Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

2011年02月

 まともな日記をメッタに書かなくなったので少しおいおいと思いつつ、2月ももう終わりかという実感。いや、実感あるようでないなあ。
 あれやこれや、大学が休みでないとできないことはやってきたものも、逆に言えば分散した気もする。一方で今までにはなかったような気づきが豊富にあった月なので、これは今後絶対に生かさないと勿体ないと思っている。歳も1つとっちゃったしね。「はたちです!」と言えなくなってしまいましたよ、と。

 あわただしいのは当然で、グーグルカレンダーをふりかえってみると予定の入ってない日が今月は1ケタしかなかった。講義があるときよりもむしろ色々やっているような気がする。就活の選考がぼちぼち始まり出したのも大きな要因である(早速複数落ちてますが。まあ、これからである)のと、あとは人に会いまくったりお出かけしたことかな。上野でやってた東京芸大の卒展も見てきたし。六本木でやってた五美大卒展は行きそびれたけど。六本木は近いようで遠い・・・(主に地下鉄の階段が)
 こうやって動き回る一方で得た様々な気づき、そして1ケタしかないとは言え春休みということもあってゼミ論を提出してからは久しぶりに「考える」時間ができた。たぶん、就活生一般からすれば今はむしろ「走る」時期で考えるのはおせーよと言われそうだけど、いやそれでももう一回ちょっと考えさせろ、という気分である。考えながら走るのが得意ではないからかもしれないし、ある程度そうすべきだろうけれど、今ここで考えないとどこを向いて走ってるのかが分からないだろう、というのが真っ当な言い訳、かな。
 あと夏休み以来ライブハウスに行ったけどやっぱ楽しい!デデマウスとねごとを目当てに、渋谷のO-WESTに。ホールのようなところで聞くのも充実していていいがいかんせん学生には高いし、ほどほどのコストで豊富な音楽を楽しめるライブハウスのような空間は好きだなあ。「音を楽しむ」ということが身体を通じて味わえる空間だからね。

 ついったでは@haruna26さん、@nahna_さん、あと@rero70さんという人に色々と感銘を受けたり。はるなさんとななさんは同じ3年生、つまり就活をやってるんだけど、彼女たちのやりとりやツイートを読んでいて、もう一度自分の立ち位置を考えさせられた。
 レロさんはなんていうか、彼女ほど自分がやっていることを身体使って体現している人は珍しいんじゃないかな、ということ。特にアカデミックの世界ではね。つまり、アカデミックな立ち位置にいても個人だとしても運動に近いようなことはできるし、1人であることを利用することでどんどん輪っかが広がっていくのかもしれない。
 インターネットとは元々そういうふうに個人から出発したメディアだし、特にソーシャル化(という言葉はあんまり好きじゃないのだが)されより容易につながりが可視化される10年代にこそ、という気分である。まあ端から見ていて感じることだけど、この前Ustにふらっと遊びに行ったら名前を覚えられた(気がする)のでこれもまたソーシャル化された10年代の一幕、ということにしておこう(勝手に
 あくまでも一つの形として、ということ。図書館にひきこもって本を読みあさるのも、サークルやバイトに浸るのもそれはそれで大学生の側面ではある。

 話戻って、ナナさんが書いた次の記事が非常に興味深いのである。
「就活」についてのお話
<「みんながそうしてるから」以外の方法で仕事を見つける努力をする。
自分のまわりに多様性があるほうが、わたしはラクだし楽しそうだなあと思います。

