Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

2010年12月

 軽く2010年を振り返ります、年末は思いの外邪念や用事があって時間がないのでさっくりと。 
 各ジャンルなのですが、小説は今年文庫化されたものをとりあげてます。だってそのへんしか読んでないもん。

【アニメ】
涼宮ハルヒの消失

 あえて映画をセレクト。今年は大型のアニメ(けいおん2期やAB!や東のエデン劇場版、見てないけどファフナーの映画版)があったのだけれど、AB!以外は続編だしAB!も明らかに尺の短さが目立って残念だった。
 その点消失は構図であったり台詞であったり表情であったり、かなり精緻に作られていてアニメで見てもそこそこ楽しめたかも知れないが映画でしか味わえない2時間分のゾクゾク感はすさまじかった。そもそもジブリ以外で2時間のアニメ映画はそれほどないので、京アニの本気を見た感じ。


【映画】
ハートロッカー
ケンタとジュンとカヨちゃんの国(
武士道シックスティーン(
次点;インビクタス

 映画は見た数で言えば本当に少なかったんだけど、良作が多かったなあと思う。ハートロッカーとインビクタスはともに歴史に関わる(かつ、現代的でもある)テーマで、こういう映画はもっと多方面で作られてもいいな、と思う。インビクタスはモーガン・フリーマンが大統領にしか見えなかったし。
 ハートロッカーはDVDを見たらちゃんとした文章を書く、かも。見てない人は速効見るべし。こういう形の戦争映画は非常に新鮮でした。


【小説】
ハーモニー(伊藤計劃)
名前探しの放課後(辻村深月)
私の男(桜庭一樹)
次点;乳と卵(川上未映子)

 桜庭を入れるか川上未映子を入れるか迷ったのだが、『私の男』は完成度が高すぎたので入れねばという感じ。
 並べてみるといつの間にか若い女性作家を好んで読むようになったんだなあ、と思うなど。辻村深月は最近少し作風を変えたようなので、そういう意味でも気になる作家ですね。メディアの露出も増えたような。
 伊藤さんの『ハーモニー』は傑作です。小説というか、一つの本として。

【Live】
Mew at AX 2010/2/20

 言葉は要らない、そんな感じ。

【スポーツ】
ワールドカップラウンド16 アメリカ対ガーナ
高校野球(夏) 仙台育英対興南
バンクーバー五輪カーリング女子 日本対ロシア
次点;アジア大会 女子200m

 サッカーは一番面白かった試合をセレクト。アメリカらしさとガーナらしさ、双方が出たゲームだった。結果が地味だったラウンド16の中では一番面白かったし、総じて守備的な大会でここまでアグレッシブな試合を見ることが出来たので新鮮だったのかも。
 甲子園の仙台育英対興南の面白いところは、リードしているはずの仙台育英がじょじょに追い詰められていくこと。かつ、興南に焦りがほとんど見られなかったこと。春の覇者の強さ、一方で2年生エースの弱さという高校野球の面白さが凝縮された試合だった。
 オリンピックからはカーリングをセレクト。日本の試合はほとんど見たんだけど、ロシア戦の大逆転劇はライブで見ていた身からすれば素晴らしい試合だった。一方で日本の脆さも前半で見せていたので、後々の結果に繋がる試合でもあった。このへんは今週のNumberに詳しい。
 次点としてアジア大会の短距離を。福島千里がもろもろの挫折を経て結実したレースでした。ちーちゃんかわいいよち(ry

 こんな感じ。自分自身について振り返る時間などもうない!w
 ではおやすみ、そしてよいお年を。プリンターが不調のため、人生で初めて年賀状を書かない年になりますが、了承くださいませ(>一部の人へ)。
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 先週は久々に就活っぽいことをした一週間だったような。まあ外に出向くことだけが就活ではないですが、最近は体調を崩したりゼミ発表の準備などでそっちの作業をすることが多かったので就活は完全にスルーしてたなあ、と。ただまあ、やるべきことをやるということが後々就活に生きてくればいいなーとは思います。そんな感じ。
 金曜日のセミナーというか講演が思ったよりは面白かった。有名就活ライターの木暮太一と石渡嶺治のお話。石渡さんとは直接お話もしたらオフ会に誘われた。うーん、考える。日程が微妙ではある、あと知り合いがいるかもしれないのだがw世間狭い。
 なんていうか、目の前の問題や課題を一つ一つこなしていくことが就活らしいことかもしれない。かつ、自分が何をやりたいかは洗練させなあかんだろうと思う。細かく言えば勤務地とか。
 
