2011年10月

2011年10月24日

むかしの言葉といまの実存

 ついったーである人が日記に書いてある文章を一部抜き出していたのがすごく面白かったので、安直だけどちょっとマネてみる。中学まではあまりにも若すぎるので高校以降のものに限定だけど。
 解説もしてみたいので昔の知り合いがいたらぜひぜひ(ほとんどいないと思いますが
 卒業文集のようなものはあるけれど、ちゃんとした文章ではなくてQ&A方式なのであんまり書くことはないかなーという感じ。俺のひねくれっぷりが分かるくらいか。
 ランキングコーナーでは「ノーベル賞とりそうな人」2位だったけど、どう考えても理系じゃないとほぼ無理なので1位をとった現神戸大学の人にあとは任せておこう。

ま、けど不条理は受け入れて乗り越えていくしかないんだよ。それは避けられないし、これからも多かれ少なかれつきまとう問題だからね (2007/3/19)


 2年生最後の日の記述。クラスの入れ替えでちょっとした移動があったりして、それにまつわる人間関係について書いた。Qべえがこんなこと言ってそうだなーと今なら思う。メタすぎてこわいぞ昔の俺。
 ここだけ切り取るとなんかすげええらそうに書いてるけど、たぶんこれは自分にも言い聞かせる意味があったんじゃないかな(たぶん だから日記にわざわざ書いてるような気がする。
 高2は、多くの人がそうであるように、だと思うんだけど高校時代の中でもかなり充実していた時期だったので、この期間に仲良くなったり、って人は教室内ですごく多かった。文系・理系で授業が分かれることが多かったので必然的に(といっていいのかどうかはあれかもしれないが)女子と話す機会も多かったし、女子校的な雰囲気に若干引きつつも(男子は3人しかいなかったのでどうしようもない)基本的には楽しい時間だった。
 高3、受験生というまだ見ぬよく分からない大きな壁のようなものを前にして、下手すれば人生でもっとも楽しかった時間が終わってしまう、という惜しさは俺の中にもあったと思うし、俺の周りでもあっただろうな、と思う。

明日が山です。頑張ろう。一人で走っているわけじゃない。それを忘れていたくはないよね。 (2007/5/25)


 これはたぶん定期テストのときかな。定期テスト自体は大したことなかったと思うけど、この言葉が最後の一年を象徴しているなあと思ったし、言葉に頼ることで乗り切ろうとしている節はあったのを覚えてる。
 自己啓発の方向に行きかけて行かなかったのはよかったな、と今では思っているが。

人多い。めっちゃ多いよ西早稲田。可愛い子も岡山より多い気がしました。まあ、絶対数の差か。政経のところで個人相談などしてみると、やっぱり素直に行きたくなった。本当、ここがTokyoじゃなければいーんだけど、大学近くは素直な所で、中も風が気持ちよかった。岡大をコンパクトにした感じ。
まあ、言い訳の余地がなくなったというか、今まで本当にデメリットしか見てなかったというか何というか。確定じゃないけど、そっちの方向に揺れた一日
 (2007/8/5)


 これは早稲田のオープンキャンパスに行ったときの感想。ここ(http://blog.livedoor.jp/burningday/archives/50922491.html)にも一部書いてたりするんですが、可愛い子が多いって最初に書くあたりが若くていいですね。まだワセジョの生態とかそもそもワセジョというネーミングを知らない高校生が書いた文章なので気になっている人は参考にしてください(←
 ちょうど前の日に岡山大学のOCに行ってきたんだけどイマイチというかあんまりピンとこなくて、早稲田は熱気に圧倒された感が強かったのが一番の差だろうなとは思う。

 まだまだ俺にとっては東京ってTokyoにしか見えないし、そういうイメージしかないんだな、っていうのは字面からなんとなくわかる。
 それでも早稲田は居心地がよさそうだったので、リアルに都会のど真ん中なら上京しなかったかもしれないね。まあ、それはそれで、かもしれないが。
 こことか当時のブログにも書いているように、気持ちが揺れるまではほとんどまったく早稲田に進学とか考えなかったので、思い立って行動するのは結構大事なのかもしれないね。
 もっとも、あとで振り返ったときにあのときがターニングポイントだった、って分かることが多いし、別の道に進んでもそれなりにうまくやれたかもしれない。