 こういう文章を読んだこともあって、俺がもう一回「考える」ことにした、と言ってもいいだろうとは思う。
 つまり、ステレオタイプは俺には合わない。し、それを志向しているわけでもない。ただ、ステレオタイプな就活をやらないリスクももちろん大きくはあるが、そのリスクとの向き合い方は走りながら考えてもいいんじゃないかな、と思う。
 先々週会った人からは「最近の学生は新卒カードを軽く見ている」と言われたのもあり、利用できる立場は最大限生かさないと単純にもったいないと思える。そしてそれはステレオタイプにはまりこんでいくようなものではなく、もっと自分がやりたいようにやれるように、か。
 「仕事をするのは楽しい」とか、「仕事とは娯楽である」ということを、どうしてもステレオタイプな就活というワンパターンにはまりこんでいくと実感する機会はあまりない。いや、ないことはないのだが、ごまかされているような気がしてならない。
 あくまでも就活の場で目にする”仕事”は形としてのものであり、生々しさが見えてこない場合が多いから。その部分は受け入れるとして、逆に学生が突っ込んでいかねばならないとは思っているし、自分が説明会等のオフィシャルな場で投げかける質疑は大体こうしたリアルさを求めるように心がけている。
 「礼儀正しく生意気に」とはよく言ったもので、学生という立場だけど、ではなく学生という立場だから、であるように。こういった思考回路も、新卒カードの使い方であるといっていいんじゃないかな、とは思っている。

 あと、これ。はるなさんが書いて、けっこう反響の大きかった文章。
デジタルネイティブじゃない1989年生まれのわたしの話
 もうね、俺は90年の早生まれだから一瞬ズレてるけど、書かれていることがあまりにもドンピシャすぎてもうアレという感じでした。時間を作って自分もふりかえってみてもいいんじゃないかなと思う。
 カクレンジャーやゼル伝、ポケモンといったコンテンツの体験はもとより、この時期に特有のネット体験が非常に懐かしいのである。今考えてみると、だけれど。特にツイッタというサービス兼メディアが出てきたときのはるなさんのツイートが興味深い。
 「インターネットはあぶない」というのがここ10年の大勢だったと思う。学校裏サイト、ネット経由による自殺や殺人、ネットでのトラブルを発端とした佐世保小6殺人事件なんてのもあったか。あと印象的なのは桃寿事件ですかね。そうしたホットな話題が拡散されるにつれ、インターネットという言葉の価値がどんどん傾いていく。そんなたやすいものじゃない、とは誰にも言えない。2ちゃんねるというカオス空間も、カオスであるが故に負の側面ばかりが強調されていく。
 そういった中で2010年は本当に大きな転機だったのかもしれない。ソフトバンクによるUstの日本語化、そして莫大に増えたついった人口、facebookも数年前に比べればユーザーが増えたという。圧倒的マスな存在であるテレビメディアや新聞などの紙メディアがツイッターやUstを利用し始めたことも何らかの意味はあると思っている。
 朝日新聞が去年の秋ごろだったと思うが、「つながる」というテーマで継続的に記事を書いていたのが興味深い。いまのティーンがどのように他者とつながるのか、をテーマにしていたのだが、少なくない回にネットが登場していた。記事はドキュメントタッチなのでネットに対しても中立に書かれていて、それこそ今のティーンがどのようにネットと向き合っているのかが垣間見えて個人的にも読み応えのある連載だった。
 話はそれたけど、まあ簡単に言うとネットがいつのまにかかなり身近になっていて、そして色んな場所で活用され始めた、ということ。ただ使われるだけの利用の段階は脱却しつつあるのかもしれな、と(利用と活用の差はどこにあるのかを考える隙間はないので次回を待て)

 そんな感じで、全然違う話題を扱ってきたけど、2月は自分自身を回顧することが非常に多かった、ということ。ネットの利用から、就活のスタンスまで、自分が何を考えてきたのか、何をしてきたのか、そしてこれからどうするのか。
 不足しているのは後者、つまり未来に向けてこれからどうするのか、である。振り返るだけ振り返ったはいいが、逆に言えば今後についての見通しは甘々だったことも痛感した。
 今はどうにかこうにか、3月以降に繋げますように。速く終わらせることよりも、納得のいく形で終わらせて、来年以降に繋げていきたいと思っている。

読了
(1月)
1:本谷有希子『生きてるだけで、愛』
2:東浩紀『動物化するポストモダン』
3:秋山和宏『医療システムのモジュール化 アーキテクチャの発想による地域医療の再生』
4:文藝春秋『文芸別冊 総特集伊坂幸太郎』]
5:高村薫『レディ・ジョーカー(上)』
6:J.リンス編『大統領制民主主義の失敗 理論編』
7:川崎修・杉田敦『現代政治理論』
8:福嶋麻衣子・いしたにまさき『日本の若者は不幸じゃない』
9:高村薫『レディ・ジョーカー(中)』
(2月)
10:高村薫『レディ・ジョーカー(下)』
11:朝吹真理子『流跡』
12:桜庭一樹『GOSICK 検
13:薬丸岳『天使のナイフ』
14:東浩紀 編『思想地図β』
15:桜庭一樹『GOSICKs』
16:コーク・マッカーシー『ザ・ロード』
17:円城塔『Boy'sSurface』
18:朝吹真理子『きことわ』