 話をしたと言えば面白いこともあって、毎週木曜に佐々木敦の講義をとっているのだが(主にマイナー音楽を垂れ流す)音楽の話はもちろん質問するだけの素養がないのでパス。佐々木さんが解説を書いている伊藤計劃『ハーモニー』を読み終えました、ということで1分半ほどお話をした。佐々木さん曰く、SF読みじゃなくても読めるということ、けっこう売れてるらしいということ、続きが読みたかった、とのこと。
 このへんはうん、いわゆるハードSFとも趣が違っていて、それこそ『マルドゥック・スクランブル』のような遠いようで近い未来を舞台にして書いているので、その分SFとは違うリアリティがある。それこそ、ゾクゾクするものが。グロじゃないのに読んでいて気分が悪くなる(いい意味で)小説とか初めてであるよ、とも話したような気がするな。

 月曜日にはゼミでプレゼンをしたあと(今期ラスト!)やれやれという感じで新宿に向かい飲み会。俺は1次会欠席のメールを諸々の理由で送っていたのでその間はユニクロで軽く冬物を買ったあと、いつもの場所でしのぐ。
 女の人が1人いたんだけど話を聞くと生主をやっているとか。なんで飲んでて隣に座ってる人が生主なのかと問いたかったけどまあそれはおいておいて、アニメの話やマンガの話もしつつ、本読みでもあるということで1時間ちょい喋ったあと、お互いのニコ生のコミュを教え合いをするなど。その後彼女はホテルに行ったようです、めでたしめでたし。
 まあそんな謎な出会いを通過しつつ、二次会へ。Y談→ラーメンの話(東京のラーメンは苦手なのでついていけない)→就活の話→勉強の話という流れだったかな。飲み会の面白いところである、少しずついつもと違う話をするという風に流れていったのは面白かったかなあ、という感じでした。
 俺の場合は酒が入ってもあまりトークテンションが変わるわけではないのだけれど(頭はいたくなるが)明確に変化する人はやはりいるわけで、そういう人と話をするために酒を飲んでいるのかもしれないな、と思った。いやまあ酒を嗜むのも好きだけどね、下戸だとしても。

 一次会と二次会、それぞれ別な場所で別の人と話をして思ったこと。
 自分の興味の射程の限界はどこにあるんだろうか。アニメや漫画やニコニコの話もするし、真面目な話も当たり前のようにするし、かといって自分について語ることは少なかったりする。一般論を語るわけではないのだが、話を聞いている人の立場からすれば俺らしさって何なんだろうね、と思っているのかもしれない。俺にしか話せないこと、俺しか、持ってないもの。
 それってよほどの人間でない限りは、経験から得られるものでしかないだろうと思う。その人自身を構成する経験、つまりは自分のことについて語ることが何よりオリジナリティで、唯一性のあるものなのだろうな、と。
 若いひとは空気を読む傾向にあるとか、一見唯一性やオリジナリティといった共感を呼ばないものを好む傾向がある気がしている。ある程度のノリやテンションが大事にされ、空気を乱すことは全体の効用が著しく下がるので好まれない(なんかこう書くと功利主義的だなあ
 
