2012年06月

2012年06月30日

福島のリアリティをみつめた日―「相馬看花 第一部」と「飯舘村一年」

「相馬看花 ―第一部 奪われたときの記憶―」
監督:松林要樹
出演:田中京子ほか
公式サイト:http://www.somakanka.com/
見:オーディトリウム渋谷


 この前の日曜日の午後、渋谷のオーディトリウムという映画館で「相馬看花」という、3.11以降の南相馬を追いかけたドキュメンタリー映画を見てきた。はじめていったけど、ユーロスペースの入ってる建物としてなんとなく納得。
 先月の朝日夕刊でこの映画のことを知り、機会を見ていくつもりだったのだが、ちょうどこの日は批評家の佐々木淳と監督である松林要樹が対談する、というセッションが上映後にあったので行ってきた。日曜日の昼間にもかかわらず、という言明もあったけれど、日曜日の昼間だからこそ見に行けたとも言えるのでまずはその点に感謝したいところ。

 映像の構成はシンプル。監督が南相馬で偶然であったという田中京子さんという市議会議員の方の撮影から始まり、田中さんを介して出会った人たちを継続的に追いかけるというもの。そういう経緯もあるので登場人物はさほど多くはないが、その分濃密だ。2時間と言わずもっともっと、彼らのことを知りたいと思うほど、出てくる人たちが魅力的なのだ。もちろんその魅力を引き出したのは監督の腕によるところも大きいだろう。
 ドキュメンタリーの醍醐味は事実をリアリティとして残すことにあると思うが、ドキュメンタリー「映画」である醍醐味はテレビ局の事情のようなものが介在しない、純粋に監督個人の作品として見ることができるところにもあると思う。いろいろな制約がある以上、マスメディアが撮影、放送するドキュメンタリーほど大味ではないかもしれないが、大味でないことの魅力がつまった2時間になっている。テレビだと脚色や演出がご都合主義的に入る場合があるし、それ自体が悪いわけではないがリアリティとは何か、を考えると難しい問題になる。
 とはいえ、機動性をいかしたからこそ生まれた映像もいくつかある。たとえば田中さんや末永さんの生活する避難所を定点観測している映像は、マスメディアのニュース映像とは比較にならないほど濃密なものである。体育館のなかでひとりひとりが線量を測定する映像もなかなか衝撃的だった。状況は大きく変化した。それでも生きている人たちがいる。変わったことも、変わらなかったことも、両方が混在している。

 この前土地をめぐるエントリーを書いたが、監督も同じようなことに興味をもって南相馬を撮り続けたのではないか、と思いながら見ていた。つまり、土地の人を映すことによって、その人を通じてあぶり出すものを映像として生み出すことである。登場人物のひとりであるかつて市議会議員をやっていた末永武さんや、約10年間福島第一原発で仕事をしていたという粂忠さんの語る物語は、土地の歴史(の一部ではあるとしても)そのものでもあるのだから。
 このへんの話は上映後のトークで佐々木敦が指摘していたことでもある。佐々木さん曰く、この映画が素晴らしいのは分かりやすく告発しようとしているのではないこと。そこにいる人のたいへんさをストレートに伝えるのではなく、土地の記憶のようなものを引き出そうとしている。そこには時間の広がりがあるのではないか、と。(*1)
 時間の広がりを感じるには、まずは長く生きた人に問うことなのだろう。

 文章にしてみて改めて思ったが、この映画を見て感じたことは多い。しかし、この映画の内容をうまく文章に起こすことができない。粂さんの柔和な表情と表現豊かな方言も、末永さんの熱意も、言葉にすれば短くおさまるが感じたことをそのまま書くことはいまはできないな、と。
 大づかみとしてはいままで書いてきたようなことが映画の中には投影されている。伝えたい、という監督の思いと、語りをもって伝えたいという南相馬の人たち。映像は文字通り、人の息づかいを伝えることのできるメディアであるということを、改めて感じた。

*******

 同じ日の夜に、NHKのETV特集で「飯舘村一年 〜人間と放射能の記録〜」という番組を見た。昼間に109分、夜に90分、計200分ほどこの日は福島をみつめ、考えた一日になった。
 この特集の構成は全村避難後のそれぞれの人々の状況を追う形をとっていて、主に仕事と子育てをめぐるエピソードが多い。住むことは働くことでもあり、働くことは住むことでもある。住めないなら外で働くかいいのか、働くならどこに住むのがいいのか、子育てをするためにはどうすれば・・・という幾多の迷いが映像におさめられている。90分の間のほとんどは重たい空気が覆う。

