2011年08月

2011年08月31日

西日本に半月ほど滞在してたお話 (夏の一冊編)

 8月は予想通りあっという間だった。9月もそれなりに速いだろうが、追い立てられる速さはたぶん8月のほうが圧倒的。期末テストが終わればすぐレポートが複数〆切りになり、急遽決定した一校目の出願が迫り、それが終わった2日後には既に帰省路という展開でした。
 その後は西日本でやいのやいのです。たぶん本当の地元である小豆島にいた3日間がいちばん夏休みらしい時間だったんじゃないかな、と思う。
 
 とはいえ、良い意味でなかなか密度が8月だった。終わってみたらもっとできたんじゃないかと思うが、まあこのへんが関の山なのだろう。
 勉強すること以外に8月にしてみたかった主なことは次の通り

・東京の外に委ねてみることから何かを考える
・思考のフィルターをいったん外してみる

 
 まず、ひとつめから。これはもう就活してたことから考えていたことだが、いつのまにか体とか思考回路とか興味関心が東京オリエンテッドになっていることに気づいていて、このままでいいんだろうかと考えていた。当然答えなどでない。生活や交友関係の基盤がずっと東京なんだからね。
 だからネットがある時代でよかったなあと思う。そうでなければほんとうに東京なるものから外へ出て行くことはなかなかに難しい。ネットがあればまだ、見通すことはできる。でも、委ねることはできない。体は東京にあるから。このへんのどうしようもないアンバランスを、半月近く東京を離れてみることから何か考えてみたかった。

 半月経ち、結果として何か明確な結論がでたわけじゃない。ただ、いくつものヒントを得られたのは確かだ。
 途中新城カズマの『サマー/タイム/トラベラー』を再読したのもよかったのかもしれない。再読といっても3,4回目くらいだけど。去年も読んでレビューを書きました。
サマー/タイム/トラベラー (1)  ハヤカワ文庫 JA (745)
サマー/タイム/トラベラー (1) ハヤカワ文庫 JA (745)
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 主役は何人もいるのだが主人公の卓人と特異な友人であるコージンがとった選択肢がくっきり分かれていて面白かった。完全にネタバレになってしまうのであれだが、ぼくは地元(たぶん長野県)から大学進学のために上京し、様々な活動をやりつつ技術者になり海外にも行く。ただ、思いはいつも忘れられない夏の想い出とひとりの少女のもとにある。一方コージンは地元の信州大学に進学するが中退して、地元に根ざした活動を展開していく。ある意味プロ市民的にもなるが、らしさは失わない。
 途中、「こんな街からどうして出ていかない?」という卓人のつぶやきがある。高校で東京にでていくこともできた彼が結局は地元に残っている。この時点では卓人も身の振り方について迷っているのだろうと思うが、物語の終わりが彼の決断を後押しする、ことになったんだろうなたぶん。詳しく書くとマジでネタバレなので要点はこのへんで。

 この流れを読んでいて、俺はいまのところは卓人ルートなんだなあと思っている。卓人と違うのは少女の選択くらいかな。 俺の場合、俺だけが遠くに行ったからね。
 このまま卓人ルートに進むのは難しくはないだろうと思う。でも、コージンルートもそれなりに魅力的だ。いい意味で何も変わっていないと思わせるだけの魅力を秘めたコージンならではなのかもしれないが、そういう生き方があっていい。
 こうやって考えるのもひとつの「フィルター」を外すこと、なのかもしれない。東京にいるとたまに都会でしか生きていけないという人に出会うし、一方で地元だと絶対に地元を離れたくないという人がいる。そのどちらもない俺は逆に、選択のジレンマに陥っている。そんな感じ。
 でもまあ、リベラルに考えるならば選べるという環境自体はラッキーなものだ。そもそも選べなかった人が膨大にいることを考えても、単純に自分自身の将来設計を考えても。どうにでもしていけるかもしれない、まだ今ならね。せいぜい21歳である。

