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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

2011年06月

■ In Memorial Fictionalization [woman side:02]
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 前の手紙に「あなたに知って欲しかったなあ」って書いたけれど、今こうやって書くのはちょっと変だね。今の私には大事な人がいてくれているから(あくまでも「今」のうちは)昔のことを振り返るのも変な話だし、その昔の想い出に対してさもあらなんという願望を描くのもおかしなことだ。
 最近はね。すごく平和だよ。ていうか、平穏?朝目が覚めて、いちにちが始まって、ごはんを作ったり部屋の掃除をしたり、ベランダの鉢植えにお水をあげたりそのあとにふとんを干したりしながら過ごして、夕方になったら今日は何を作ろうか、って考えながら買い物に行く。
 何も考えなくていいとかそういうわけでは全然ないのだけれど、自分と自分以外の誰か特別な人のために生きることが、思ったよりも楽しいな、って思ってる。毎日毎日、同じようだけれど違う日々をちょっとずつ刻んでいる。同じことでも明日は何をしようか、明日はちょっとやり方を変えてみようか、って思うことはできるし、それ以外のことを真剣に考える拘束性や必要性もない。

 歳をとっただけ、なのかもしれないけれど、おだやかな日々がずっと欲しかったのかな、とも思ってる。
 さっき刻んでる、っていう言葉を使ったけれど、この言葉ってすごく刺激的だしいきいきしてるよね。だってもやもやしているときよりも、いきいきしているときのほうががずっと「生きてる」って思う。自分の場所があって、その場所にいてもいいんだと、自分を認めてくれる人もいて。
 こうした関係だとか時間がずっと続いていけばありがたみも薄れるのかもしれないし、毎日朝起きて「わたし今日も生きてる!」って感じることはないのかもしれないけれど(でも今でも朝はすごくニガテだから起き上がるのはたいへんだけどね)いまはすごくしあわせです。生きている、と感じるときが一番幸福感を得られるときなんだ、ってやっと気づけた。少なくとも今の私にとって、毎日の生活をちょっとずつ違う毎日にすることが、「生きてる」って感じる。

*********

 きっと学生時代の私だとか、あなたには笑われるかもしれないね。「えらい丸くなったなー」なんて。端から見てるとこんな単調で、行動範囲も狭くて、人と会うことも稀な日常に、昔の私なら3日で窒息しそう。いや、学生だったらみんなそうかな。
 「丸くなった」っていうのはいい表現かもしれない。少なくとも「成長した」なんて思うつもりはない。あのころのようなギラギラした刹那的衝動がなくなっているのは、むしろ悔しくも思えるから。
 それに、歳をとることが必ずしも成長っていう、前向きにとらえられるような話でもないからね。前には進んでいるかも知れないけど、それこそ言いようもない若さや青さのようなものは失ったし、それらからしか生まれないものも、今の私には生み出せない。代わりに違う感覚や価値観を持って生きることはできるけれど、それはあくまで変化であって成長だ、っていうのはなんか違うと思う。
 
 成長したとすれば、そうだなあ。人生をもっと楽に考えられるようになったこと?楽というか、ゆったりと。
 特に学生時代って、あれもしたいしこれもやんなきゃとか、とにかく忙しくするのが大事で、暇が天敵のようなものだった。常に動いてないとなんか胸くそ悪いというか。
 今はもう考えられない。そもそも体が持たないかも知れない(笑)いや、冗談じゃなくて、ゆったりと一日を過ごす生活に大分慣れきってしまっているから。
 たぶんいまなら、自分のできる範囲のことならちゃんとこなせると思うよ。あのときみたいに、あれもこれもと手をつけるばっかりに、いつのまにか身近にあった大切なものや人や、時間を失って後悔する。なんてことは、きっとありえないと思うから。
 そういう自分の限界だとか、自分の手の届く範囲のことをきちんとこなすこととか、手の届く範囲から自分の生活とか幸福とか、楽しみを見つけることを、今ならできる。逆に言えば、そのうち落ち着くから若いうちには若いなりでいていいのかもしれない。あのときはきっといっぱい楽しんで、いっぱい傷つくことが必要だったはずだから。

*********

 うん、こうやって前向きに過去の自分と向き合えるようになったのも成長?なのかな。そういうカテゴライズはもういっか、めんどくさいし。
 あのころのわたしとか、あなたにはもう何も届かない。思い出せるだけの出来事を、胸にしまって。今日もわたしは一日を刻んで、生きていきます。
 あなたの日常は、いまどう映っていますか?昔とは何が違って見える?

 あ、そうか。こうやって遠い誰かを思えるだけの時間や気持ちの余裕があるということが、いちばん私が手に入れたかったものかもしれない。
 
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小学生のころに見えていた世界は、自前のものだった。「社会的な重要さ」みたいなフィルターを通っていないぶん、多少その世界はいびつだった。でも、当たり前だけどすごくリアルだったんだよね。そりゃあ現実だもの

(「視界をシャッフル」より引用)

「社会人」ってつくづく変なことばだ。前から好きではないことばだったけれど、「社会不適合者テスト」を受けてから、よけいにそう思う。まるで、お勤めしていないと社会の一員を名乗っちゃいけないみたいだ

(「社会との距離感」より引用)

※最初の投稿時に重大な誤読があったとコメントで指摘をいただいたので、一部修正しました。修正後に矛盾を感じた文章は文字の上に斜線をつけています。細かいやりとりはコメント欄をごらんになってください。

