Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

2011年04月

 「自分と他人」という意味では少し前の記事の続きのようになるかもしれない。
 「変化」とは何なのだろうか、ということについて書いてみたい。
 変わること、変わったと言われること。逆に、変わってないね、と言われたりとか変わらないなあと思うこと。自分と他人との違い、もしくは言葉を与えられることにより感じる感覚の違い、うんぬん。

 変化とは3種類あると思っている。つまり、
・変化/change/alter
・深化/profound/progress
・進化/evolution

 と、こんなところだろう。日本語的もしくは英語的に正しい使い方なのかは(ry
 もっとも一般的な「変化」のとらえかたが一番難しいと思う。ただ、変化した本人は自覚的であることが多いのではないだろうか。たとえば環境の変化による自身の変化(高校デビューとか大学デビューとか)や時間の経過による自身の身なりの変化(老化とも言うかもしれない)であったり。
 英語で書くチェンジのほうが分かりやすいかもしれない。あの歴史的な大統領選でオバマが連呼したように、前と後とに比べたときに誰にとっても分かりやすいように変わりたい。単純に言えば、前のブッシュのような路線や共和党の路線なんかクソ食らえ、的なである。(*1)

 次に深化と進化について、またこの違いについての雑感を書いてみよう。ただあまりうまく説明出来る気はしないが。
 深化も進化も共通しているのは、本質は失われてないということだ。チェンジのように、根こそぎ変わってしまうのではなく、人によっては変わったと思われるだろうし、別の人には変わってないね、と言われるように思う。
 深化は今まで根ざしてきたものを文字通り深めた形、進化とは別の次元へ行ってしまったような形。自分の中ではこういう認識を持っている。時間軸で言えば、前者のほうが比較的短期で、後者のほうが長期的なのではないかと思っている。

 進化は端的に「化けた」と人に思わせるかどうかである。だから時間がかかる。時間をかけても必ず進化できるわけではないが、一つずつ積み重ねれば深化することはできるかもしれない。
 たとえば大学のゼミを1年通じて真面目に取り組めば大体の人は深化することができるだろう。でもたった1年で化けることは簡単じゃない。探せばいるだろうが、血のにじむような努力をするか、抜群のセンスがあるかのいずれかだろう。

 こんなことを、フィギュアスケート世界選手権の女子を見ながら考えていた。特に安藤美姫とキム・ヨナについて。安藤は2004年くらいから、ヨナは2006年ごろからずっと見続けているので、もうかれこれふたりとも5年以上は画面を通じて演技を見ていることになる。インタビューの際にヨナの英語がどんどん達者になるのでびっくりである。
 安藤はここ1,2年で一気に化けたと思っている。単純に上手くなったとは思わせないような、少女の演技から大人の演技になっている。浅田やキム・ヨナが若いとはいえ、安藤もまだ23歳である。それこそ5年ほど前ならば彼女の年齢のスケーターでもまだまだ表彰台には遠かったかもしれない。
 安藤が化けたと感じる理由のひとつは圧倒的な安定感だ。2年ほど前までは頑張って滑りきろうとしているように見えた。ジャンプもうまいのだが、ぎこちなさがあった。
 今の彼女の演技を見ていても、ぎこちなさは感じない。特にフリーでは勢いと迫力のある演技をしつつも体に過剰に力が入っていないように見えた。ここもかつての彼女が克服できなかったところだろうと思う。
 今回に関しては最初のジャンプで3-2で固定したことが総じて良かったのかもしれない。キム・ヨナだけでなくアリッサ・シズニーや村上佳菜子という年下の選手も3-3を試みる中で総合力で勝負し、かつポイントもついてきたというのは彼女の実力が文字通り化けたからではないかと思っている。
 SPでしっとりと、FSではスペクタクルを。こういう演技の使い分けができるようになったのも(それもナチュラルに)大きな進化である。

 キム・ヨナに関しては確かに深化はしていると思う。
 数字だけを見るならば得点のインフレがあったオリンピックとは比べられない(もっと言えばレギュレーションも変わっているし)が1年のブランクを感じさせないことが彼女でも困難であることがよく分かった。
 ミスがあってもポイントを落とさずには済んだが逆に伸ばすことは難しかった。安藤美姫とのほんの僅差のズレが、1年分のズレなのかもしれない。
 今季GPファイナル以外は全勝という安藤美姫を改めて讃えるべきだろう。フリーに限って言えば全ての試合でトップである。そしておつかれさま、と。