 それでも付け加えるとするならば、やり直すことはできない、単線的な一回性を永遠に近いくらい積み重ねている、ということなんだろうか。そうしたひとつひとつを切り取ることで、この記事のタイトルにも選んだ実存が見えてくるのかもしれない。
 まあ端的に言えば、たまにはこうやって過去をぐるーっと見返してみて、今について考えることって面白いんじゃないですかね、というところだろうか。
 最近高校時代の恩師の人たちにいんしの結果報告なんかをしていて思ったが、進学とか住居を変えるとか、そういう明確な区切りで線は引けてしまうのだけれど、単に続いているだけなんだよね。
 でもまあ区切ることで逆に連続性を担保している(高校時代とか、少年時代とか、新婚生活とか)ところはあっても、区切らずに連続性を担保するのは結構難しい。もっと言えば、区切ることである程度過去を忘却してしまうから、連続性をそもそも認識しづらい。認識しても、重要性がどれだけあるかと言われれば難しい。極端に言えば生まれたという事実に価値を置きすぎるのもどうかな、とは思う(*1)しね。

 といいつつ、俺はどちらかというと明確に線を引いて過去を忘却する人間だったので(そのほうが何かと気楽ではあるはず)もう少し連続性を認識してもいいんじゃないかな、とは最近思い始めている。
 この今、も常に漸進している。1年後にはまた違う何かが得られるかもしれない。だからきっと、日記として文字に記すというのはこの今にしか感じ得ないリアリティを忠実に表現する意味合いは大きい。
 ま、今の自分からすれば未来なんてあってないようなものなのだが、あのときはこうだったのか、という意外性を未来の自分に与えられたら面白いなあとは思っている。

 一番面白いのはたぶん、あのときはああだったな、と親しい誰かと昔話をするときなのかもしれないけどね。

*0 参考→卒業文集を公開するので私が捕まったら週刊誌にこれを見せて下さい(これ以上のばかにならないために)

*1 親は選べないとか、いつのまにか生まれていたのであって望んでそうしたわけではないという意味で。

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2011年10月15日

コミュニケーションの隙間、揺れ動きながらも前へ

 たとえば。
 たとえば、俺は昔から自己紹介がニガテなのであるが(面接なんかでも最初の会話は非常に緊張する。流れに乗ればいくらでも話してしまうんだが)理由としてはふたつくらいあるだろう。まず、自分はどういう自分を見せればいいのかがよく分からない。それと、相手は自分をどういうふうに見ているのかが分からない。
 自己紹介でも面接でも、特に前者なんか決まった答えなどあるはずもないのだが、どうにかうまく見せたい欲求というものはあるらしい。めんどうくさいね、まったく。まずはそういったものを排除するのが大事なんだろうな、とは色んな場面で思っている。プレゼンとかもか。

 翻って、俺はコミュニケーションがなんだかんだ好きなんだなあ、と改めて思う。後期が9月の最終週から始まって、あれよあれよでもう3週が終わってしまったんだが(まだ3週かという気もするが)意外と知り合いや友人に会ったりする。まあ俺が4年後期にもかかわらず週4/9コマ(もしくは10コマ)も受講しているせいなのだろう(ちなみに前期は週3だった)と思っていたが、それでもこんなにも人と会うのか、と思うほど人と会う。
 まあ中には別に会いたくない人もいたりはするわけだが、大学の講義は基本週1なので、講義の中で誰かと出会った場合、次に会うのはおそらく1週間後だろう。講義の中、といっても会話をするのはあくまで前後であるから時間はそれほどたいした長さではない。まあ、その刹那性なんかも俺は好きなのかもしれないね。

