2011年12月

2011年12月29日

2011年コンテンツ回顧

 例年のようにベスト3を挙げつつ簡単に振り返ろうと思います。もちろん独断と偏見で。
 去年のはこちら

【小説】
恋する原発(高橋源一郎)
リリエンタールの末裔(上田早夕里)
きことわ(朝吹真理子)
次点:希望(瀬名秀明)
 
 あれ、と思ったのはいずれもちゃんとした書評を書いて公開していないこと。上田さんと高橋さんは最近読んだので時間的に、ではあるが朝吹さんと瀬名さんの本はいろいろと語りたいことはあったが書かずに年末を向かえることになったのは小さな後悔かもしれない。
 いずれに共通するのは、小説の可能性というものを各人各様に示している。高橋源一郎は圧倒的な批評性を、上田早夕里は他者や世界と向き合うことを、朝吹真理子は人と言葉をまつわる関係性を、瀬名秀明は科学と技術と人の生き方を。
 小説、あるいは文学というものがこれからも読まれるとするならば、徹底的に何かと向き合うことでしかなしえられないのかもしれない。ここで文学論をぶちまける気も能力もないが、そんなことを感じた一年だった。個人的な事情もあって読書量は倍近く前年より増えたが小説のウェイトは下がった。ある程度下がること自体は来年以降も続く傾向だろうが、定期的に摂取していきたいと思う。
 言葉や物語を愛しているということを、あらためて気づかされた一年でもあったしね。


【映画】
その街のこども
モテキ
八日目の蝉

 うえふたつがそういえば両方とも森山未来だなあ、と書いていて気づいた。その街は半年ほど前に記事にしたので省略します。
 モテキはいろいろな意見があるだろうけど、ドラマ的な尺を意識した盛り上げ方も使いつつ、大掛かりに展開することのできる映画的な魅力もあわせもっていたと思う。監督の大根仁と原作者久保ミツロウのコミュニケーションのよさやプロモーションのうまさも手伝って内容的にも興行的にも成功した貴重な一作と言える。ドラマや原作もそうだが元ネタを入れ込みまくっているので、実際どんな人が見たんだろうかというのは気になるが。
 八日目の蝉は宣伝乙ですねわかります。ドラマよりはいいできに仕上がっていると思うので、未視聴の方はぜひぜひ。ただなぜ劇団ひとりがあの役をやったのかがなぞだった。黒歴史という意味ではまあ分からないでもないが(ほめてる 

【音楽】
Perfume『JPN』
NIKIIE『*(NOTES』
坂本真綾『Driving in the silence』
次点:トリプルH『HHH』
 
 最初のみっつは順当に決まったかな、という感じ。年末に出たHHHもすばらしいのだが(最近聴きまくっている)オリジナルではないのでうえみっつと比較して次点、という感じ。ぱふゅーむは安定のystkサウンドをもうひとつ前進した。王道のテクノポップ調の曲がありながらも前作『△』のスタンスも崩さず、十分に楽しませてくれた。アルバム単位で聴くのは久しぶり、くらいのほうがいいのかもしれない。
 ちょうど1年前にラジオで知ったNIKIIEは今年はほんとうに飛躍の年だったと思うし、1stアルバムにしてはすばらしいクオリティのポップスを仕上げてきた。ライブも精力的に行っていて、来年も期待されるシンガーソングライターだろう。ここからがあたらしい勝負かもしれない。
 まあやはこの前記事を書いたので省略。もはや何も語らず、ただただ聴き入る冬でいたいと思う。



【アニメ】※まどマギはのぞく
輪るピングドラム
放浪息子
花咲くいろは
次点:UN-GO、アイドルマスター

 振り返ってみればオリジナルアニメが席巻したアニメだった。まどマギ然りあの花然りピンドラ然り、「強い物語」の復権がいいことなのかどうかは分からないが、そのいずれもが震災後に描かれたという事実は残る。あとは各自がどう受け取るかの問題ではあるが、示唆は多かったはず。まどマギはちょっと自分のなかでの評価が定まりきっていないのと、これを挙げると他を挙げられないという理由で除外します。
 今年は放浪息子と花いろと、まどマギでもうおなかいっぱいだったんだが最後の最後に輪るピングドラムという化け物に出会えたのは幸福以外のなにものでもないと思っている。本当に素晴らしかった。アニメの最終回で涙がほんのり浮かぶという体験は初めてかもしれない。というかたぶん初めてだと思う。
 花いろは4月〜9月というちょうどメンタル的に不安定な時期の素敵な栄養剤だった。それだけでなくロケハンの成果が遺憾なく発揮されていたり、子どもと大人を一緒に描きながらひとつの群像劇に仕立て上げるシナリオ作りはさすが岡田磨里、と改めて関心した。
 そしてピングドラム。謎解きに関してはこの記事で書いたし、当たっているところや当たってないところもあったりとかするわけだが、最後まで見終えてもあまり何かを語る言葉が出てこない。思うことは山ほどある。
 UN-GOはあの花以上にノイタミナらしさ、つまりドラマのようなアニメーションを作ることに成功していると個人的には思っている。あの花は意図的にターゲットをしぼっているが、UN-GOはある程度幅広い層にも受け入れられると思うし。school food punishmentとノイタミナの相性の良さも改めて感じた作品だった。
 アイマスは2クール後半以降の展開が白眉だが全体としては評価が難しいな、と。ダンスシーンはすばらしかったと思う。
 
