Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

2012年05月

 22日火曜日だったかの朝日新聞文化欄でアートアワードトーキョーなる展示会が丸の内の行幸地下ギャラリーという場所で開催されていることを知って行ってきた。(*1)地下ギャラリーってそもそもどっから入るんねんと思ってたらご丁寧に案内があって余裕で見つかりました。東京の地下ってすごいですねほんと。
 ちなみにせっかく東京駅近くまでいったのでそのまえに新橋のウインズに行きダービーの馬券を買ったのですが2,4,5着は当てたけどというたいへん惜しいけど残念な結果でした。まあ競馬とはそういうものですな。最近ちゃんと競馬見られてないし、有馬がマグレだったことを再確認。
 アートアワードトーキョーは毎年この時期に開催されているようで、各芸大の卒展と修了制作展から選んだ作品のなかからグランプリや各賞を決める、というものらしい。芸大の卒展とか学祭とか見に行くのは大好きなのでこれは行かねば、と思い行ってきた。
 見ていていくつか気になったのを撮りためてアルバムにしたのでどうぞ→http://pics.livedoor.com/u/burningday/album/182217

 もひとつこの開催を見に行こうと思ったきっかけはグランプリをとった東京藝大大学院修士課程の片山真理さんの作品に強く惹かれたため、である。







 会場では作品の写真がふたつと、写真の中身を再現するために散りばめられた様々な物が展示されていた。(*2)直感的に思ったのは、圧巻というよりワクワクという気持ちだった。きれいなような汚いようなものが雑多に膨大に並んでいるのは引く気持ちともっと見たい、という気持ちの両方を抱えているような感覚でもあった。
 プライベートな空間に、おそらくその部屋の主であろう女の子も作品の中にいる。女の子の部屋をのぞき見るような感覚にもなるが、散りばめられたものの膨大さとそのカオスさに人の部屋にしては非現実感も同時に感じてしまう。そういうアンビバレンスがさまざま混じってひとつの空間を構成している、というのが彼女の作品の醍醐味であると思う。男が見たからのぞき見る、という表現を使ったけど女性がこの作品を見たら思うことがまた違うかもしれない。

 朝日の記事によると幼いころから足が不自由で9歳のときに切断し、以後は義足で生活しているらしい。とはいえ、障害者としての自分というよりは素朴に足がない自分の身体性をどうやったら面白く表現できるか、というところに主眼があったような気がする。
 記事にあるとおり、あと俺がいろいろ妄想したように彼女の作品はとても物語に満ちている。その中で義足の彼女はあくまで等身大の女の子なんだろう。
 これから追いかけたい人がひとり増えた。卒展や修了制作展を見に行く楽しみのひとつでもあるが、彼女の表現にもっとわくわくしたい。

 他にも面白い展示はもちろんいくつかあって、東京藝大の梅村圭さんの作品は写真風の絵なんだけど人がぜんぶガイコツ、というようなもの。アイデアとしては珍しくないけどどれもコミカルだったので単純に面白かった。映像でインタビューも流れていて、確か路上で並べているみたいにしてみた、と言っていたような気がする。
 あとはムサビの椿崎さんの作品(下の画像)がいいなと思った。作品の縦に入っている線を檻に見立てるんだけど(彼女いわく動物の入るような檻。だがあんまり強くなくて、居心地のいい場所)絵自体は花びらの明るいところと森を思わせる暗くて深い緑が共存している様子に、不思議な感覚を覚えた。ちょっとした一工夫をいくつも重ねることで全然違うアウトカムになるんだな、と。



 最終日だったからかどうかは分からないが制作者の方々が大勢来ていて、ひとりずつ作品紹介するという場面に出くわしてとてもラッキーだった。馬券は外したけどとてもいいにちようびであった。
 
 
*1 リンクがいつまでもつかは分からないけどネットでも記事があったのでリンク貼っておく http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201205230274.html
 
*2 作品そのものではなく写真だったのは、彼女自身も作品になるという意味でパフォーマンス物だったからだろう。片山さんもこの日来場していて、話しかけようかなと思ったがタイミングが合わなかったのとおなかがすいてたので惜しいなあと思いつつも退散してきた、という小話。こんど機会があればぜひお話したいものではある、がはてさて。ほんとうはそれ以前にも藝大先端2012(公式サイトはなぜかリンクが死んでるがブログは残ってたので彼女の紹介ページを)という修了制作展に行けたらいくよてい、てはあったんだけどね。逆に言うと行けなかったけど改めて出会えてよかったのかもしれない。

