2011年01月

2011年01月25日

ドアーズ

 普通のブログを書くのは超久しぶりだな。あけましておめでとう(遅
 1月上旬は体調の上下が激しくて、その中でも就活やらテスト勉強やらでめんどうくさかったとかいってたらもうそろそろ月末です。体調管理大事ですね、最近ちょっと不安定な部分はあったりなかったりするので。
 暖房の効いた部屋に長くいすぎるせいかもしれない。わりと外に出たら涼しくてそれだけで体調良くなったりするので。その上で睡眠と食事をしっかりがんばろー。でも今日は寝ずにもうちょいマクロの勉強をします。まあ、現実は甘くねえわな。働いてないだけマシと思おう。

 とはいいつつ地味にサッカーのアジアカップは日本以外の試合も見ていたり(中東勢がいなくなってさみしいですね)するあたりはどうなんでしょうね。テストもがんばります(キリッ
 去る1/16にはしっかりボーマスにも行ってきました。5月以来8ヶ月ぶりの参戦で、しかも行列列列・・・ここはどこかと思うほどの列でした。この8ヶ月の間に何があったのかと思うけれど、それだけこのシーンが成熟しつつあるということかなあ。
 会場もかなり広くて、2009年の11月にもサンシャインで開催されてたんだけど、そのときの1.5倍くらいの広さは悠にあった感じです。なので大量の行列もすっぽりおさまって、混雑というほどの混雑は感じなかった。あくまで人気サークルが混雑しているという感じで、基本的には予定通りの買い物ができました。s10rwの夜なべさんにお会いできたこと、しかも自分のことを認識してくれたことが単純に嬉しかった。時間がなくてお話できなかったけど、あれとかこれとか今度聞いてみたいです。前回はびにゅPにお会いできて直接話せたし、この感覚がいかにも同人的で楽しいね。色々あるけど、近いことそれ自体は音楽にとってもしあわせじゃないかと思う。
 あとはぱにー!の第2弾の画集がすんばらしくて、これは一家に一冊あっていいと思う。とてもしあわせな気持ちになれる(残念ながら通販でももう無理のようなのですが)

 あとは何があったかな、就活をやっていると社会とはどんなものかを考えるのはあたりまえなんだが、自分とは何者なのかも同時に考えさせられる。自己分析らしい自己分析はあんまりやってなくて、むしろ遊びでやるネット上の診断テストのほうが核心をついている気がする。
 自己分析がなんで必要とされているのかを考えると、基本的にはESと面接のため(参考)。もっと深めると、自分が今後どうしたいかを考えるため。後者のためには有益なのだが、前者のために自己分析をするとどうも即物的なものにしかならない気がする。エピソードのいずれ必要になるので(前者の意味で)棚卸しはこまごまとやっていて、昔を振り返られて意外と面白くもあるんだが、どうしても自分をうまくみせようという邪心が入り込んでしまう。このこと自体がどのような結果を招くかは分からないが、邪心というバイアスは少なくとも後者の意味においては意味を持たないどころかマイナスだろう。あくまで自分がどういう人間かを知ることが第一であって、良く見せることが後者でいう目的にはあたらない。
 
 たとえば日経新聞のこの記事
 「就活で陥る自己分析の落とし穴」とあるとおり、自己分析がもてはやされ、またESなどで必要になればなるほど形骸化し、さらにはマイナスの効用も生んでいることの具体例が載っている。
 自己分析とは何なのか頭を冷やせ、と記事が指摘しているのは大きな意味がある。頭を冷やすということを常にやっていかねば、就活はうまくいかないだろう。常に考えること、考え続けることが大事であり(もちろん就職が決まったあとはもっと大事だと思うが)何より主体的であることが求められているのだと思う。
 自分で考えることがいかに大切か。就活というのは基本的に茶番であり、虚飾であるというのはなんとなく頭の中にある。ただ、ネガティブな側面ばかりをみていても何も始まらないし、そもそも社会とは不条理である、ということを受け入れないと意味がない。その不条理をただすために政府がセーフティネットを張らねばならない、というのは市場の失敗の典型的な補完策であろう。
 その上で何が得られるか、どういうことを学べるか、そしてどのような人たちと今後出会えるのか。基本的に現実的で批判的な回路を、過度に回さないことも大事なのかもしれない。

 と、こんなことを考えてテスト期間なうです。さっさと終わって欲しい。就活したい、というのは変だけど、今は何かに身を委ねていたい気分ではある。同時に本読みたい。春休みこそ積ん読を減らしにかかるよ。

読了
(12月読了本)
94:細野助博『コミュニティの政策デザイン』
95:週刊朝日編『週刊朝日ムック 週刊司馬遼太郎7』
96:小松秀樹『医療崩壊 立ち去りがたサボタージュとは何か』
97:横田尚哉『ワンランク上の問題解決術』
98:東浩紀・北田暁大『東京から考える』
99:津田大介・牧村憲一『未来型サバイバル音楽論』
100:トクヴィル『アメリカのデモクラシー第二部一巻』

 届かないと思ったら、ギリギリ年100冊に到達していた。数が全てではないが、100冊に届いたのは6年ぶり2度目。当時は小説ばっかり読んでいたので、今回とは少し質が違うと思ってる。
 
*今日の一曲:古川本舗「ドアーズ」
”さよならだけが別れじゃないだろう”
→ボーマスでも大盛況だった古川本舗の1年ぶりのニューアルバムから。古川さんの音楽の奥深さ、そしてリリックの情感がこれまた素晴らしい。春になったら改めて聞き返したい曲。
 ネット上では公式サイトで視聴可能(http://fullkawahonpo.com/)

