Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

2012年01月

12月の読書メーター
読んだ本の数:20冊
読んだページ数:5448ページ
ナイス数:29ナイス


ちなみに2011年に読んだ本のまとめはこんな感じです。
手元のメモではあと2冊読んでいて合計141冊のはずなんだけど、月ごとのメモが手元にないので残り2冊が分からん。過去の記事見れば漏れがわかるかもだけど。

フラッシュモブズ ―儀礼と運動の交わるところフラッシュモブズ ―儀礼と運動の交わるところ
読了日:12月31日 著者:伊藤 昌亮
困ってるひと困ってるひと
読了日:12月29日 著者:大野 更紗
ケアの社会学――当事者主権の福祉社会へケアの社会学――当事者主権の福祉社会へ
読了日:12月28日 著者:上野 千鶴子
BLACK PASTBLACK PAST
批評で面白かったのは村上裕一のまどマギの読み解き。表象論が得意な印象は持っていたが、えぐり出すような筆致は読んでいてエキサイティング。また、様々なジャンルの小説(ラノベ、私小説、純文学etc.)が収められているのも他の雑誌にはない魅力。全てのクオリティが高いとは同人ということもあってか言い難いが、いわゆる「島宇宙化」しやすいそれぞれのジャンルを横断していることは評価してよいと思う。
読了日:12月25日 著者:シャドウ・クラスタ編
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル
基本的には一般意志2.0と、そこからの発展形である民主主義2.0の説明に費やしている以外のことは多くは書いていないし、主張していること自体はシンプルだと思う。重大な誤読さえしなければだが、そのへんも織り込んで書かれている(たとえばネットと政治の関係や熟議民主主義との違いなど)ので読み返せばある程度は理解できると思う。
読了日:12月25日 著者:東 浩紀
恋する原発恋する原発
どうしてこうなった、が読み始めの感想だったが読み進めていくとAVを題材に選んだのが少しずつ垣間見えてくる。たかがエロであるがされどエロなのであって、エロについて語ることと震災後について語ることは高橋源一郎の手にかかれば矛盾することでもなんでもなく、むしろエロを語ってなんぼのものであるように思える。思いっきり突き抜けたところから、通常考えもしないような批評性を発揮するのはひとつの純文学のあり方としてふさわしいとも思う。それくらい、エキサイティングな読書体験だった。
読了日:12月22日 著者:高橋 源一郎
リリエンタールの末裔 (ハヤカワ文庫JA)リリエンタールの末裔 (ハヤカワ文庫JA)
短編が4編(少し長いのがひとつあるが)収められているが、最初のお話を読んだ段階ですごい作家だなあ、と感じた。SF大賞を受賞したというのは知っていたが上田早夕里を読むのはこれが初めてで、どういう作家なのだろうと興味を持って読み進めたが期待以上の出来だった。空、病室、海、18Cイギリス。それぞれ舞台や設定は全く異なるが、語りを通じて見えてくる景色はかなり鮮明で、目に浮かぶようでもある。シナリオありきではなく登場人物たちの濃密なコミュニケーションが物語を構築していて、ぐいぐいと引き込まれていくのも楽しかった。
読了日:12月21日 著者:上田 早夕里
未知との遭遇: 無限のセカイと有限のワタシ未知との遭遇: 無限のセカイと有限のワタシ
「3日目」に入ってようやくこれがいわゆる自己啓発本にもなりうる、というのが分かった。セカイと私、偶然と必然、そして運命と意志について猛烈な勢いで最後まで語り続ける。筆者がどうしても肯定したいものは何か。それが生きていくために必要なものかどうかは分からないが、文章を読んでいてワクワクしたのは確か。変化した現実をどのように楽しむかが、これからを生き延びるためのエネルギーにもなりうるだろう。
読了日:12月21日 著者:佐々木 敦
オトナアニメVol.22 (洋泉社MOOK)オトナアニメVol.22 (洋泉社MOOK)
ピンドラ特集には満足。そのあとのブレインズベース特集も興味深く読んだ。ピンドラは幾原ワールドが強調されがちだが、「かみちゅ!」や「夏目友人帳」など独特の色のある作品を作り続けてきたからこそのピンドラ、という見方もできるかもしれない。
読了日:12月18日 著者:
ぬるい毒ぬるい毒