 今大会で今後に期待したいと思うのはアメリカのアリッサ・シズニーとロシアのクセニヤ・マカロワというふたりの18歳である。
 シズニーはレイチェル・フラットを下して世界選手権に出てきているだけあって、年齢に違わずかなりの実力があると感じた。ジャンプも綺麗でうまい。コストナー以来の実力のある逆回転スケーターだなあと思いながら、かつキスアンドクライでは若さも感じながら見ている。
 マカロワはが細く機敏な演技がすごくきれいで(顔もさすがのロシア美女)びっくりして、同じロシアのイリーナ・エレノワにはない魅力を感じた。演技の安定感も18歳にしてはあるなあという印象だしキム・ヨナ以上にスピード感があるし、これからキャリアをさらに重ねれば化ける可能性があるんじゃないかと安藤美姫の今の成長ぶりを見ていると感じる。
 
 そして27日に高校時代のクラスメイトふたりと再会したときも同じようなことを考えながら話をしていた。
 しばらく会わないと変わるなーと思いつつ(うち1人は2年半ぶりだった。アドレス交換すらしていなかった)話をしていると変わってないなーと思う部分もたくさんあって、みんな何らかの形で深化しているな、と感じた。
 良くも悪くも大人になるということはそういうことかもしれない。大人になっても全く変わってないと色々とたいへんだしね。
 ただ、その中でも久し振りにあった相手に変わってない、と思わせることもひとつの能力かもしれない。肯定的な意味で、だけどね。27日は色々びっくりしたし、素直に楽しかった。

 さて、と。またしばらく会わないうちに今度は進化しているかもしれないと思うと楽しみでもあり、自分に対しての励みにもなる。俺も頑張ろう、と思える。
 逆にそう考えると本当にひとりではたいへんだよな、マジで。リア充になるつもりはないしなれそうにもないが(←


*今日のセレクション

 チェンジと聞いて思いついたのはこれ。アニメ「図書館戦争」のEDでもありました。
 このアニメは大学1年の春にやっていたので、もう結構前のことのように感じる。いくばくかのチェンジはあったわね、さすがに。

  
 進化と聞いてぱっと最初に思い浮かぶのが浜崎あゆみのこの曲だったりする。もう10年前か。この間に俺は進化しているんだろうか。
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 もうすぐ4月も終わります。早すぎです。3月より終わるの早いだろうと素直に思う。今月中に『数学ガール ゲーデルの不完全性定理』が終わるかが不安だ。あと一息なのに。いや、真渕勝『行政学』もとりあえず通読しておきたいんだが。
 とかなんとか、ロスタイムとしての4月を何して過ごそうかと考えていて、考えついて色々やっていたら時間がもう過ぎていた、的な。これからもっと時間の体感スピードが速いのかも知れないと思うとgkbrするが、ちゃんと刻んでいきたいな、とも思っている。短いようで長いレースであるからこそ、しっかりと。
 今年で大学生活が最後であるということを、ある書類を書いていて実感した。あと、友人知人にぽつぽつ内定が出ているので実感せざるをえないしね。

 彼らがほんの少し先の未来を確定させていくなかで、自分はもがき続けるということ。
 若干こうしたどうしようもないような、途方もないような現実を選択したことと、他方で自分自身のタフさがかつてほどないことを知っているからうわーん、と言いたい気持ちもあった。
 就活やってたときも思ったより周りを意識してしまっててんてこまいになっている自分がいた。早稲田という大学の名前を過剰に意識させられるが、本当に俺は早稲田の名を背負ってていいんかよ、とは度々考えたし。こんなん新入生のとき以来だわさ。
 ただ、すごく単純に言えば今までも周りの人と違う選択を積極的にやってきたし、その選択がめぐりめぐって今に繋がっているのだから、現実を受け入れて前に進めばいい。たぶん、そう思うことからしか始まらない気がしている。
 あと、常に叩き上げの人生なのであまり良くない状況からでもなんとか結果を出しに行く、ことには慣れている。結果を出せるかどうかはまた別なのだが、今いる環境はめちゃくちゃ悪いものでもないのだから自分自身の不足分をいかに補って強くしていくかだろう。
 全ては未来のために。とか言えばカッコイイんですかね。まあ、つまりはそういうことだ。