 東京オリエンテッドを脱ぎ捨てるのは選択の海へ委ねることだ。でもそれは東京にいたままではできないから東京を離れるこのタイミングでやっておきたかった。
 勉強時間もそれなりに確保しないといけなかったので人と会って話す、ということは少なくとも香川にいた間はほとんどできなかった。ともすれば落ちてしまいがちなテンションを保てたのは、静かな田舎の港町という実家の居住環境の良さだろう。なんだかんだ田舎好きだなー俺、とか。いやでも退屈なんだろうけどね、なんだかんだ。
 都会と田舎のどっちがいいとかではなく、単純に東京にいるとほとんどすべての発想が東京からスタートしてしまうことに違和感があったからだろう。たとえば地方自治というローカリティの強い勉強をしていてもアカデミックでは東京の地位が高いというのはなんだかこう、どうしうようもないんだろうけどもっとどうにかならんものかと考えていた。それ以外だと情報にしろ、就職先にしろ、なんでもかんでもを東京からスタートして東京とそれ以外(地方とか)を比べるのは疲れるのさ。
 なので東京という都市部の生活というハードさにすり減って行く前に内面のほうがすり減っていくんじゃないかという危機感を抱えていた。東京を離れて解消できるかどうかは分からないが、betterというか、せめてnot worseにはなるだろうという希望くらいは持っている。

 就活をしていたときもぼんやりと考えてはいたが、あのころはそのうち転職すればいいだろうという程度に片付けていた。今は少し違って、もっと自分が何に関わっていけるのか、それはどこでどういう風になのだろうかということを考えている。
 先に書いてるけど結論がでるような話ではないしもっといえば働きながら考えていくのがベターなんだろうな、と思う。それでもたぶん、今の内に考えられることは考えておきたいという小さなエゴがあるんだろう。頭の中にずっとアノマリが残り続けるのはやっかいなものでして。

 端的に言えばこんなところだ。東京以外でも全然生きていけるし、住み慣れたり人間関係も広がればそれなりに楽しみはあるだろう。でも東京での生活もそれなりに気に入ってしまっている。さあ、どうしたものかね。
 9月の結果が何かを決めてくれると、個人的には一番楽なのかも知れない。それがいいのかどうかはあとで考えよう。決まらなかったらまた悩みを抱えることにはなるが、人生はどうせまだまだ続くのだからあまり追い込まずにもう一回フラットに考えられればいいな、と思っている。
 そんな感じ。どうせまだまだ続くのだから、今よりはちょっとでもマシに生きられればいい。何かが劇的に変わるような大きな夢や希望をもつでもなく、絶望するでもない。自分の中にある何かを手がかりにして、ちょっとずつ前に進んでいくくらいだろう、俺にできることは。今の自分を変革してマッチョになろう、という思いはもう大分前に捨てた。

 その結果として、いつかどこかで大切な時間と場所と、人にめぐりあえるようものなら、人生ラッキーだなあ、と思うことにする。

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関連記事→東京と非東京の差について
※次は(奈良集中講義編)につづくよてい。あくまで予定。

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2011年08月12日

可能性と未来の狭間に浮かぶ夢

 ちょうど1年前にNHKがETV特集で「シリーズ 安保とその時代」という特集を4回もやっていて、うち特に3回目4回目の安保改定に関する特集が非常に面白かった。3回目はオーソドックスに安保闘争を描きつつ、4回目で安保賛成派という東大のグループを特集することで、安保という問題がどのようにあの時代に受容されていたのかが理解できる。
 60年にあれだけ安保改定騒動を起こしつつ、70年の安保改定ではすんなりおさまってしまうという。熱は確実に失われていく。そしてちょうどそのときは1968に象徴されるような大共闘時代真っ盛りだった。自分たちの問題には真剣だし、社会変革の熱もあったのかもしれないが、目の前の安保改定はほとんど話題にならなかった、というのが第4回放送の切り口だった。
 
 この2つの回を見ていて、今の反(ないし脱)原発デモも同じようにしぼんでいく、ないし忘れられていくのかもしれないなあ、という危惧がある。これから数年単位でものを考えたら、そうなっていくことがむしろ自然にも思えてしまう。
 ここ最近の印象でもネットでのバズりがだんだん弱くなってきているような印象がある。6日に東電前で素人のラン主催の4回目の大規模デモが行われたが、その次の日のお台場フジテレビ前の韓流反対デモのほうが、圧倒的にタイムリーな話題性を持っていた。

 問題自体の大きさや、問題にすることの正当性は後者のデモは著しく薄く、偏っている。とはいえ量的な注目度では席巻していた。
 あくまでネットの反応ではあるが、少なくとも素人の乱は3.11以降開催しているデモにおいて、ネット、特にソーシャルメディアや動画メディアを使って多くの人を巻き込んできた。ネットでバズることはかなりの意味合いがあったはずだ。
 