 冒頭の文章はいずれもリンクにも貼っているなおちゃんさんのブログの最近のエントリーから引用した。このふたつのエントリーは社会における等身大の自分の儚さや小ささ(そしてそれ自体がネガティブではない)を扱っているように思えたので、印象的なフレーズを並べてみた。

 さて、現実(あるいはリアル)という言葉はあらゆる文脈で使われていると思う。たとえばリアルとネット。どちらも結局同じ人間が使っているわけなのだが、あえて分けることで別の空間やコミュニケーション様式を擬似的に作り出している。
 あるいは、学者の意見などが「現実を反映していない」と批判を受けることがある。特に思想や哲学の分野、いわゆる形而上学のような分野の場合はそうした分野の存在意義が「(あえて)現実を反映しない」ことを前提にしているようにも思う。
 そして多くの場合、現実という言葉は社会に置き換え可能ではないか。現実的でないという言葉は、社会において実現可能ではないということだろうし、社会性がない人、というのはネットでは特に現実(リアル)世界で生きるのに苦労しそうな人、ということもできる。

 とまあ、こういう前提を置いてしまうと社会学をやっている人からおしかりを受けそうだがこのへんは前置きなのでご容赦。本論はこれから。
 「社会とはなんだろう」という問いはひとまず置いておいて、「(社会における)自由とはなんだろう」という問いを立ててみたい。
 そして「自由とはポジティブなものでもネガティブなものでもなく、それ自体は価値中立でフラットである」という仮説を立てる。
 その上で、彼女への返歌というわけではないのだが、現実社会における「自由」と「不自由」という切り口を使いつつ、彼女の言葉の援用可能性を検討してみたい。

 そもそも自由や不自由という言葉ほどうさんくさいものはないなーと長い間思ってきた。ホームレスが軒下で生活を強いられるのはまあ不自由だろうなあとは思うものも、じゃあ家がありぬくぬくと生活する人はみな自由だろうかと言われるとそうとは思わない。家(ないし家庭/家族)ほど外部の視点が入りづらく、小さな権力空間ができあがっている場所もなかなかない。一人暮らしは気楽であるが洗濯炊事掃除をぜんぶ自分でやるのはやはり不自由である。
 結局完全に自由な人など存在しないのだろう。それに近い存在として、たとえばセレブにでもなり豪邸に住み自分の言うことを聴いてくれる奴隷だかメイドだかマネージャー的な人がいてくれるような生活に、別にあこがれたいともなんとも思わない。孤独こそ(特に精神的に)もっとも不自由な、自由を謳歌できない存在のような気もしている。

 「大学生になったらなんでもできるよ。だから今は頑張れ」と言われたことのある高校生や大学受験生は多いと思う。特に高校生の目線からすれば、大学生は本当に自由に見えた。まあ、実際可処分時間という意味ではかなり自由の幅が広いだろう。
 でも、いざ大学に入ってみると、逆に何をしていいか分からない。何から手を着けてイイか分からない。ここに入って本当は何をしたかったんだろう・・・自分の昔の記事を見返してもそれに近いようなことは書いていて、楽しみつつも悩んでいたらしい。(*1)
 たぶんこのときの自分には手に入れてしまった自由を使いこなす能力はなく、まだ高校生の感覚を捨てきれず、明確なものだけを求めていたんだろうなあと思う。だから肩の力を抜くという意味でサークルをやめると、気持ちがすとんとしたというか、やりたいようにやればいいのかという当たり前の事実に気づくことができた。
 大学に入ると大学生独特の空気感もある。そうしたものは往々にしていわゆる「社会」(*2)からは距離を置いている。良くも悪くも。

 リアリティがあるのは、そういう自由を使いこなせない大学生は孤立する。それはいわゆる「大学生」という空気感があるからだ。そしてもちろん、孤独に耐えられる人間とそうでない人間がいる。1年目のドイツ語で途中から3人ほどが離脱したのはなかなかシュールな記憶として自分の中にある。中学とか高校とかで、ある日突然全く来なくなりました、なんて人はいなかったからね。
 高校の時、通学に片道1時間以上かかる(しかも電車が1時間に1本)という委員長は週に2,3回くらいしか学校に来なかったけど。これはまあ、わりと明確に不自由な話である。
 
*******

 何が言いたいかというと、自由の価値も不自由の価値もあなたが決めればいいということだ。個人的にはそれ以上でも以下でもないと思っている(*3)
 なおちゃんさんが言う「なにが大きくてなにが小さいのかわからない」という言葉を拝借するならば、「何が自由で不自由なのか分からない」と思う、生きていて、本当に。それこそSかMかという性格によっても多大に影響されうるだろうし。
 自由の国と呼ばれるアメリカは、確かに持てる者には本当に自由な空間だろう。だが持たざるものには自己責任の名の下に様々な負担がのしかかる。黒人差別はいつになってもなくならないが、リベラリズムの持つ寛容の精神とは一体どこにいったのかね、と小一時間問い続けたい。自由という言葉を疑ってみると色んなものが見えてくる、それだけ魅力的で、他方で恐ろしい概念かもしれない。
 