 あとこれは春休みに入ってからなのだが、普段会わない人と会う機会が格段に増えた。途中から就活から完全に離脱したので可処分時間は増えたし。まあ間に3.11があったし体調崩したりはしたのだが。
 なんとなく実感したのは、こんなときに人と会ってる場合じゃねえというときほど誰かと会って話をしたほうがいいんじゃないかということ。
 結局、自分だけの力はあまりにも乏しい。だから味方になってくれる人がいるならラッキーだし、そうでなくても一緒に前を向ける関係でもいい。
 陸上部だったころもそうだったが、個人でもできることをみんなでやるということに価値があったので集まって毎日走り込んでいたわけである。誰かがいるということ、そして誰か「と」いるということ。おそらくその両方があって自分を再定義することもできるし、気づかなかった部分に気づけたりもする。

 春休みの出会いで面白かったのは「初めまして」と「○年ぶり」がけっこう目立ったことである。
 初めましての人からは新しい刺激を当然のように受けたし、○年ぶりの人とはどこが変わっていてどこが変わってないのか、そして今や未来をどう生きるのかとかそんな話をした。話をするということ以外、コミュニケーションの様式は全然違うんだが、だからこそ片面だけでなくて楽しかったし、色んな事を考えた気がする。
 そう、勉強的な意味でも確かに考えたことはいっぱいあったし、3.11後は特に思考回路はぐるぐるだったが、とは言っても日常を生きる中で他愛もないことやしょうもないことを考える時間が膨大だったことは否めないとしても、そんな思考からしか生まれないものもある(という若干の言い訳
 対面で人と会ったとしても、大半は他愛もない会話である。それこそ色事とかね。でもそういうところに人の本性やパーソナリティの本質が見えるんだなーということも気づいたし、特に何回も会ったことのある人の場合はなるほどあなたらしい、とか思ったりするからね。

 そしてこれは就活をやっていて言われた言葉だが、結局人に出来ることは限られているし、どうやってあなたらしさを発揮するか、でしかないのかもしれない。
 客観的に見たときに、ある人がその仕事をしているということに納得されるような。人格や嗜好(もしくは志向)を知っている誰かには行為だけで説得力を持たれるような、そんな未来をさ。
 掴めたら素晴らしいよね、と思った春休み。

 原発はきっと簡単にはなくならないし世界(というか社会か)なんてコンチクショーなのかもしれないが、自分が納得の度合いを高めながら生きていくことであったり、自分がいて欲しいと願う誰かが生きているという事実を楽しみながら、生きていけたらいいよねと思っている。
 そしてまた何年後か先に再会したときには笑いながら話がしたい。まあ、当然歳をとっていくと笑える話だけではないだろうが、そんなことは当然分かっている上での、希望的観測。
 毎日がエブリデイ的なリア充的な日々は別に切望してないから、ほんのささやかな貴重な時間は残されてるといいな、と思っているよ。そのためになら、たとえ未来がめんどうくさくてややこしい現実だって生きていけるはずだからね。

*今日の一曲/松たか子「明日、春が来たら」
映像は歌手デビュー10周年時の97-07バージョン。
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災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか
災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか


■1.読み始めたきっかけとか
 地震が起きる前に読み始めた『災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』を3月15日に読了した。最近話題になっていて4刷も決まったという話を聞いて、多くの人に読まれるということは興味深いし、いい傾向だと思う。
 ネット上の知り合いに「バーニングさん、って地震前から読んでましたよね。預言者ですか?」と半ば冗談めかしく言われたがそんなことはなく、読み始めた伏線は色々あった、ということがまず一つ。
 具体的に言えば1年間のゼミの中で災害とボランティアのことや、災害とコミュニティということを指導教員が何度も話題に出していたので(ゼミの中で大きく扱うことはなかったものも)気になっていた。
 あとは、1月に阪神大震災から16年が経過し、そのことを映画化した「その街のこども」(感想を書くつもりが遅れている。どこかで改めて書きたい)を見たという経験が大きい。

 想定外という文面が3.11以降散見されたが、結局のところ日本は台風や地震、津波といった自然災害から不可避なのだということが改めて確認できた、ということにすぎない。今まで何千年も起こってきたことだし、この先何千年も経験することだろう。
 だからこの機会に、大学3年生のしめくくりとして読んでおきたい、と思った。しかも海外の人が書いた文章というのは日本だけをテーマにしていない、という意味でも興味深かったし、読み物として単純に面白そうだ、と思ったのも動機のひとつ。