 空気の重たさについてもそうだが、ETV特集としてはこの切り口をとったんだろうなと率直に感じた。リアリティを伝える以上に、その様相を伝えること。語りを引き出しつつ、エモーショナルな言明を引き出す。佐々木さんの言葉を使えば、たいへんさに重きを置いているように見えた。
 とはいえ、強調しすぎる結果になっていないのは、ETV特集的な(といっていいのかどうかはあやふやではあるが)ストイシズムのようなものを感じる。NHKスペシャルは時々前のめりするというか、伝えたい思いありきの番組構成になることがしばしばあるが、ETV特集のよさはある程度ストイックに現実を伝えること。その現実は、他の番組ではカットされたり扱われないような対象であり、継続的であることだと思っている。

 福島をみつめる一日を過ごしながら、映像としてそれを見ることの可能性と限界についても思いをめぐらした。当たり前だがあくまで福島で起こっていることのほんの一部であり、あえて福島という言葉を使って書いているが厳密にはもっと具体的な地名(市町村である南相馬や飯舘、あるいはもっと小さい範囲で)で語るほうが適切だろう。
 とはいえ、現実に福島あるいはフクシマとして認識が及んでいるのも事実だ。こうなってしまっているという前提をある程度考慮しつつ、引きずられないような形で、これからも福島をみつめていたいと思う。

 自分が福島に初めて足を踏み入れてから、5ヶ月半ほどが経つ。(*2)
 直接訪れてできること、分かることはあるが、あくまで個人には限界もある。だからこの日のように、コンテンツを通じて福島をみつめること、厳密にはコンテンツのその先にある福島のリアリティをみつめることを、これからも続けていきたいといまは考えている。
 映画「相馬看花」第一部に関しては来週金曜まで渋谷で上映中のようです。また、DVDがここ(http://tongpoo-films.shop-pro.jp/?pid=42899723)で購入できるよう。

*1 手元のメモを元に構成したので、トーク内容は書かれている言葉通りそのままではないです。ご容赦。
 
*2 福島を訪れた2日間をエントリーにしたものはこちら→「鈍行列車のたしなみ nach ふくしま」(2012/1/10)

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2012年06月25日

家族をテーマにしたドラマを2本見ての雑感

 NHKが2011年に放送した単発ドラマを最近2本見た。ひとつは「風をあつめて」という障害児と親の物語、もうひとつは「生むと生まれるそれからのこと」という若い男女が結婚、出産に至るまでのプロセスのお話。たまたまどっちとも家族の物語だったのはほんとうにたまたまだと思うけど、面白かったのでややメモ的に。

風をあつめて http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/8000/68593.html
 熊本で実際にあったお話で、筋ジスの娘をふたり授かった親の葛藤と格闘、再生の物語といったところ。
 1時間しかなかったのでどうしても尺の短さが結果的に目立った。その上でいくつか指摘しておくと、まずはよく突き当たる問題ではあるのだろうけど普通さとは何ぞやという問題。
 普通さを望み、願うこと自体は排除される必要はない。とはいえ、目の前にいる娘と向き合ったときに何を思うか。このへんは直接の産みの主体である母親と、多少距離のある父親とは齟齬があって、やや対立もする。このへんの過程は見ていてリアルだなあと思っていた。

 普通さを願うのは障害児だからだろうけれど、こうあってほしいと願ったり望んだりというのは父親にしろ母親にしろ、いまとは違う状態へのないものねだりはどの家族でもおそらく起こりうる。
 そのときに、まずは目の前の現実を受け入れて、愛せるように前向きにとらえるという方向性にどうやって向けていくのか。この過程はひとつの理想ではあるが簡単なものではない。一方では子育てを含む家事、一方では仕事という役割がいわゆる日本型の多くの家庭では分担される中で、2人が一致点を見つけながら協力するというのはやはりひとつの理想でしかないのかもしれない。
 ただ、子どもを媒介することで理想にちょっとでも近づきたいという動機づけにはなるのかもしれないな、と最後のほうに父親が医療機器メーカーの社長と話したセリフだとか、阿蘇山の噴火口まで子どもを背負って登る様子を見ていて感じた。

