CRITIQUE』
http://www.vocalo-critique.net/
 ボカロクリティークは最初に刊行されたPilot版にまつともくんが論考を載せてたり、ボカロ批評っていういままでほとんどなかったようなものが出てきたこともあって気になっていたので持っていなかった巻を購入。いまのところvol.04は持ってないのでどこかで手に入れたいところ。
 vol.05とウタクリのほうに座談会が載っていたのが新鮮。非女性向けコンテンツでありながら下手すればリスナーの半分以上が女性かもしれない、という特異な空間において、当事者である女性がボカロについて語ることは聴き専ラジオのNezMozzさん以外にそれほど思いつかない。その点でも座談会は批評的な意味でも入っていてよかったコンテンツだと思う。
 こうしたボカクリの経験を下敷きにしつつ、『フミカレコーズ』では同人/インディー音楽全般の批評を目指している模様。前回の文フリに出された音楽系の批評詩をレビューする、という試みも面白くて、音楽について語ることについて語る、というメタ的な読み方ができるようになっている。まだまだ音楽について語る、ということは開けておらず可能性はあると思うし、今後の展開にも期待したいところ。どのように言葉を、語ることを届けるかへの意識がかなり強いのを読みながら感じた。

 ボカクリにはどこかで一回書いてみたいなあ、ともぼんやり思っていたがこの冬のコミケでボカクリの刊行は休止する模様なので乗り遅れたわたくしでした。
 あ、あとボカロ、UTAU曲のクロスレビュー企画(5人の寄稿者が曲を持ち寄り、全員でレビューする)はまだちゃんと読んでないが(個人的にはyplさんや沙野カモメさんが選曲されていてひゃっほー、という気分)まとめがあったのでこれを眺めながら冊子のほうも読んでみようと思う。

『セカンドアフター』EX2012 http://d.hatena.ne.jp/second_after/
 震災後の想像力という文脈で刊行がはじまったセカンドアフター。これで3冊目だが、EX2012とあるように2012年を総括する一冊。あとジョジョ特集があるのだけどジョジョはほとんどわからないので未読。
 そのなかで面白かったのは主宰の志津Aさんとてらまっとさんの対談。「雲の向こう、約束の場所」やアニメ「じょしらく」を引きながら、日常系とセカイ系のふたつの想像力の境界をあやふやにする表現について語る。そもそも日常系、セカイ系という言葉は後付けとして生まれたカテゴリなので、境界も後付けで作られたものでしかない。その上でいつどのような条件で「奇跡」は生まれるのか。映画版「けいおん!」を引きながら「目覚めながらにして夢を見る」という表現で奇跡の可能性を語ることは、境界が曖昧な世界を生き抜くためのひとつの生存戦略としてはありうるのかもしれない。

 3.11を経て、「いかにして退却するか」を改めて突きつけられる今(真っ最中の選挙戦にそうした観点があるのかどうかはあやしいが)どのような死生観と追悼の形を構想しうるのかを、柳田の『遠野物語』を引きながら論じた兎男さんの論考は今回も歯切れがよく読み応えがある。文フリでげっとしたものから読んだ文章としてはいまのところ一番のお気に入り。
 締めくくりとして次のような言葉で語っているのが印象的なので引用する。

この「モーニング・エイジ」にあって、社会はまさしく人間社会として、人と人とが「挽歌」をともに歌ってゆくようなあり方は模索できないだろうか。戦争体験を持つ世代がいよいよ少なくなってゆくとともに戦後社会は彼方へ過ぎ去り、二万人の鎮めるべき死者の魂を持った「災後社会」において、時代は今、「レクイエム」を歌い始めるのだ。かつて私のそばに居たあなたのために。そしてまた、これから生き、死んでゆく私のために。
兎男「『モーニング・エイジ』に生きる」―ポスト3・11の幽霊<ゴースト>たち 『セカンドアフター』EX2012、pp112-113


 65歳以上人口が3.000万人を越えている今、大きな災害がなくても向こう10〜20年近くあるいはそれ以上は多死(そしてかつ、少産)社会に突入していかざるをえない。だからこそ、社会保障という制度的な試みとは別に、個々人が身近な死と向き合うというミニマムな模索も同時に必要となってくる。

『Kulturtrieb-G(KTG)』vol.4 http://ktg.ria10.com/
 ついったーで交流のある鈴木真吾さんや、まりえってぃこと関根麻里恵嬢が所属する学習院の表象文化研究会という、院生を中心としたサークルの冊子。文フリでは常連組のポジション。
 90年代を旧ゼロ年代と呼称し、オウム、阪神大震災、酒鬼原聖斗、エヴァンゲリオンなどなど、90年代を席巻したイベントについて振り返っていく。
 辺境私論のところでも書いたが、90年代前半の記憶があまりないので、オウムのことはほとんど俺の中では地下鉄サリン事件とイコールで結ばれる。坂本弁護士一家殺人事件のこともイメージとしてはあるが、これは後追いの報道などによって植え付けられたもので、事件当時のことはほとんど知らない。震災に関しても、大きな地震があったという事実は記憶にあるだけで、当時5歳になる直前だった俺の記憶には地震のときは早朝だったので寝たまま起きなかったらしい、ということが親によって伝えられるくらいのことしか覚えていない。