「きっと何者にもなれない」主人公が自覚的に墜ちていくお話、とでも言えばいいのか。共感はまったくしないが、他者からの承認とかしがらみからの解放だとかを求めたくなる気持ちは理解できる。その意味では島田雅彦が『群像』1月号で本谷との対談で語っていたように、「ちょっと外されたけどリアル」ではある。ありえそうな悲喜劇の一幕、というイメージ。本谷の文章に乗ることによって、描写そのものが物語になるのだなあと感じた。
読了日:12月16日 著者:本谷 有希子
GOSICKVI ―ゴシック・仮面舞踏会の夜― (角川文庫)GOSICKVI ―ゴシック・仮面舞踏会の夜― (角川文庫)
読了日:12月15日 著者:桜庭 一樹
鷺と雪 (文春文庫)鷺と雪 (文春文庫)
これで3部作完結かあ、という感慨はある。正直前の2作ほどミステリ色はさほど強くなく、一冊として読んで味わいがあると言える。久し振りに北村薫の文章を読んでいて思ったが、時代が混沌としていく様子を英子の目線を使って非常にうまく描いている。彼女の機微ひとつひとつが、時代を反映しているとも言える。
読了日:12月15日 著者:北村 薫
GOSICKV−ゴシック・ベルゼブブの頭蓋− (角川文庫)GOSICKV−ゴシック・ベルゼブブの頭蓋− (角川文庫)
読了日:12月13日 著者:桜庭 一樹
輪るピングドラム 上輪るピングドラム 上
読了日:12月13日 著者:幾原 邦彦,高橋 慶
自由論 (岩波文庫)自由論 (岩波文庫)
訳が特に読みにくいということもなく、内容も小難しい話をしているわけではなく当初思ったより読みやすかった。個人の自由はどこまでが許容されるべきで、どこまでは許容されないのか。政府はどのように個人の自由に干渉したり規制をかける状態が望ましいのか。などなど、自由主義にまつわるいまではごくありふれたイシューを扱っているが、具体的な例をまじえての説明が多く分かりやすい。個人的には言論の自由と伝統的な宗教について述べた2章が面白かった。とりあえず通読という感じなので、また繰り返し開いて読みたい一冊。
読了日:12月11日 著者:J.S. ミル
市町村合併をめぐる政治意識と地方選挙市町村合併をめぐる政治意識と地方選挙
卒論のために読了。ゲーム理論的な分析や計量分析が中心の構成で、個人的にやや読みづらいところもあったが検証のデータが豊富なのは参考になる。市町村合併はそれ自体の過程やその後の政治的・行政的帰結など、検証する切り口は様々あるが章ごとの繋がりや構成は意識されていて一冊として読み応えはあった。
読了日:12月06日 著者:河村 和徳
サブカル・ニッポンの新自由主義―既得権批判が若者を追い込む (ちくま新書)サブカル・ニッポンの新自由主義―既得権批判が若者を追い込む (ちくま新書)
結論が少しそれまでの話がズレた気もするが、この本の構成を考えると意図的にズラしたんだろうなあ、と思う。おそらくそれで批判を浴びることもあろうが、ひとつの論として成ってないわけでもないとは思う。ただ量的に現状分析が長かったので、主張自体は弱くもなっている。
読了日:12月06日 著者:鈴木 謙介
政治と複数性―民主的な公共性にむけて政治と複数性―民主的な公共性にむけて
ゼミの教授から薦められ通読。思考のフロンティアの『自由』と『公共性』は読んでいたので斎藤純一についての予備知識はあったのでいくらか理解できた部分はあるが、理解の容易な文章ではないしまた読み返すことになると思う。論文集という形式にはなっているが相互にかみ合う部分もあり、一冊でこれまでの斎藤純一の仕事を概観できる構成になっている。あとがきに主要な主張や論点がコンパクトにおさまっているので、そちらから読むのもアリだろう。
読了日:12月04日 著者:齋藤 純一
ソーシャルメディア進化論ソーシャルメディア進化論
3章が非常に秀逸。ソーシャルメディアの定義を広くとり、従来のレビューサイトやSNSや隆盛のツイッター、facebookを同じ土俵に上げている論はなかなか見ない。全体的には、そうした広義のソーシャルメディア論を展開したり、アーレントやハーバーマスの公共圏の議論をしばしば援用しつつ、ソーシャルメディアと個人が社会にどのようにコミットし、豊かな関係性を構築できるかが主眼となっている。そしておそらくこれは武田隆とその会社の半生の本でもあるだろう。最近J-WAVEで著者の話を聞いていたが、今後が楽しみな一人である。
読了日:12月03日 著者:武田隆
「平成大合併」の財政学「平成大合併」の財政学
財政学的な観点から見た論文とケースを扱った論文がともに4本ずつ入っていて、理論→事例という繋がりが見えて読みやすい一冊だった。それぞれの論文がコンパクトにおさまっていて、骨太とという感じはしないものの、平成の大合併と地方財政の関係性をざっくりと概観することはできる。
読了日:12月02日 著者:町田 俊彦