 そして別の見方をすると、自由それ自体が人にダメージを与えかねない(*4)ということだ。自由だけが与えられ、使いこなす能力がなかったらなかなかに悲惨かもしれない。ついさっき量の食堂でテレビを眺めていると、ある日突然スターへの階段を駆け上がった女優の転落が描かれていた。地位や金銭が与えた選択の自由は、必ずしも幸福への道筋ではない。
 そう、きっと自由を得ることそのものが人生のゴールだというわけではないだろう。ある一定の目標であっても、手に入れた自由を使って何をしたいか、どうやって幸福を掴むかがおそらく人生の有意義な使い方のひとつである。

*******

 そして、このエントリーを土台として、そのうちSeraphicBlueの正主人公である(と言って過言じゃないだろう)ヴェーネについての記事を書きたい。
 特に以前リンクを貼っていただいたぽろろさんの指摘が非常に的を射ていると思ったからだ。

エンディングにおける描かれ方は最も対比的だ。「ショーシャンクの空に」では義務に縛られ続けた主人公は最後に自由の名の下に救済されるが、「セラフィック・ブルー」において世界の救済者として育てられ、義務に縛られた戦いを続ける主人公ヴェーネは、むしろ縛られ続ける事を望んでいる。戦いが終われば自分の存在意義が消滅すると実感しているからである。戦場を切り抜けた後に現れる日常という「平坦な戦場」に彼女は耐えることが出来ない。そして最後の場面で描かれるのが、自由の下に苦しむ彼女の姿である。物語は希望と絶望の両方を暗示し、明確な帰着を見ないまま幕を下ろす。「ショーシャンクの空に」のラストシーンでは希望の象徴として晴れ渡っていた空も、「セラフィック・ブルー」ではもはや自由という苦しみの象徴でしかない。

論文『語りとしてのビデオゲーム』」(ブログ:ゲーム批評等々)より引用
 
 なおちゃんさんの「視界をシャッフル」というアイデアも、その言葉自体も非常に含意があって面白いなあと思っていた。「なにが大きくてなにが小さいのかわからない」という暗示をかけることで肩の力を抜いてみたり、いつもとは違う音楽や本に触れたり、帰り道で寄り道したり、そういうことでもおそらくシャッフルすることはできるだろうし。綺麗にシャッフルできなくても視点や気分をごまかすことはできるのではないかと思う。
 ただそれは「自分の目に映らないものと一緒に、私たちは生きているらしい」ということが自明のものとして認識することができれば、の話のような気もした。いわゆるコミュ障や社会性の欠ける人たちに視点をシャッフルしましょう、と言っても彼らにシャッフルできるだけの視点はあるだろうか。シャッフルさせずにこどものように純粋に生きていくことが、いつまでも可能だろうか。
 ただ、あくまで彼女はエントリーの中で必ずしも普遍的に適用させようとはしていない。(*5) だから例外に当てはまる人を例に出すのは論法としてちょっとずるいかもしれない。でもきっと、そういう人たちも社会の一員だと思うし、彼らこそ視点をシャッフルさせると意外な発見があるかもしれない。もしかしたら昔も自分はそうだったかもしれないし。
 
 話をセラブルに戻そう。おそらく、ヴェーネの場合は視界をシャッフルさせることができなかったのではないか。少なくともポジティブにはできなかったがゆえに犯してしまったのが戦後の彼女の行為だ、と見るのはあながち間違ってないように思う。戦中、いやその以前からずっと長い間大きなものや、宿命や使命といったものに身も心も委ねて戦っていった彼女に、「視界をシャッフルしなよ」と言ってもそんな能力や観点などはぐくまれてなかったのだろうと思う。フリッツという理解を得られる存在もいたがそれも完全に無視した。
 それこそ、ジークベルトの言ったように、戦後の彼女の言動は彼女が「救済の道具」でしかなかったことを示しているようにも見える。つまり彼女の場合、救世のための宿命や運命以外に目を向けることをそもそも約束されないし、そうあってはならない、という自己規制をかけていた可能性がある。このへんは次回以降に細かく検討すべきだと思うが、レイクやジーク亡き後の彼女のモチベーションはこうした自分自身との戦いであり、自分の悪しきカウンターパートであるエルとの戦いだったのであろう。

 いつか書くエントリーではヴェーネ・アンスバッハという超越した女性、かつ母的で、天使でもあり、救済の道具でしかなかった(かもしれない)数奇な運命をたどった女性について書いてみたい。

 長々とこのエントリーを書いてきて思うのは、彼女は全くのフィクションの存在ではないという思いがあるからである。
 おそらくヴェーネのような苦しみ、あるいは運命づけられた人間は現実社会にもいるだろう、と。たとえばAKB48の女の子たちは、卒業していったあとに、「ふつうの女の子」として社会の中で幸福な人生を歩めるのだろうか。彼女たちは多くの人々の欲望によって消費されているが、そうして成り立っているAKB48という使命のその後、を考えるのはかなり酷だろう。
 むろん、メンバーの誰にとっても、ではないが。それを克服している卒業生は多くいるだろうからね、そしてそうあれなかった卒業生も。 

 で、そのヴェーネの件はまだどういうエントリー構成にしようかは考えてないし、というかそれ以外にやることいっぱいあるだろうと言われれば本当にその通りなのだが、ちゃんとした文章にはしたいと思っているので少しずつネタや構成をあっためていようと思う。
 セラブルについての記事を2本書いているが、まだ彼女自身には触れていなかった。仮タイトルは「救世の天使に託した希望と欲望」とでも名付けておこう。
 そしてきっかけを与えてくれたぽろろさんには感謝したい。たまたま同じ早稲田という縁もあって昨日初めてお会いしたのだけど単なるゲーム批評にとどまらない、かなり深くかつ広い視座を持っているようで今後も非常に楽しみである。というか俺も単純にセラブル話をできてすげー楽しかった。セラブルと出会って7年経つけど、やっと本当に、というのは嬉しいよね。地味にでもブログを書いていてよかった、とも思えたし、人生よく分からんですなあ。