 そういったことを踏まえると、辺境私論のところでごちゃごちゃ書いているわりには90年代のことをまだまだ知らない。エヴァもかなり後追いだし。
 ちょうどヱヴァQ公開があったりもしたし、3.11は阪神大震災を引き合いに出されることも多かった。そういえば今年は長らく指名手配したオウムの3人が全員捕まるという、非常にレアな自体が起きた。90年代、とりわけ95年から2012年を架橋する意味でも読む価値はあったなと感じている。

『Rhetorica』#01 http://web.sfc.keio.ac.jp/~t10170to/rhetorica/special/
 慶應の学部生(特に慶應SFC)が中心となって発足したTEAM:RHETORICAによる一冊。当日まで製本作業をやっていたらしく、TRC到着が14時台という怒濤の展開になりながらも、前評判の高さもあってか速攻完売。俺も含め何人かがレトリカまだかなー、とつぶやきながら待っていたのが面白かった。さっきも名前を出したまつともくんやせしもさんが関わっていることもあり、購入。
 巻頭言「つくり続ける生き方をつくる」に「ものづくりの民主化」という言葉を出しているように(この文脈で政治的な用語である民主化という言葉を出すのはちょっとよくわからないところではあるが)個人がものをつくる、ということが時代を進めて容易になりつつあるなか、ものを作り続けることを可能にするための構想を模索する、というところが趣旨らしい。
 瀬下、太田による「フラット化するデザインについて」では、つくることのハードルの高さを超えていくために、まずは楽しむ、求めることが重要だと指摘する。ただ、それだけではつくり「続ける」ことを可能にはしない。だからこそ、まつともくんの「祭りの後には何が残るのか」と題された通称文化祭論が生きてくる。この瀬下、太田の文章に始まり、まつともくんの文化祭論、つまり終わらない祭についての議論で終わるこの一冊は、読書体験として非常に気持ちいい。

 あえて批判的に検討すると、何もかもがフラットになったとしても内容としての質はきっと求められるし、続けていくことを考えると何かを糧にしないといけない。つまり、続けるということに対しての反省と回顧や、つづけていくためのインセンティブの設計が必要になる。「可謬主義」や「探求」という概念は創作のハードルを下げることには寄与していると思われるが、インセンティブの設計につながるかどうかと言えばやや弱いように思える。
 ただ、おそらくそうした持続可能性という危惧も考慮に入れた上で、村上裕一が『ゴーストの条件』で中心的に記述した「ゴースト」という概念を援用し、論考は終わりへと向かう。要は、文化祭という祭が終わったとしても生きながらえるものを祭の中に設計することができれば、終わらない祭の永遠の対象として「ゴースト」がよみがえる。やる夫も初音ミクも、終わらないどころか日を追うごとに「成長」していることようにも思える。
 しかし今度は、永遠に続いてしまうものを続けたくないと思ったときに、どのようにしてやめればよいのか、という問いも新たに立ち上がってくるとも言えるのではないか。と、軽くツッコミを入れてみる。

 長くなったのでつづき。てかまだ10/27しか紹介してないのか。。
 特に創作関連については全然書けてないのでまた後日あらためて書けたら書く。書けたら(大事なことなので2回)
 
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見:池袋HUMAXシネマズ

 少し前にヱヴァQを見てきたが、そのあとお会いした人にはき出すように話してしまったので文章にするタイミングを逃してしまった。とはいえまとまったことを書くつもりはなく、あくまで話しきれなかったことまで含めてはき出すように書いてみようと思う。
 当然ネタバレありですご容赦。というかネタバレなしに話すこと、ってこの映画ほとんど無理だよねうん。

 まず前座として同時上映された「巨神兵東京に現る」からの流れがものすごかった。なにがすごかったかというと、あっというまに木っ端みじんというか火の車というか、わけのわからない巨大すぎる力によってどうしようもなく破壊されていく光景を大スクリーンで目の当たりにさせられる。そのあと、テレビでも公開になったアスカの6分38秒の宇宙戦である。
 一見繋がりがめちゃくちゃのようにも見えるけど、スクリーンで見ると巨大なもの、から遠いところ(宇宙)へ回避したのかな、とも読めるし、事実アフターセカンドインパクトの世界であるヱヴァの地球は、世界の半分以上が破壊し尽くされてると言ってもいい。要は、ただ破壊し尽くすだけの10分の映画を上映したあと、まったく別の映画で何もかもが破壊されてしまった世界を描く。まったく別ではあるが監督が同じ庵野である以上、意図がないわけがないだろう。