2011年12月の読書メーターまとめ詳細
読書メーター
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 来週から大学はテスト期間に入る。つまり、講義はもうほとんど終わってしまっているわけだ。体調を崩して最後の講義に出られなかったのがひとつあって自分をぶん殴りたくもなったが、まあそんな状況でも何かの終わりは時間が立てばやってきてしまうという当たり前の状況に直面しているらしい。
 らしい、というのは確か4年前の高3のいまごろもそうだったとは思うが、正直実感はない。(*1)
 思いつくだけの理由を挙げてみる。

 まず思いつくのは2月から生活が激変するわけではないからかな。
 高3のときは2月から自主登校という形で、授業は今と同じように1月で終了した。とはいえ卒業しているわけでもないしもちろん入試を控えている(すでに今の大学は受かってたんですが、色々あって)ので、ほとんど毎日高校に通っていた記憶がある。午前から行っていたか午後から行っていたかの違いくらいだろうか。
 今年の場合で言うと2月から、正確には最後のテスト終了後からめでたく春休みだ。卒論の提出という課題はあるものも、7,8割方構想はできているし半分くらいは書いてしまったのでとりたてて難儀するとは思っていない。採点バイトを予定していたが漏れてしまったので、あまった時間を費やせばまあ無難に終わるだろう。
 大学生活とか大学で人と会うという機会は高校時代と違って激減するが、図書館にしばらく通うつもりなので同じようにまた平日は大学に、休日はどこか街に、というサイクルはそんなに変わらない。

 それと、人間関係を大学以外でも担保していることも大きいかもしれない。最近はオフ会とまでは行かないものもネットを通じて知り合った人と何かしらの用件で個人的に会う、ということがしばしばあるので、大学の友人知人と会う機会とそれほど遜色ないんじゃね、という気もなんとなくしている。
 基盤があるのはリアルである大学で出会った人たちだけど、ネットで出会った人ももうずいぶん増えたし、今後も交流の続く人はそれなりの数いるだろう。あとはネットではないが大学の外で出会った人たちも合わせれば、今月が終わったところで人間関係が激変するとはあまり考えられない。リアルのほうでも2月はゼミの集まりが何回かあるみたいだし。
 これはたぶん、東京から出て行くという決断をしたら影響は大きいのだろうな、という感じかな。

 みっつめは単純に慣れだとも思う。個人的に一番何かが終わる、と思ったのは中3の春、つまり生まれ育った地という意味での地元を離れるときだった。
 その後順風満帆だったわけではないが、逆に言えば土地を変え、人間関係を変え、色々と苦しんだりしながらも生きていくことを体感的に覚えているので、楽というわけではないだろうけれどもうすぐまた同じようなことが起こるとしても、ある程度納得して時間を進められる気がする。
 東京に来て少し驚いたのは東京の快適さと人間関係の面白さのせいか、東京を離れたくないという人が多々いることだ。離れられない、という人もいる。地方とかないわー、みたいな。昔はそれこそないわー、と思っていたが最近はちょっと分かるような気もする。単純に楽しいし、自由だしね。
 自分のことを振り返ると21年間の間で島しょ部、地方都市、東京郊外という場所に住んできてそのたびに人間関係をほぼきれいに入れ替えてきた経験がいちおうあるので、「動く」ということにいつの間にか大きな抵抗はなくなっているんだなあ、と

 理想的な終わり方とか、別れる前の心がけとか、なかなかそういうことに鈍感になってきているなあとは思う。いつか終わるじゃん、というあきらめがあるからかもしれないが。
 たぶんそういうことよりも、この前書いた記事ではないがリアルタイムのインタラクティヴを楽しみつつ、それが有限だと分かっているからより楽しいんだと思うことにしている。
 別れを迎えたとして、ネットでもなかなかやりとりができなくなるとして、確かに少し寂しいかもしれないが今までもずっとそれを繰り返してきた。そして、基本的には再会することが不可能になるわけではない。

 「じゃ、そういうわけで。また」くらいの軽い気持ちで今年の春も、別れを迎えて誰かを見送るのだろうとぼんやり思っている。
 まああとで気づくことも多いので、今の時点ではなんとも、という感覚がなんだかんだ強いんだけどね。

*1 4年前の1月の終わりにはこんなエントリーを書いている。うどん屋値上げのほうはかなりショックだったなあ。
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プレゼンでは、相手にとって未知で難解な情報はスルーされ、理解できる情報だけで筋書きが脳内補完されてしまう。それを避けるためにこそ、理解可能な目標や課題、数値が必要になる。

https://twitter.com/#!/kskszk/statuses/157439815128850432

もうひとつ。プレゼンで大事なのは熱意と情報のバランス。熱意に見合うだけの情報がないと自己満足のバカに見えるし、大量の情報があってもそれを伝えようとする動機が見えなければ退屈になる。「最初の一言」でそのバランスの基点となる「つかみ」を見せるのは可能。

https://twitter.com/#!/kskszk/statuses/157441253070483456

 チャーリーこと鈴木謙介さんのツイートから引用。
 前にどこかで自己紹介が苦手、という話を書いた気がするが、つまりは自分をプレゼンする、相手に自分というストーリーを伝えるのが難しい、ということなのだろうと思う。
 原稿はとりたてて作るタイプではないが、何らかの発表を人前で行うときに、相手をしっかり意識するようにしているまあ適当に喋ることができるのならそれはそれでいいのだろう。「何がいいのか」を過度に気にしたら本当に言いたいことの半分も伝えられないような気はする。
 だが、相手を意識することで話を組み立てることがある程度できなければ、聞く側はたまったもんじゃない。人の話を聞くという行為が、当たり外れの問題でしかなくなるのは不幸だろう。