*******

*1 たとえばこのエントリーとかね なんか大学の勉強は適当にやればよくね?という言葉に素直にうなずけなかったような気がしているし、まあだから今このような状況なんだろうな、と思うけど別にそれが不幸だなんて思ってないよん。


*2 あえてカギ括弧をつけたのは社会という言葉に特異性を持たせるため。この場合は社会通念上、とか社会人、という言葉の持つ社会という意味で使っている。別に会社に入ることだけが社会人じゃないんだけどね。大学生はどうしても学生、というカテゴライズから色んな意味で抜け出せてないとは思うが、それはそれで多めに見て欲しい。あなたたちも昔はそうだったでしょうよ、と。

*3 もちろん、政治的な意味合いが賦されるとまた別の話である。特にバーリンの言う積極的自由のような権利保障の問題はいくらでも論争可能だろうし、あまねく保障可能な一般的な自由なるものの価値を認めないとは言わない。ただ個人レベルに落として考える、ミクロなレベルから出発したときはあなたが決めればいい、と思っている。 

*4 ルソーが『社会契約論』の第1編7章で「社会契約を空虚な法規としないために、この契約は、何ぴとにせよ一般意志への服従を拒むものは、団体全体によって服従するように強制されるという約束を、暗黙のうちに含んでいる(中略)このことは、[市民は]自由であるように強制される、という以外のいかなることをも意味していない」(引用は岩波文庫から)と述べているのが印象的だ。社会というものはいくつかの暗黙の内に交わしている約束事によって秩序立っているし、逆にそうしなければ秩序立たないというのは想像に難くない。イメージできないならあなたは中2病に罹患している疑いがあるので、ただちに社会(なるもの)へ目を向けよう。

*5 ああいう書き方をすると誤読していると思われるかも知れないので、はじめに引用した記事から彼女の主張をくみ取ると、おそらく彼女の言葉の射程はごくふつうの社会に生きる私たち自身だろう。そうした意味では一般論と言ってもそうおかしくはないと思う。私たちはふだん、政治や社会と生活とが切り離せないがゆえに、大きなものに目を注いでしまう。その中で「世界にあるのはただの事実だけだ」という目線に立ってみること、いつも大きなものばかり見ているようだけどシャッフルさせてみればどう?という問いかけを彼女はしている。ただ、ヴェーネのように生まれた頃から大きなものを見ざるを得なかった人たちや、小さなものばかり見て来て逆に大きなものが全然見えてない人にも同じように問いかけをしてみることで、彼女のアイデアの可能性を考えてみたかった、というのがこの文章で自分がやってみたかったこと。そして次にヴェーネについて記事を書く際の一つのアプローチにしてみよう、と思っている。だからなおちゃんさんのアイデアが一般論でしかないという意味でイチャモンをつけるわけではないし、むしろ面白いアイデアを使って一般論以外のことがどれだけ言えるのか、言えないのかを自分自身で分析的に記述してみよう、と思ったし、この文章でも少しだけ試みている。
→ここも自分が誤解をしていたようなので、コメント欄のやりとりをごらんになってください。
 
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 たまに長い文章を書く、ということが定着してしまっていてブログをだんだん気楽に書けなくなっている。それはそれでついったと差異化できるからいいのかもしれないが、ついったは基本的にフローなのでストックの方にもある程度記録めいたものは残しておきたい。
 ・・・まあ、たまには論評以外に日常的なものを残しておかなければ、あとで振り返ったときにそのときの俺が何をやっていたかが分からない、という話だ。何を考えていたかは分かるのだが。ん、両立はぜいたくか?

 という前置きはほどほどに。
 前期の講義が当初思ったよりは楽しい。もう興味のある科目はたいてい取り終えていたので比較的消極的だったし5月はロクに学校に行かなかったのだが6月は休んでいるほうが少ないくらいだ、いやまあ当たり前か。
 専門の政治学科目で言えば国際関係、国際政治の科目がずらりと残っているので3つほどとっていて、あとはフェミの講義というこれまた未知の体験。レポートは無事完成するのか・・・待て、次回、的な。
 坪内先生の国際政治学も何回かもぐったところ教科書を追うわりには楽しくてとっておけばよかったなあ、と思っている。でも今は講義にでる以外の時間も必要なのでモグリにしてある意味正解だ。
 一番の当たりは伊東先生の比較政治学かな。オーソドックスな政治学を国際政治に適用したらどうなるか、という意味では今までの蓄積が生きるし、かつ学ぶことは新しいことも多くて面白い。pptがかなり体系的なので、ちょっとした教科書を買った気分でもある。

 それ以外はゼミと、立教大学新座キャンパスで1つ講義を登録したが案の定足が遠ざかっている。もう単位自体はいいから、行けるときは行こう精神に切り換える。予想はしていたが理論よりは経験と実践ベースのお話で、ただ自分にはその視点が薄いのだから学ぶことに不可分はないはず。
 あと木曜日に教育学部の複合文化の科目をふたつほどとっているのだが、このふたつが意外と相互関連を持っているようで面白い。堅苦しい政治や経済の話を考えなくていい時間というのも大事である。その分抽象度は高かったりするけど・・・。

