2012年10月

2012年10月29日

Optimus G最強説を確かめてきた

 少し前から家電量販店に寄る機会がある度にスマートフォンやタブレットをカチカチといじりつつ、同時に機能や市場の動向についてセールスの人に聞くというたまにやっている趣味がある。
 ガラケー&タブレット所有な俺がスマートフォンをげっとする日はそれほど近いわけではないのだが、とりあえずどういうものが出ているかは把握しておきたい。この2年半ほどで広がりすぎてしまったスマートフォン市場にキャッチアップすることは簡単じゃないし、少なくともどういうトレンドがあるのかを知っておけばいざ買うときの参考材料にはなるだろう。あと、友達とかがたまたま持ってたら触らせてもらったりもするわけだけど、事前に仕入れた情報と確かめ合うこともできる。使っている人の実感はすごく重要だと思うしね。

 まあ、そんなよく分からない趣味があるわけですが、唯一iPhoneにまとも対抗しうるAndroid機種として最近出たOptimus Gを某所のビックカメラで触ってきました。ウインドウズ8とnexus7を触るついで、ではあったんだけどこれがなかなかに素晴らしい。



 いくつか機能の説明を受けて気に入ったのは
・なによりもさわり心地と画面遷移の速さ。さわっていて気持ちいい、と素直に思える機種はそれだけで素晴らしいのではなかろうか。画面も新しい技術を使っているようで有機ELよりもさらに美しい。
・手書きのメモ。メモを残しつつ画面遷移できるのはいまのところ他に見たことがない
・2GBあるRAMとクアッドコアCPUによるサクサク感。ひとつ目に書いたことと通じるがアプリの起動がすごく楽。LTE回線でつながっているのを使ったからかもしれないが、ネットや動画がさらに快適であった。
・キャップレス防水。これは使ってみないと分からない機能ではあるが韓国勢でもサムスンのギャラクシーにはなくてLGのOptimusが大事にしてきた機能。

 あとバッテリー容量が大きいこととか、書けばいろいろあるんですが触ってみてすごく快適なのは大きい。使い続けてみないと分からない部分はあるが、フリーズのおそれは機能の説明を受ける限りだと感じない。
 夏に出たOptimus itとの違いは画面が少し縦長の5インチになっていること。ただ、重さはあまり変わらないので、片手で持ってもさほど重くは感じない。
 ただ持ってみるとどうしても縦長な感じは若干気になるので、お店の人とも意見があったのはitのサイズでGの機能があればさらに最強だな、と思いました。
 itのほうの売れ行きに関してはすごく好調とのことで、Gもいまのところ新作ではiPhone5に次いで国内で売れているようだから、Optimusの天下はしばらくは続きそうなんじゃないかなというのが実感レベルの感想。itは小さめで片手でもフィットする感がすばらしく、カラーバリエーションも色々あってか女性に好評な様子。

 Xperia sxやXperia GXあたりとの比較なんかもしたかったんですが試機が置いてなくてよく分からず。ただ、同じ韓国勢でもギャラクシーよりは全然こっちのほうが魅力だなというのが直感的に分かるのは強みだなと思うし、そのへんは国内勢を完全に置き去りにしている感はある。ドコモの社長が本気出しているのもまあ分かるかなという感じ。
 とりあえずitとGのどちらかを持っていればしばらくは素晴らしいスマートフォンライフになりそうな気がする。スペックはGのほうがいいが、サイズ的なところは用途によって異なるだろう。ふたつのいいものが出たことによって、サイズによって棲み分けができるかもしれない。
 という、独断と偏見による感想でした。ただソニー厨としてはさっきあげたxperiaの2機種はどこかでちゃんと触ってみたいものです。


※追記(2012/10/30)
 この記事のおかげがいつもの2倍くらいのアクセスがあってびっくらしています。やっぱりみなさん気になってるんでしょうか。
 記事にも書いてあるXperia GXを今日軽く使ってみたんですが、まあ文句はないけどOptimus Gを最初にさわってしまうとかなわないかなあというところ。直感的なところもあるんだけど、ネットがすごくサクサクしていて素晴らしい。ネットが快適にできてこそのスマートフォン、という人は多いと思うのでこの一点だけでも(当たり前ながらxi搭載だし)買いだよなあというところ。