 父親役の安田顕はチームバチスタの印象が個人的に強かったが、バチスタの役ほど強くはない、それこそふつうのひとりの父親としての役も悪くなかった。

生むと生まれるそれからのこと http://www.nhk.or.jp/drama/umuto/
 端的に脚本が面白い。というのと、柄本佑と関めぐみという個人的に好きなふたりの若手俳優が主演をした、っていうのもあって、見るのはこれが2回目だったんだが2度見でも全然面白かった。1回目はやや流して見た形になっていたので、前回よりは筋をつかみながら見ることはできたし。
 「風をあつめて」はもっぱら子どもが産まれてから育て上げる格闘というプロセスが描かれていたが、このドラマはまずは恋人、そして夫婦になるという過程がコメディチックに主演の二人が演じていくというプロセスをとっている。

 線を引くっていう言葉がナレーション(このドラマはやたら解説的なナレーションがしょっちゅう挿入されるのだが面白いのでもっとやれという気分にさせられる)ではいるのだが、柄本佑も関めぐみも、それぞれ変人扱いされて育ったふたり、という設定。そのふたりが仕事をきっかけに出会う。出会ってしまう。
 出会って交際するようになり、同棲も・・・という客観的には順調なプロセスのひとつひとつがお互いの価値観のぶつかり合いでもある。そういったお互いの内面同士の格闘が、個性的な主役ふたりの間で繰り広げられることによって非常に華があるし、端的に面白い。
 ナレーション含め全体をコミカルにしている理由はいくつかあるのだろうけど、話の後半は子育てに向けた準備(病院や子育て教室に通ったりとか)にあてられていることがひとつかもしれない。子どもという今までとは違う第三者を新しく登場させる(正確には登場を予感させる)ことによって、ふたりの関係を前進させる意味がある。線引きの限界にもつきあたる。
 それと、子育てっていう共同作業、あるいは分担といったきれいに線引きしきれない行為をコミカルに演じさせることによって、意外とおもしろくね?とさせる効果もあるような気がした。義務感でも責任でもなく、その行為自体の魅力を考えて作られているような感じ。親仲間とのコミュニケーションという未知との遭遇は、このドラマの中ではコミカルに表現してこそだったと思う。
 
 とはいえ。とはいえ、やたら喋る柄本佑と関めぐみの演技あってこそ。つまり素の彼らが表れてこそ子育てに向かう意味もある。すり減りすぎず、自分を殺しすぎず。完全な自然体とはいかないまでもらしさを残しながら。最後までらしさの残った演技をするふたりはなんだかんだ楽しそうにしか見えない。なんとなく、リア充乙、だなと。

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2012年06月19日

2012年5月の読了本

5月の読書メーター
読んだ本の数:8冊(+2冊)=今年38〜47冊目
読んだページ数:2115ページ
ナイス数:16ナイス

海流のなかの島々 上 (新潮文庫 ヘ 2-8)海流のなかの島々 上 (新潮文庫 ヘ 2-8)
基本的にはすごくのどか。島にとっての日常が淡々と、時には力強く描写される。センテンス短めの会話はとてもヘミングウェイらしく、長々とした会話よりもよほどリアリティを感じる。だからこそ上巻最後のほうで一気に急転する展開に、思わず息を呑むのだろう。
読了日:05月28日 著者:アーネスト・ヘミングウェイ
遺体―震災、津波の果てに遺体―震災、津波の果てに
あの日、あの瞬間のこと、あの少しだけあとのこと。それだけをつづるのにも膨大な量の記述が膨大な人がいる、ということ。そのほんの一部がここに書かれていて、ただただ目で文字を追うことで何かを脳裏に刻めたらと思いながら読んでいた。
読了日:05月22日 著者:石井 光太
財産権の理論 (法哲学叢書)財産権の理論 (法哲学叢書)
友人との読書会のために手に取る。所有権の正当化に関わる権原の議論と、ノージックとロールズの論争から見る配分(あるいは分配)における所有権の所在を探る議論は面白かった。後半はざっと読んだというのもあるが二重の基準論以外は特に印象には残らず。
読了日:05月22日 著者:森村 進
桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)
ほんとうの等身大に近いものを書けるのは作家が若いがゆえ。あとは今後の活躍しだいかな。
読了日:05月12日 著者:朝井 リョウ
「デモ」とは何か―変貌する直接民主主義 (NHKブックス No.1190)「デモ」とは何か―変貌する直接民主主義 (NHKブックス No.1190)
帯にあるクラウド化する社会運動、というワードは本書の1章と終章には該当するが、大部分を割いているのは社会運動や住民運動も含めたデモの戦後史である。時代へのカウンターとしてどのような運動が展開されてきたのかを、丸山真男の「院内」と「院外」のデモクラシーという観点から読み解く。現代に近づくにつれて加速する筆致は読んでいて楽しかった。少し感じたのは成員がごった煮の(本書の言葉なら「右も左も」含む)空間であるデモと、それとは異なる草の根で当事者的な公害や生協の運動を同じ筋で語るのは適切なのかどうか、というところ。
読了日:05月10日 著者:五野井 郁夫
ベイ・ドリーム (中公文庫)ベイ・ドリーム (中公文庫)
樋口有介にしてはめずらしい主人公とヒロインだが、ウィットに富んだ会話は顕在。ただ、話のオチが少し弱いんじゃないかなあという感じはする。沙十子というヒロインは個人的には面白く読めました。こういうヒロインも書くんだなあという意味では。
読了日:05月07日 著者:樋口 有介
非選抜アイドル (小学館101新書)非選抜アイドル (小学館101新書)
組織論としてのAKB、はいい過ぎなんだろうけどたぶん彼女はAKB48っていう唯一無二の組織にいる以外はふつうの女の子なんだろうなあというところ。そんなにAKBにコミットはしてないけど(だからこそ?)面白く読みました。
読了日:05月06日 著者:仲谷 明香(AKB48)
後藤さんのこと (ハヤカワ文庫JA)後藤さんのこと (ハヤカワ文庫JA)
読了日:05月01日 著者:円城塔