 とはいえ、自己紹介はコミュニケーションの一種でもある。会話の出発点にもなりうるというか、初対面の人と会話する場合は自己紹介から始めるのが礼儀とも言えるだろう。
 単なる一方向的なプレゼンでもなければ、お互いの了解が既にあるわけでもない。相互性のきっかけを組み立てられるかどうかという意味では、はじまりもある程度大事なんじゃないかな、と思う。他人の自己紹介とか大して聞いてないし、聞いててもすぐ忘れるという人は多いと思うけども。

 という前置き。御託はこのへんでいいや。
 オフ会、というほどのものではないが秋以降お会いするのはハジメマシテの人とか、会ったことはあるけどじっくり話すのは初めて、という人と対面で会う機会がいくつかあった。
 オフで会う人と難しくもあり面白いのは、どういう話題でどこまでつっこんでいいのか、という会話の距離感のつかみであると思っている。ついったなど何らかの形でネット上でコミュニケーションをとっているとは言え、だからこそ逆に対面でじっくり話をするという機会は非日常的であるから、結構これが難しい。いや楽しいんだけどね。
 まあもちろんあくまで会話を交わすわけであるから、距離感を適度に掴む〜などという気になる女の子と仲良くなる的なコミュニケーションはとらないし、思っていたことが話せたときもあれば、会話の流れに任せつつ盛り上がる場合もあって、さまざまだ。

 最初の引用に引きつけて書くと、こういうときに考えるのは何を話すかというより、どのように話すかである。
 たとえばゼミの友達と話すような感覚で専門の話をしても伝わらない。当たり前っちゃ当たり前なんだが、相手は自分とバックグラウンドも生活環境も違うわけだし、どこまでの感覚が共有可能かはちゃんと話してみないと分からない。
 これはリアルの人と話すときに感じることだが、いわゆるオタク的な話題をどこまで出していいのかはなかなかに難しい。ネットで会う人は興味の有無はさておき、そういう人が普通にいるという理解がある人が俺の場合は多いし、それくらいのことはネット上でのコミュニケーションで把握できるが、リアルの場合は少なくとも知り合っ日がない頃は一番デリケートになる。
 とりたててアニメの話をリアルの人としたいということはほとんどないしさすがにそれは乱暴だが、相手がどのような感覚を持っているかというのは、直接言葉に出ると言うよりはニュアンスとして間接的に出る場合が多い。間接的にディスするとかそんな感じで。特にこのへんはカラオケの選曲問題とかとからんできそうだな、うん。まあ普通に歌ってるけど(ぽかーんとされるが

 この前も取り上げた『未知との遭遇』という本の中に佐々木敦さんが書いていたと思うのだが、未知をわくわくする人もいれば、既知で安心する人もいる。定番の安定感は強い。
 そのようにして話題を選びとりつつ、かつ自分が語りたいように語ることと相手が理解できるように語ることの公約数を見つける。コミュニケーションの大多数はこんなものではないだろうか。そうじゃないコミュニケーションはたぶん??が満ちているだろう。こういうときに勘の良いのはたぶん女の子で、そしてにっこりうなずく女の子は女子力が高いと思う。
 自分が聞く側になるときの話をすると、かつては知らない事実を知る楽しみが多かったが、最近は事実としては知っているが感覚としては知らないことを知るのが非常に楽しい。年下の人とか、遠くに住んでいる人と話すと
きは、相手の持っている感覚はかなり意識する。
 自分と相手の距離感を測っているとも言えるのだが、もっと個人的なことを言うと自分の視野を狭めすぎないように、という意識がある。大学生は結局日頃から交流する人が限定されるし、話題も限られることが多いので殻にこもってしまいがちで、だからネットがあってよかったとは思っている。まあ、ネットでもこもる人は多いのだが。

 色々書いてきたが最近思う自分のコミュニケーション様式、はこんな感じかな。備忘録的にも書いておきたかったのは、大学生を4年間もやっていると変化しているところはかなりあるだろうからである。単純に会う人もだし、話す話題もだし、自分が知っていることと知らないことの差もだいぶ縮まりはしている、はず。10月にもコミュニケーションに関する記事は書いたが、あのときからですら変化はあるだろう。
 コミュニケーションを通じて自分自身がどのように変化してきたのかだとか、自分の思考様式はいまどのようになっているのかというのは、自己紹介の種にもなるかもしれない。いま自分が立っている場所を確認する行為は、これからどこかへ向かうための準備にもなりうる。

 書きながらまとまりの悪さを実感しているが、常時変化する感覚とやらを記述するのってムズカシイネ!ということにしておいてくださいお願いします。
 コミュニケーションが好きなんだな、というのは前からずっと思っているので、もっともっと(相互に)楽しいコミュニケーションをとっていきたい、っていうアピールもしたかったんですよ! 