【スポーツ】
有馬記念

 現場にいたというバイアスもあるんだけど、レース後に降り出した雪や続いて行われたブエナビスタ引退式なんかもあわせてこれしかないという気がした。

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2011年12月26日

「SNS@中学校」に読みとる現代のインターネットと子どもたち

 12月14日〜25日にかけて朝日新聞教育欄の「いま子どもたちは」というコラムでSNS@中学校という特集が10回に渡って掲載されていた。
 「いま子どもたちは」というコラムは現代の10代の生態(というのは大げさかもしれないがそんな感じ)をリアルに切り取った特集として以前からずっと読んでいてスクラップもしていたりするのだが、今回のSNS@中学校は思うところがいくつもあったので自分が中学生だったころなんかと比較しながらちょっと色々と書いてみたい。

 結論から言えば、自分のときも今の子どもたちもネットとの向き合い方は簡単ではない。彼らは物心ついたころにはブロードバンドが当たり前という世代にあたり、いまではスマートフォンやソーシャルメディアブームの渦中にいる。モノは違えどインターネットの世界ではその時々にブームはあったし、新しいものがでてきたら大人であっても子どもであっても簡単ではない。
 デジタルネイティブと呼ばれる世代は(自分も含めてだが)そうではない世代よりも確かに情報に長けているかもしれないが、言いようもない不安や怖さも同時に抱えている世代でもある。
 そういう意味では、確かにメディア環境やネット環境は変化したかもしれないが、子どもたちがネットに触れ、それらになじんでいくプロセス自体は大きく変化しているとは言えないのではないか。あくまでSNS@中学校というコラムを読んでの感想なので、全体に敷衍できるかどうかはもちろん定かではないが、示唆的な特集ではあった。
 いくつかの項目に分けて雑感を書いていきたい。

■インターネットと恐怖心
 第2回「怖い 絶対やりたくない」というコラムと、第5回「いきなりケータイ教えちゃうの?」というコラムが子どもがネットに触れるときの恐怖心の一例としては分かりやすくて面白い。第2回では「中学生にネットの話を聞くと、『怖い』という言葉がよく出てくる」という文章が印象的だった。
 対称的に、第8回「知らないから『危ない』と言う」では大人が子どもに追いついておらず、知らないものには近づくなの論法で子どものネット利用を忌避する様子が書かれている。
 おそらく子どもと大人ではネットに対する恐怖心の持ち方が違う。どちらもこわい、と表現することは簡単だが子どもが勝手に知らないところに行くのを大人が恐れる気持ちはネットに限ったことではないだろう(*1)し、子どもは子どもの感覚で怖さを認識したり、ネットには膨大な大人がいることの事実に(もちろん有限ではあるが無限に近い感覚があるはずだ)怖さを感じたりもするだろう。
 あるいは、大人たちが(特に親や教師たちが)ネットは怖いという言説を子どもたちに刷り込んでいる可能性がある。

■パソコン派とケータイ派

 違う角度で見たときに対称的なのが第5回の特集で、ここではパソコンからのソーシャルメディア利用者と携帯電話からのソーシャルメディア利用者の感覚の違いを事例として取り上げている。つまりパソコン派とケータイ派で利用の仕方の違いがあり、「少なくともふたつ知っていれば、選ぶことが出来る。(中略)携帯電話しか使わないのか。携帯電話もパソコンも使うのか。その差は大きい」とコラムを締めている。
 簡単に言えばリテラシーの問題だろうと感じた。そしてこれは自分が中学生や高校生だったころの感覚に近い。田舎なのでケータイ普及率は中学の時点では低かったが、高校はクラスのほぼ全員が持っていた。男子はモバゲー、女子は前略やデコログなどのプロフ・日記サイトというように、ケータイ派の利用は分かれていたが、一方でパソコンで音楽データの編集をやったり
 リテラシーの話でいうと個人情報や属性情報の出し方がかなり違うのは高校のときに実感した。女子たちの日記を見ると基本的に本名の下の名前、あるいはフルネームで交流していた。もちろんプロフサイトはSNSではないので(ある程度閲覧制限はかけられるが)誰でも見られるが、誰もが見るというよりは自分たちしか見ない、という前提の下でコミュニケーションをとっていたように感じた。

 実質的にほとんど誰もが見ない以上、これだけなら大した問題ではないかもしれないが、悪い例を出すと炎上する大学生のツイッターの使い方になってしまうおそれがある。つまり、あまりにも個人情報や属性情報を隠さないがゆえに、雑談レベルなら笑って済ませられるようなこともネットにいったん公開してしまう、つまり形式的には誰もがアクセスできる状況にしてしまうことで失態を晒してしまう可能性がある。ここで大事なのはその可能性に自覚的であるか否かであって、リテラシー問題が絡んでくる。
 パソコン派の場合、よほど狭い交流でない限りはインターネットの海の膨大さだとか、本気を出したときの2ちゃんねらーの怖さを経験的に知っていることが多い。いまの中学生がどうかは知らないが、少なくとも自分の中学のころは2ちゃんねるの知名度はネット上で圧倒的だったし、一定の怖れを持つネットの友人は多かった。
 こういうことを知っているかの差は大きい。そしてそれは大学生になってみないと顕在しないかもしれない、というのは今年の数々の炎上事件で把握することができた。 