追記:片山さんのサイトでも今回の作品についてのページがあるようなのでそちらも http://shell-kashime.chu.jp/2012/2012_02.html
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 たとえば中学や高校の部活や勉強がそうであるように、何かひとつのものごとに集中している状態や、その努力はわりと好感を持たれやすいと思う。あの人頑張ってるな、と。
 つまり何をしているかが分かりやすいし、本当に頑張っているかどうかは別として運動部の場合は運動部でない人からしたらそれっぽさがにじみてているようにも思える。中学までは運動部だったけど高校の時は部活なし状態だったので、急にあっち側とこっち側の距離を実感した。
 いま分かりやすいものが何かを考えると仕事だろうなあと感じた。あるいは社会人だとかサラリーマンといったらいいのかもしれないが、どこかに属して仕事をするということは肩書きがあるという意味でまず分かりやすい。どこに属しているかを見れば何をしているかがなんとなく分かるし、そのあと職種(営業だとか開発だとか)を見るともう少しイメージがふくらむ。もちろん、分かることには限界がある。

 GWと、この前の週末にもうすでに社会人(多くは会社人としての)になっている歳の近い人と飲む機会がなんどかあった。自分がまだ学生をやっているので単純に彼ら彼女らの話を聞くのは新鮮で楽しいというのと、どうしてもなにかもやもやしたものも感じずにはいられなかった。なんとなく、会う前から分かっていたことではあるが。
 まず、働いていると忙しくて時間がない。まだ研修の人が多いようだけど会社によって研修のハードさはまちまちで、帰宅しても課題などで時間が拘束されるので実質的な可処分時間は少ないケースが業界によっては顕著らしい。
 この状態をある特定のことに集中できる機会ととらえることはできるだろうし(そもそも研修の目的のひとつはそれだろう)他方で他のことができない時間が続くことにもなる。研修所やホテル住まいという人も珍しくないようで、時間のみならず場所も制限されてしまうらしい。わーお。
 大学生だったころにいわゆる大人の人の、彼ら彼女らのの仕事の話を聞くのは新鮮で楽しかった。ただ、たまに仕事の話しかできないのではないかと思うこともあった。彼らは仕事以外の世界や社会のこと、あるいは流行や文化などなどのことはどれほど見えているのだろうか。端的に言うと、どれだけ視野の幅を持っているのだろうか。

 ことわっておくと、別にそれが悪いことだと言うつもりはない。かつての自分を思い出してみればヘビーなネットユーザーだった中学時代のほうが、強制的に勉強させられそれこそ場所や空間的な自由もあまりなかった高校時代はよほど視野が狭かったと思う。ただその分密度の濃い時間を過ごせることもある。一種のトレードオフなのかもしれない。厳密に検証してみないと分からん部分はあるが。
 だからGWの飲み会で会ったある人が「ごめんね、仕事の話ばっかりしてて」と言ってたのがとても印象的だった。「そうなってしまっている」ということを当事者だった意識しているらしい。それでも俺が会ってきた大人の人たちの一部がそうであったように、どんどん仕事に傾倒していく人は一定数はいるのだろう。(*1)
 
 個人的な信条としては常にいかに多様性を担保するか、をとても気にしている。どこかしらに偏ってしまうことはある程度仕方ない。ただ、偏りのある人生だけは送りたくない。だからいろんなことに手を出しているし、いろんな分野や肩書きの人と会う。それが楽しいから、ってのは大きいけどね。
 幸運にもというのは変かもしれないが、出会って来た大人のなかには仕事をガツガツやる社畜バンザイみたいな人もいたが、学生とは違う資金力を生かしていかに遊ぶかを考えている大人も多かった。よく学生時代にしか遊べないので遊んでおけ、みたいな紋切りな話をよく聞くが、嘘やろそんなんめっちゃ遊んどる大人がおるんだが・・・と思っていた。いやまあ確かに宅飲みとかオールとか長期の旅行とか、学生でしかできない遊びはあるんだけどさ。
 いま思うと、遊んでいる大人の人たちはどうやって仕事と両立しているのか聞いておけばよかった。体力的にムチャしている部分はあったりするんだろうけど、とても充実しているように少なくとも俺の目からは見えた。要は学生は遊ぶもので、社会人になると遊ばず仕事オンリー、みたいなイメージを容易に覆された。だから逆にあえて過剰には遊ばずにいまは勉強に集中しよう、と思えたのかも知れない。