 とはいえ、だ。もっとダイレクトなきっかけは柄谷行人の書評である。言うなれば、彼こそが預言者だろう→http://book.asahi.com/review/TKY201102080172.html
 本書にはそれこそ今後私たちがどうすべきか、グラウンドゼロから遠いところにいる人が被災地のことをどう見守れば良いのかについて示唆的(あくまで示唆、であることがポイントかな)なことがいくつも書かれている。


■2.本書の内容と着目点
一時的に見いだされる「災害ユートピア」を永続化するにはどうすればよいか、という問題は残る。しかし、先ず、人間性についての通念を見直すことが大切である


 先ほど挙げた書評を、この一文で柄谷行人は締めている。今回も地震直後に人間性を疑うようなデマが多発したが、そうした観念の修正は難しい。
 この本にある事例では1906年のサンフランシスコ地震と2005年のニューオーリンズのハリケーンカトリーナ被害が象徴的で、権力を持つものの「思いこみ」によって無節操な秩序維持が行われた。秩序維持という文脈でなんでもない人が何人も亡くなったという。

 確かに一部では火事場泥棒のような犯罪行為はあっただろう。ただ、ニューオーリンズでは地元のギャングが高齢者や女性を警護し、また略奪行為によって必要な物資や薬品を送り届けた(行為は必ずしも正当化できないが)という。
 「災害ユートピア」とは以前も記事に書いたが市民レベルで巻き起こった利他的で非排他的な交流であり、本書では「地獄の中のパラダイス」とも表現されている。その市民の中にギャングが含まれていることも象徴的であるが、違和感という言葉は通用しない。現場ではそれが最もナチュラルだったのだろう。

 たとえば
「危機的な状況が続く中で、人々は互いを愛していた」(第1章,p94)という言葉も印象的だ。
 岩手や、宮城の沿岸部。それに停電が続く福島や茨城といった地域は仙台より事態はもっと深刻だろう(*1)。テレビで映像を見るだけで想像を絶する。ただ、すでにネット上で多くのムーブメントが立ち上がっていて、2005年のニューオーリンズでもボランティアがネット経由で多く駆けつけたという。
 東京で似たような現象があったが、ハリケーンで家をなくした人々のために20万人の人が自宅に迎え入れたいと申し出た(p381)現象や、「数年間にわたり、延べ数千人の大学生が春休みを利用して(中略)再建を手伝った」(p393)ようだ。おそらく95年以降の神戸でも同じ現象はあっただろう。
 こうした膨大な事例について筆者は「何が可能であるかを、いや、もっと正確に言えば、何が潜在してるかを明白に示してくれている。それは、わたしたちのまわりの人々の立ち直りの速さや気前の良さ、そして別の種類の社会を即席に作る能力だ」(p428)

 「第二に、人々と繋がりたい、何かに参加したい、人々の役に立ち、目的のために邁進したいというわたしたちの欲求がいかに深いものであるかを見せつけてくれる」と述べる。これこそが愛である、とも筆者は述べる。
 さらに従来の社会ではこうした現象は埋没してしまうこと(冬眠という表現が言い得て妙だ)にも触れ、「災害は、世の中がどんな風に変われるかを浮き彫りにする。相互扶助がもともとわたしたちの中にある主義であり、市民社会が舞台の袖で出番を待つ何かであることを教えてくれる」と述べる(p439)
 「世の中はそういったものを土台に築ける」と触れ、前述した”地獄の中のパラダイス”は、「わたしたちが何ものになれるかを教えてくれる」と述べ、「わたしたちがすべきことは、門扉の向こうに見える可能性を認知し、それらを日々の領域に引き込むよう努力することである」と、本書を締めている。

■3.非日常で得た経験を日常へ生かせるのか
 最後に関しては今までとこれからの社会のありかたについて書いているのは興味深いが、少し抽象的で詳細な分析とは言えないしし、それこそ地震を実際に体験した私たちが「今、何が出来るか」については触れていないに等しい。
 ただ、これからの長い道のりを考えた上で参考になる部分は多いし、可能な限り参考にしていくべきだろう。
 自分自身の問題意識に繋げて言うならば、日本はこれから人口減少社会に入るし、地方では過疎がより深刻になるだろう。いずれ自分たちでどうにかするしかない、という局面が訪れても不思議ではない。
 もちろん回避できるならそのほうが幸福かもしれないが、明るい視点を描くより一方でネガティブなことをどうやって持続的な社会設計に織り込んでいくか、ということのほうが現実的に思える。両輪が必要だ。