■インターネットを知っていくということ
 子どもにも大人にも別々な角度で恐怖心があるとか、パソコン派とケータイ派では利用の仕方が違い、またそこから情報リテラシーの差が生まれるのではないかということを雑感的に書いてきた。
 最後に、そうした状況は簡単に克服できるものではないが、メディア環境や情報環境が発達していく中では個別のメディアの使い方というよりもインターネットとは何かであるとか、ネットの交流とは何かという基盤をどのように整備していくかが重要になるだろう。
 家庭での教育を書いているのが第9回「居間でネット 家族が助言も」というコラムだった。小6までは居間でネットをやっていた経験があるので昔を思い出しつつ読んだのだが、家族が過剰に干渉せず、だが放任もしないというのは情報環境に子どもが慣れるためのひとつの術ではあるだろう。
 学校教育ではどういうことがありうるのかだが、特集がSNS@中学校とあるように、10回を通じて中学生のネット事情を追いつつ学校教育とインターネット(あるいはSNS)の先進事例のレポートも同時にやっている。主な対象は埼玉のある中学だが、北海道の中学も数回取り上げられていたりして、首都圏と地方でのネット利用の使い方の差異という意味では面白かった。

 そんな中で第10回「『正しい使い方』結論はこれから」が印象的だった。同級生がSNSのページに顔写真や校名を載せていることに危惧を覚えた中3女子(感覚的には高校時代の自分とかなりダブる)が「正しい使い方」について学校で発表する、というお話。
 とはいえ、「正しさ」とは何なのかが彼女にはなかなか分からない。「『正しい』はひとつとは限らない。使い続ける中で、彼女がいつか自分の言葉を見つける日がくるだろうか」とコラムも締めくくっている。
 おそらく、正しくない利用(顔写真や校名など個人情報や属性情報の無配慮な公開)は彼女にも分かっているのだろう。だが、対であるはずの正しい利用はきれいに共通項があるわけでもないと彼女は気づく。コラムを読んでいて印象的だったのは、こうした「気づき」の部分を彼女が誰かに教えられるのではなく(*2)自分自身で気づいていったことに価値があると思う。

 いまの年下の世代が少し不幸に思うのは、モバゲーやGREEといったソーシャルゲームやニコニコ動画といった動画サイトなど、ネットでの交流がある程度大手のポータルに限定されていることにもあると思う。そうでなければプロフサイトなどで身内の関係をオンラインでも続けるか、というふたつくらいしかたいていの場合選択肢はないのではないか。別の言い方をすると、探せばもちろん選択肢はあるがそれらが”見えない”のではないか。パソコン派は多少見えているかもしれないが、ケータイ派は見えづらいだろう。パソコン派も見えたところで、人が多く集まる大手の交流サイトに集まる傾向のほうがよりあるのではないかと思う。
 大学生の炎上騒ぎで思うのは、かつてならネット上の身内に叱責されて済んだことがmixiやツイッターという大手サイトを使うことによって簡単に捕捉されてしまい(*3)2ちゃんねるに晒され、あっというまに取り返しのつかなくなる、という事態だ。つまり、炎上がいとも簡単に身内の外へ、はるか場外へと拡散していく。
 失敗に不寛容である、といってしまうことは簡単だろう。だが、失敗に不寛容であることと炎上→晒しの経緯を経て個人情報や属性情報が補足されネット上に残り続けるという取り返しのつかない事態になることの間にはギャップがあると思う。
 もちろん犯罪や不法行為の暴露は許されることではないが、「失敗を経験する」ということがいまのネット上でどれほど可能なのかどうかというと、ごくごく限られた範囲でしかないように思う。

 最初に結局そんなに変わっていないのではないかと書いたが、この10年ほどの間に確実に変わったのはこの点であると思う。
 こうした中でできることのひとつは、正しさについて考えることであるという第10回に登場した中3女子のお話はこれからのネット世代に向けての希望でもあるだろう。(*4)考えるのは当たり前と言ってしまえばそうなのだが、大人ですらはっきりと知らないことを子どもたちが子どもたち自身で考えるのは容易ではない。かといって、一方的な啓蒙がいいかというと、体感的な経験という意味では個人的には子どもの主体性に賭けたいと思う。
 それは10回のコラムを通じて感じたことでもあるし、「いま子どもたちは」という特集を読み続けて得た感覚でもある。最初に挙げたネット上のページでも一部を読めるようなので、興味のある方はぜひぜひ。


◆参考記事
(過去エントリー)
「ここ数年のネットユーザーについて思うこと」 http://blog.livedoor.jp/burningday/archives/51741864.html
「そして2月が終わる」 http://blog.livedoor.jp/burningday/archives/51755039.html

haruna26「デジタルネイティブじゃない1989年生まれのわたしの話」(『インターネットもぐもぐ』) http://d.hatena.ne.jp/haruna26/20110216/1297867931

*1 たとえば田舎の人間が都市に描くイメージが近いのではないだろうか。見知った顔が大半の田舎と、有象無象の人が行き交う都市では生活感覚が違う。都市のほうが圧倒的に未知、つまり知らないものが多いという状況に、田舎や地方から進出して来た人間が漠然と「こわい」と思うことは珍しくないだろう。