今日の一曲
school food punishment"How To Go"


前回もsfpだったので、という発想だけど「何百万回泣いて生まれ変わるよ」っていう歌詞は、疾走感あふれるメロと相まってこの曲を象徴している。常に「変化する自己」でありたいですね(キリッ
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 2011年コンテンツ回顧でも挙げたけど、去年はオリジナルアニメが話題をさらった一年だった。話題性だとどうしてもまどマギ、ピンドラ、あの花などに劣りはしたが2クールかけて十分の内容を展開した「花咲くいろは」はもっと注目されていいと思っていた。
 そんな中、偶然大学生協のブックセンターで『花咲くいろは 公式コンプリートブック』なる本を入手し(というかなんで生協にこんなのが置いてあるんだw1割引で助かったけど)てぱらぱらめくっていると、花いろを見ていたころに感じていたことや、全部見終えた今改めて思うことがいくつかつらつらと思い浮かんできた。

花いろについて寝る前考えてたついでにだけど、高校のクラスに実際いるいる、というリアルなキャラづくりとセリフ回し(こっちはさすがの岡田磨里だと思う)があふれていて多幸感があったし、それでいて単なるにやにやものにならず元気をもらえるシナリオになっているからすごいと思ってる。
明日も頑張れるという意味では、東京では日曜日の夜放映だけど逆サザエさん効果があったし。
個人的な話だがヒロイン4人のうち緒花以外は高校時代のクラスメイトが思い浮かぶくらいにはなつかしい思いにもさせてくれた。緒花はちょっと独特で読めないけど、あとの3人はきっとどこかにいるようなキャラで、石川というリアルな土地に虚構を、というよりはすべてがありそうな感じ。

 とまあ、こんな感じのことをついったのほうに投げたりしてみた。去年のベスト3に挙げるくらいすごく好きなアニメだし、ピンドラについて長い文章を書いたのだから花いろについてもそのうち長い文章を書くかも知れないが、まだ250ページほどあるさっきの本を全部ちゃんと読んではいないし、今回は少しだけ雑感を書いて終わりにする。
 あ、あの本はどちらかというと設定資料集的な本なので文章よりは本が多いのだが、26話すべてに貴重なコメントが載っていたり、P.A.WORKS10周年作品としてどういった意気込みで作られ、どのような過程を経たのか、などなどは非常に読み応えがある。本としてもかなりきれいに作られているし表紙も岸田メルの書き下ろしなので、これは飾る価値がある。

 花いろについて今言えることとしてはまず、緒花を主人公に据えて、最終的には彼女(たち)の物語というふうに落としていくことに成功のかなりの部分があると思っている。群像劇だが、あくまで緒花が軸(もっと言えば緒花、皐月、スイという母子3代が軸)であるから、個人あっての集団でかつ集団あっての個人、という風に個人の物語と、喜翆荘の人たちという集団性の物語が絡み合いつつもバランスのとれた形で成り立っている。
 26話を最後まで駆け抜けるためにはある程度幅広で、かつ深さのある物語の展開が求められる。同じP.A.WORKS製作で、岡田磨里も構成や脚本で携わっている「true tears」はある程度限られた人間関係の中で1クールをしっかり書ききった良作だったが、2クールある花いろは展開がかなり違う。26話の中でバランスを保つためには個人の物語の厚みが絶対に必要になる。
 その意味ではたとえば18話でなこちが自分の中の弱さを克服するために様々な冒険をする回は、絵的にサービス回というだけではなく、なこちという控えめで印象の薄いキャラの内面を(そしてその成長過程を)しっかり書き込んだという意味では非常に重要な回になっている。
 
 緒花を筆頭に、そして民子あたりもいかにもだが、キャラが自由に動くことが物語の何よりの推進力になっている。このことは、花咲くいろはという元気にお仕事をする、というモチーフにも非常に合っている部分でもあろうし、日本で一番元気な人種であり集団かもしれない女子高生をある種忠実に描いているとも言える。
 コンプリートブックを読んでいて、日曜の夜に見て明日から仕事を頑張ろう、という感想があったらしいが、俺も全く同じことを感じていて、日曜の夜にこのアニメがあることがサザエさん的な意味で習慣になっていた(=休息の終わりを意味する)とともに、エネルギーにもなっていた(=明日以降の活力を与えてくれる)のが、個人的にものすごくありがたかった。いんしの準備は基本的に孤独な過程だったので。

 そう感じたときに、やっぱり緒花が中心にいてくれてよかった、という謎の安心感があるので、彼女についての記述を中心に何か書けるといいな、と思ってる。ヴェーネ論もちゃんと書きたいのだがここに来て緒花論が浮上しかけてるのはいかに、という感じでもあるが。
 どんな行動に出るか分からないくらいフットワークが軽く、よく動き、表情も多彩で、かつ人の機微には敏感。家事は得意だが恋愛は苦手で一途さが空回り。ただ、近くにいたらすごくわくわくする存在だろうなあと見ていて思ったし、彼女自身の変化、成長の過程を見守るのが日曜日の夜の楽しみだった。
 26話、ちゃんと最後まで完走できるアニメもそうあるものではないので、ただ単に眼福だったとかで済まないような、何か自分の中に響いてくる楽しさがあった。