2012年5月の読書メーターまとめ詳細
読書メーター


これ以外で読んだ本(いずれも同人誌)
ガール社『girl! vol.02』
インターネットがつがつ『インターネットひそひそ』
→共通してどっちも女の子に特有の現象を扱っているのが面白かった。ほとんどのことが新鮮。

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2012年06月15日

土地の物語を掘り起こすことは可能か

 NHKのBSプレミアムで毎週金曜日に放送している「新日本風土記」という1時間番組がある。(*1)
 紀行ものでもあり、ちょっとしたドキュメントでもあり、といった番組で、土地の風景と人間模様という俺の好きなものがふたつも組み合わさっているので毎回見るのを楽しみにしている。1年前の番組改編で始まった番組だが、今年も生き残っているのを確認したときは本当に嬉しかった。


 
 この番組の特徴はいくつかあるが、ひとつは今回の表題にもした「物語を掘り起こす」という趣旨があるんじゃないかと思っている。
 風土記と題しているだけあって、土地に根付いたものを毎回放送するわけだけど、歴史的にそれこそ太古まで振り返ることもあれば戦前戦後までのときもある。いずれにせよ、いまあるところから物語的に辿ることのできる歴史を、毎回土地を変えて放送している、というのが特徴。
 で、そういうのって一定程度歴史的な土地に限るんじゃないか、と最初は思っていた。実際最近の放送でも吉野や熊野が扱われたりするだけあって、ある程度何が来るかは予想できるところがないわけではない。ないわけではないが、あくまでも(ここが一番の醍醐味だと思うけど)ありのままのいまを伝えようとする。
 ありのままのいまを伝えようとするときに、しばしばその土地に住む人々の物語が語られる。いわば歴史的なものと対比すると小さな物語、といっていいのだろう。ただ、歴史的なものや土地に根付いた風土的なもののなかで改めて語り直そうとしているのが面白い。21世紀になったとしても、思ったよりもわたしたちの生活は非歴史的なものではないじゃないか、と思わざるをえない。
 儀式や祭といったハレの行為はその典型だろう。あるいは、日常的な行為であっても外の目線をはさむことで新鮮にうつることは多い。風土性が高くローカルなもの、はユニークネスになりうるからだ。

 時々膨大なNHKのアーカイブが番組の中に挟まれるのだが、そうやってNHK的には過去と今を照らし合わせようとしていることが伝わってくる。ありのままいま、というのは時間的に、そして空間的に丁寧に切り取ることで新しく表現することができる。
 もうひとつ、NHKの強みなのは全国津々浦々、横断的であることだ。この前「桜前線の旅」という回があったのだが、南から北までその土地に特有の様々な桜と、桜を見る人々を映し届けるというたぶんNHKにしかできないだろうことをやってのけていた。
 最近はまとまった旅行というものができていないので、番組を通して追体験した気分にひたっている。それが終末金曜日の夜というのはなかなか悪くない。