*2 学校での発表にのぞむにあたってSNS企業の社員から助言は受けているようではある。

*3 ソーシャルメディアの特性上、ソーシャルグラフによる”逆探知”が容易なこともあっという間に場外に個人情報や属性情報が拡散する要因にもなっていると思われる。

*4 もちろんこれは一つの希望でしかなくて、その他膨大の、それこそ言葉を操るようにインターネットやSNSを操る(あるいは、操ってしまっている)世代の子どもたちに、正しさとは何かを知る機会をどのように授ければいいのかは分からない。

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2011年12月09日

【ヴェーネ論予告】ハッピーエンドの失われた結末に向かうために

 Seraphic Blue(以下、基本的にセラブル)というゲームの特徴的なのは、途中で明確に主人公が交代することでもある。だから、最終的に主役の座を射止める(というか、その場に置かれてしまう)ヴェーネについて論じることがセラブルというゲームの核心部分にも繋がるはずであると考える。そしてそのためには、ヴェーネがどのようにして主役の場に置かれるようになったのかについての記述が必要だろう。
 また、それ以前の彼女はどのような経験をした存在で、それ以後の彼女はどのような宿命を背負って戦いに向かったのか。俗な言い方をすれば、世界を救うために彼女は戦ったわけだが、その理由は運命という言葉で片付けてしまっていいものなのだろうか。
 などなど、ヴェーネという複雑な経験を経た人物について描くのはなかなかに難しいし、絡んだ人物の多さや濃さを考えると非常にやっかいだ。

 ヴェーネの宿命の帰結について先に触れておくが、その前に次の文を引用してみる。

さて、戦いを終えて、結局、ヴェーネは洗練されたシステマチックな功利主義者(=新自由主義下における『新しき哲人』)になるわけでもなく、戦いの後にレイクやユアンと抱擁を交わし、彼らに命を繋ぎとめられながら、ドラッグに溺れつつも、フリッツと共に生きることを選択し「家族幻想」に半ば回帰してしまう。プレイヤーは存じているだろうが、60時間以上かけてたどり着いたこのゲームのエンディングは、実際かなりグダグダである。乱暴にまとめるなら、メンヘラ女が死にたがったり生きたがったりする様を蛇行的に描写するだけだ。

出典:http://d.hatena.ne.jp/tapimocchi/20110823

 
 ヴェーネの運命の帰結をプレイヤーがエンディングとして見つめるときに、いくつかの驚きがある。そのひとつが上に引用したように、超越的な世界の救済者であった彼女(文字通り天使と言ってもいいかもしれない)が、ごくごく一般的な人間の幸せに落ち着いてしまっている点はまず指摘されるべきだろう。
 次に、運命という枷を外してしまったときに、彼女が実際に見せる言動は尋常ではない。度重なるリストカットや逃亡、薬物濫用というふうにしか描写はされないが、いわゆる人間らしさというものを完全に失ってしまっている。メンヘラ女というカテゴライズは適切かも知れないが、個人的な印象としては落伍者という感じがした。文字通りの廃人と言ってもいい。もはや生活の体をなしていないのだから。
 そして最後に指摘したいのは、世界を救うことで彼女自身も世界も生き延びたというのに、これだけの堕落した結末を見せつけられると果たしてこれはハッピーエンドなのかなんなのかがよく分からないということになる。最後のシーンを描く必要がなかったのではないか、という感想を持ったプレイヤーもいるだろう。

 と、これだけ書くのにここまで文章を使ったのでこの先について書くともっと長くなるだろう、という意味で予告編にした。なんか半年前にも予告編っぽいのを書いた気がするけどこっちがほんとうの予告編です。
 単純と言えば単純な発想だが、世界の存続に向けて戦うことを運命づけられたヒロイン、という意味でぱっと思いついたのは魔法少女まどか☆マギカである。ここで出てくる魔法少女たちもそれぞれに運命を背負っていて戦いに身を投じていくが、ヴェーネとの比較でどのようなことが言えるのかを試してみたい。
 
 その上で、ヴェーネを拘束するものは何かを探る。彼女が名実共に命運をかけたヒロインになる以前の彼女だったころの経験に鍵があるというのはジークベルトとの関係などからも明らかではあるが、ヴェーネとジークベルトの関係性だけでも丁寧に記述しようとすれば膨大になってしまうので(日記書きすぎだし)いくつか要素を抽出してみたい。
 これも改めて書くまでもないかもしれないが、彼女は生まれながらにして運命を背負っていた。宿命と言ってもいい。もっとも、彼女のみが背負っていたのではなく、物語の過程で彼女が唯一にして最大の存在になってしまうのはジークベルトにしては想定外だったかもしれないし、傍観者的に見ればまたもない物語の筋書きかも知れない。
 ただ、そうやって負担感は変化したかも知れないが、前述のように彼女が世界の命運を握るのはあらかじめ予定されていた未来である。そしてこれがヴェーネにとってさらに残酷なのは、戻ることができないという事実だろう。