 3.11の復興に目を向けても同じようなことが言えるんじゃないか。政府や東電による補償や政策展開はこれからなされていくだろうが、一方で政府不信も根深いし東電は信用されてないに等しい。たとえ東電だけが悪ではないにせよ、一度焼き付いた意識は根深いだろうから。
 東北地方は経済的に豊かではないが、愛郷心は豊富な地域だろう。それらを元にソルニットのいうような「土台」を築くことは不可能ではないはずだ。
 特に国や各県の努力により、街並みや施設の復興は時間がかかったらなんとかなるだろう。それと呼応して雇用も回復されるかもしれない。ただ、人々の生活が本当に回復するだろうか?衝撃的な光景や亡くなった人たちを前にして傷ついた心、それに伴うトラウマや残っていく記憶、肉体的にも精神的にも膨大な疲労感。
 これらは見えないし、人によって抱えているものは違う。「復興」という言葉は物理的な意味では可能だが、精神的な意味では終わりのないことだ(*2)

 前述したように、これからどうすべきか、について具体的なことは書かれておらずエピローグにおける希望的な文章も、概念的な記述でしかない。さらに言えば、本書の内容は災害時における一つの側面でもあり、違った側面から見ることも可能だろう(*3)
 ただ、実際行動するにあたって指針を立てたり、政策を考えるときに、支えるべき、助けるべき人たちの人間性や情感に触れるという視点もあっていいのではないか、とは感じた。それは復興という言葉が示すものが現実をとらえきれない言葉であることや、人々が本当に生活や日常を取り戻していくためには、多かれ少なかれ彼らに寄り添うことも必要になってくるだろう。

 さらに、ユートピアという言葉が使われるのも、災害が非日常空間であるからだろう。少しずつではあるが仮設住宅の建設が進んでいたり、政府や東電の支援策が徐々に明らかになってくるというニュースを聞くと、今後日常へシフトしていくフェーズが進んでいくのだろうなと思う。
 だからこそ、これはソルニットの主張でもあるが、ユートピアで学んだこと、実際に築いたものを、どうやれば日常の風景に少しでも生かすことができるのか。その答えについては具体的ではないが、だからこそ考えていくべきなのだろうな、ということは感じた。
 それはパットナムのソーシャルキャピタル論や、コミュニティ行政という文脈で考えることもできるだろうし、また全然別の視点から考えることもできる。今はこうした潮流があるということも本書の最後に触れていて(p429)日常に置き換えて考えるなら、被災地支援だけに留まらず、自分たちの生活や日常をどうやって組み立てるか、にも繋がる。
 その意味でも、本作はもっと読まれて欲しいと思う。あとはこれもさっき書いたけど、日本において災害は常に他人事でもなんでもないという、歴史的な事実をもう一回認識するためにもね。

*0 本稿は3月15日に自分がTwitter上で投稿した一連のツイートを再編集する形で書いた。

*1 一方で、そして既に被災地の1つである仙台ではソルニットが本作で書いているように、人々の利他精神が行為として体現されているようだ→仙台のやさしさに触れた3日間

*2 NHK大阪が2009年に作成した「未来は今 10years old,14 years after」というドラマ風ドキュメンタリーがあって、実際に95年に被災した俳優の森山未來が主演兼ナレーションをつとめている。番組の中で「何が復興なんか分からん」という言葉は本当にその通りなのだろうな、ということを番組を通じて、また今回3.11後の様々な報道を通じて実感した。言葉にしないということは無理だが、複雑な感情を反映するにはあまりにも短すぎる2文字だろう、とは思う。
 ちなみにこのドキュメンタリーの1年後に「その街のこども」がドラマとして作成され、そのまた1年後の今年に映画として公開されている。これもまたNHKが預言したことではないだろうが、16年間が1本の筋をたどっているような気もした。実際現場レベルでは阪神のときの経験が今回に生きていることも多いだろうからね。