 2月が思いの外少ないのはいくつかハシゴ読みしているためです。4冊くらい。レディジョーカーはちょっと拍子抜けかなー。
 小説は1,11,17が素晴らしい。それ以外では3の着想、6の詳細さに感動しつつ、14の知見もめちゃくちゃ面白かった。8は論は面白いんだけど、かなり対象を限定している分は惜しいな、でも等身大の物言いには得るもの多し。
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著者:朝吹真理子
出版:新潮社
備考;第20回Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞、2011年2月6日読了


 今年芥川賞作家となった朝吹真理子の文芸デビュー作。「流跡」とはこういうことなのか、と気づいたときにこの小説(のような文章)の面白さが増すと思う。気づけなかったら・・・残念ながらということになるかもしれない。本作を読んで多くの人が様々な感想を持つだろうが、まず端的に本作は小説なのか?という点から始まるだろう。個人的にはこの点は確かに気になるが、さほど重要でもないと感じる。なんらかの物語が紡がれている以上、そしてそれが読むに値してかつ面白いならば、ジャンルによる区分など大して意味をなさないだろうから。そして、まったく先入観なしに本作を読みたい人はこの文章も読語に読むことをおすすめする。ネタバレはしないつもりだが、そうはいっても少し珍しい形態をとっている以上、その点については触れるからだ。

 とは言っても、こうして説明するためにはいちおう小説という区分を用いたい。現代詩でこういうのもあるという書き込みをネット上で見かけたが、現代詩の事情にさほど詳しくないのでノーコメントである。本作は少しでも立ち読みなどで読んでいただけると感触がつかめると思うが、いったいどこに向かうのかがサッパリ分からないのである。ふと思いついたのは、ゆく川の流れは絶えずして〜という鴨長明の文章だ。作家自身が大学院で日本の伝統文化の研究をしていることと、無関係ではないかもしれない。26歳という若さを感じさせない文章は、彼女自身の育ちの良さからも由来しているかもしれない。そして黒髪美人であるという、彼女自身が内面外面両方から日本的な様を体現している。

 少し脇道にそれた。流跡というタイトル、そして鴨長明を彷彿とさせるような感覚(単に流れのある文章を書くだけではなく、書き込まれている対象や心情は長明が主題としたことと重なるようにも思える)を醸し出す。つまるところ、浮遊感なのだろう。文章がつづられていくことによって本に引き込まれるのではなく、逆に突き放すような、それもたおやかに優しく。そうした浮遊感が漂っているのは、特定の個人が主体ではないというせいもあるのだろう。一文字一文字が愛おしく感じられるというか、日本語の持つあたたかさを感じさせてくれる文章であることは確かだ。

 浮遊感が漂っているからといって夢を見ているような感覚、とは少し違う。夢を見ているようにシーンがゆっくりと流れ移り変わっていくという感じもあるが、描かれているのは現実に、地に足をつけた人たちの思いである。時代や場所は定かではないし、明確にされていないが、町並みを眺める人、過去を思い起こす人、など様々な人物(らしきもの)が登場する。名前が与えられているわけではないし、描写の具体性や抽象性もばらばらだ。主観的であるとも、客観的であるとも言える。

 1つ解釈を加えるならば、全てが作家の妄想だったか作家の脳内の映像だった、というところだろうか。唯一はっきり(比較的はっきりと、と言ったほうがいいかもしれない、名前が書かれているわけではないし)と特定されている主体として、作家(朝吹真理子のことではなく、作中で作家のような人が登場する)があげられるのだが、その彼ないし彼女の夢想が文章としてつづられているのではないか、と。作家の脳内は現実を映し出す鏡であり、現実とは様々な営みが年月を重ねて繰り返されていて、かつとどまることをしらない―――。