 話が少し横道にそれたが、今回一番書きたかったのはタイトルにもあるようにわたしたちは何を見ているのか。あなたの目には何が映っていますか、ということだった。(*2)
 他人について知るためにはその人がブログを書いているかソーシャルメディアをガンガン使ってでもしてないかぎり、話を聞くのが一番手っ取り早い。応答もはやいし、相互作用だし。仕事をきっちりしていても仕事の話を全然しない人もいるし、仕事しかしてないので仕事の話しかできない人もいる。仕事をほどほどに趣味や活動に時間を費やしてその話をする人もいる。数として限られている自分の経験から考えても、これはもうほんとまちまちだと思っている。
 話していて楽しいのは視野を持っているひとかな、と最近は考えている。仕事でも趣味でもなにかに傾倒している人の話を聞くのも面白いが、それ以外への発展性が乏しかったりする。ただ、視野が広いのと奥深いのでは語り口は変わってくるし、結局はその人自身の言葉で語れるかいなかが話の面白さを決めると思っているので、そのへんがしっかりしている人の話には視野の幅はさし置いて引き込まれるし、こちらもつっこみのしがいがある。別にこれは難しい話や堅苦しい話にかぎらず恋愛の話でもそう。
 
 ある友人は「最近はインプットばかりなのでアウトプットしたい」とも言っていた。仕事的な意味でインプットはどんどん増えていくのだろうが表出する場所は新人だと確かにほとんどないに等しいのかもしれない。このもやもやに、いずれ俺も直面することになるんだろうか。
 まあそんなこんなで働く人のひとりになっていくこと、のほんの一部分を追体験させてもらった休日の日々だった。学生をまだ続けているのでいわゆる社会人としてのスタートが遅くなるけど、こうやって後発の利益を得られるのは悪くない。ただ歳を食うと新卒市場ではあまり好意的には見られないという点はあるから、結局これもトレードオフのようなものかもしれない。
 人生とは避けられないトレードオフ(あるいはトレードオフのようなもの)に直面しつつ、いかに自分なりに最適なバランス配分をおこなっていくか。よく言う言葉でいうとセルフマネジメントしていくか、ということの継続なのかもしれない。こんなことは就活してたときにはなかなか実感できなかったので、立派な後発の利益のひとつだろう。
 仕事の経験はやってみないと得られないが、仕事の経験のない人がどうやって仕事をできるようになるのか。同学年の友人知人たちのその過程は見守りたいしなんかあったらサポートしたいというか話くらいは全然聞けると思うので、今後ともよろしく。

 結局俺はいくつになっても、あなたが見ているものは何なのか、そしてそれについて何を考えているのかについてとても知りたがっている、ということだ。
 これは完全に、俺の個人的な欲求だけどね。 

*0 そういえばこれで4本目のコミュニケーション論にもなるのかな。論というよりはまあエッセイではあるが。で、いままで書いたのを以下に列挙。3つめはゼロ年代のインターネットとコミュニケーション、みたいな感じだけど。
2011/10/15 「コミュニケーションの隙間、揺れ動きながらも前へ
2012/1/16 「インタラクティヴな日々を送る
2012/2/28 「ほんとうと嘘モノの混淆がインターネットの楽しさだったころ

*1 たとえばこの調査(「第5回リタイアメントスコープ2010 日本の結果と国際比較」,2010年 http://www2.axa.co.jp/info/news/2010/pdf/101001b.pdf)によると日本人は退職後も経済的不安から仕事をしたいと考える人が他国よりも多いらしい。もちろんその分可処分時間は失うわけだが、年金だけでは不安という部分もあるのだろう。若い人は特に年収不安という状況なので仕事の比重はある年邸を越えるとガタッと下がるのではなく一定程度続くのかもしれない。

*2 いまあらためてなおちゃんさんの「視界をシャッフル」を読み直したらとても面白かった、というのもある。あのとき見えていた、そうだと思っていた視界がどれだけ小さなものであったか。常に多様性を担保して、彼女のいうぐらぐらするようなこともきっと人生には必要なのではないだろうか、と。
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4月の読書メーター
読んだ本の数:9冊(今年通算29〜37冊)
読んだページ数:2260ページ
ナイス数:11ナイス