 そもそも熱は一定程度にしか持続しないということを、安保闘争も、そのあとの大共闘時代の学生運動も示している。実際に何かが変わるより前に挫折して、離散していく。
 ETV特集の第4回目が面白かったのはそうした構図を原則として扱いつつ、例外として若泉敬を持ち出す。沖縄返還の密約に若泉が関わったことが民主党政権の外交文書の分析でほぼ明らかになり、死の直前に出版した著書ではその経緯を詳細につづっている。同時に、安保とその時代、その後の日米関係への怒りも。若泉が沖縄でその死を迎えた、というのが非常に印象的だった。

 つまり、若泉が憤怒したように、熱はいずれ失われるが、当然問題は温存されていく。日米関係が示しているのは、長く続いてしまったものは簡単には覆しようがないということだ。親米の自民党政権はまだしも、政権交代後の民主党政権の鳩山内閣が普天間問題であれほど迷走(炎上と言ってもいいかもしれない)し、挫折した経緯が示唆することは大きい。
 今のまま何も変わらなければフクシマが沖縄のような存在になるのかもしれない。いや、フクシマに限らず原発を抱える場所すべてにおいて通じる問題といってもいいだろう。
 沖縄がしてきたように、その土地に住むものが代々問題意識をリレーすることはできる。ただ、逆に言えばそれ以上のことが不可能だったのが戦後の沖縄のたどった歴史でもある。

 この時代において、「社会を変える」ことはそもそも可能なのか、という大きくて、根本的な命題が立ち上がってくる。

※このお話はつづきます(たぶん

今日の一曲


uzさんの3rdアルバムのタイトルトラック。
すれ違いを重ねたあげく、今と未来の間に浮かんだままの可能性。つかみ取ることは簡単じゃない。

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2011年08月03日

Parasite Satellite

 「最近何してる?」とか「なんで進路を変えたのか」という質問については「話すと長くなる」という言い訳をしていつも逃げているバーニングさんです。どうもこんばんは。先週月曜日は3週間ぶりの飲み会でした。
 最近は夏バテなのかなんなのか分かりませんが七夕関西遠征から帰還以降体調がどーも優れずとりあえず研究計画をある程度まで作らないとさすがにヤバイので(出願まではまだ時間あるけどまだまだやることいっぱいだから)重い体を引きずり図書館で本を乱読したり思考を書き殴ったりしていた。ゼミで後期に行うグループワークの研究計画も作らねばならなかったので、2週間少しで2本の研究の間をぐるぐるしていてまだ少し余韻は続いている、という感じ。
 飲んだ、というように多少は上向いているわが肉体ではありますがテスト期間で再び酷使という顛末。毎回体調崩して治ったあと、ってなぜか酷使せねばならないのだけれど、これは自分自身の管理の問題とは言えるからセーブセーブしつつ、こなしていかなあかんな、という感じです。8月はもっと大変なので好調を維持しないとだし。

 で、最初の質問に戻ると大した準備もないままに今に至っているので基本的に時間との戦いだなーと思っていて、目の前の不透明さは変わりません。ひとつハードルをクリアしたとして、じゃあ来年以降どうするんだろうね、という話になってくるともっと不透明かもしれません。自分にとってどういう決断が「良い」のかが今でもよく分からないまま動かないと期限があるので動いている、という感じではあると思う。まあ、こう書くほど消極的ではないし、消極的なら既に力尽きているけれど。
 他人の見る自分と、自分の思う自分のギャップがあるのかもしれません。あるいはステレオタイプと自分の思考回路とのギャップがあるのかもしれません。もうすぐ夏休みだけれど、まだもやもやのようなものが綺麗になくなっているわけではない。進路変更したときに予想はしていたけれど、難しいね。
 悩みつつ進み、進みつつ悩むというぐるぐるを続けていけばいいのかな、と思いつつ、スッキリしたいな、とも思うので、たぶん何も考えない一日とかを設けるべきなのでしょう。これも自己管理の問題か、ある種。

 とりあえずいんしが終わったら何しようかとか、今はあんまり考えてる場合じゃないんだろうけれど、こういうときに限って良くも悪くも思考だけがぐるぐる回ることに対して、なんとかしないといけないんだろうなーと思う。
 たとえば自分の一貫性のなさが好きでもあり嫌いでもあるので、なるべく好きでいられるよう頑張ろうと思った8月最初の日、だった。んだろうなあ、と思う。こじつけかもしれないが、こじつけないと無駄に引きずってしまったり自分を責めて終わりそうなので、必要以上の絶望はしない。反省はすべき、だがね。
 アンバランスでアンビバレントな日常にまだ体や脳みそが馴染みきっていなくて、無理矢理前に前に押し進めようとしている気持ちと、進むことを恐れてしまう感覚がある。両方は本来かみ合わないはずなのだが、ここ数ヶ月ずっと同居してきた。吹っ切った、と思ったことが1ヶ月経ってまたよみがえってきたりね。なんなのさもう、と言いたいが、前に進むためには痛みを伴うんだろうな(すこしおおげさ)ということにするしかないのだろうね。

