そういえばこの夏休みから秋口にかけて長期間のワークショップという形で学部生たちと密に関わる機会があった。というか俺の夏休みはほとんどここに費やされてしまったのでそれ以外のことができなかったりここ以外の人と会う機会が少なくなってしまい、という感じだったのだけど(まあ参加したおかげで目的の一つであった被災地を訪れることができたのでイーブンだとは思っている)せっかくなのでここで感じたあれやこれやをメモ程度に書いておこうと思う。
こういうことを経験して成長しました!なんていう話は俺も特に読みたくないし興味はないので書かない。実際成長したかどうかなんてもう少し時間が経ってみないとよく分からんし、社会人基礎力なるものが身についたのかどうかも同様にしてよく分からん。個人としてはソツなくこなすことを心がけ、できた部分もあったしできなかった部分もあったというそれだけのことだ。
というわけで、これからここで書くのはあくまでも記事タイトルにしている、会話の文法あるいはコードについてに限定する。
人々がどういう会話をしているかだとか使用語彙はどのようなものかというのはある種ハビトゥスのような側面もある。たとえば日本では橋本健二『階級都市』にも具体的に書かれていたが階層によって言葉や使用語彙が変わる、つまり通じる/通じないが階層間で明確になるという時代があった。いまに置き換えたら階層による差は縮んだとは思うが女子高生には女子高生の文法があるしコードがある、オタクにもまた然りといったことを考えるとクラスタによって際分化されているのかもしれないな、と思う。
まあそのへんの文化人類学的な話(なのかどうかもよくわからんが)は置いておいて、コミュニケーションが思った以上に簡単じゃなかったな、というのがこの夏の一番大きな感想でもある。もちろん2人ほど既知の人がいたけれどもほかの人たちとは初対面で、グループワークという共同作業をやらなければならない。その作業が俺のいた班ではけっこう難航した、というのもあってかなり苦しかったんだがここで書く主題はそれじゃない。あくまでも彼ら、彼女らと交わしたごくごく一般的な会話についてだ。
結論から書くと、会話のリズムやテンポがふだん関わっているような人たちとはかなり違ったということだ。そしてリズムやテンポが違うということは文法やコードも異なる。専門的な話や分析的な話はあまり好まれないというか話題にはなりづらい。面白いのは、ただし恋愛トークはのぞくということ。
ある話題について少し話す内容を考えた後、「そういえばあれは〜」みたいにより掘った話をしようとすると怪訝な表情を向けられるのが印象的だった。要はそれはもうついさっき終わった話なのだ。おおかみこどもを見てきたことについてあれこれ話をした気がするのだが、ほとんど見向きもされなかったような気がする。重要なのは俺がおおかみこどもを見てきて面白かったらしい、という情報であって、少なくとも分析的なことについては求められていない。
より個別具体的には話が弾んだこともあったし話が弾んだ人もいたので、上の話はあくまでも一般的にこの夏過ごした人たちとの会話のコードがそうだった、ということを書いておきたかった。なぜかというと、俺自身がふだんどういう人たちとどういう会話を交わしていて、その文法やコードがどのようなものなのかということを意識せざるをえなかったからだ。意識させられた、といったほうがいいだろうか。
クラスタが変わればこうしたものも変わっていく、ということはまあ容易に想像はできるけど、ふだん所属しているクラスタだと微々たる変化でしかない。話す内容は変わるかもしれないが、文法やコード、会話のリズムやテンポはわりと変わらない。だからふだん所属している複数のクラスタを移動しても、変化を意識するのはあくまでも話す内容でしかない。
だから話す内容も違えば文法やコードも違う、という経験をしたのは久しぶりだった。去年の夏の集中講義もふだん属していないようなクラスタの人たちと出会えたけど、テーマがテーマだったので話が合うことのほうが多くてさほどギャップは気にならなかった。今回のほうがふだんとのギャップは大きかった。自分のコミュニケーションの方法を若干修正しなければならないな、と思うくらいには。
長期のワークショップだったので終わる頃にはそれなりに仲良くはなれたが、このあとも人間関係を続けていくかという点では迷いがある。切実な話を書くとお金があまりないという状況なので交際費の分配をもう少しほかの方に、特に夏休みあまり会えなかった人たちに広げたいという思いもある。夏のメンバーで今後も飲み会などなどがあるようだけどそろそろ自分のことにも専念しないといろいろと詰んでしまうというもうひとつの状況もあるので基本的に遠慮するだろうな、という感じ。