 1月30日の朝日新聞書評で本作と芥川賞受賞作『きことわ』がとりあげられているのだが、「クラシックな物語性を排し、ポストモダン以降の自己言及的な結構をもつ現代的なスタイルと、実に古代的な語りが共存している」と鴻巣友季子は述べている。古代的な語りというのは読んでいた俺自身が鴨長明を想起したように、また和歌や古語が意図的に挿入されている点があるため否定する気はない。ただ、ポストモダン以降の現代的なスタイルが本作か、というとそれは少し違うのではないかと思う。ポストモダン、つまり大きな物語がなくなってしまったために自己言及的に(社会学的には再帰的に)というようなことを鴻巣氏は言いたいのだろうが、本作を読んでいてそもそも自己言及的であるとか再帰的であるとか、そうしたパーソナルな目的すら実感しなかった。ただ、書かれている。本作にあるのは、特に人の描写に関してはそれだけである。特段ポストモダンに特有のこととは言えないだろう。ただ、誰でもない個人が書かれているあたりは現代に特有のことと言うことはできる。

 個人的な感触としては、本作を綺麗にまとめて評することができない。他の人が、特に批評家などではない一般の人がどう読むのか、そのほうが気になる。つまり、等身大な、現代の人びとはこの物語をどう受け取るのであろうか?そこにこそ何らかの答えがあるような気がしている。ある意味本作は、何かが書かれているようで何も書かれていないに等しいのだから。そうしたところに価値があるとするならば、ポストモダン的、と言ってもいいのかもしれないけどね。少し尺度を変えれば、「けいおん!」に特有な非物語性、つまり日常のダダ漏れと何も変わらないのかもしれない。ダダ漏れする手段として朝吹真理子は、文章を用いたにすぎない。夢を見ているようだがきわめて現実的、という感触が、そういったところに由来しているような気もする。

 まあ、あとはあなたが手にとって、少しでも朝吹女史の文章を堪能することができたなら、それはそれで良き体験だろう。もし良き体験でなかったとしても別段驚きはしないし、それもある意味価値のあることだ。 

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著者:桜庭一樹
出版:富士見ミステリー文庫(2005年)、角川文庫(2010年)


 1月からアニメ化されているGOSICKシリーズの第4弾。富士見ミステリーで出たのは2005年なのでもう6年も前のことか。本書の面白さは1巻に通じる実際の歴史+偽史をくみあわせている要素(書きすぎるとネタバレになるかもしれないが)で、実際の歴史をとりいれることによってソヴュールという国自体を浮き彫りにしている。ヴィクトリカの正体にも焦点が当たるが、このあたりはまだまだこれからといったところかな。個人的にはアブリルももう少し書いて欲しいけど、というところか。

 初夏の学園。時計塔で発見された謎の死体。そして、見つかったリヴァイアサンと名乗るもののメモワールと、錬金術にまつわるお話。これらが「知恵の泉」で再構成されるとき、歴史に隠された謎が見つかる・・・という全体の流れ。世界史とのつながりというのに加え、学園の歴史に関しても触れられている部分があって面白い。そういう意味では、あくまで偽史であるGOSICKがどういう世界であるのか、がだんだん分かってくる巻だ。

 個人的にはアブリルをもう少し書いて欲しいと前に書いているが、アブリルらしさが発端となっているのは興味深い。彼女はどちらかと言えばストーリーそのものからは脇役で、あくまで久条になんらかの思いを寄せている少女、としての描写が大半だったが、本作では彼女のらしさが少しだけど生かされている点が少し救われた思いにもなる。いや、けど大半はまだまだ脇役なんだろうけど。あとセシル先生が調子に乗るのはいつものことですね。恋愛パートはまだまだおあずけ、と。

 1巻が特にそうだったが、間奏として挟まれた偽史としてのエピソード、それと実際の世界史との混合がかなりすんなりはまっている感のある展開となっている。1巻はあくまで謎解きの要素として、だったが本作では謎解きの要素にはもちろんなっているが偽史と実際の世界史が統合して、前述したようにGOSICKの描かれる世界、つまり久条やヴィクトリカがどういう世界を生きているのかが伝わってくるようになっている。1巻はあくまで現実世界、つまり読者側の歴史の文脈の中で偽史が語られるという形であったが、本作では現実世界を起点として、GOSICKの世界史を描くことに成功していると言えるだろう。