 うわあなんか短く書くつもりがいつのまにかちゃんと書いてたのでここまでにしておきます!そんな感じでいつかどこかで花いろ愛はぶつけるという方向性でよろしく。エッセンスはこのエントリーの後半で大体書いたけどね。

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nano.RIPEのライブに行ってしまうくらい音楽は好きだったんだが、2期OPの「面影ワープ」が抜群に好きなので選曲。バンドのメジャー1stアルバムが去年にでてそれもすごくよかったのでみなさん買いましょう。


こっちは聖地動画。衝撃のラスト吹いたw
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 前の記事の続きを少し。
 やなぎなぎさんのアルバムを手に入れたのは12月23日に行われた「the littele tree」という青山のライブハウスで行われたライブで、である。monoral in the stereos10rwというボカロ界隈のユニットが中心になって組んだバンド)をどちらかといえば目当てに行ったのだが、それはそれとしてあの有名なやなぎなぎさんの歌唱を見られる、というのも楽しみだった。彼女がいたからチケットも一瞬で売り切れたのだと思うし。
 ライブの場合たいてい会場ではグッズなりCDなりが手売りされているわけで、なにか1つせっかくなので買っておこうという思いでながめていた。やなぎなぎさんの同人活動は最近追っかけ始めたので詳しくは知らなくて、「フライリナイト」を手に取ったのは偶然というか、残り1枚しかなかったのでこれは買っておいたほうがいいのではないかと感じ取って購入した。
 当時はかなりの金欠だったので断念したが、タオルも綺麗だったので買っておけばよかったかな、と思っていたりする。

 この前のエントリーで書いた「深遠」が入っているとはそのときは知らない。ただ、ライブで一番印象に残ったのも「深遠」だった。その次は「Cor Leonis」かな。
 たまたま行ったライブでそのあとに惚れ込む音楽を聴くことができ、しかも収録CDを入手できた。残り1枚しかなかったのでこれはなんというか偶然にしては良くできているなあと思う。事前にチェックとか全然してなかったので、複数枚あったら逆に選ばなかったかもしれないし、売り切れてたら当然選択肢に入らない。
 残り1枚しかないCDを偶然手に取る、という確率はどれくらいなんだろうなあ、とぼんやり考えてもみる。

 話題を少し変える。佐々木敦さんの新刊に『未知との遭遇』という本があるのだが、この中で佐々木さんは偶然と必然を運命という話に置き換えて展開している。曰く、起きてしまったら確率は1である。確かに、そりゃそうだ。そしてそれは運命だ、と。
 さらに佐々木さんの主張によると、起きてしまったこと、つまり過去は変わらない。時間改変は基本的にできないから。では未来はどうか。起きるまでは分からない。佐々木さんの区分だと未来については「起きていない」という一点で語れない、とも考えられる。
 だから大事なのは起きたことをどう受け止めるか、であろう。もちろん、受け止めがたいこともあるし、そのために人は後悔したり反省したりする。とはいえ、起きたことに価値を見いだすことや、受け止めることでしか過去は変えられない以上、前には進めない。

 嬉しい偶然もあれば悲しい偶然もある。そのどちらも受け止めよ、というのは結構タフな主張でもある。
 ただ、個人的に佐々木さんのスタンスがずっと好きで追いかけているという事情はあるとして、シンプルで一貫性のある今回の本の主張は非常にクリアで、かつポジティブに思えた。

 やなぎなぎさんの「深遠」に出会えなかった人生は存在しない。
 この事実はすごく魅力的だと思う。完全に個人的でしかないけれど、ふだんわりと社会的なこととか自分以外のことを考えていることが多いので、いま一度自分自身にしかない幸福感のようなものをとらえ直すのもなんかいいんじゃないかな、と考えている。
 なんかいいんじゃないかな、という表現に説得力も何もないかもしれないが、まあそういうことだ。基本的に悲観的で現実志向で、後ろめたさを常に抱えている中で素敵な音楽と出会えるのは単純に素晴らしいと思うし、その音楽と”出会えてしまった人生”を生きていると考えると、またなんとか生きていける気もしている。

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「ビードロ模様」 TVアニメ「あの夏で待ってる」エンディングテーマ
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この曲は「あの夏で待ってる」という冬アニメのED曲なのだが、12月のライブが初お披露目だったようである。あのとき聴けてすごくいい、と思ったしアニメも1話がなかなか好展開だった。今後に期待。
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 5日夜に帰省から帰宅、6日は大学、7日朝から再び部屋を出て8日の18時ごろまで福島、その日の23時ごろ帰宅というひきこもりの俺にしてはアクティブな日々を送っていた今日この頃。その反動で9日は完全にひきこもってたけどね。
 カレンダーの連休は昨日で終わりですが火曜日がなぜか全学休講、水曜日はもともとオフの日なので今週は木金の2日だけというゆとりっぷりです。卒論書く時間を確保できるのはよいこと、かな。と言いつつスケジュールが意外と埋まってるのでタイミングというのは難しい。