*3 たとえば荻上チキはTBSラジオdig(2011年4月21日放送)で本書に書かれてあるユートピア概念や「エリート・パニック」と呼ばれる現象について、コミュニティの儚さ(持続不可能性)やコミュニティが持つプラスの面である「協調性」とマイナスの面である「排除性」について着目することの必要性を語るし、かつ内容の検証の必要性も語っている。参考までにポッドキャストを(一週間限定のよう)→http://podcast.tbsradio.jp/dig/files/ogiue20110421.mp3
 
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 面白いネタがあったので、主にテレビと報道に関して小文を書いてみたい。
 今回使うネタは朝日新聞GLOBEという日曜版の冊子があるのだが(前年度までは隔週の月曜だったが)4月17日付けのGLOBEで朝日新聞論説委員であり、かつ報道ステーションの元解説者である一色清(@isshikikiyoshi)が自己回顧のような形でちょっとした文章を載せている。

■記事の内容
 記事のタイトルはテレビが伝えた震災。現実と影響力の狭間で
 2年以上コメントをテレビで発信し続けた中で、最後の3週間が「本当の意味でテレビの役割や特性について考えさせられた」というリードにある一文が印象的である。
 記事の真ん中には一日の過ごし方として、朝日新聞社とテレビ朝日の両方で仕事をする中でどのような生活リズムで、何をし、何を考えてきたかが垣間見えて、テレビで目の当たりにする以外の膨大な時間の過ごし方が覗くこともできる。

 とまあ記事の全体はそんなところ。ネットで読めるかと思ったがさすがにまだ読めないようなので、内容も簡単に要約してみたい。
 まず一色が強調しているのはテレビが「情」のメディアであるということだ。一瞬で全てを覆い尽くす津波の映像のインパクトの大きさにしろ、解説者として発する言葉や衣装の選択まで、思考に至る前に視覚に訴える情報がかなり大きい。
 だからいくら「理」をつめて落ち着いた解説をしようと思っても視聴者は必ずしもそう受け取るとは限らない。彼らは文章を読むのではなく、あくまで言葉を聞く存在であるので、「活字と違い瞬間で消えてしまうテレビの言葉は、発する側の意図が正確に伝わるとは限らない」のである。

 もうひとつ、「空気を意識しないといけないメディアである」とも強調する。震災翌日のある女性キャスターの衣装が批判されたことを例にとりつつ、「たかが服装されど服装」であることが分かったと述べる。
 さらに、情を大事にし、空気を大事にするテレビの「瞬発力」が災害時のような特別番組編成のときはキャスターの能力が番組の力を決定すると述べる。映像や一次情報がない中で伝えるということの難しさを、3.11の4日後に静岡で起きた震度6の余震の際(番組放送中のできごとだった)に改めて感じたという。

 こうした特性を持ったテレビにしかできない力は何か。映像の圧倒的強さはインターネットにとって変わるかもしれないと述べた上で、「映像と組み合わさった解説力」が今後将来も変わらないテレビの強みであると主張する。
 例として東京電力の震災後の会見を持ち出した上で、「わかりやすい言葉で語るのは東京電力の仕事だろうか、それはテレビを含むメディアの仕事なのではないか」と結論づける。
 こうした物言いは天に唾する、と述べた上で「テレビ報道はそこに挑戦し続けるしかない」と述べて、全体を締めくくっている。

■記事の意図
 物を書くことを生業としてきた人間がテレビに出続ける上で感じた苦悩と、特性について述べる。
 静かな筆致であるが、いくつもの苦悩が垣間見えるし、テレビ報道への疑問を述べているという印象も少なくない。たとえばテレビ特有の決まり事の多さが、必ずしも正確な情報発信に結びついているのかどうか、という疑問が。
 
 この記事を書いた意図については、17日当日の一色清のツイートに短くまとまっている。

 引用すると
自分や自分が属していた組織のことを書くのは難しいのですが、テレビの力と悩みを紹介する意味はなくもないと思い、書きました。


 記事を書く「難しさ」と離れた目線でテレビを考察する。
 最近はあまり報道ステーションを以前ほど定期的に見ておらず、番組改編で一色清が外れたこともツイッターで知ったくらいなのだが、記事を読んでいて非常に興味深かった。

■記事を読んでの考察
 関連企業でもあるテレビ朝日での経験について朝日新聞で文章を書くということ自体は立場上容易ではあろうが、本心を書きこむことは逆に困難であっただろう。
 だからこそ現場にいた人間の、しかも元いた組織に対する文章は貴重であると思う。そこがまず一点。