*******

 ここからはほとんど思いつき。希望的観測もちょっと入り交じった感じの文章になるかもしれないがご容赦。最近某所でげんえいくんと都市とか地域とかのお話をすることがあって、そのあと少し考えたことをとりあえずまとめてみた。(*2)
 もう少し、土地と物語についての思いつきをだらだらと書きつづってみる。

 土地の住民の高齢化だとか、若い人の減少などでじょじょに語られないようになる物語があったとして、そのいくつかはただ埋没するしかないというのが、これからの地方が経験することではないか、という感覚がある。
 文化や産業の担い手がどんどんいなくなる、というお話でもあるが、単純に人が減っていくということは今まであった様々な営みの継続性に、程度の差はあれど危機が生じてくるのではないか。小さく、保守的な土地やコミュニティであるがほどに、継続性は重要である。
 たとえば3.11と東北。3.11後に語られた東北地方の沿岸部の物語を、皮肉なことに3.11をきっかけとして知ることができたという部分は大きい。これは天災というケースであり例外的で大きなショックとも言える。逆に言えば、物語は天災によってあっというまに失われていく可能性もあるということを示したともとれる。これから先はどうなっていくのだろうか、というと未来はきれいに開けてはいないだろう。あれから15ヶ月が経ったわけだが、外の世界ではだんだんと記憶が薄くなっていくばかりだ。
 もちろん、栄枯盛衰というほど大げさではないが、時間の流れ(震災は特別な事象ではあるが)に逆らえない部分も大きい。そうなっていく、ということに個々の人間が抵抗することはそれほどたやすくない。資本主義的合理性が強力だからとかそういう話とは無関係にしても。

 だからといって過度に情緒的になる必要はない。情緒的になって未来に何かを残していきましょう、と大声を上げるのは一面的なものであって個人的にはあまり好きではない。そうではなくて、NHKが番組の中でカメラを回し続けるように、誰かのフィルターに依存することになったとしてもありのままの、誰かがそこで生きていた証のようなものをアーカイブしていくことが重要ではないのかな、と思っている。
 最近「リトケイ」(「離島経済新聞」の略称)というミニコミのようなものを初めて知ったんだが、この中では日本にある有人島の生活がミニコミという性質上ほんんの少しずつではあるが語られている。外の人間によって掘り起こされている、といってもいいと思う。広告的な色合いが濃すぎると忌避したくなる感覚があるのだけどね。最近ちょっと島ブームみたいなのがあるし。(*3)
 簡単に言うと、伝えられるものは伝えていく。まだ掘り起こされてない物語をひとつずつ記録していく。そうやって土地と時代のリアリティを残すことと、次の世代に受け継がれていくことがその土地にしかないダイナミズムを生んでいくような気もしている。
 あるいは、次の世代に受け継がれないにしても(物語を拒否する自由はあるだろう)当該の土地の外の人間に何かを伝えることもまだまだ可能だと思う。P.A.WORKSが「花咲くいろは」や「true tears」でやろうとしたことに、ちょっとヒントがあるような。彼らの試みは、実際の土地を舞台にしているというだけの聖地巡礼にとどまらないだろう。

 単に伝えることや表現することに意味があるというわけでもない。ひとつ思いつく価値は、次の世代や後生にいまのリアリティを届けること。そしてその中の誰かが憧れのような気持ちを抱くならもうけもんだし、もっと一般化していうと次の世代の人たちが人生設計や職業選択をしていくなかで、そのヒントとしてより具体性を与えられるのではないか。
 地方や田舎で暮らそうみたいなブームがあるようなないような気がいろんな媒体に触れていて思う。だけど、単なるイメージや憧れにとどまらず、もっとプラクティカルな実際的なところに落としていかないとイメージや憧れに実際に辿り着くことは難しいんじゃないか。要は、どうやってそうなるの、という話をもっともっとしていかないとふわっとしたままで終わってしまうんじゃないかな。
 こういう試みは最近だと自治体やNPOなんかが職業体験的なことや移住促進の取り組みはしているし、そういったところにアクセスしやすくはなっているだろうな、とは思う。まあ上にあげたリトケイのようなミニコミなんかも含めて、具体的な情報を発信する試みと、実践の機会を提供するという試みがどんどん広がっていけば個人としては学卒→企業に就職、以外にもいろんな可能性が生まれるかもしれないし、都市部と地方の差を少しでもやわらげることにつながるかもしれない。
 