 Xperia sxは機体そのものはなく、とりあえず置いてた模型のやつを持ってみただけどitよりもさらにコンパクトなので小さすぎる気もした。あとは触ってみての感じが気になる。
 Xperiaシリーズはウォークマンを搭載しているし、たしかReaderも使えるように少し前になったので、このへんは使いたい人にはお得感あると思う。sxはちょい小さすぎるかもだけど、縦に開いて読む分ならXperiaの標準のサイズなら十分だろう。文字だけならね。
 仕様はSony Tabletと同じReaderのよう。少し前までよく固まってお世辞にも使いやすいとは言えなかったが少し前に全面アップデートされてからはだいぶ使いやすくはなった。

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2012年10月21日

とらえきれないということの先に道標を探す

 去年の11月に卒論研究のインタビューとちょっとしたフィールドワークのために岩手県の一関を訪れた。
 今年の1月に青春18きっぷ2枚分を使って、福島市内や郡山に会津、ほんのちょっとだけ磐越東線に乗っていわきにも足を運んだ。ずっと会いたかった、某巨大動画サイトで出会って以来2年半の付き合いになる某氏に会うこともできた。一緒に食べたラーメンはしみるようにおいしかった。磐越東線のなかでいわきの近くに住むおばあちゃんと話したことは、旅の一幕としてなつかしい思い出だ。
 8月の終わりに、松島町から東松島市へ、そして石巻市をめぐる機会を得た。

 四国出身の俺は東北に対するリアリティをほとんど持っていない。ゼミ生のなかに東北出身者がたまたま3人もいていろんな話はしたし、教科書で地理的なことや歴史的なことは知ってはいるが、せいぜいその程度でしかない。
 3.11以降、何かをしたい、とはずっと思っていた。所詮学生かもしれないが、「何か」はできるのではないかと。
 しかしながらどこか遠くで「何か」をする前に、まずは何より身近な場所である東京で、他でもない自分の身の振り方を考えなければならなかった。両立させることは不可能ではないだろう。ただ、そんな余裕は2011年の俺にはあまりなかったし、言い訳のようにして遠くに行くことはしたくなかった。

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 手の届く範囲は限られている。そんななか、東京でやってきたことは膨大な映像を見ることだ。
 NHKを中心に、3.11に関するドキュメンタリーをかなりの数録画した。いくつかはDVDに焼いたので総量は分からないが、いまでもHDDには100本以上の数がある。
 ほかにも、たとえばNHKは毎日平日の2時から「お元気ですか 震災に負けない」という各地域をつなぐ番組で確実に意識しているが、民放が震災のことを伝えるということはほとんどなくなった。良い悪いではなく、もうすぐあれから1年半経つということはそういうことなのだろう。

 以前、「その街の子ども」についてのエントリーを書いたとき、宇野常寛の「巨大なものをどうとらえるか」という言葉を引用した。
 今回、あらためて思うのはあまりにも3.11という現象は巨大すぎるということだ。全体像をとらえるなんて一人の人間にはおそらく不可能だろう。過去ないくらいの死者の数、史上に残ってしまう悲惨さが今でも尾を引く原発事故、いまだ断続的だがやむことのない余震、そして残されて生活している数十万の人々・・・集計的にとらえることでも十分人の無力さを伝えているように見える。そして実際”その場”に立つと、なおさらだ。

 映像を見て何度もシミュレーションはできていた、という部分はある。それに、手元のタブレットはオフラインでもなんとか動いてくれるグーグルマップ先生がある。あの地名の場所にいくと、ああいう景色が見えるのだろう、というある程度のイメージはあった。
 実際、映像で繰り返し見た光景は何度も見た。積み上がったがれきの山、壊れている家、地盤沈下して水がたまっている土壌、所狭しと敷設されている仮設住宅の数々。名詞で語ることは簡単だ。見たことがあったものを、その場にいって確かめた、ということにすぎないのだから。