 さらに個人的に興味深いと思うのは、本来書き仕事が主だった一色清がテレビという言葉で直接語る、という別な環境に入り込んだということである。
 この記事を読んでいて思ったのは、2年以上解説者としてスポーツ解説の時代からテレビで言葉を操ることが生業になっている古舘伊知郎の横に座り続けながら、言葉を扱うことに対して一色が非常に慎重になっていたことが伺える。
 前任の解説者である加藤千洋との違いを指摘するなら(あくまで自分の印象であるが)、加藤が時折自分の言葉で喋ろうとするのに対し、一色はあくまで言葉を選びながら発していた、というところが特徴として挙げられる。
 言葉を慎重に選ぶということはどちらかと言えば物書きの仕事であり、多少感情的になっても許されるのがテレビの仕事だろうと思う。
 ただ、最近ではむしろ自分の言葉で喋りすぎるがゆえに価値を落としている(*1)なかで、一色清が前のめりになって言葉を発する瞬間というのは見たことがない。隣にいるのがあの古舘伊知郎であるがゆえに、対照的であると言っていい。
 独特の空気感の中で「情」を大事にするテレビでありながら、最後まで冷静に立ち位置を崩さずに言葉を発し続ける解説者(もしくはコメンテーター)・・・それはすなわちテレビ的ではないとも言えるが、情の男古舘伊知郎と対比させる上でも絶妙な配置だったのではないかと思えてならない。

 記事の終わりのほうで「起こったことを映像付きで的確に解説することこそテレビにしかできなくて、テレビの力が最も発揮される瞬間場面ではないか」と述べているが、いったいどれだけの解説者なりコメンテーターが的確に解説することができているだろうか、と思う。
 例外は日経新聞系列でもあるテレビ東京でゲストとして登場する人たちだ。彼らはいずれも経済のプロであり(資質はともかく)プロとしての冷静さと熱さを兼ね備えていることが多い。批判的に言葉を聞く態度は重要だが、民放他局に比べると信頼に足る人選であろう。
 ただ、それ以外の民放はそもそも期待してない、というのが現状というかもう何年も思っていたことである。テレ東系列を受信できる環境にある人は全国的にはマイノリティなので、信頼に足る情報を得ようとすればNHKを選択するほかない。
 実際に震災が起きああとNHKが最も信頼された、というのもそりゃそうだろうと思う。いくら本気の番組作りをしようとしたところで、平時の放送でできてないことや信頼されてないことができるはずがない

 それでもテレビは存在し続けるだろうし、マスにとっては存在し続けなくてはならないだろう。
 これからもおそらく朝昼はワイドショーという形で報道をカジュアルにエンタメ化することを続けるだろうが、せめて夜だけは、と思う。時事や政治経済に関心の高い視聴者層が集まる夜間帯の番組は、もっと真摯に編成されるべきだろう。
 そうでなければ、本当にNHK以外の選択肢を失ってしまう。事実上の独占は選択肢の限定という意味でも不健康だ。特にテレ東を見られない地方は深刻だろう。
 一色が書いているように多くのことはインターネットにとって変わる。誰もが自由に多様な発言をするようになった昨今、テレビでも同じように物を言いたい人に言わせておけばいい、というのではいずれ本当に誰も見なくなる。(*2)
 つまり、テレビ報道の有りようは私たちだけではなくあなたたち自身の問題でもある。

 一色の言うように、文字通り挑戦し続けるしかないだろう。それを私たちは望んでいる。少なくとも、俺自身は望んでいる。
:

*1 テリー伊藤とかテリー伊藤とかテリー・・・は元が芸能人だからまだしも勝谷誠彦とかミヤネ屋の解説陣とか。挙げればキリがない。最近は見てないから分からないが、日テレのニュースZEROで嵐や星野仙一を並べるあたりは、報道のエンタメ化を促進しているように思えてならない。 

*2 マスにとっては大事な情報源だし、本当に見なくなるということはありえないのだろうが、昨今のTBSの劇的な不振に見られるように、確実に打撃は食らっているはずだ。広告も減っているし。肝を据えるべき。 
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 「春なので」改めて自己紹介でもしてみます。やや詳しめに。
 ここに載ってないこと、書かないことはサイドカラムの「About」とライブドアプロフィールにて
 Aboutにも書いてありますが、本家である書評サイト「Daily Feeling」もよろしく。