ブリッジブック社会学 (ブリッジブックシリーズ)ブリッジブック社会学 (ブリッジブックシリーズ)
まずは4人を理解すること、というスタートは門外漢の人間にはたいへんありがたかった。
読了日:04月27日 著者:小宮 友根,鈴木 弘輝,堀内 進之介,山根 清宏
生活考察 Vol.03生活考察 Vol.03
大澤、栗原、藤野、円城、海猫沢の文章が個人的にはお気に入り。企画収録されている皿洗い音楽についてのトークは笑いどころが多い(だが本気ではある)のが面白かった。震災の影響もあって発刊が遅くなったようだが次号はそう遠くないうちにあるようなので楽しみに待っていよう。
読了日:04月21日 著者:辻本 力, 戌井 昭人, 春日 武彦, 大谷 能生, 佐々木 敦, 林 哲夫, 大澤 聡, 岡崎 武志, 柴 幸男, 伊藤 健史, 藤野 可織, 円城 塔, 栗原 裕一郎, 松田 青子, 速水 健朗, 海猫沢 めろん, 豊崎 由美, 内海 慶一, 福永 信, 小澤 英実, 朝倉 かすみ, 円堂 都司昭, 蓮沼 執太, 岸本 佐知子
創造の方法学 (講談社現代新書 553)創造の方法学 (講談社現代新書 553)
いまごろ読んで後悔した本。新書だと思って読まないほうが吉だが、著者の実体験に基づく挿話が多々あるのは新書らしい仕上がりではある。
読了日:04月21日 著者:高根 正昭
The Indifference Engine (ハヤカワ文庫JA)The Indifference Engine (ハヤカワ文庫JA)
読了日:04月13日 著者:伊藤 計劃
ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力 (講談社BOX)ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力 (講談社BOX)
読了日:04月13日 著者:村上 裕一
弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂 (講談社現代新書)弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂 (講談社現代新書)
論理構成に少し疑問をもったり、結論部へのもっていきかたがすこし違和感がないわけではなかったが、社会政策、とりわけ社会的排除から社会的包接へということを考えるときに重要な知見を提供してくれる一冊ではある。新書なので読みやすくまとめられているが、逆に物足りなさもあった。この分野への入門としてはとっかかりやすいように思う。
読了日:04月10日 著者:阿部 彩
ドイツイエロー、もしくはある広場の記憶 (新潮文庫)ドイツイエロー、もしくはある広場の記憶 (新潮文庫)
読了日:04月10日 著者:大崎 善生
官僚制批判の論理と心理 - デモクラシーの友と敵 (2011-09-25T00:00:00.000)官僚制批判の論理と心理 - デモクラシーの友と敵 (2011-09-25T00:00:00.000)
新書としてもそれほど長いほうではないが、官僚制や統治の正当性に関する思想がコンパクトにおさまっていて、かつ現在の官僚制批判を検討するという試みはとても興味深く読んだ。ウェーバーとマルクス、あるいはトクヴィルが共鳴するのではないかという試みは面白いし、筆者も述べているが確かに行政学ではこうした思想史的アプローチは斬新である。がゆえに、もちろん議論の妥当性はもっと検討すべきであろうし、官僚制との実質とどれだけ整合性があるかも注意しながら読む必要はあるだろう。
読了日:04月09日 著者:野口 雅弘
魚舟・獣舟 (光文社文庫)魚舟・獣舟 (光文社文庫)
秀作ぞろい。SFというジャンルのなかで人の生き様(人の醜さ含む)を描く力と、ストーリーを濃厚にする力が存分に味わえる。どのお話も良質のエンターテインメントであり、読み終えたあとにじわじわと響いてくる感触がたまらなく楽しい。小説への愛と人間への愛を両方感じることのできる希有な作家。
読了日:04月04日 著者:上田 早夕里