 こらえられない、と思ったのは、あらかじめ見ていたもののがあまりにも膨大なことだ。
 「巨大なものをどうとらえるか」というのは3.11という事象にこめられた観念的な意味合いでもあるし、何より実際の現場が膨大なことによるのだと、それだって分かってはいたが改めて感じた。映像はあくまでも全体を切り取ったものにすぎない。その、途方もないスケールを伝えるには限界がある。
 いや、限界があるにせよ伝えようと様々な映像を届けてくれたことにまずは敬意を表すべきかも知れない。

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「帰ってきたら誰かに伝えよう」という気持ちが消えていったのは、そのあたりだった。「もしもこれが自分の地元で起きたことだったら」という考えが頭をもたげた。そうしたら、もう冷静に事態を眺めることができなくなった。そこに住む人の気持ちを想像することはできなかった。その事実がよけい私を動揺させた。
「伝えられない、ということ」(これ以上のばかにならないために)

 東松島の沿岸部、正確には浜がある入り組んだ地形の場所に降り立ったとき、なおちゃんさんのこの言葉の意味を理解した。いや、それ以前に体感的に、浜のある場所で生まれ育った自分の15年を思い、こみあげてくる何かをこらえた。ひとりだったらこらえられず、吹きだしていたのかもしれない。
 東松島はちょうど海岸沿いに仙石線が通っている。岸壁もさほど高くなかったので、おそらくオーシャンビューの路線として旅行者や地元の人たちに親しまれていたのだと思う。あれ以来、駅が破壊され、脱線という言葉が似合わないほどレールが壊れた結果、いくつかの区間が動いていない。将来的により陸地のほうにレールを引き直すことで新しい仙石線のルートを作るらしい。何年後のことかはよく分からない。当然だが、それまで地元の人の足は(代行バスがでているようだが)制限される。
 浜で育った15年間を振り返る機会は東京にいるとさほどあるわけではない。ただ、地元を離れたことでより相対化できるようになったし、相対化できるだけの年月も流れた。地元を離れて今年で8年目(うち3年間は高松での生活。県内ではあるが「地元」とは別次元)になるから、この倍の年月を地元の外で重ねると最初の15年間はより過去になる。

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 話は少しそれるが、『さよなら妖精』のなかで、登場人物のひとり太刀洗万智は市内にある墓地を訪れるシーンでこうつぶやく。「没年が読めるわ。・・・・・・過去って、本当にあったのね」と。この短い言葉にも独特の重みがあるが、この言葉を聞いたあとの主人公守屋路行の独白が興味深い。
おれはこういう場所に来ると、じりじりとした焦りのようなものがこみあげるのを抑えられなくなる。おれ自身は決して名誉欲の強い人間ではない。少なくとも自分ではそう思っている。しかしそれでいながら、ここに葬られた幾千のひとびとを思うと、ただ生きてただ死んでいくことは望ましいことではない、という気になってしまうのだ。(中略)俺は、高度な手法を手にしていながらなにも把握していない。周囲が複雑すぎて、なにから手をつけていいかわからない。ならせめて道標が欲しい。道標が。
米澤穂信『さよなら妖精』(2006年、創元推理文庫、p174)
 
 ストーリーの都合上、守屋の焦りはマーヤというヒロインへと向けられたものでもある。しかし、膨大な数の死の余韻を目の前にしてどう受け止めていいか分からない、という感覚は、今回東松島を訪れて感じたことと非常に似ている。
 津波が残酷なのは、行方不明として処理されている人たちが、埋葬すらされぬまま、つまり死の余韻すら残さないまま消えてしまったことでもある。そのリアリティは数字でしか分からない。
 それでも、土壌や建物にははっきりと余韻が残る。多くの人が流されたのだろうという意味で過去が本当にあったことをいやおうなく実感させられる。