 最後は少しメディアやコンテンツの話になってしまったが、素朴に語る行為も意味があると思う。誰かに何かを伝えるために時間と労力を割くのはそれはそれで価値があるが、近くの誰かに語るというシンプルな行為を忘れないでいることも、ただでさえソーシャルな時代にはそれなりに意味があることなのではないだろうか。クチコミマーケティングがそうであるように、身近な人の影響力は軽視できないからね。

*1 正確には58分ほど。2011年4月にBSプレミアムで放送開始。定期的に放送しつつ途中で再放送をはさむというNHKらしいスタイルなので一回見逃してもあとで期待できる番組でもある。

*2 記事を書こうとしたきっかけは彼との会話だったけども、ここで書いた内容(新日本風土記含む)はここ1,2年くらいぼんやり考えてきたことでもあった。ゼミでは地方自治論を専攻してたので、おのずと地域社会や都市論のような具体性を持った土地の話を扱うことが多かったし、より興味関心を持つようになった。その中で言えば彼とかあの人とか、よりリアルなイメージを持ってきてくれたことが今になってみると大きい。東京にいてここではない場所のリアルさを感じる機会は、そうそうあるものじゃない、と。あとになってみて改めて思う。

*3 宣伝というわけではないが地元の小豆島での試みだと去年あたりから「小豆島ガール」というサイトの人たちがいろんな活動をやっているようでブログもわりとちゃんとチェックしている。時々知ってる人が出てくるし。リトケイのvol.1でも取材を受けていたようで有名になったんだなあと思った。

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2012年06月03日

友人あるいは父親の不在について―「ルート・アイリッシュ」/「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」

 4月の頭に「ルート・アイリッシュ」と「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」を2日連続で見てきたんですが、どちらも見終えたあとに何かが残ってしまう映画で、うまく言葉はでてこないんだけどそれぞれに引き込まれる素晴らしい映画だった。
 ジャンルも違うし、社会性とか公共性も全然違うんだけど、どちらも共通していて主人公が大切な人をなくし、その喪失感とどう向き合うか、というスタートラインから始まっていく。
 とりあえずそれぞれの短評を書いてから、いろいろと考えてみようか。

ルート・アイリッシュ(2010年、イギリス、フランス、ベルギー、イタリア、スペイン合作)
監督:ケン・ローチ
主演:マック・ウォーマック、アンドレア・ロウ
公式サイト:http://route-irish.jp/
見:銀座テアトルシネマ

 ルート・アイリッシュは「麦の穂を揺らす風」のケン・ローチの最新作。アイリッシュとあるので今回もアイルランドの映画化と思ったらイラク戦争にまつわる小話、といったところ。大切な友人を喪った主人公ファーガスが、その背後にあったもの(死へつながる直接的な要因や社会的な要因含め)を探りながら、自身も迷走を深めていく、というお話。
 こういった筋書きなのであたりまえだが、明るい話ではありえない。どんよりとした空気感が最後まで消えない。ルート・アイリッシュとはバグダッドから空港をつなぐ間の道路なのだが、「世界で最も危険な場所」と名付けられているらしい。ここがテロの標的にされやすいからだ。映画のなかでは「マズいところにマズい所へ」という形容で、友人レイチェルの死が語られる。

 「ハート・ロッカー」を思わせるのは直接戦場を描写するというよりも、その戦場で具体的に何が起こったか、そして戦場の周辺でどのような人間関係が展開されたか、に焦点を当てている点だろう。それともうひとつ、「ハート・ロッカー」ではロボットが、本作では民間の戦争請負会社が、という対比でいずれも現代の戦争を象徴するキーとなる存在が大きく扱われている点だ。
 そしてその戦争請負会社はファーガスが直面しなければならないひとつの大きな存在でもある。その上で、映画の終盤にファーガスが下した決断を、誰が責めることができようか。

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い(2011年、アメリカ)
監督:スティーブン・ダルドリー
主演:トーマス・ホーン、トム・ハンクス、サンドラ・ブロック
原作:Jonathan Safranfoer"Extremely Loud&Incredibly Close"
公式サイト:http://wwws.warnerbros.co.jp/extremelyloudandincrediblyclose/index.htm
見:渋谷シネパレス 