 その過程でヴィクトリカたちのいる学園とはなんぞや、である。いわゆる七不思議ではないが、学園に謎はつきものというオーソドックスな展開を巻き込みながら、学園そのものを描写しつつさらに謎に包まれているヴィクトリカとは何者なのか、についても少しだけ踏み込んでいるシーンがある。詳しく書かれているわけではないし、この巻の謎解きそのものには関係ないのだが、シリーズが進む中で少しずつヴィクトリカの仮面がはがされているような気はしないでもない。もっとも、「退屈だけが友人だ」という彼女らしさも当然生きていて、全ての謎が解明される必要は必ずしもないんだろうな、と感じるが。麗しの美女(というか美少女だが)に謎は必要条件である。

 今までなんとなく読み流してきたのでシリーズのレビューを書くのは今回が初めてになるが、ちょっとずつミステリとしてもストーリーとしても面白くなっている印象を受けた。アニメも始まって毎回見ているが、同じようなことを感じる。だから今までは少し物足りないと思った人でも、読む価値はあるんじゃないかな、というのが素直な感想である。ヴィクトリカかわいいよヴィクトリカ・・・はさておき、彼女が自ら謎に挑むのは珍しいかもしれない、そういえば。
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 ざっくりとした書き方だけど、今までいつかまとめて形にしたかったので書いてみる。まあ、かっちりとした考察というよりは雑感レベルなんだけど。10年来のネットユーザーがここ数年のネットユーザーをどう見るか、というアプローチで色々書けることはあるんじゃないかな、と思っていたので書いてみる次第。
 10年やってるからといって偉そうなことが言えるわけではないし、そういうわけではなくて、あくまでどのへんに差異があるのかということを記述してみたい。
 ただ、高校に入ったあとの2006,7年ごろはあまりネットをしていなかったので(ニコニコ動画デビューも大学入ってからだし、ついったにも乗り遅れた)正直よく分からんからそのへんは華麗にスルーする。そのときのネット環境といえば、クラスでモバゲーに高じている男子と、携帯用の日記サイトにはまる女子がいたことくらいしか覚えてない。その中で旧来型のホームページとブログを細々と運営していた俺がはじかれるのは半ば自然なことだ。ぼっちバンザイ。
 というわけで、独断と偏見を以下につづる。ただ、自分の見ただけのことはあきらかに偏見だだろうが、ネットをさまよっていて感じたことは多くの人に受け入れられてもいいんじゃないかな、とは思ってる。
 忙しい人のために結論を先に書くと、膨大なユーザーの流入と可視化が常に行われるようになったのでなかなかたいへんなよのなかだよね!ということである。

1.ネットにおけるコミュニケーションサイトの寡占化
 一概に寡占しているとは言えないとは思うものも、明らかに寡占している分野は確実にあると思っている。
 10年前はそれこそ大規模なコミュニケーション空間と言えば2ちゃんねるくらいしかなかった。ただ、mixiの登場から始まり、2010年のついったーブームやら、今年はfacebookが流行り出すかもしれないやら、少し遡るとモバゲーやグリーが一般人をネットユーザー化してしまっているという現状もある。
 2ちゃんねるしかなかったころのネットユーザーがどこで暇をつぶしていたか。俺が感じていたのは端的に、2ちゃんねるor notである。まとめブログが今ほど読まれている時代ではなく(というか10年前はそもそもブログすらなかったし)一方で個人が運営する交流サイトが華やいでいた時期でもある。
 つまり、比較的小さなコミュニティがウェブサイトという形で膨大に存在していたのだと思う。ブログやSNSの隆盛によって多くのサイトが駆逐されたのは言うまでもないだろう(とはいっても明確な統計を示せるわけではなく、自分がかつていたところの大半が閉鎖されているという現状を見てきただけではあるが)
 発信と交流の双方が可能だったホームページという形態も、前者がブログに、後者がSNSに置き換わってしまえば存在する理由があまりないのである。あるとすれば、あくまでオリジナリティにこだわるとか、大手業者の下でやるよりは自分でドメインなりサーバーとってやるほうが自由だわい!という片意地くらいかもしれない。
もしくは俺のように、膨大なデータベースを作り上げてしまっている以上、移動するコストがかかりすぎることかな。ただ、後者つまり交流メインの場合は、移動したほうが圧倒的にストックもフローも増えるので、移動するほうが費用対効果が上がる、といったところだろうか。
 個人サイトのチャットで少人数でgdgdしていた時代がなつかしい、となげくのはもはや古参ユーザーくらいだろう。