 あとは6月も半分をすぎて今更かと言われそうだがやっとこさ生活のサイクルが進路的な意味でも軌道に乗っている・・・ような気がする。4月ごろにあった迷いはもうだいぶん失せたし、というかもう進むしかねーだろという前向きな開き直りもある、し。
 残された時間は多くないので、いちにちいちにちをたいせつに、と言ったところだろう。
 そして意外と人と会う時間も多分にあったりして財布が結構ピンチである。さすがに意図的に減らして勉強する時間を確保せねばならないが、定期的にはっとさせられるような出会いや言葉をもらえたりして、なかなかどうして意図的に減らせないのかが分かる気がする。
 とは言っても他人に甘えて自分が滅びたら元も子もない。つまりはそういうことだ。

 そして今やっていることと言っても基本的には
・本を読む
・考える
・英語

 の多大なる繰り返しだ。勉強チックなことをやっていて息切れしそうになったのは高校生以来だ。これも悪くない兆候だろうし、これからもっとガンガンやらなくてはならないのだが、息切れはまだしもぶっ倒れないことを祈っている。というか無理をしてそうしてしまえば意味がない。
 人よりも無理を出来ない体を抱えつつも、人よりはうまく人生を立ち回ってきた、つもりだ。東京に来たらどうしてもそういう経験的な事実を忘れてしまうくらい他人に圧倒されはするものも、まずは自分自身が積み重ねることだ。道はダイブ見えてきたのだから、その先に進めるように歩いていくだけである。考えすぎてはそれこそ身を滅ぼすよ、と。

 なつかしい感覚と、未来への視座を持って、さあ長い長いピクニックへと出かけよう。カバンにはスケッチブックを携えて。どこまでも続くのは、勝ち戦であらんことを。

今日の一曲:effe"Wondersketch"


 今回のボーマス16でもお会いして、幸運なことにお話する時間もあったeffeさんの曲。
 エレポップ系の曲が好きです、と言ったこともあって選曲した。けど、"silent city"のような静かな静かなアンビエントも大好きです、ほんとうに。続きを読む
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 「いま、ここに立つ」ということの意味をぐるぐると考え続けている。これは去年の秋口に就活なるものを始めてから少しずつ意識してきたことで、今はもっと強く意識している。
 ふたつのベクトルがある。過去に対してか、未来に対してだ。
 過去から考えて「いま、ここに立つ」意味とはなんなのか。就活では自己分析という言葉に象徴されるように、経験的な蓄積を棚卸しすることで、演繹的に自分とはなんなのかを考える行為であると思っている。帰納的に考えるのもアリだとは思うが、演繹的な解釈のほうが就活では相手にとって分かりやすいだろうし、しっくりくるだろう。「なぜ?」という質問の答えのひとつとしては、ふさわしいだろうからね。
 じゃあ、未来を見据えたときに「いま、ここに立つ」意味とはなんなのか。そもそも未来とは誰のための未来なのだろうか。自分にとって、自分の家族にとって、社会全体にとって・・・?
 
 過去を振り返ることによる経験的で演繹的な解釈はわりとスッキリしたものが得られるようになったと思う。あるいは、ラカトシュ流に言うならば自分という原理における堅い核がなんなのかが掴め始めた(*1)、というところだろう。
 自分はこのブログでもそうだしツイッターをフォローしている方は重々お気づきだと思うが、基本的に興味拡散型の人間である。そのときどきに面白いと思ったものを、歳を取るごとに増やしている。もちろん歳をとってから興味をなくすから総体がどんどんふくれあがっているわけではないが、時々自分でも手に負えなくなる。部屋の中やパソコンのハードディスクは余裕がないのがデフォである。まあ、このへんは最近「Where are you now」でも書いたのでそっちを読んでもらいたい。

 話は少しそれるが、最近フジテレビのノイタミナというアニメ枠(*2)で「あの日見た花の名前を、僕達はまだ知らない」(以下、あの花と表記する)というアニメを春からのクールでやっているのだが、これがなかなかに面白い。非常にベタな入り方をしつつ、見入ってしまう不思議さがある。じんたん(宿海仁太)、めんま(本間芽以子)というふたりの少年少女を基軸としつつ、あなる(安城鳴子)、つるこ(鶴見知利子)、ゆきあつ(松雪集)、ぽっぽ(久川鉄道)という6人の物語である。見てないので何とも言えないが「男女六人夏物語」とはこういうお話だったのだろうか。
 あの花には固有の、いくつかの特徴がある。まず、アニメとしては珍しく(特にここ最近はやりの空気系アニメと比べると分かりやすい)明確にグループ内の恋愛構造を前面に押し出していて、男女比も等しいということ。どちらかというとアニメというよりは90年代のトレンディドラマの得意とした文法だが、語られるネットスラングや若者言葉は、明確にゼロ年代のノスタルジアだ。セリフや言葉で言えば「シュタインズゲート」も近い意図を持ってはいるが、恋愛をここまで前面に押し出す少女漫画やエロゲーが原作でないアニメは久し振りに見たなあ、と思った。
 そして、主題歌が「secret base〜君がくれたもの〜」というZONEの曲のリメイクであるということ。今年は原曲の発売日から換算して、歌詞にある「10年後の8月」の10年後の時期にあたる。ちなみにZONEは期間限定で復活することにしたようだ。これはかつてファンだった自分としても非常にめでたい。これこそノスタルジアが現実になるということだろう。
 