2012年4月の読書メーターまとめ詳細
読書メーター


他に読んだもの
1.本谷有希子「13の”アウトサイド”短編集」(『群像』2012年3月号
→彼女はこういうのもっと書いてもいいな、という感じ。もっともっと狂った展開を書けるだろうし。
2.綿矢りさ「ひらいて」(『新潮』2012年5月号
→立ち読み以外でちゃんと綿矢を読むのは実は初めてなんだが、話が急転してからの運び方が秀逸。なんというか端的に言って後半はすごかった。急転したあとに設定が生きてくるし、より人間の生々しさが浮かび上がってきている。恋愛と身体は切り離せないと思うけど、少し違う角度からえぐるような展開や会話が面白かった。何回か主人公の愛が自分や美雪の生身の身体に言及するシーンがあるけど、女が女の身体を見る目が嫌悪なようででもどこか好きでもあり、というアンビバレンスが愛と美雪の関係をよく表している。きれいな均衡がふたりの間に訪れることはなくても、かといって離れてしまうわけでもない。理屈ではない何かが埋め込まれているのは急転するあのシーンから顕著になっている。で、その不安定さの代償も大きいけど、落ちていくのも外れていくのもそれはそれでひとつの生き方ではあるように思えた。
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 ゴールデンなウィークが終わって5月本番。久しぶりにGWっぽい感じだったのでそれなりに散財するなど。ただ平日は大学院がそれなりに忙しくてお金を食費以外にほとんど使わない(本を買ったりはするものの)のでまあたまにはいいかな、という感じがしている。
 大学を卒業してしまったので、明らかに違うのは簡単に人と会えなくなったこと。それを自覚しているので最近はいろんな人と会うのが楽しい。いままでとは少し違った意味で。

 大学院も4週目が終わって金曜日から5週目。そろそろ半期の1/3といったところなので最初のころよりは感触がつかめてきたのかなあという感じはしている。まあまだまだこれから、ってところが多いだろうし、入り立てのM1に要求されることはさほど多くないので先輩方の発表なり話を眺めつつ吸収できたらなというところ。悠長に構えすぎる余裕はないし、それはもったいないと思っているのでGWも明けたし再びギアを上げていこうかと。
 何がもったいないかなんだけど、単純にここにある機会。安くない機会費用を払って学びを続けている以上、将来どうなるかはまだ分からんが得られるものは得ていきたいし、それが卒業後も生きるようなら費やした分の教育コストはどこかで回収できるのかもしれない。
 もちろんそれがすべてではないだろうけれど、最近はある程度意識しようとはしている。そうしたほう(ある程度未来を思い描きながら生活すること)が今の位置づけを決めてくれたりもするし、単純に時間がもったいないとかそんな感じ。

 学生気分が薄れたわけではないと思うが、大学生気分はちょっとずつ薄れてきたなあと思っている。学部のころにいまくらい勉強に力注いでたらもっとちゃんとした卒論は書けたんじゃないかと思う(し、そもそも卒業があやうくなる単位不足はなかっただろう)んだけど、まあそれは結果的にできなかったわけで環境要因が大きいんだなあというのを強く実感している。
 いますごく勉強しているなあ(そしてもっとしないとなあ)と感じるのは多分サブのゼミで経済学をやっているからだと思う。メインで政治学、行政学をやりながらサブで経済学(正確には医療経済学だけどミクロ全般や計量を基礎からやってたりもする)をやるという二足か三足かちょっとよくわからんような状況にはなっているけど、社会科学としてくくれば実は極端に差があるわけじゃないんだよね。扱うトピックが似ているからゼミに入っているし、細かなアプローチやスタイルはもちろんぜんぜん違うんだけど、
 まあこれはガツガツ経済学をやっているわけではないから感じることなのかもしれないけどね。ガツガツの経済学はもはや数学とプログラミングな世界なイメージなので、ここでいま書いているのはどちらかというと経済学的発想とかそんなところです。
 もちろん似ているところはあるが違うところも多いので日々政治学、行政学と経済学を横断しながら自分のテーマをどういうふうに落としていこうかと模索中でござい。いや、まだ模索中といえるほど勉強したり考えきれてない、けれども。学部のころと違うのは勉強と言っても研究にやがてつながる、つなげなければならないので、そのために武器をそろえている、というところかな。

 いま集中しないとな、って思うのはかつて同期だった人たちは自分が勉強している時間に仕事をしているという事実があるから、ってのも大きい。まあまだ仕事といっても彼らもおそらく学びの時間が多いんだろうな、とは思うがそれぞれにやるべきことをやっても給料をもらう立場と学費を払う立場という違いは大きい。
 こういうふうに書くと歳をとったなあと思うけど、それでもまだ学生を続けられているっていうのは恵まれていることだと思うし、いま目の前にある機会をどう生かしていくかを考えないといけない。これからの日々をただ茫漠と過ごしていくにはあまりにも惜しい。
 だから俺は俺の立場で、いまはただI wanna go(キリッ 

 
今日の一曲:NIYMORIY"I wanna go"


記事タイトルもだけど、超ボマスでいちばんお会いしたかったNIYMORIYさんの曲から拝借。
4月とは思えない炎天下の幕張に取り残されたあの光景を、俺はきっと忘れない(しんだめ
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