 んで、そのあとはシンジくんが14年間眠っていた後覚醒という超展開である。何があったかはほとんど説明されていないが14年前は旧劇場版の最後の作品が上映された年、としていちおうかぶせてきたんだろうな。ただ、ほとんどのキャラがあまり歳をとった感じはしなくて(特にヱヴァパイロット。この人達は歳のとらない何かになってるんだろうと勝手に思っている。そもそもヱヴァは少年少女にしか乗れない設定だったはずだし)話は進むのだが、シンジくんにとっての空白の14年間の重みは映画が進むにつれて響いてくる、と見ながら感じた。
 というのはあまりにも誰も守ってくれないのだ。旧劇場版の26話でミサトがシンジにキスをするシーンがあるが、Qでのミサトさんは頑なにシンジを突き放す。ある意味では親心なのかもしれないし、かまっている暇などないという意思表示かもしれない。あのボタンを押せなかった意味を考えると、完全には割り切れない何かがあるのは事実で、14年の空白は誰にとってもわりきれない何かを残しているように見えた。

 まあそれよりもなによりも、Qはやっぱりアスカとカヲルなのだろうと思う。真木波さんも前回よりは出番が増えてまあやファンとしては嬉しかったが、あくまでマリはマリなのだ。このへんの意図についてはあとで書く。
 前述したようにミサトの態度が変わってしまっている一方、アスカはあくまでアスカとしてシンジと向き合う。あんたバカー、とは言わないまでもそれに近い態度で、つまりシンジを説教し、啓発する立場(姉御肌的なそれ)を顕示している。そのようにしてふるまうアスカを見たかったし、テレビシリーズのときから一番感情がストレートに出て、かつイヤミのないキャラとしてのアスカが、突き放されてしまった立場であるシンジには強く響くのだ。それでも、アスカの態度は届かない。

 届くのは、寄りそうカヲルのやさしさだ。
 やさしさ、と表現するくらいしか思いつかないが、とにかく静かで穏和。ピアノの連弾を練習するシーンで接近したりするのはBL的想像力をふくらませるべきなのかもしれないが、たぶんガチBLとしてはぜんぜん物足りないんだろうな、とも同時に思う。
 カヲルが寄りそうシンジとのシーンが圧倒的に他の登場人物のシーンより多いのはQでほぼ初登場して、Qでいなくなってしまうカヲルのその役割ゆえだろう。この役割がどのようにあとになって響いてくるかは次を見ないと分からない。

 お話としてはアスカ→ミサト→アスカ→カヲル→全員的な進み方をしていて、正直中身があるかどうかと言われると微妙だ。というか、少なくともこの映画単体だけを見てもまったく何を言って良いか分からないようなぽかーんとした感想しか出てこないだろうと思う。ずっとそうではあるが、過度に文脈的に展開していくやり方を変えてないあたりは、意固地だなと思ったりする。
 ただ、破にあった明るさ、正統なゼロ年代のロボットものボーイミーツガールのアニメ、というテイストは今回はほとんど見られない。せいぜい宇宙戦から艦隊での航空戦という序盤の数十分程度だろう。そのあとは暗い。旧劇場版ほどの絶望さ、みたいなものはまだ感じないが、それでも暗いし、静かである。ヱヴァってこんなに静かなアニメだったっけ、と見る目を変えてしまうほど、シンジとカヲルのやりとりが展開される。この部分が本編では一番分厚くて、まあほかにも冬月と将棋を指したりだとかの重要なシーンはあるものも、カヲルなしではまず展開が進まない。
 14年間のことがまったく分からないシンジが同じくまったくわからないまま画面を見ている視聴者とするならば、カヲルは解説者と言ったところだろう。ただ、親切な解説ではなくあくまで断片的な語りが続いていくのはご愛敬といったところ。

 まあいろいろ書いてきたが重要なのは、破を塗り替えようとしているという事実と、90年代もまたなんとか乗り越えようとしているのだろうな、というところだ。
 前者に関しては直前に書いたように、空気感も設定もほとんどぶちこわしているといっていい。それができるのは、そもそも整合的な結末など作るつもりがない(だろう)という開き直りがあるからで、その姿勢自体は90年代と大きく変わっていないのだろう。単にやり方が違うだけで。
 その上で90年代を乗り越えてテン年代になってしまった今できることはなんなのだろうか。そうした模索そのものが、ある意味ではカヲルの苦悩なのかもしれない。彼の中にはひとつの答えがあったが、現実に目の当たりにするものは彼の想像を超えるものだった。言ってしまえば想定外の自体を目の前にしても、わたしたちは決断しなければならないし、行動しなければならない。自らの血を捧げることによってでしか達成できなくても、だ。

 ミサトに突き放され、アスカと向き合い、カヲルに導かれていく。
 しかし、シンジにとって先導者であるはずのカヲルは逝った。アスカは再びシンジの下に降り立ち、現実に引き戻そうとする。真っ赤に染まった砂漠の上を歩きながら。
 一方的に首を絞められるだけだったEoEのラストシーンとはまるで違う新しい構図は14年間の空白によってもたらされた。あるいは、もたらされてしまった。いまはただ、この先に起こるであろうなにごとかに期待する、というのはあまりにも無邪気すぎるだろうか。
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