 この時期に福島に行った理由のひとつは18きっぷが余ってたので、ということ。もちろんそれ以外にもいくつか理由はあるけど詳しくはまた今度書こうかな。写真もいっぱい撮ったので。
 雪がかなりあったりもして東京に帰るとあったかいはずだ、と思ったらあんまりあったかくなくて普通に寒かったのは軽く絶望したw
 ただまあ、雪というのもひとつポイントだけど、やっぱりこの時期とかこのタイミングでないと見られないものはいっぱいあったので(3.11的な意味も含め)そういうものを見ておくことができたのはよかったのではないかと思っている。何より、自分の中にはっきりとしたイメージがなかったので、自分の目を通してイメージを構成する何かは掴めたと思っている。
 あとは持ち帰った写真や記憶を今後どうやって受け止めたり整理したり、書いたり人に話をしたり、そういうことをしてイメージを構築していくことができれば、単にそこに行っただけではなくもっと具体的な事実を刻めるだろうとも思っている。

 で、18きっぷなので当然行きも帰りも鈍行で、行きは宇都宮線→東北本線を使い、帰りは磐越東線→常磐線という感じで、ぐるっと回る形で2日間過ごしていた。主に車内ですることは外を見る、本を読む、音楽を聴く、寝る、の4つくらいしかない。
 寝る以外の3つは旅の中ではそれぞれ重要だと思っていて、たとえば外を見ると言ってもずっと見ているわけではもちろんない。うとうとしていて外を見たら雪が降っていた、とか、そういう形で外を見ることのほうが多かったりする。
 本の場合、まず何を持っていくかから考える。鈍行の旅という疲労感の伴う中ではある程度さくっと読める本のほうがいいし、電車に揺られるという体験と絡むような読書ならなおいいだろう。
 電車で寝る、というのは旅行の場合乗り過ごしの危機があるので計画的じゃないとできないのだが、鈍行で長距離の場合下手すれば3時間くらい乗っているわけで(今回の最長は2時間だったが)ぐっすり眠れないわけでもない。たいてい旅行の時は早起きかなにかで睡眠不足なのでむしろ睡眠時間を確保するいいチャンスでもあったりする(*1)し、終点まで行く場合は寝過ごしを気にする必要もない。
 タイミングの話をすると遠路鈍行の場合はもうふたつ、トイレと食事のタイミングの難しさがあって、乗り換えがうまくいくことと、これらのタイミングを探しながら時刻表とにらめっこするのは結構難しい。まあ、そこはプランを立てる面白さでもあるとは思うけどね。

 で、書いてなかったもうひとつ、音楽について。読書をするにしてもうたた寝をするにしてもたいていイヤホンがささったまま、というのが習慣なので何の音楽を聴くかは結構重要だったりする。たとえばアンビエントとかドローンとか、睡眠誘導のための音楽もウォークマンにはいくつかあるくらいなので。
 ただ茫漠な時間と景色の中で聞く音楽はふだんとは違った形で聞こえてきたりもする。普段は忙しい日常、という枠組みの中で半ばBGM的に遠めに聞いていることがどうしても多くて、じっくり音楽”だけ”を聴くという機会は実はライブにでも行かない限りないんじゃないかな、という気がしている。可処分時間の問題だと思うけど。
 鈍行列車の移動中は時間だけは膨大にある。何をしてもいい。その中で聞く音楽は景色を見たり読書のためのBGMにももちろんなるが、音楽だけを純粋にイヤホン越しにたしなむという、日常生活ではあまり意識しない(あるいは、時間的な制約でできない)
 
 今回の道中ですごくいいなあと思ったのは最近手に入れたやなぎなぎ[yanaginagi]さんが2008年に出した同人流通のアルバム『freirinite』(*2)で、どれも個性的でユニークな曲が並ぶのだが特に「深遠」という曲をじっくりと聴いていた。この曲にまつわる思い出はもうひとつあるんだけど、それは機会があれば。
 なぎさんと言えばsupercellのボーカルとして明るくてハイな曲にマッチしている印象があったんだけど、少し前から彼女の、もしくは彼女がボーカルとして携わっている同人流通の音楽をいくつか聴いてるとだいぶ印象が違ってきた。ニコニコ動画でも希代のボーカリストだった彼女のポテンシャルは素晴らしいなあ、と実感はしていた。
 同人活動は2006年ごろから行っていたというのも最近知ったし、ブレイク前夜の2008年にでた『freirinite』を手に入れたのも偶然なんだけど文字通り出会えて良かった音楽のひとつ。
 去年のベスト3を挙げた記事ではあくまで去年発売になったものだけを扱ったけど、単に去年手に入れたもの、というだけならこのアルバムも含めていた。同人なのでクオリティというよりは、期待感としてではあるけども。
 「深遠」という曲はうまく説明することができないが、まず言えるのはsupercellのyanaginagiとは全く違う彼女の味わいがある。どっちが本物というよりは両方とも彼女だろうし、彼女の声はかなりじわりじわりと響いてきて、かつ鮮明なので、この曲はかなりささるものがある。