 そんな不安定な精神を落ち着かせるため、というわけではないが最近SFばかりを読んでいて、読んでいる間はどこか遠い非現実な空間で、でも超現実的な世界へ脳内トリップしている。身体的にはトリップできるはずもないしそんな時間も金もないから、SFっていうジャンルがこういうときに生きてくるんだなーということを実感している。
 これは発展させすぎかもしれないが、文学の力はこういうところにあるんじゃないかな、って。つまり言葉や文章や思想がすぐさまカネになったり仕事になったり誰かを助けたりなんてことはできるはずもない。ただ、表現されているにすぎない。だけれども、これは割と常套句のように昔から使っている表現ではあるんだが、自分たちは何も資本主義の世界に”のみ”生きているわけじゃない。もっと言えば、資本主義”のみに依拠”しているわけではないはずだ。資本主義の世界だからって、誰もが完璧に金銭的に合理的に生きているわけはないだろうし、そんなことは無理だろう。
 だから「それってなんの意味があるの?」という問いは、基本的にはナンセンスだ。全てのものに意味がある、と言いたいわけではないが、どういう意味があってどういう風に意味がないのか、を考える思考を放棄するのはもったいない。本棚の奥にある本をふと手にとったときに、なつかしい感情がよみがえることもあるのだよ、と。なつかしいだとか嬉しいだとか、価値に還元しづらい主観的な感情を、「意味がない」と投げ捨てることはできるかもしれないが、そんな世界には生きていたくないね。

 まあそんなことをgdgdと考えてはいても、まずはやるべきことをこなしてから、なのでしょう。という、当たり前でこれこそどうしようもない事実命題と格闘する日々はまだ続く。8月はマジで勝負の月、だし。まあ、楽しみながらやれたら、それに越したこたーないわ。
 皮肉なんだろうけれど、前に進んでいくためにはある程度意味づけをしていかないといけない。暫定的でいいと思うし、21歳の意味づけが自分の全てだなんて思っちゃいない。とはいえ、自由でありたいとも言ってられる年頃じゃないだろうな、と。
 就職を決めている友人知人に話を聞くと、決して一様ではないけれど何らかの意味づけは行っているし、それを早く決められたらあっさり前に進めて、gdgdしてたらいつまでたっても堂々めぐり(2月の俺か)になる。まあ、大事なのは今この瞬間の身の振り方が人生にどれだけの意味を成すのか、かもしれないけどね。こだわりすぎる必要があるかどうか。意味づけをして就職した人も、3年以内に3割は辞めてしまうような時代でもある。

 だからといって意味づけに意味がない、というトートロジーをかますのも現状から逃避しているような気がするので嫌だ、ってところかな。賢い逃げ方ができるならいいけど、そんな力量もどうやらなさそうだし。
 だからたぶん今の自分はもっと遠くに行きたくて、色んなものを見たくて、ただあがいているだけなのかもね、とも言える。暫定的な意味づけがどれだけの価値を持つのかは未来にならんと分からん。そのときに、後悔しない選択であったら良いなーと思う。中学のときも高校のときも、最後はそういう風に投げてたからね。未来に。良くも悪くも。

 未来へ、っていう意味で考えることを止めるわけではないが、思考だけがぐるぐるしてもまた同じところに帰ってくるので、とりあえず色んな事が終わってから考えましょう、ということにしている。
 肩の力を入れすぎず、でも本気で頑張りましょう。夏はまだ始まったばかりです。
 暑すぎです、トーキョー。

今日の一曲


 8月になるとなんとなく聴きたくなる1曲。たぶん、パラサイトとサテライトは表裏一体なんだろうなーと思いつつ、どっちも孤独な感じ。
 夏休みという、ただただ暑さと闘うだけの長い長い怠惰な日々は、日常感覚を殺しかねない。いや、休みじゃなくても夏という熱に飲まれそうになる、特に都会では。
 あえて孤独になるのも悪くないし、孤独を捨てるのも悪くはないんだろうな、と。聴く度に感じてる。きみに近づけなくても、届かなくても。
 ていうか明日で2周年ですね。一足早いけど、おめでとう。びにゅP愛してる!
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