まあそういう事情もあり、いったんわたしは身を引きますのでそういうことでよろしく。と、自分自身の整理の意味も込めて一応書いておくことにする。
こういうことを経験して成長しました!なんていう話は俺も特に読みたくないし興味はないので書かない。実際成長したかどうかなんてもう少し時間が経ってみないとよく分からんし、社会人基礎力なるものが身についたのかどうかも同様にしてよく分からん。個人としてはソツなくこなすことを心がけ、できた部分もあったしできなかった部分もあったというそれだけのことだ。
というわけで、これからここで書くのはあくまでも記事タイトルにしている、会話の文法あるいはコードについてに限定する。
人々がどういう会話をしているかだとか使用語彙はどのようなものかというのはある種ハビトゥスのような側面もある。たとえば日本では橋本健二『階級都市』にも具体的に書かれていたが階層によって言葉や使用語彙が変わる、つまり通じる/通じないが階層間で明確になるという時代があった。いまに置き換えたら階層による差は縮んだとは思うが女子高生には女子高生の文法があるしコードがある、オタクにもまた然りといったことを考えるとクラスタによって際分化されているのかもしれないな、と思う。
まあそのへんの文化人類学的な話(なのかどうかもよくわからんが)は置いておいて、コミュニケーションが思った以上に簡単じゃなかったな、というのがこの夏の一番大きな感想でもある。もちろん2人ほど既知の人がいたけれどもほかの人たちとは初対面で、グループワークという共同作業をやらなければならない。その作業が俺のいた班ではけっこう難航した、というのもあってかなり苦しかったんだがここで書く主題はそれじゃない。あくまでも彼ら、彼女らと交わしたごくごく一般的な会話についてだ。
結論から書くと、会話のリズムやテンポがふだん関わっているような人たちとはかなり違ったということだ。そしてリズムやテンポが違うということは文法やコードも異なる。専門的な話や分析的な話はあまり好まれないというか話題にはなりづらい。面白いのは、ただし恋愛トークはのぞくということ。
ある話題について少し話す内容を考えた後、「そういえばあれは〜」みたいにより掘った話をしようとすると怪訝な表情を向けられるのが印象的だった。要はそれはもうついさっき終わった話なのだ。おおかみこどもを見てきたことについてあれこれ話をした気がするのだが、ほとんど見向きもされなかったような気がする。重要なのは俺がおおかみこどもを見てきて面白かったらしい、という情報であって、少なくとも分析的なことについては求められていない。
より個別具体的には話が弾んだこともあったし話が弾んだ人もいたので、上の話はあくまでも一般的にこの夏過ごした人たちとの会話のコードがそうだった、ということを書いておきたかった。なぜかというと、俺自身がふだんどういう人たちとどういう会話を交わしていて、その文法やコードがどのようなものなのかということを意識せざるをえなかったからだ。意識させられた、といったほうがいいだろうか。
クラスタが変わればこうしたものも変わっていく、ということはまあ容易に想像はできるけど、ふだん所属しているクラスタだと微々たる変化でしかない。話す内容は変わるかもしれないが、文法やコード、会話のリズムやテンポはわりと変わらない。だからふだん所属している複数のクラスタを移動しても、変化を意識するのはあくまでも話す内容でしかない。
だから話す内容も違えば文法やコードも違う、という経験をしたのは久しぶりだった。去年の夏の集中講義もふだん属していないようなクラスタの人たちと出会えたけど、テーマがテーマだったので話が合うことのほうが多くてさほどギャップは気にならなかった。今回のほうがふだんとのギャップは大きかった。自分のコミュニケーションの方法を若干修正しなければならないな、と思うくらいには。
長期のワークショップだったので終わる頃にはそれなりに仲良くはなれたが、このあとも人間関係を続けていくかという点では迷いがある。切実な話を書くとお金があまりないという状況なので交際費の分配をもう少しほかの方に、特に夏休みあまり会えなかった人たちに広げたいという思いもある。夏のメンバーで今後も飲み会などなどがあるようだけどそろそろ自分のことにも専念しないといろいろと詰んでしまうというもうひとつの状況もあるので基本的に遠慮するだろうな、という感じ。
まあそういう事情もあり、いったんわたしは身を引きますのでそういうことでよろしく。と、自分自身の整理の意味も込めて一応書いておくことにする。