 と、ある種通説的に感じていた部分というのは何らかの組織体に属すとわりと当たり前のように感じるところである。だからめんどくせーとなると1年のときのサークルのようになるのでそういうことはしない。組織に属している以上はすんなりと思っているようにいかないのは当たり前であると受け入れるほうがよほど楽である。就活を無事終えても仕事をすぐ辞める人は、あまりにも自分の思いに固執しすぎるんだろうなあ、とか思ったりもする。
 要は、誰かと関わって生きていくためには自分の思いから飛び出すことも大事なのですよ。いやまあ当たり前なんだけど、自分の殻の中にこもっているほうが楽だったりするし落ち着きもするし、変な気を遣う必要もない。ある種の中二病とはこういうことだろな。
 なのでというわけではないが、ここ最近はわりと肩の力を抜いて人間関係を楽しんでいる。続けば面白いし、続かないものはしょうがないくらいの。本当に大事なものはほんの一部だし、そうでなくても一人の人間が抱えられるものには限界がある。可能な限り変にすり減らすことをせず、やんわりと目の前のことに向き合うのが殻にこもるよりも楽かもしれないし、得るものは大きい。

 「人生におけるぜいたくとは、人間関係におけるぜいたくである」という言葉もたぶん間違っていなくて、サークルを全部辞めた後に世間に復帰できたのは人と出会えたからだろうし、もっと人に会いたかったから、だろう。逆に言えば、その気持ちをなくしてしまうとこわいなあ、と言えなくもないな。また引きこもってしまうんだろうか、とか。
 まあ、俺の大学生活とはざっくりと言えばこんな感じである。人と会う以外には、色んな物に触れるということかな。本であったり映画であったり音楽であったり絵画であったり。クリエイターにはどうあがいてもなれっこないと思っているので、自分が生み出せないものに触れるというのは感動そのものであると思ってる。
 こんな感じ。飄々としているように見えるのはたぶん気のせいだし、真面目そうに見えるのもあくまで「〜そう」なだけで中身は全然不真面目なことを考えてたりします。
 
 まあ、でも概して人ってそういうものだろう。簡単に他人のことが分かるはずがない。だから面白いのかもね。勉強もそういうものだし。


読了
93:司馬遼太郎『司馬遼太郎 歴史との邂逅2』

*今日の一曲 
Stephan Mathieu + Taylor Deupree「Largo」


 Largo=ラルゴとはイタリア語の音楽の用語。「やや遅く」「ゆったりと」といった感じの意味らしい。ゆったりと日常を過ごしたいものである(他方で、げんじつはたいへん
 丁度昨日この曲が入ったアルバムが届いた。最近はアングラというかノイズというか、エクスペリメンタルな音楽をもっと聴きたい知りたいなあという気持ちがあっての購入。
 趣味趣向なんてものは非常に移ろいやすい、のかもね。その中からずっと好きなものを見つけ出すことが、すごく楽しかったりする。だから繰り返すことを辞められない。
 
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 最近エッセイというか論考のようなものが続いていてまともな日記はもはや月1,2回にしかなってないという謎な状況である。こんばんは、バーニングです。
 でも少し前にカウンターが35まで回っていて色々びっくりした。こんなに回ったの初めてかもしれん、スクショ撮っておけばよかったと思うなど。
 今週は来週のゼミ発表に向けて詰めなければなーという感じです。

 まあそんな感じで文献や資料をあさらねばならないのですが久しぶりに本の話でもしようかな。
 今年もこのミスの季節と言うことで週末に本屋に行ったんだけど、1位はまあ納得なんだけどそれ以外がう〜ん、という感じ。ここ何年かは本格が強いのかなあ。本格はあまり読まないので、逆に言えば本格以外の書き手が低調なのかもしれない。去年かなり票数の入ってた米澤穂信も今年はさみしかったし、伊坂も『マリアビートル』がなんとか上位には食い込んだものも、ピエロやコインロッカーを連ねた2003年や2004年にはかなわない。
 今年は本当に好みの作家のランクインが少なくてしょげつつ、確かに書いてないもんなあ、とうなずきつつ、隣のあった「このライトノベルがすごい!」を買ってきたのでした。大学入ってからこのラノを買うのは初めてかも。逆に、このミスは2004年版からずっと買い続けていて初めて買わない年となった。
 