 ありていな言葉を使えばハッとする、というか、何かこう頭に浮かぶものがある。音楽って不思議だなあ、と思いながら、音楽って魅力的だなあと思わせてくれる一曲。
 「音楽の本質とは何か」というエントリー(というかレポート)でも書いたが、静かな3分33秒の中にこめられているこの曲の影響力は随一のものがある。こういう曲に出会えるから音楽を聴くのは楽しい。もっともっと、色んな曲を、色んな世界観を知りたくなる。誰かに教えたくなる。
 
 そんな1月の始まり。まだまだ冬は長そうである。


*1 ただし寝過ぎると逆に夜眠れない→翌朝寝坊の危機or寝不足という悪循環はある。実際2日目に会津に行く予定だったのだが、ネカフェで寝たので目覚ましは使えず、電車の出発30分前起床というなかなかのギリギリ感ではあった。逃したら次が1,2時間先なので朝起きるのは結構重要だなあ、と再確認した。とはいえ夜寝るまでニコ生を見てたらそりゃ寝不足になるわと自分にツッコミを入れたくもなるわけだが。

*2 ネットでの入手も厳しいんでないかな、と思ったらまんだらけで在庫がまだあるようです 
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 表題は単に12月(の象徴のひとつ)にさようなら、そして2012年もよろしくお願いします、という感じ。もう一週間経っているのでいまさらあけまして〜は控えておこう、なんとなく。
 なんかここ最近ちょっとした論考やエッセイは挙げてたけど日記らしいものは全然書いてなかった気がするので久し振りに書いてみるけど、書いてない間のしばらくのあれこれを網羅していたらキリがないのでとりあえず省略。まあ、面白いことはいくつかあったので春休みにでも書くかもしれない。
 
 年末年始はもう少し書き物をいろいろできればよかったんだが持ち越すことになった。今年は本業のほうでも趣味のほうでも書く、というアウトプットにある程度注力したいなあとぼんやり考えている。
 結果的に年間141冊、12月だけで20冊読んだりはしていて、読む方ではまあそれなりのことができたのかなあとは考えている。もちろん大事なのは数よりも中身なのだが、まだまだ未熟な頭には量的なインストールも必要だと思っているので、いんしなどと並行したことを考えると悪くない数字だと思う。140冊を超えるのは2004年、そのときも受験生だったなあ、とか思いながら年末を過ごした。

 あと、23あたりから帰省する前の28まで結構色んなものを見たりしていた。家でのDVD鑑賞も含めると色々とね。ライブだったり演劇だったり、シンポも行ければよかったんだがそこまでは行けず。だが有馬記念を現地観戦して3000円ちょい勝ち&ブエナビスタの引退式を眺める、などなどなことは非常に楽しかった。
 たださすがに毎日のようにつめこむと疲れたけどね。基本的に一人の時間が欲しいタチなんだなあとも思いつつ、一方でそれだけでは頭も体も煮詰まるからある程度の割合で外へ出て行くこと、がたぶん大事なのかなとも思っている。
 ゼミの準備に追われていた秋の時期も、もう少しあえてゆとりを作れば楽にできたんじゃないかなあ、と思うしそのへんは今年に生かせたらいいな、と思っている。

 なんというか、単にメリハリをつけるというよりは、メリハリとかそういうものではなくてきれいに何かを忘れてしまう瞬間があっていい。なんとはなしに映画館に行くだとか、ライブを見に行くだとか、普段会わないような人か逆にすごくなつかしい人に会いに行くだとか。
 散歩程度だと日常から遠く離れないしむしろ隣り合っているくらいの感じなので、日常からぐいっと離脱するくらいの勢いが必要(たぶん

 そういえば大晦日にこんなことを某所で書いていたりする
来年は語りすぎないように語り、かつ語り得ぬものへの配慮も忘れずいたいですかね。あとは、すごくすごく久しぶりに、「恋してる」から「愛してる」への転換をめざしてみたい。今年はまだたどりつけなかったので。
 
 串刺しして端的に言えば、今の状況を前に進めたいんだと思っている。思いつき程度に書いたことではあるが、昨日より明日というように、去年よりいい来年でありたい。まあその良さ、っていうのは簡単じゃないけど。
 ただ、ここで書いてきたように前に進むことに”しか”目が向けられないと、逆に逼迫してしまうのも去年の反省としてある。
 単にだらだら過ごすのでもなく、はちゃめちゃに何かをやるのではなく、今までとこれからがきれいに結びつけばいいな、と思っている。きれいに、は理想論でしかないかもしれないけどね。

 ま、このブログもガチに書くときはガチに書くけど、息抜きにのんびりゆるく書きたいときは書けたらいいな、とも思っている。去年後半は長いのばっかだったし。
 そんな感じで今年もよろしくお願いします。なんとかまとめた!

今日の一曲
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