2.ブログのホームページ化
 こうしてブログを誰でも書ける時代、あるいはアカウントをとってしまえば膨大な人と交流できる時代がゼロ年代中期から後期にかけて到来する。
 俺がブログを初めて作ったのは2004年だが、その1年前に既にホームページを持ってしまっているので完全に移転するということは考えず、あくまで棲み分けをするようになった。
 たた、たとえば書評ブログであるとかグルメブログであるとか、日記を書くという以外に何かに特化したブログ、つまりブログのホームページ化というものはもはや珍しいことでもなんでもない。というか、そもそもホームページを持つ人というのは一部のクリエイティブな人の作品置き場くらいではないだろうか、とも言える。
 ブログの効用はもうひとつ、言語を知らなくてもいいことだ。カスタマイズは基本的にデフォルトに任せておけばいい、いっぽう物足りない人はソースをいじればいい、といったようにダブルスタンダードを効かせることで大量のユーザーを獲得した。書き手の年齢や職業が幅広く、コミュニケーションとして、あるいは個人メディアとして、あるいは自分の表現の場としてなどなど使い道も幅広い。

3.そして新規ネットユーザーの流入が始まる
 と、ここまではユーザーというよりは媒体の話が多かった。そろそろユーザーの話もしてみよう。
 前述したようにブログブームを実感したのは高校に入ってからだ。さすがに田舎の中学ではネットを使いこなすという人は少なくて、携帯電話を持っている人も少数だった。ただ高校で高松市という県庁所在に住むようになってからは、環境が激変した。目についたのは携帯電話をあたりまえに使いこなす様であって、この様子はよく考えると中三のときに高松の予備校に通っていた頃から感じていた頃でもある。デジタルネイティブは都市部において確実に進行していた、というべきなのかな。
 彼らや彼女らが携帯電話というおもちゃを手に入れて実際どのように使っていたか、詳しいことを知っているわけではない。ただ、前述したように個人用モバイルサイトが隆盛していた時期とも重なる。
 2003年くらいからこの傾向はあったと思うのだが(当時は前略プロフィールが大人気だった、というか前略くらいしかなかったんじゃね?)モバイルサイトの中でもいわゆる日記サイトやプロフィールサイトの隆盛はゼロ年代中期からだろう。ネットいじめというニュースもこのこのからよく聞くようになった。

 そう、このあたりから明確な変化を感じる。かつてのネットいじめは、それこそネットユーザー同士のひがみあいである。狭いコミュニティで、形としてはオープンだけどたどりつくのは少数だからほとんど閉じているに等しい。その中で交流するのだから、良い面もあるし悪い面もあるということだ(かくいう俺もネットいじめを経験している。夏厨のウザさを真に受けたアホな時代である)
 ただ、このモバイルサイトが隆盛して以降語られる(特に大手メディアで)ネットいじめはリアルの者同士がネットを使っていじめいじめられをしているのである。象徴的なのは2004年の佐世保における小学生による殺人事件だろう。これも発端はネットでのトラブルが原因ということになっている。
 ネットいじめが象徴しているのは端的に言えば、ネットがリアルの延長の場として明確に意識されてしまった、ことではないだろうか。高校時代の女子がモバイルサイトでハンドルネームではなく、自分の下の名前もしくは本名を出して交流していたことも、ネットがリアルの延長であることを象徴している。プリクラや写真もけっこうな量がアップされていたが、内輪のコミュニケーションに用いる分は便利だったのだろう。ただ、彼女たちがどこまで内輪の外の世界、つまりネットはどこにでも繋がっているということを理解していたかは知らない。
 むしろ、繋がっていようがいまいが実名ないし下の名前といった個人が特定されやすい名前でコミュニケーションをとることが当たり前になりつつあるのかもしれない。ネットはリアルの延長なのだから、同じ名前を使ったほうが何かと便利ではあるかもしれない。
 このようなことは昨今のついったやfacebook(前者はともかく、後者が本当に流行っているのかはしらない)の隆盛に見てとれるが、前段階としてモバイルサイトの隆盛があったことも見逃せないことではないだろうか。携帯電話でコミュニケーションをとるということに、抵抗を感じない世代が一定数いたということである。この前某ホテルで某有名人のお忍びデートをついったで実況しつづけた女子大生も、この世代であると思われる。