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 この週末に、園子温監督の最新作「希望の国」が公開された。南相馬でロケを行い、もう一度原発事故が起きた時の日本を仮想したフィクションに仕立てている。
 他方、現在進行形で避難している双葉町民を追ったドキュメント「フタバから遠く離れて」という映画がひっそりと公開されていることも最近知った。
 わたしたちはまだ、語り足りていないし表現し足りていないのだろう。Too big to failという表現がビジネスの世界にはあるが、3.11はToo big to captureとでも言えばいいのだろうか。

 それでも。それでも、何かを語ること、あるいは表現することによって、それぞれのコンテクストに沿った道標は見えてくるんじゃないか。
 自分なりにcaptureしていくためにまだまだみつめ続けていこうということを、あらためていまは感じている。
 



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2012年10月12日

あのころに感じた切なさを思い出しながら―『さよなら妖精』再訪

さよなら妖精 (創元推理文庫)
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 京都アニメーションが『氷菓』から始まる古典部シリーズをアニメ化、と最初聞いたときには!?とたまげたものだが、少し前にシリーズのひとつのクライマックスとなる『クドリャフカの順番』の部分がアニメで終わり、なかなかよくできているもんだなあと見ながら感じていた。
 キャラはそれぞれ個性的ではあるものも最近のラノベと比べると控えめというか抑えて書かれていて(小説として読ませる以上はある意味普通ではあるけれど)クドリャフカはまだしも『氷菓』や『愚者のエンドロール』正直地味なんじゃないか、と思っていたが回を追うごとに古典部の4人の人間関係の充実と発展、他方でぎこちない箇所などをちゃんと書いている。いや、アニメ化した最大の効用はここにあるのではないかと思うほどで、17話「クドリャフカの順番」や21話「手作りチョコレート事件」を見たときの衝撃はなかなかに大きい。ネタは当然原作を読んでいるから知っているのだが、この2回は何回も見返したほどだ。ほんとうに、摩耶華はどこまでいってもむくわれないんだろうけれどだからこそかわいいんだなうん、みたいな感じである。

 さて、そんなふうにアニメ氷菓の後半部分を毎週のように楽しみながら、『さよなら妖精』を読み返すことにした。高校の卒業式の直前に読み返したりだとか、まあことあるごとに読み返すくらいには好きな一冊であるのだが、古典部シリーズとの絡みで読み返すことはそういえばなかったなと思う。大学に入ってから、本作が古典部シリーズから”切り離された”ことを知ったからでもあるし、そもそもこれは単体として十分な完成度を持っているのでわざわざ比較して読む必要はさほどないと言ってもいい。
 だからこの文章でも比較する、というほどのことはしない。比較が気になる人は『BLACK BAST』vol.02でさやわかさんが書いている論考を読めばいいだろう。(*1)もっとも、彼の言う日常系とセカイ系の対比にすんなり来たわけではないんだけどね。

 『さよなら妖精』にも摩耶華のようにむくわれないヒロインが登場する。それが太刀洗万智で、本人曰く太刀洗という名字が似合いすぎるくらいに長くきれいな黒髪と、切れ味のある言動が特徴的だ。主人公守屋とメインヒロインで異邦人でもあるマーヤは古典部でいう折木と千反田の関係・・・だと思っていたが、作者曰く厳密にはそうではないらしい。

米)折木=守屋 千反田=白河 福部=文原。伊原が喋っていた台詞は白河・文原に分散された。千反田の家は非常に広いという設定があるが、マーヤは千反田の家に居候している設定だった。太刀洗は『妖精』のために作った新しいキャラ。
 元々は折木・千反田・マーヤが主軸の予定だったが『妖精』になる際に守屋・太刀洗・マーヤに変わった。
最後の謎解きは折木が千反田に解説する第一段階。その後、喫茶店を去り一人で独白する第2段階に分かれていた。白河の名前の謎解きは当初千反田でやる予定だったもの。その為白河の下の名前は千反田に似たものにした。『妖精』のその部分を読めば千反田の名前の漢字表記も推測がつくはず。

引用元:米澤穂信講演会に行ってきました。 (雑記:ゆらゆら)