 ジークベルトの言う「ハッピーエンドは失われた」とは、ヴェーネの実存をシンプルに説明すると。これより他にふさわしい(そして文学的な)言葉はないかもしれない。

 そうやってヴェーネの人格を構造的に、また経験的にあぶりだしていきたいと思っているのだが、その上で提示したいものは何か。つまり、ヴェーネという表象はセラフィックブルーというゲームの枠内においてどのような意味を持ち、ゲームの外で一般化するとどのような意味を持ちうるのかという点である。
 セラブルの世界はファンタジーでもなんでもなく、私たちがどこかで見てきたような世界(というか社会)がまざまざと描かれている。アメリカやロシアを思わせなくもない国家も出てくるし、それらと時には手を組みつつ最終的に自分の目標を遂行しようとするエンデは今の時代で言えば歪んだイスラム原理主義を基盤とする中東のテロ集団と言ってもいいかもしれない。
 このような世界、あるいは社会で描かれたヴェーネの像について考えたときに何が言えるのかはまだ自分の中でも定まりきっていない。手がかりとしてあるのは運命についての記述を中心にしようと思っているので、宿命を進路変更不可能性と言い換えればわたしたちの社会にも適用できるのではないか。システム的な進路変更不可能性ならありふれているし、その中でどう振る舞うかを考えるのは重要なことだ。下手しなくても生存に関わるだろう。
 もちろんセーフティネットがないわけではないという意味では進路変更不可能性は大げさとも言える。とはいえ、システム的に、または社会通念的にも、人生という長いレールを考えたときにある種の硬直性は散見される。受験をして大学に入ったら企業に就職するくらいしか基本的なモデルが与えられていないというのは、なにも日本にかぎったことではない。資本主義は自由主義と結びつくことで多様性を擁護しているようで、実はモデル化された人間を延々と生産しているだけかもしれない。
 
 いくら投げ出したいとのぞんでも、あきらめたいとのぞんでも社会の中で生きるためには容易にできない。不可能ではないかもしれないが、かなりの困難を伴う。硬直したクソみたいなシステムからとっとと離脱するために、困難を克服してレールを外れろというのはあまりにマッチョな主張だろう。自分のことは自分で決めて、結果責任も自分で負うべしという新自由主義は、原理的に結局一部の人間の利得を向上させるにすぎない。
 一見するとヴェーネは困難な壁を乗り越えていく、つまり新自由主義の中で生き残っていく強者にも思える。とはいえ、それが肉体的に、精神的にあまりにもギリギリだったことは彼女の帰結にもつながっているだろう。
  
 書いてきて思ったが、こういうところが論点だと思っていてああしてこうして展開しますよ〜というのは論文か何かのはしがきのように思えてきた。いやもっとちゃんと書かないと「論文」には仕上がらんだろうけどねもちろん。
 あと、ついつい長くなってしまうのが悪い癖なのである程度コンパクトな論になるように頑張ってみようかな、と思っている。うまくいけば年内にはケリをつけたいが、諸々の事情との兼ね合いがどうなるかは俺にもよく分からん。
 まあそんな感じで、一人の大学生の戯れ言というか趣味以外のなにものでもない文章に今後も付き合ってもらえるのならこれほど幸いなことはない。職業ライターでもない個人の物書きにとっては読んでもらえることがまず何よりの喜びだ。そこから何らかのコミュニケーションに繋がれば楽しいのは言うまでもない。