 あの花のキャラクターは想い出の中の回想シーンにおいても、そして本筋である今を描くシーンにおいても、非常にリアルな行動様式を見せる。「あの花」という物語が始めからあるのではなく、彼らが生々しくも生き生きと動くことで物語を紡ごうとしている。たとえそれが小さな物語であっても、15,6歳の体で引き受けるにはあまりにも大きい。群像劇といってしまうのがはばかられるほどに。
 大きい理由は「めんま」というヒロインが死んでいるという設定があるからである。恋愛感情という今を刹那的に生きる生々しさを醸し出しながら、同時に常に隣にある死と向き合わねばならない。これは15,6歳の子どもが背負うものとしては大きすぎる。ふたつの間を行き来できるほど、誰もが器用なわけではないだろうし、まだまだ未成熟だろう。あなるは何度もじんたんに感情をぶちまける(*2)し、ゆきあつは変態的精神を開花させてしまうし、9話では「俺もびっくりした」と言うような行動をとる。彼らは自分自身にも既定されないし、めんまのみにも規定されていない。6人がそれぞれのことを相対化しているからこそ、思いのつかないような行動をとっているのだろう。
 だからこのアニメは物語を作る神なるものが不在であるように思う。制作者は「secret base」の歌詞ではないが、誰かがどこかで経験してきたような体験をベースにしつつ、視聴者の目の前で新しい体験を生み出し、それをアニメの消費という意味で共有化しようとしているにすぎない。

 だからZONEを知っている世代であるということも相まって、常に「あの花」の前にいる視聴者のひとりとして、自分で自分を問い直しているように思う。
 自分は自分の物語をこれから作っていけるだろうか。一緒に悩んだり笑ったりケンカしたりできる相手がいるだろうか。そして何より、自分はどの程度「生と死」と向き合っていくべきなのだろうか。
 こうした未来を前提とした今という刹那性、そしてかつ根源と最果てを見据える。つまり、過去、現在、未来が全てこのアニメには含まれているように思えてならないし、その描き方が非常に感情的で等身大なのだ。だから妙にリアルに感じるのだ(少なくとも俺は

 話を現実に戻す。「いま、ここに立つ」ということは過去を引き受け、今を見据え、未来を手にしようとするという、総合的な枠組みから見ることができたらベストだろう。むろん、そんなことをできるくらいなら始めから誰も苦労しない。特に将来の不確実性は満ち満ちているのだから、未来とは何ぞやである。
 「あの花」がつきつけようとするのは、過去・現在・未来の中で自分をとらえることの限界だろう。今のところ明確に表しているのはゆきあつとあなるかなあ、と思うが最新9話をみると主人公のじんたんも意識せざるをえなくなっているようだ。
 ただ、彼ら6人にはある目的がある。「めんまのために花火を打ち上げよう」という、不可能ではないけれど困難な目標だ。そして花火の打ち上げという行為は、「いま、ここから」始まってあてのない未来へと向かう行為への比喩にも思える。
 もうひとつ、あえて彼らは同じ目的を掲げて「今」を生きようとする。「いま、ここから」何かを始めること、過去を再定義して未来へと向かうこと。その際には何かを失うかもしれないし、誰かを傷つけるかもしれないが、前へ進む痛みを共有することで逆に前に進むエネルギーにもなっているのかもしれない。

 ここまで積極的な刹那主義とも言えるエネルギーを、愛することができるだろうか。
 就活もある意味非常に刹那主義の戦いだ。スタートがほぼ一定に設定され、ゴールへの道筋がいくらか示される。その先の未来よりもまず、「いま、ここから」始めることを積極的にも消極的にも強いられる。それ自体を俺は否定的にとらえるつもりはない。ただ、自分がそれを愛せなかっただけだ。
 愛することができたら楽だろうと思う。自他的に委ねてしまえばいい。誰かが決めてくれるというのは本当に楽だ。やるべきこともなんとなく分かっているのだから。

 3月で就活からいったん足を洗って(またもしかしたら復帰する可能性もあるので先のことはなんとも言えない)いて、自分なりの刹那主義をどうやって構築しようかとずっと悩んで考えていた。色んな人と会ったり、自分の過去を再定義したり、未来を構想したり。
 たぶん、いくらそうした作業を積み重ねても完全な設計などできるはずがない。自分自身が不完全だし、未来も不確実だから。ただ、そうしたインパーフェクトなものだからこそ、愛することはもしかしたらできるのかもしれない。足りないものを補うことの出来る何かを、見いだすことができるかもしれない。
 
 「いま、ここに立つ」という意味をずっと考えていて、社会の残酷さも頭の中ではなんとなく分かっていて、でも生きていかなきゃならないし生きていきたいという身体的な意志は失いたくない。
 ここ最近何度か口にする「サヴァイブしたい」という意志は過去の再定義で確認できたことである。意外と自己分析は悪くないじゃないか、とちょっと笑ってしまった。まあたぶん自己分析というワードが諸々のバイアスを受けてねじまげられてるんだろうけれど。
 中3のときの自分、高3のときの自分も悩んで悩んでそのときを生きていた。そうした記憶と経験にもいくぶんか支えられているし、周りにいてくれた何人かの旧友にも感謝している。ひとりでは無理無理、絶対。分かってはいたけれど、そこまで自分はタフじゃなかった。それを認めないとたぶん前には進めない。
 逆に、まだまだ自分は弱いからくじけないためにサヴァィブする、強くなるという気持ちを持ちたい。もちろん、強さこそが正義ではないと思うから、強くはない/なれない人への視野は失いたくない。昔の俺自身は本当に弱かったしね。希望のかけらは確保されてもいい。「ワイルドアームズ」はそういう物語だったし、今なるけみちこの音楽を聞き返すとまた実感が変わってくるだろうと思う。