4.ゼロ年代後期、ついった、facebookが流行り出す
 ここからはもうモバイルサイトのように、年齢や職業にしばられることはない。ユーザー層としてはブログを書く層とそれほど変わらないだろうし、実際できることも動機も似ている。実際ついったを始めるとブログを書かなくなる現象はあちこちで起きているようだし。
 だが、前述したようにネットがリアルの延長であると意識された時代に生きている。また、ユーザーの数も膨大だ。ここではかつてブログやホームページがそうであったように、個人がハンドルネームを名乗るという一種の規範的観念のようなものはかなり薄い。そう、昔からのユーザーはけっこう息苦しい時代に生きているのかもしれない。
 そして便利さと危険が隣り合わせであるのは女子大生のデート実況事件に象徴的だ。個人用モバイルサイトで実況しても見るのは少数だから話題になることはないだろう。ただ、ついったーという膨大なユーザーが寡占化した媒体に集まっているのが当たり前の現状では、良くも悪くも影響力は莫大である。


 今までをまとめて端的に言うと、ゼロ年代は時代が進むにつれて、交流サイトが寡占化し、いっぽうで大量のユーザーが寡占化したサイトに集中した。
 今に比べると比較的少数のユーザーがそれぞれの趣味趣向で交流していた時代は過去のもので(今もまったくないわけではない)そもそもハンドルネームって何それおいしいの、時代の到来、かもしれない。
 ゼミ生が去年だけで9人くらいついったを始めたのだが、ほぼ全員名前とプロフィールで本人が特定できるレベルである。これはなかなか興味深いし、いっぽうで俺ひとりだけが「バーニング」という名前で彼らとネット上で連絡をとりあったりリプライを送ったりするのはなんか変な光景でもある。俺1人だけアナログテレビで、彼らはデジタルテレビで同じものを見ている、そんな違和感かもしれない。
 そういう意味でリアルの人をついったで見かけても最近はフォローするかどうか若干悩んだりする。好き嫌いではなくて、やっぱり違和感があるとややこしいよねというお話。リプライで本名飛ばされたりとかしたらたまらんで。

 その他、昔では起こらなかった変なことを以下に
・実名で暴露することによる内定取り消しを食らうアホな就活生
・はるかぜちゃん(@harukazechan)という9歳のついったユーザーに絡みまくる変な大人
・ついったにおける相互フォローは当たり前という謎の規範と、推進委員会とやらの存在
・ニコニコ動画における歌い手信仰
・よく分からないネットマナーの流行(相互じゃないとリプライとばしちゃいけないとか、RTしちゃいけないとか。謎である)

 とかいうのは色々あるけれど、せっかく面白いサービスがあるのであるていど↑に書いたようなことはスルーしつつ(時間がもったいないだけである)楽しめばいいという今までのお話から真逆の結論にたどりついたなど。
 あと、mixiに言及しなかったのは俺が一度も参入したことがないから。知らないことは書けないが、ネットとリアルの統合を決定づけたのはモバイルサイトよりもむしろmixiだろうなあ、という感じはする。
 なんにせよ、今は素晴らしい技術やサービスを利用できる環境のありがたさを、日々実感しつつ、である。ニコニコ動画は同人音楽にとってはほんとうに革命的だったと思う。耳が幸せという言葉が1枚のディスプレイと1つのヘッドフォンを通じて実感できるのだから。素晴らしい日常じゃないか。
 
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