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2011年12月08日

2011年10月と11月の読了本

10月の読書メーター
読んだ本の数:10冊
読んだページ数:2865ページ
ナイス数:22ナイス

すべて真夜中の恋人たちすべて真夜中の恋人たち
出会って、ときめいて、別れる。ただそれだけなのだが、ただそれだけと言ってしまい難い何かは確かにある。ちょうど主人公や聖たちと年かさの近づいた今の川上未映子だからこそ書けたのだろうな、とは思う。真夜中、と題うったのはなかなか面白い。盲目の夜はやがて明るすぎる朝になってしまうから。
読了日:10月31日 著者:川上 未映子
言壺 (ハヤカワ文庫JA)言壺 (ハヤカワ文庫JA)
少なくとも94年に書かれたものとして引いて読む必要はない。何が書かれてあるかは具体的に表現しづらいが、言葉を語るのが小説や本の役目、ということをじっくり考えながら読むと読み応えがあると思う。
読了日:10月30日 著者:神林長平
ユリイカ2011年11月臨時増刊号 総特集=魔法少女まどか☆マギカ 魔法少女に花束をユリイカ2011年11月臨時増刊号 総特集=魔法少女まどか☆マギカ 魔法少女に花束を
前半はキャラ論やシーンにおけるまどマギの位置づけなどおなじみの考察が続く。後半はさわやかさんとばるぼらさんと対談や、加野瀬未友さんのオタクvs.サブカルに関する文章などの、まどマギ現象をどう受け止めるかという論は面白く読んだ。さわやかさんとばるぼらさんの対談ではまどマギ現象に見る従来を超える二分法が語られるが、これが今後のトレンドになっていくかどうかは確かに気になる。「コネクト」を歌うClariSに最も近くにいた一人であろう冨田宏明の論も、アニソンファンとしては興味深い。
読了日:10月26日 著者:
ラーメンと愛国 (講談社現代新書)ラーメンと愛国 (講談社現代新書)
ラーメンがどこから来て、どこに向かっているのかという壮大な戦前戦後、そして現代史。ラーメンに目を着けたのがまずうまいし、話の展開がダイナミックで非常に面白い。精緻な議論というわけではないが、政治や社会情勢からカルチャーや思想、地方や海外まで見渡す視野の広さには端的に驚く。
読了日:10月25日 著者:速水 健朗
論文の教室―レポートから卒論まで (NHKブックス)論文の教室―レポートから卒論まで (NHKブックス)
色んな意味で名著。大学入学したころに既に大学生協で積まれていたのを見ていたのに読むのが4年の秋(さすがに4年なので既知のこともかなり多かったが)という展開なのでどう考えてももっと早く読むべきでした。と、下の学年の人たちにお勧めしておきます。
読了日:10月20日 著者:戸田山 和久
ぜんぶの後に残るものぜんぶの後に残るもの
連載をまとめたものだが、3.11以降はそこに関しての文章が続いていく。ただ、そこだけを読むよりも一冊通じて読む方が理解が深まるはず。というのは、川上未映子はどういう視点で日々を生きているのかに、一冊読むことで接近していくことができるから。おかしくもあり、少しズレていたりもするが、総じてユーモラスなのは彼女の生き様を素直に表していると思う。
読了日:10月17日 著者:川上 未映子
とある飛空士への恋歌 2 (ガガガ文庫)とある飛空士への恋歌 2 (ガガガ文庫)
話がいずれ空戦へ、という流れに乗ってきたと同時に「追憶」との関連性も見られる巻。カルエルとクレアの接近という以外は大きな進展はなかったが、サブキャラも比較的魅力的なキャラが多いので、次以降どう展開していくかは楽しみ。
読了日:10月13日 著者:犬村 小六
ニッポンの思想 (講談社現代新書)ニッポンの思想 (講談社現代新書)
適切さを保持しながらコンパクトにまとめ、そのうえで筆者なりの恣意もつめこんで面白く読ませるあたりは佐々木さんらしい本であるなあと思える。
読了日:10月05日 著者:佐々木敦
とある飛空士への恋歌 (ガガガ文庫)とある飛空士への恋歌 (ガガガ文庫)
ラーメン最強。ありがちな少年の英雄もので、格差のある恋物語なのかどうかはまだまだこれからのお話。前作はコンパクトにおさまった魅力(空戦の描写であるとか)があったが、今作も肉付けがなされていけば面白くなっていくはずなので期待。
読了日:10月05日 著者:犬村 小六
「平成大合併」の政治学「平成大合併」の政治学
読了日:10月04日 著者:今井 照

2011年10月の読書メーターまとめ詳細
読書メーター


11月の読書メーター
読んだ本の数:10冊
読んだページ数:3076ページ
ナイス数:17ナイス

空の境界 未来福音 (星海社文庫)空の境界 未来福音 (星海社文庫)
静音に萌える本。まあ、あくまで後日談か前日談だかのオマケ本なので、そういう楽しみ方ができれば良し、かな。
読了日:11月25日 著者:奈須 きのこ,武内 崇
とある飛空士への恋歌 5 (ガガガ文庫)とある飛空士への恋歌 5 (ガガガ文庫)
『追憶』を読んだあとだからこそ、ラストシーンは響くものがあるんだろうな、とは思った。あとは政治性についての書き込みが最後まで徹底されていれば、とは思ったがあのきれいなラストシーンはなかったかもしれない、と思うと難しいものである。3巻からのスピード感を崩さず、かつキャラ描写やストーリーをうまく組み立てている(特に外交や安全保障、統治などの政治性の観点からも。くどくないし)とは思う。
読了日:11月24日 著者:犬村 小六
哲学思想の50人哲学思想の50人
学部2年のときの教養の講義で使った教科書。当時は全部読んでなかったのでいまさらではあるが通読してみた。教養の教科書である以上には内容はしっかりしていると思うし、哲学史の流れを掴むのはこの本だけではしんどいが、著名な哲学者の主要な考えや理論になじむことができるという点では(訳もこなれているので)優れている一冊だと思う。ちゃんと読めてない部分もあるので、また時々開く機会もあるだろうな、と思うし最初はそういう読み方でいいのではなかろうか。
読了日:11月23日 著者:ディアーネ コリンソン
とある飛空士への恋歌 4 (ガガガ文庫)とある飛空士への恋歌 4 (ガガガ文庫)
一気に動いた巻。さあ、どうやってどこまで行くのか。じっくり見守っていきたい。イグナいいやつだな。ノリピーカッコイイ。
読了日:11月22日 著者:犬村 小六
とある飛空士への恋歌3 (ガガガ文庫)とある飛空士への恋歌3 (ガガガ文庫)
色んな意味で盛り上がってきた。文字通りここからが本編。
読了日:11月20日 著者:犬村 小六
SQ “かかわり”の知能指数SQ “かかわり”の知能指数
文化系トークラジオLifeで著者の語りはよく聞いているが、著書を読むのは初めて。かかわりという社会学でも定番とされるテーマを概説的に扱いつつ、戦後史を重ねた上でジモト論やショッピングモールへの着目といった話が展開されている。氏の今までの議論が凝縮した形で、いかんせんディスカヴァーからの出版なので細かい議論というよりはサクサク読めてしまう感じではあるが、目の付け所は多々ある。個人的にはコンパクトシティ批判をもっと読みたいと思った。震災後というタームがどれだけ重要かは置いておいても、今の時代に読む本かなと。
読了日:11月19日 著者:鈴木 謙介
自分探しが止まらない (ソフトバンク新書)自分探しが止まらない (ソフトバンク新書)
読了日:11月15日 著者:速水 健朗
比較政治制度論 (有斐閣アルマ)比較政治制度論 (有斐閣アルマ)
大学院入試のために使用。比較政治の観点から制度がどのような帰結を生むか、について丁寧に整理されている印象。実証のデータも豊富で、一冊で政治制度を俯瞰しつつ比較政治のエッセンスも学べるというところか。
読了日:11月12日 著者:建林 正彦,曽我 謙悟,待鳥 聡史
<脱・恋愛>論―「純愛」「モテ」を超えて (平凡社新書)<脱・恋愛>論―「純愛」「モテ」を超えて (平凡社新書)
ジンメルやゴフマンという社会学者を引用してはいるものも、書かれていることは真新しくはない。逆に言えばよく言われているようなことや、本来はこうなのではないか(たとえばモテるために自分を改造することは本当に正しいか)ということの説明のために社会学の理論を使っている、という感じがした。脱、とついているのは第6章で「共在」という概念を扱っているからかもしれないが、総じていうとふつうの恋愛論だと思います。
読了日:11月11日 著者:草柳 千早
オン・ザ・ロード (河出文庫)オン・ザ・ロード (河出文庫)
収められているエピソードは鮮明だが、いずれもすべて刹那的なできごとで、今風に言えば当時のtsudaりをふりかえっている、ととらえることもできるかもしれない。個々の出来事に連続性はなくて、たた路上で出会うという、それだけが共通している。多くの場面は車での旅先の現場というあたり、戦後アメリカの明るさとなつかしさをも象徴しているように(いまふりかえると)思うことができる。そして誰にも訪れていたはずの若さという、永遠に帰らない日々への郷愁もこめて。
読了日:11月10日 著者:ジャック・ケルアック