 最後に、Seraphic Blueのep.34で上司であるハイディ姐さんが逃げまどうジュブナイルのフョードルくんにぶちまけるセリフを引用して締めくくりたい。
 ついったーに投げたら複数のfavとRTをもらってけっこうびっくりした。長いけどフリゲだからみんなプレーすればいいと思うよ!w

見ていれば、そんな事は分かるわよ。
追い立てられる事でしか歩く事の出来ない足。
己の道を騙ったかりそめの幻像。
自分の意志で歩いている様に見せ掛けて、
その実、レールの上を“歩かされている”だけ。
好い加減、そのレールを放棄して、
自分の道を踏み出して御覧なさい。
エリート意識と表裏一体に存在する、“劣等で在る事”への怖れ。
優等を目指して歩くのではなく、劣等から逃げ惑う行為。
そんな自らの影にレールを敷いて貰っていても、
生きているとは呼び難い。
恐らくは過程に旅情も無く、
薄暗く乾いた終着駅が待っているだけ。
改札の変わりに、嘆きと孤独の棺桶を用意して。
 


 興味深いのは、このあとハイディがフョードルに「あなたは恵まれている」と言っていることだ。
 それはなぜなのか、そしてこのあとふたりはどうなるか、はネタバレになるのでぜひプレーしていただきたい(逃げる


*******
今日の1曲
ZONE「secret base 〜君がくれたもの〜」(武道館Live ver.)

 今回はこの曲以外にあるまい。
 そして端的に言おう。MIYUが若すぎる。


*0 ちなみに「secret base」はあの花のEDの他に「今日の5の2」というアニメのEDにも声優が歌ったバージョンがあったり、ガールズバンドであるSCANDALがZONEをリスペクトしてカバーしたバージョンもある。せっかく今年は歌詞通り10年後なので、それぞれ聞き分けて見るのも面白いかもしれない。youtubeで検索すると複数ひっかかってくるはずである。

*1 「Where are you now」で書いたふたつめの立ち位置の難しさ、に対するひとつの回答が自分の中で出そろってきた気がしている。それについて書く機会があるかどうかは分からないが、この前人とあって話をするときにすんなり整理して話すことができたので、たぶんそう間違ってはないだろうと思う。もちろん、「ひとつ」の回答に過ぎないけどね。あえて相対化させる。

*2 ノイタミナという聞き慣れない語だが、noitaminaと表記すると・・・ということである。ここ何年かだと「ハチミツとクローバー」「図書館戦争」「東のエデン」が代表的なアニメ。

*3 後ろから抱きついて涙した8話がひとつの山だったかな、と思う。そこまでしてもなお振り返らないじんたんを目の前に、あなるは立ちつくすしかなかった。こうした山の作り方もドラマらしいなあ、と思った。CM前の入りとか、次回への続くシーンの切れ方とかね。
 

 
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■ In Memorial Fictionalization
[woman side:01]

 何年前だったかなーと、指を折って数えてみる。ひい、ふう、みい・・・ああもうあと何年かで10年経っちゃうんだ。早いような、長かったような。当たり前だけど、色んな事があったなあ。あのときはこんなに早く結婚すると思ってなかったよ。
 人生ってよく分からない。けど、結婚生活を始めて見ると意外と違和感なくやれていると思うし(まだこどもがいないからかもしれないけれど)同じ屋根の下に誰かがいてくれる、という安心感や嬉しさは楽しい。ずっと一緒にいると嫌なこともあるしたまに居心地が悪くなったりするけれど、まあそういうものなんだろうな、という程度に考えることにしている。
 付き合っていた頃とちがって別れるのが手続き的にめんどうだから、っていう思いもあるし、今はまだ一緒にいることへの幸福感が大きいから。

 今も昔も、わたしはずっと朝がニガテだった。早起きができないわけじゃないんだけれど、目覚めるまでにすごく時間がかかるし、どれだけ寝ても目覚めの気分がすぐれているときはほとんどない。
 ふらふらとベッドから起き上がって、着替えたり、鏡の前に立ったり、そういう誰もがやっているような行動をとるのも一苦労。うーんうーん、とぜんぜん働いていない頭をぐるぐるさせながら起き上がるだけのワンシーンも、体を動かす前の準備運動のように感じる。
 だから毎朝寝起きすぐにスポーツをしているみたい。「あさのしたく」という、個人競技。何も考えないときもあるし、よそゆきの予定がある日は丁寧に準備をしなきゃいけない。戦う相手がいるようないないような、よく分からないスポーツを毎日のように繰り返してきた。


 「さすがにもう慣れたやろ」と言うかもね、あなたは。
 でもね、慣れてもたいへんなのはたいへんなんだよ。わたしの感覚や気持ちを分かって欲しい、と懇願するつもりはないよ。でも、たとえばマラソン選手が毎日何十キロも走る練習をしたり、遠距離から通勤で1時間以上ぎゅうぎゅう詰めの電車に揺られることが、毎日繰り返されても慣れてしまうとは思わない。いや、慣れる人もいるかもしれないけれど、スポーツ選手なら好きでやっている部分もあるかもしれないけれど、費やすエネルギーが減るわけじゃない。
 いつものように毎日同じエネルギーを使い続けることがどれだけ楽じゃないか。たいへんというのは言い過ぎたかもしれないけれど、楽ではないよ、ぜんぜん。