 話を戻すと、今なんでわざわざコミュニケーションが楽しいのか、と考えたときに、単純に週1程度しか会えない希少性というのももちろんあるが、つぎのふたつは当てはまるだろう。ひとつは卒業までの残り時間。
 これは前期から多くの人から聞くことだが、人生の夏休みと呼ばれるほど自由な時間を謳歌できる時間が終わってしまうのは淋しいものである。場合によっては来年から社畜三昧の日々である、嗚呼南無三。まあ仮にそうでなくても、中学や高校がそうだったように、ひとつの区切りが終わり、それぞれの進路に向かっていく様はたとえ「卒業おめでとう」と形容されようが、単純に喜べるものではない。
 もうひとつは、今年はひとりで過ごす時間が格段に長かったからだろう。今年まともに大学に行ったのは1,5,6,7月と今月くらいしかない。その上就活やらいんしやらで大学に寄る機会自体が少ない。いんしのときは行ったら行ったで夜遅くまで図書館にこもったりはしたが、基本的には受験勉強という名の孤独な闘いである。これは奈良の集中講義の記事で書いたような気もするが、いっさいのことから離れて誰かと一定期間過ごす、ということが最大の精神的なゆとりになる、というのを強く実感した。
 まあなんというか、人と会う、って大事なんですね。うさぎは孤独だと死んじゃう、ってのもうなずける(都市伝説ぽいが

 俗な話は置いておいて。最近そうやって大学で色んな人と会うということと、高校時代の友達や恩師と話す機会もあった。これはこれでなかなか楽しい。今と昔は遠いようで近く、近いようで遠い。その狭間を縫うように、でも確実に歳をとっていく自分(と、対話するあなた)を冷静に見つめながらコミュニケーションするという機会は日常ではなかなかないから面白い。
 前に進むということは失っていくことが、と前から思っているし今もある程度はそう思っているが、コミュニケーションを介在することができれば失ったものの上にアップデーティングすることもできるのかもしれないなあ、とぼんやり考えた。いつ誰が見ても同じ光景というものは意外とありえないのかもしれない。その時々で誰かの視点やコミュニケーションが介在すれば、見ている景色は変わっていくんだなあということに気づき始めた。
 たぶん、そういうことを楽しめるうちは歳をとることはまんざらじゃないのだろうと思う。介在する主観は限られているが、各年代ごとの俺とか、あなたがそこにいてくれたら過去と対比することができる。無数ではないが大量の過去の上に現在をかぶせる様は、ただ固定された事実や観念をただ共有していくんじゃなくて、共有していくものは更新されうるんだな、と。
 いまさらに、かもしれないがやっとこさ前に進むということをどうやったらおそれずに済むだろうか、という命題への一つの回答が容易できそうな気がした。
 
 何が言いたいかというと、人間は本質的に複雑な生き物なんだろうな、ということを最近ぼんやりと考えている。コミュニケーションだってそう。偶然性と主観に支配されている。あと空気か。
 複雑な自分を分かりやすく他者に自己紹介するのはだから難しい。もちろん場面によって空気は異なるので数をこなせばいい、ってものでもないかもしれない。ある程度は慣れるかもしれないが。
 どれだけ俺自身が複雑性を愛していようが、誰かに理解されなければならない場面では通用しない。当たり前だが、自分がどう思っているかと同じかそれ以上に、相手が自分のことをどう見ているか、を考えるほうが重要だ。面接なんて典型的だろう、たぶん。就活はほとんどうまくいかなかったけどさ。

 始めに戻ると、複雑なものは分かりにくい。でも、そういう分かりづらさを俺はたぶん愛していて、楽しむことができる性格だろうと思っている。
 どこまでいっても分かりにくいコミュニケーションの様式の最たるものといえば・・・そう、恋愛だよね、と幕を下ろすことにしよう。

 まあ、もちろん他にも例えようはあるだろうけれどね。まあ俺の場合、うまくいくかどうかの結果よりも、恋愛というよく分からないコミュニケーションの行く末を楽しんでいる感がある。
 恋に恋する場合はすごく盲目的な気がするけど、俺の場合逆にあえてそうやって傾倒しないことで自分の立ち位置を守っている、という感じなんだろうか。それって恋してるといっていいのかどうかもあやしいんだが。
 これはもう昔からではあるんだが、あえて押さないことを正当化してきた節もあるので、「押すときは押す!」と周りの人たちに助言されるのももっともだなあ、と思っている。
 本人はすごくのらりくらりとしているので、これからの色恋がどうなるかは分からないけれど、まあ次のコミュニケーションの段階にそろそろ進んでも(もちろんそれが可能なら、だが)面白いだろうな、と思っている。

 で、その相手って誰なのでしょうね。俺もよく分かりません。
 でもいつか出会えたらいいな、って思うし、そのときには真摯に、かつ面白いコミュニケーションがとれるといいな、って思います。おしまい。

今日の一曲
school food punishment "slide show"


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