2011年11月の読書メーターまとめ詳細
読書メーター


記入もれ:市野川容孝『社会』

現在の2011年通算:121冊

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2011年12月05日

3人のこどもたちと残り3話のゆくすえ―そして少女に託された期待

 評判の「輪るピングドラム」は最初からしっかり見ているが終わりに向け最近一気に加速を始めたので終わってしまう前に改めて何かしら書いておこうと思う。そんなに暇でもないので厳密な批評はやらないし、そのうち誰かがやるだろうので、今気になっていることを書いていく、という感じで。話ごとの感想はネット上に膨大にあるので、春休みにでもじっくり読み返したいとは思っている。
 このアニメはあの事件に明確に言及していることもあって、また主人公3人の子どもと大人という意味でも社会派アニメと言えるだろうし、良い意味で90年代っぽさ(音楽は80年代だったりするし、面白い)を醸し出していたり、意外とベタなんじゃないかと思われる展開もあるような気がする。EDにARBの曲を用いたり、14話では某有名漫画を思うシーンがあったり、二次創作的にはめ込んで展開される様はベタさとも繋がっているように思う。そしてそれは決定的なところで差異という意味でオリジナリティを作り出すことができれば、より意味のあるベタさになるだろう。
 さあ、どうなるかね、というのは文章の後半で書いてみたい。

 まず最初に気づくのは、1クール目の日常を描く描写と2クール目で核心に近づいていく様を描く描写のトーンの違いは際だっている。ある意味これはKey作品のような泣きゲーが得意としてきた、平和な日常を提示してどん底に突き落とす展開、とダブって見えなくもない。ただこれは終わってみないとなんとも言えないのだが、ベタに類推するとそうなってもおかしくはないと思っている。(*1)
 21話である程度示されてしまったが、重要なのは陽毬がどのような役割を担うか、あるいは演じるかだろう。日本のアニメは往々にして少女という表象に物語の運命を託してきたし、ゼロ年代にはセカイ系という形で広く受容された。ピングドラムはセカイ系ではなくその真逆の社会系、つまり社会との接点を丁寧に(時には必要以上に)描写することで物語を押し進めようとしている。
 気づいたときには脳天気とも言える「せいぞんせんりゃくううううう」の一コマがなくなってしまっていることも、展開の変容を表していると言える。もっとも、日記帳を手に入れるという当初の目的が達成されてしまったことも要因ではあろうが。

 登場人物は限られているが、限られた中で密度の濃い人間関係を描いているし、それが物語の核心に直結するだろうことを考えると、社会系という大きな風呂敷でもある程度うまくたたんで軟着陸させることはできるはずだ。アクロバティックな展開があってもいいとは思うけど、伏線の回収を意識するとある程度無難に落ち着く可能性は高い。これもどっちに転ぶかはまだ少し分からないが。
 21話まで見てきてはっきりしたのはあくまで中心は3人であって、徹底して彼らと彼女のための物語だと受け取るほうがより話の筋を理解しやすいと思う。両親だったり眞俐先生、多蕗さんや時籠ゆり、などなど大人の登場人物は深夜アニメにしてはかなり多いと思うが、ある意味アニメだからこそ中心にいるのは高倉家の3人の子どもたちであろうし、3人以外はある意味脇役と言ってもいいだろう。もうひとりの子どもであるりんごちゃんがどう絡むかはちょっとよく分からないし、どちらかというとストーリーの誘導役、特にあの事件に結びつける存在としての役割が大きかったように思う。