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 今思えばあのときのあなたに知って欲しかったなあ。わたしが毎朝一生懸命だったこと。
 
 今更だし何の意味もないと思うけど、こういうわたしのことをどう思うのか、率直な言葉が欲しかった。あなたの得意な理詰めの言葉じゃなくて、内面からまっすぐ出てくるような言葉が。
 いま一緒に住んでいる人は、わたしにあたたかい言葉をかけてくれるとか、きつくしかってくれるっていう人ではない。だけど、いつも自分の言葉で話してくれる人です。
 もちろんたまにはウソをついているかもしれないけど、優しいウソなら多少ならだまされてもいい。もっとも、長いこと一緒に住んでいたらウソとホントの見分けがつくかもしれないけどね。

 わたしがもうあなたと会わなくなって何年も経ってる。学校の同級生とかだったらどこかで会う機会もあるかもしれないけど、わたしたちはたまたま同じ季節を同じ場所で過ごしただけの関係だった。
 でも、覚えてるよ。自分に自信があるように見えて意外と脆いところとか、隣で歩いていてもどこか遠くを見ている風な表情とか。あと、もっと気を抜いて喋ればいいのに変なところで力んでしまうから、ちょっとおかしくて心の中で何回か笑ってしまったこともある。
 あの季節やあの場所はちょっとだけ特別だったから、どう分類していいか分からないまま記憶に残り続けている。本当にあれっきりだったから、残っていること自体が不思議だとも思う。
 
 少なくとも、いまのうちはね。
 いつか、もっと夢中になれるような大切な出来事があったら薄れていってしまう。
 その繰り返しが、記憶するということ、だから。
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■ In Memorial Fictionalization
[man side:01]

 ありがとうより「さようなら」を覚えているし、こんにちはより「ごめんなさい」を覚えている。

 なんでだろうなあ、と思い理由を考えてみることにした。たぶんありがとうやこんにちはは社交辞令のようなものでもあるし、使い慣れすぎていて一つ一つをちゃんと思い出せない。誰に言ったかはなんとなく覚えていても、どういうとき、どういう文脈だったかは、覚えているほうがすごいと思う。そういう人も世の中にはいるのかもしれないけれど。
 「さようなら」も「ごめんなさい」も、きみに関して覚えているのはもう一つ理由がある。きみと会話したことはほとんど忘れてしまったけど、どこで会ってどこで会話をしたかは今でもよく覚えている。当時よく歩いた大通りと、海の見える埠頭。さすがに海が近いから少し風が強くて、遠くにはタンカーが何隻も浮かんでいる。
 少し長いきみの髪が波風に揺れている様子を見るのが好きだった。黒髪と、夕日のオレンジの対比は本当にきれいだった。

 初めて話をするようになったきっかけも覚えていない。でも、鮮やかな景色やそのとき綺麗だったものは覚えている。
 それはきっと、きみがいたからだろう。きみがいなければ、景色はただの景色で、いつ見てもほとんど変わりなどなくて、ただそこに当たり前のようにあるからにすぎない。
 きみがいる、ということが今はもちろんだけど、あのときも当たり前じゃなかった。よく考えればトータルでも会った回数なんて両手でがんばって数えられる回数くらいしかないような気もする。

 そもそも、いったい、なんだったんだろうね。もちろん、深い意味はないと言ってしまうことはできるだろうけれど。無理矢理思い出して意味づけしようとする自分のほうがどうかしているのかもしれないけれど。
 もうあの日々からは年月も場所もだいぶ遠ざかっているし、当たり前だけどいつも考えているわけじゃない。それでもただ、なぜか忘れない景色と、なぜか忘れない黒髪を、きみの横顔を。いまも思うことができる。

 感傷とはこういうことだろうか。ひとりよがりなだけだろうか。
 ふとしたことで思い出したくなって、薄れそうになっていく記憶をとりもどそうとする。頭よりずいぶん上に置かれていてどう考えても届かない距離だけれど、気になっているから手を伸ばす子どものように。
 ああそうか、まだ自分は、子どもごころが捨てられてないんだ。まだまだ全然、大人になりきれてないんだ。

 今過ごしているのはこういう日々だ。やるせなくても、過剰に過去をなつかしく思うときがあっても、なんだかんだ大人の日々を生きてるよ。意外と人間は順応するものだ。もう自分のことなんて忘れているだろうけれど。

 きみも穏やかな日々を過ごしていることを、遠くから願っている。
 
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 なんとなく文章を殴り書きしたいなーと思って始めて見た。
 いちおうシリーズ化したいけど不定期だし最悪今回で終わるかも(woman sideは大体書いたので近々更新します)だけど、「架空の思い出話」を「届かない往復書簡」という形にしたいと思っている。
 2人のことは書き手である俺だけが知っている、的な。どこかで聞いた話や自分の経験や、それとまったくの架空の設定などなどを合わせてフィクショナライズしていく試み。
 自分の中でもやもやしているものをただはき出すだけでなく、深呼吸するような感覚。一歩引いて、少しだけ長い文章を。
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