 これは2006年に同志社大学で行われた講演からの引用だが、途中までは太刀洗が千反田の役を担うが、途中からは白河いずるがバトンタッチすることになる。確かに古典部の福部・伊原のような関係は『さよなら妖精』にはないから、途中で役割が交代するということは確かに分かりやすくはある。
 白河は守屋の気持ちを解しつつ、協力的である。しかし太刀洗は守屋のねらいが分かってしまう。それは単に太刀洗のほうが守屋とのつきあいが長いからかもしれないし、それ以上の理由があるのかもしれない。明示はされないものの、守屋のことを一番よく知っているのは彼女である、というのが本編のラストシーンからエピローグに至る過程で描写される。もうね、このへんの感覚は女子のみなさまでないと正確には分からないのかもしれないが、摩耶華の切なさよりもっと進んだところにある。まあ、進んでいるとはいっても10代特有なもので、中学時代の名残を引きずる摩耶華と、高校3年生である太刀洗を比較したときの話だけどね。

 古典部シリーズのひとつの到達点は『クドリャフカの順番』がたどりついた、羨望からくる期待、みたいな話だったと勝手に思っている。言い換えれば、届かないものに対して届かせない、という決意をすること。アニメでnナココルル先輩が摩耶華に言い聞かせた言葉が印象的だった。
 『さよなら妖精』の到達点は、さやわかさんの見方を借りることにもなるがセカイに向けて手を伸ばそうとすることと、だができないということだ。セカイをセカイと表記するのは、あくまでイメージのなかの世界でしかなく、現実感の乏しいものでもある。だからこそマーヤは守屋の願いを退ける。
 いずれも、若さ故の未熟さを別々な形で表現したものと言える。古典部シリーズの場合は自分で決断すること、『さよなら妖精』の場合は相手に退けられること、で暫定的に決着する。暫定的に、と表現するのは引きずる可能性も多分にあるからで、その引きずりを『さよなら妖精』で退けたのは太刀洗だった。もっとも、太刀洗も自分の期待を守屋に(あるいは守屋とマーヤに)退けられた、とも言えるわけだが。

 届かないものにたいして自分自身であきらめるということ。あるいは、壁にぶちあたって挫折するということ。若い時代にはつきものだし、多くの物語で描かれてきたものではある。
 それでもいい、そうするしかない、と示すのが古典部シリーズの特徴だろう。逆に言えば、日常のなかには喜びも楽しさもあれば痛さも切なさもある。そうした多様なものを含む日常の豊穣さを描くのが古典部シリーズであり、外のセカイに手を伸ばすことは基本的にはしない、というのはそもそも折木の省エネ主義でもあった。
 折木の場合、何かが起こる前にすでに決断が自分のなかにある。その決断が千反田えるの抜群の好奇心によって揺らいでいく、というのがシリーズとしてのおもしろさでもある。しかし、ノンシリーズとして書かれる『さよなら妖精』にはそうした事前の決断などはない。守屋も太刀洗も、あるいは白河や文原(弓道部部員。福部里志ポジション)も、マーヤとの邂逅で変容していくという、その過程を丹念に一冊のなかで記述しているにとどまる。
 ただ、逆に言えば古典部シリーズがシリーズを通じて少しずつ変容されるのに対し、『さよなら妖精』は千反田える以上に奇特な存在で、かつ好奇心旺盛な存在を置くことで一気に物語を展開していく。このダイナミックさは古典部シリーズにはないものであり、『さよなら妖精』の魅力である。

 あのころ、あのときのほんのひとときの出会いが強烈な印象を残し、多くの時間を過ごしたのちに大きな挫折を迎える。
 どっちもその当時には衝撃的だったが、歳をとると忘れていってしまうものだ。その忘れてしまった大きなできごとを、ひしひしと感じさせてくれるのが古典部シリーズであり『さよなら妖精』だろう。だからどちらかというとなつかしむのではなく、思い出すために再読したくなるのかもしれない。

*0 あわせてサイトのほうに掲載したこちらの論考もどうぞ→すべてのはじまりとしての『氷菓』が描き出す日常の風景

*1 論考の表題は「日常系の世界を推理する―米澤穂信と歴史的遠近法のダイナミクス」。BLACK PASTの情報はこちらから

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