 まずタイトルが長くて気になったんだが、上に載せたように原作のタイトルをそのまま訳すとそらそうか、というお話でした。
 内容は9.11で父親を喪ったオスカー少年が、父の遺した紙切れと新聞記事を手がかりに人捜しをする、というお話。

 前の日に見た「ルート・アイリッシュ」はかなりシリアスで暗さが際だった映画だったが、こちらは爽やかさと明るさが印象的だった。それはおそらく主人公のオスカー役の少年が非常に生き生きと感情表現しているからだろう。アスペルガー症候群特有のひとつでもある早口もかなり流暢にしゃべりこなしていた。ほとんど演技経験がないというのはびっくりでしかない。
 最初はひとりでアメリカをさまよいつづける。9.11で亡くした父親の面影を探すために。途中から祖母の間借り人の老人が付きそうが、基本的には子守り程度でオスカーに深く介入はしない。むしろオスカーも間借り人も、二人ともがなにかを探し求めてさまよっている、という構図に見えたのが印象的だった。
 小さな旅を通じて成長を見守る。9.11を描いてはいるが、ある意味かなり王道とも言える映画だった。王道な展開にするためにあえて9.11をかぶせてみたのかもしれない。

 この映画には「ルート・アイリッシュ」のような悲劇はなく、喪失を克服するわけではないが乗り越えていくきっかけを、最後にオスカーは掴んだはずだと思う。
 ファーガスもきっかけを探していたのだろうと思う。乗り越えられるかどうか、克服できるかどうかよりも、彼にとっては死の真相を知ることが第一歩だった。だが現実には権力が立ちふさがる。一人の人間にできることは、あまりにも無力でしかない。
 極端かもしれないが、きっかけを手に入れられるか否かでひとつの分かれ道ができたのかもしれない、とこのふたつの映画を見比べて思った。

 もちろんオスカーとファーガスが直面する事態は違うし、ちっぽけな少年にとっての父親の死と、ファーガスにとっての友人の死を比較することはできない。
 だとしても、だとしてもあと少し何かが違ったら、とふと考えてしまう映画だった。実現可能性とは別に、オスカーもファーガスも手を抜くことも諦めることもない。その必死さが、いつか自分に襲いかかってくるかもしれないということも、オスカーはまだ気づかないかもしれないがある程度人生経験を経た人間なら実感のあることだ。
 どっちが正しいとか間違っているわけではない。Fate/Zeroの22話を見ていると、「命と天秤にかけられることなど、長く生きてもなかった」という台詞があった。つまりはそういうことなのかもしれないし、命と天秤にかかってしまう事実と直面した以上(この場合オスカーにとってはおおげさかもしれないが、少年にとって父親の死ははかりしれなく大きなものだとは思う)それ以上追求することはないとも言える。

 天秤に”かけてしまった”、つまり後戻りできない状況に自分で追い込んだのはもちろんファーガスのほう。オスカーはちょっとずつ前を向いていく。2日連続してみるとあまりにも対比的だなあと感じた。
 ものすごく〜の映画そのものについて触れておくと、大人が子どもを見守るというとパターナリスティックなものを想定するけどぜんぜんそうじゃない。街で出会っていく大人たちも、オスカーを子ども扱いはしないし、譲歩もしない。エゴむきだし、とは言わないがあくまで個人として個人と接しているという(その意味ではアメリカ的なのかもしれない)ことが基本にあったように思えた。もちろんオスカーのたゆまぬ精神やしつこさ(ほめてる)に大人が根負けするような展開もいくつかあるが、オスカー個人の魅力によるものであってそれ以上の意味はほとんどなかったんだろうなあと感じた。
 それでも彼がやはり子どもであるということを、トムハンクス演じる父親が回想シーンで断片的につづいていくことで実感させられる。子どもでもあるし、子どもというだけでもない、固有名を持った一人格でもある。言うはやすしだが、表現としてきれいに落とし込んでいるのはすごく素敵で寛容さがあるなあと感じた。だからある意味展開のご都合主義さはこの際除外してもいい。ルート・アイリッシュのように度肝を抜かれるようなことは少なかったが、プロセスの描き方、人ひとりひとりの接し方は丁寧に表現されていた。

 そんな4月のある2日間だった。次の日からは大学院の授業が本格的にスタートしたので、ほんの最後でつかの間の休息をすばらしい映画とともに過ごせたのは本当によかった。

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