 そしてこの3人のみに注目してくると見えてくるのは、これは加害者の物語なのか被害者の物語なのか、その両方なのかそのどちらでもないのか、という象限だ。1995年の”あの事件”(*2)を想起させるテロが物語の中で起こっていて、高倉夫婦は主犯格として関わっている。その子どもである3人は加害者、被害者のどちらに属すのだろうか。
 社会的な見方をするともちろん加害者ということになるだろう。多蕗の復讐は高倉「夫妻」ではなく高倉「家」に向けられているのが印象的なように、また95年の”あの事件”後にオウムの子どもたちがバッシングや入学拒否を受けたように、子どもは当然のように家族の一部と見なされるのが宿命である。
 とはいえ、子どもたちのみに注目すると両親を失った時点で社会的な弱者である。オウムと違うのはその点で、大人の世界の中で子どもが生きるのではなく、子どもの世界と大人の世界が完全に断絶している。1話の始まりは一見すると幸福な食卓を描いていたが、そこに子ども3人しかいないのはいびつだと言えるだろう。(*3)
 フェミニズム的には怒られるかもしれないが、その中でも陽毬はもっとも弱い存在だ。しかも彼女は不治(とされている)の病を背負っていて、薬を飲み続けなければ余命いくばくもない状況に立たされている。この点に関してはなぜどのように病気を背負っているのかが明言されていないし、彼女の生存戦略の道筋はいまのところ立っていないから、残り3話の焦点のひとつにされてくるだろう。
 
 21話が明らかにしたのはもうひとつ、逃げる冠葉と、追う陽毬、待つ晶馬という構図だ。冠馬は陽毬を想い、陽毬は晶馬が運命の人であり、晶馬と冠馬は決定的に対立した。(*4)
 そしてこれは19話から顕著だと思われるが、「運命」と「愛」という何度も繰り返されてきたふたつの言葉が直結した。この言葉のチョイスも非常にベタではあるし、3兄弟の三角関係という構図もベタではある。3兄弟の生存戦略に向けたキー概念であろうことは今までのサブタイトルを見ても想像できたが、運命と愛を振りかざすと逆に悲劇的な結末すら予測してしまう。それこそ泣きゲーのバッドエンドがそうであるように、バッドエンドではあるが非常にきれいな終わり方をするのは、AIRの名ゼリフを引くまでもない。
 セリフと言えばこのアニメも言葉に関しては強いこだわりを持っているように思う。登場人物の発する言葉はともすれば命がけでもある。そうした必死さが物語を前進させもするし、かき乱しもする。混沌に陥ってないのは革新的な謎を1話ずつほぐすように解いているからだろう。
 
 最初に少し書いたように、もっとも重要な存在は陽毬だと思っている。彼女に救いが与えられるとすればどのような結末になるのだろうか。ハッピーエンドと引き替えに姿を消す、というのはエウレカセブンやグレンラガンや、Seraphic Blueだって社会的な文脈からすると消失にほぼ近い。
 ただ、大人の都合の前に子どもが敗北してしまうという、それこそ現実的にありふれている結末をこのアニメが描くとも思えない。あまり根拠はないけど、もっと挑戦的な作品だろうと思っている。軟着陸かアクロバティックかは別として、陽毬の双肩に形勢逆転が託されたのは21話のCパートが示したとおりだ。
 
 そのCパートで冠葉の思い出の中に生きる陽毬に救われたのは俺だけじゃあるまい。ひとりの少女に期待を託すことの重みがどれだけあるとしても、託さざるをえないし救いがあるといいな、と思ってしまう。
 そうでない結末はそれはそれで見てみたいが、はてさて。最終話はチケットが確保できればパブリックビューイングイベントに行く予定でございます。楽しみだね、本当に。


*1 区別するならKeyが得意としてきた泣きゲーは内面や精神面のコミュニケーションが物語を醸成するが、ピングドラムは主人公たちの外にある大きな社会に巻き込まれていくことで平和な日常が揺らいでいく、という点で決定的に違うだろう。このアプローチは魔法少女まどか☆マギカに近いとも言える。ただそれほど新しい手法という実感はないし(すぐに例を出せないけど)単純に空気系への反動かもしれない。

*2 あの事件です。そしてあの年には阪神大震災があったことを考えると、今年このアニメを企画したのはすごいタイミングだな・・・。今だって災後を生きているわけだ。冠葉と晶馬が95年3月20日生まれというのは設定しすぎな感じもするけれど。

*3 ただし日常系アニメでは大人が登場するほうがむしろレアだったりするけどね。

*4 とはいえ白山神社で殴り合うシーンはめちゃくちゃベタな気はした。いい意味で。あと、OPの映像や歌詞が示唆的なのはなんとなく気づいていたが、2期OPで3兄弟が別々な方向に走っていくシーンがあって印象的だ。追いかけているのか、逃げているのかは分からないが、ばらばらになってしまった彼らをイメージするシーンになっている。現在進行形で走っているという意味では最後までばらばらかどうかは分からないが。

今日の一曲  蜻蛉"MUG SHOT"

 蜻蛉さんの新曲をチョイス。ちょうど21話に重ねて聴くと切なくしみてくる。

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