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2011年01月19日

東京と非東京の差について

田舎は好きだが、それでも東京を選択する。という記事を読んで。
 少し前の記事だが、これほどまでに同感に値するブログ記事というのもなかなかない。客観的に見ても主観的に見ても、別に筆者が同じ香川出身東京なうということを差し引いても(他の地域がそうであるように、同じできる部分もあれば違う部分もある。県が一緒というだけでは幅が広すぎる)
 東京の魅力として「機会の多さ」「面白い人の多さ」「常に更新している」ことを上げている。率直に、その通りだと思った。特に前2つに関しては文章を読む前から全く同じことをずっと思っていたし、東京に行くかどうか迷っている人がいたら間違いなく自分の体験を元にして強調する要素になる。
 主に大学2年のころから、つまりサークルをすっかり全て辞めてしまってからどれだけ時間に余裕が生まれ、かつ東京の広さを実感したことか。サークルにい続けるという選択肢ももちろんあったんだけど、居心地がいいのか悪いのか最後までよく分からなかったし(もう少し粘っても良かったんじゃないかとは思ってる。なんか3年以内に辞めてしまう会社員みたいでもあるし)バイトを始めてからはバイトに割く時間が増えてしまったしバイトの人間関係が思ったより面白かったのでサークルはずるずるという感じでサヨナラした。 
 
 一方で、
東京は魅力的だが,「すべて」を持っているわけではない
 この記事も非常に読み応えがあった。先に挙げた記事のトラックバックでたどったのだが、トラックバック面白いなあというのを久しぶりに実感した。ブログはまだまだ死なないだろう。
 この記事にある
「常に新しいものが試されて,消えたり大きくなったりしていく.膨大なエネルギーを消費し,同時に生み出す.桁違いの人の数,ひしめきあうビル,何もかもがすごいパワーを持っているように感じられる」
 という文章が”東京”という場所(かっこをつけるのは、東京の中でも差異があるから。自分が住んでいるのは郊外だし。地方と対比させたときのいわゆる「東京なるもの」を意味するためにかっこをつけてみる)を象徴しているように思う。
 東京が地方と違う大きな部分は、今の時代でもなお変化しようとしているところであると思う。地方が変化しないというわけではないが、大多数の地方は人口が減少し、財政難であり、年間いくつかの集落は消滅しているという。変化するためのエネルギーやマンパワーや原動力があまりにも乏しい。公務員もどんどん減らされる一方なので、行政面からのアプローチも厳しい。一方で東京は人口が今なお増えていて(自然増というより社会増の多大な貢献によって)同時に東京スカイツリーの建設に代表されるように、街そのものが常に動いているイメージがある。
 少し前にNHKが沸騰都市というシリーズを組んで東京を扱っていたときにも感じたが、変化し続けること自体が東京のアイデンティティではないかと思ってしまうほどすさまじいものがあった。東京スカイツリーの建設も行き急いでいるかのように天に伸びていく様は壮観ではあるがそうせざるをえない何かがイマイチよく分からなくて、気味が悪いとも思える。

 何が言いたいかというと。どうしても東京で生き続けると変化を強要されている感じがするのである。
 率直に言うと、今はそれが楽しい。新しい出会い、新しい場所、新しい衝撃、新しい感動・・・この街が新しさに満ちているから生活していて飽きることがない。ただ、それらはあくまで自分が積極的にコミットし続けるからこそ享受できるものであって、平凡な日常の中で感じることは少ない。良くて遠くから眺めているだけである。
 このことが最初の記事で書かれているように「変化と新しいものと刺激が好きな性格」の人間には最良の環境かもしれないが、同時にそうでない人間にとっては別の景色に見えるということを意味している。そうではない人間が見る東京の景色が良いものかどうかはもちろん人それぞれだろうけれど。
 もしかしたら変化の強要から避けて東京で生きる選択肢があるかもしれない。ただ、それなら地方にいるほうがよほど居心地がいい。なぜならたいていのケースで、変化は嫌われるからである。単純に言ってしまえば楽だ。東京みたく人がごみごみしているわけではないし、でかいショッピングモールに行けばたいていのものは揃ってる。周りには昔から知っている人が多く、人間関係が持続しやすい(その代わり狭くなりがちだが)
 あくまで一般論として、というのは留保が必要だけどね。地方論をここでやるつもりはないので、あえて一般論でとどめてみた。

 振り返って、じゃあ東京でそれでも変化を強要されながら生きる意味ってなんぞや?という話に戻るとする。
 ひとつはそれ自体が楽しいから。これは前述したけど、積極的にコミットし続けることができればめちゃくちゃ楽しい。これは保証する。それともう一つ、生きていくことができるから、だろうか。これは変化にコミットし続けるということともリンクする。
 つまり、コミットし続けるかぎり東京で生きていくことができる。東京で働くとは大部分においてそういうことだろう。めまぐるしく変わっていく街の中で、もしくは世界と繋がっている中で仕事を続けていくには否が応でも変わらざるをえない。そうしなければJALのようにぶっ倒れてしまうかもしれない。就活していても感じることだが、受け身の人間は求められていない。能動的に、主体的に動ける人間でないとそもそもスタートラインに立てない印象がある。
 全てがそうではないのだろう。ただ、東京で生きていくということを選択することは、この街の変化に付き合っていくということとかなりの意味で同義なのではないだろうか。もちろんただ付き合っていくのではなく、アンチムーブメントを起こすこともできるだろう。いずれにせよ、地方で淡々と日常を過ごすという見地からは離れている。


 さあ、道は示された。What do you choose? 
 

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