Biograph(but only one paragraph is not true)
1990年:香川県で生誕。早生まれ。生活拠点は小豆島(こまめじまじゃないよ!)
1995年:5歳にして転機
2000年:10歳にして再び転機。サッカー部。
2001年:ヤクルトの優勝に歓喜。バレー部。
2002年:中学生に。陸上部。
2003年:中2病を発症し、一時中学生活に苦戦。
      秋にホームページ「Daily Feeling」を開設。
2004年:中3。ブログを始める。初めて個人競技で県総体に出場。
2005年:高松第一高校の受験に失敗し、失意のまま入学した私立高校で悲哀に満ちた1年を過ごす。生活拠点が高松市内に。
2006年:後に1年半近く片想いをすることになる女の子(この時期のブログでは”彼女”と描写される)と言葉を交わすようになる。人生の青春期
2007年:神戸大学に進学するつもりが唐突に早稲田大学への推薦を打診され断り切れず早稲田へ
2008年:センター試験国立入試(大阪大学)を経験。だが上京して早稲田、そしてバレーボールサークルへ。拠点は西東京市。
      大学1年期がおそらくもっともリア充。その反動で単位は3年間で最も落としている。年末に初音ミクと邂逅。
2009年:大学2年。日本マクドナルドでのアルバイトに勤しむ日々。ゼミも無事内定。そこそこリア充だがバイト先での失恋を経験。
      ミクノの人と関わったり、ついったを始めたり、ニコ生にも入り浸ったり。ネト充の比重が増していく。
2010年:大学3年。本社の展開戦略として店舗閉鎖に伴いバイトはおしまい。ゼミ開始。院生とも距離が近くなる。夏は2年ぶりの合宿とやらを楽しむ。そして日々是オフ会。
2011年:大学卒業後の進路がお先真っ暗←イマココ

What concerns
・大学では政治学と行政学を行き来しながら興味は拡散。最近になってようやく焦点が定まりつつあるが、日々精進の日々。いちおう地方自治論らしきものが専攻です。経済学や西洋哲学にも関心。
・海が近い場所で育ったので海は好き。昼も夜も、夏も冬も。瀬戸内海の癒し度数はジャスティス。
・長期休暇は短期バイトをしてそのお金で旅行するのが常。西日本には某山陰2県以外は大体行きました。東北は未開の地。旅の目的はあくまで現実逃避なので期間は長すぎず短すぎず。NHKの「世界ふれあい街歩き」とテレ東系「空から日本を見てみよう」がお気に入り。
・日常的なお出かけはスポーツ観戦、ライブハウス、美術館、図書館とか。小中と体育会系(拳法、サッカー、太鼓、バレー、陸上)でしたがのち文化系に。ま、どっちも好きだけどね。今も余裕がある限りランニングしてます。
・毎日WBS見てます。あとTBSラジオdigリスナー。昔は毎日ニュースステーション見てました。
・あと1年は東京にいるはずなので、東京圏の人で会いたいという人がいれば時間とお金の許す限り飛んでいきます。連絡とりたい人はコメントなりメール(burningsan@gmail.com)なりでご自由に。でもちゃんと名乗ってくださいね。

Favorite contents
■music
Post Rock,Electronica,Ambient,Techno,House
■movie
(japan) 青空のゆくえ(2004年)、その街のこども(2010年)
(abroad) 潜水服は蝶の夢を見る(2007年)、into the wild(2007年)
■japanimation
ゼーガペイン(2006年)、天元突破グレンラガン(2008年、2009年(映画))、空の境界(2007〜2010年)、放浪息子(2011年)
■comics
スラムダンク(1990〜1996年)、ARIA(2001〜2008年)、ガンスリンガーガール(2002年〜)

Purpose for writing
1.まずは日々の記憶のアーカイブ。2004年5月にスタート。ライフログを目指すというつもりはないが、その時その時の気づきを残していくということ。
2.文章の鍛錬。コンパクトに書くか詳細に書くかは内容や気分によって異なるが、文章のスタイルを確立もしくは洗練させていくことが目標。終わりはないだろうけどね。飽きたときかな。
3.他人との接点づくり。特にネット上やSNSで知り合った人に、自分はこういう人間であってこういうことに興味があったり考えている、ということを伝えること。
4.あと物書きの知り合いができたらいいな、とか「読んでます!」と言われるのが嬉しかったりとか、シンプルな同期。

 こんな感じ!これからもご愛顧ヨロシクお願いします。
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