私は音楽における本質とは、影響力とコミュニケーションであると考える。以下でこのふたつの要素と音楽との関わりについて述べていきたい。
まず、影響力について。これは「音楽が聴き手に与える影響」と定義したい。つまり、音楽が聴き手に何も与えないとすれば、その音楽は音楽として本質をついていないのではないか、と私は思うのである。
多くの人が何らかの形で音楽に影響を受けて生きている、ということはここに記すまでもない。私個人としては、なんとなく買った1枚のCDを聴いてひどく感動する、という体験が年に数えきれないほどある。また、なんとなくいい曲だなあ、という程度に思っていた曲を落ち込んだときに聴くと、ひどく心が落ち着く、という経験も何度もある。
いま挙げたような例は全ての曲に当てはまることではないかもしれないが、人がある音楽を聴いたときに、単純にいいな、と感じさせるだけでも音楽の影響力はゼロではない。もちろん、こんな曲二度と聴きたくない、というネガティブな影響力も音楽は持っているだろう。この意味では、音楽は人に聴かれることで新しい価値を持つ、と言ってもいいのではないか。
次に、コミュニケーションについて。たとえば音楽を聴いて少なからぬ影響を受けた誰かが、友達に紹介する。あるいは、ミュージシャンのライブに行って、直接話をする。もしくは、同じ音楽やミュージシャンを好きな者同士が会話したり仲良くなる。
つまり、音楽を介してコミュニケーションが発生することも音楽の本質ではないかと思う。そのときには、前述した影響力というものも大きく関わってきているはずである。元々音楽とは一人で演奏するものではなく、誰かと共に演奏するものであったはずで、その時点でコミュニケーションは生まれているはずだ。ただ、コンピュータの進歩やパッケージとしての音楽の流通によって、一人でも音楽を楽しむことは可能になった。
だが、一人になったからこそ、音楽の幅自体が多種多様になっているからこそ、コミュニケーションをとりたいという欲求も新たに生まれるのではないだろうか。自分だけしか知らないけど素晴らしい曲を誰かに教えてあげたい、あまり注目されてないけど面白い音楽を作るミュージシャンがいる・・・など、音楽は新しいコミュニケーションを生み出すことができる。
テクノロジーの発達した現代には、そのコミュニケーションが可視化される。同じ趣味や嗜好を持った人を見つけることも、ずいぶんと簡単になった。音楽の聴き手にとっては、幸せな時代であるだろう。音楽の作り手にとっても幸せかどうか、音楽自身について幸せかどうかは分からないが、作り手と聴き手のコミュニケーションもテクノロジーの発達によってずいぶんとコストが下がったのは確かである。
テクノロジーはあくまで手段だが、この手段をうまく使えば、音楽にとっても幸せな時代がまた訪れるのではないだろうか。そのときに、音楽の持つ影響力やコミュニケーションを生む力は、また新しい価値や意味を持つに違いない。
私はそんなふうに思いながら、今日も大好きな音楽やまだ知らない音楽と戯れる日々を送る。
* この文章は2010年度「複合文化学特論8(教員:佐々木敦)」で書いた期末レポートの転載です。ちなみに評価はAでした(キリッ
まず、影響力について。これは「音楽が聴き手に与える影響」と定義したい。つまり、音楽が聴き手に何も与えないとすれば、その音楽は音楽として本質をついていないのではないか、と私は思うのである。
多くの人が何らかの形で音楽に影響を受けて生きている、ということはここに記すまでもない。私個人としては、なんとなく買った1枚のCDを聴いてひどく感動する、という体験が年に数えきれないほどある。また、なんとなくいい曲だなあ、という程度に思っていた曲を落ち込んだときに聴くと、ひどく心が落ち着く、という経験も何度もある。
いま挙げたような例は全ての曲に当てはまることではないかもしれないが、人がある音楽を聴いたときに、単純にいいな、と感じさせるだけでも音楽の影響力はゼロではない。もちろん、こんな曲二度と聴きたくない、というネガティブな影響力も音楽は持っているだろう。この意味では、音楽は人に聴かれることで新しい価値を持つ、と言ってもいいのではないか。
次に、コミュニケーションについて。たとえば音楽を聴いて少なからぬ影響を受けた誰かが、友達に紹介する。あるいは、ミュージシャンのライブに行って、直接話をする。もしくは、同じ音楽やミュージシャンを好きな者同士が会話したり仲良くなる。
つまり、音楽を介してコミュニケーションが発生することも音楽の本質ではないかと思う。そのときには、前述した影響力というものも大きく関わってきているはずである。元々音楽とは一人で演奏するものではなく、誰かと共に演奏するものであったはずで、その時点でコミュニケーションは生まれているはずだ。ただ、コンピュータの進歩やパッケージとしての音楽の流通によって、一人でも音楽を楽しむことは可能になった。
だが、一人になったからこそ、音楽の幅自体が多種多様になっているからこそ、コミュニケーションをとりたいという欲求も新たに生まれるのではないだろうか。自分だけしか知らないけど素晴らしい曲を誰かに教えてあげたい、あまり注目されてないけど面白い音楽を作るミュージシャンがいる・・・など、音楽は新しいコミュニケーションを生み出すことができる。
テクノロジーの発達した現代には、そのコミュニケーションが可視化される。同じ趣味や嗜好を持った人を見つけることも、ずいぶんと簡単になった。音楽の聴き手にとっては、幸せな時代であるだろう。音楽の作り手にとっても幸せかどうか、音楽自身について幸せかどうかは分からないが、作り手と聴き手のコミュニケーションもテクノロジーの発達によってずいぶんとコストが下がったのは確かである。
テクノロジーはあくまで手段だが、この手段をうまく使えば、音楽にとっても幸せな時代がまた訪れるのではないだろうか。そのときに、音楽の持つ影響力やコミュニケーションを生む力は、また新しい価値や意味を持つに違いない。
私はそんなふうに思いながら、今日も大好きな音楽やまだ知らない音楽と戯れる日々を送る。
* この文章は2010年度「複合文化学特論8(教員:佐々木敦)」で書いた期末レポートの転載です。ちなみに評価はAでした(キリッ