 いや、すごいね、インデックス。というか御坂美琴の人気に嫉妬したくなるほど。
 ミステリー界と反してというのはあれだが、色んな意味でこの業界は活気づいている。レーベルも3年くらい前から毎年のように複数創刊されてるし、その中でもガガガ文庫はランキング上位に多く名を連ねていたり。
 あとファミ通文庫がここ最近強いんですね、書店では電撃やスニーカーに押されてて数自体は少ないイメージがあるんだけど、文学少女シリーズとバカテスシリーズが順調に伸びている模様。さらにツイッターでもたまに話題にのぼるココロコネクトシリーズはまだ若手作家さんのようで、次の世代が育っているというのは勢いがある証拠かな、と思う。
 もう一つ勢いのある要因はインデックスやバカテスに代表されるように、アニメ化されていること。ここ最近は出版からアニメ化のサイクルがかなり早くなっているように思う(実感ベースなので詳しく調べたわけではないが、↓に参考として記載しておく)
 たとえばハルヒなんてのは、ラノベ界である程度流行ってから満を持してアニメ化して成功した作品と言えると思う。当時はラノベで人気を博すことが、アニメ化の先行指標のようなものになっていたのではないか。だが最近は人気が出てくるとほぼ同時にアニメになるか、もしくは巻数が少ない間にアニメ化され、ラノベのほうに人気が出てくるなんてのも珍しくない。インデックスやハルヒなんかはある程度巻数を重ねてからのアニメ化と言えるだろうけど、むしろマイノリティなんじゃないかな、と。最近人気の俺妹は1巻が出てからたった2年しか経ってない。
 むしろ西尾の『化物語』シリーズに代表される語りもののように、メディアミックスが前提とされているケースも出てきた。一方で、このラノでも言及があったが冲方丁が本屋大賞と吉川英治文学新人賞を受賞するなど、一般文芸界でも話題になった年である。2008年に桜庭一樹が直木賞をとったあたりから、冲方もそうだし橋本紡や有川浩などラノベ出身の作家が一般文芸でも知名度をかなり高めつつあるのの事実だろう。
 1つは映像化原作の提供ルートとして、もう1つは一般文芸への供給ルートとしてここ数年のラノベ業界は活性化してきたイメージがある。レーベルがさらに増えているという意味で、またアニメ化のサイクルが参考に上げたように2年少々とかなり早くなっていることを考えると成熟していると言ってもいいのかもしれない。

<参考>
涼宮ハルヒの憂鬱:小説初版2003年6月→アニメ化2006年4月(2年10ヶ月)、2009年4月
とある魔術のインデックス:小説初版2004年4月→アニメ化2008年10月(4年4ヶ月)、2009年(レールガンシリーズとして)、2010年10月
とらドラ!:小説初版2006年3月→アニメ化2008年10月(2年7ヶ月)
バカとテストと召喚獣:小説初版2007年1月→アニメ化2010年1月(3年)
文革少女シリーズ:小説初版2006年4月→アニメ映画化2010年5月(4年1ヶ月)
俺の妹がこんなに可愛いわけがない:小説初版2008年8月→アニメ化2010年10月(2年2ヶ月)
*OVAはのぞき、あくまで放映ないし上映時期のみ掲載

 あと、最近読んだ中で面白かったのは『乳と卵』と『ハーモニー』かな。前者は言わずと知れた2008年の芥川賞作品、後者はハヤカワがプッシュしている夭折した伊藤計劃の第2長編。『虐殺器官』のあとの世界のお話。
 『乳と卵』はレビューをすでに書いたので読んで欲しいんだけど、『ハーモニー』は純文学ではないのだが文学性も非常に素晴らしいと思う。主人公トァンとミァハの関係性、ふたりの存在感は読者にとって手の届きそうで、でも届かないくらいの距離で書かれていることが終盤の展開で再び生きてくる。リアルとアンリアルの狭間をさまよう。これをセカイ系と言ってしまうには、あまりにももったいない。
 いずれにせよ、こういう視点で生と死を書いた作家はかつているだろうか?さらにいえば、あくまでSF(個人としてはハヤカワが作った言葉であるリアルフィクションというジャンルのほうがより適当な気がする)の範囲で人間なるものとは何か、という文学的な問いを書いたことに大きな意味がある。SFとしても超一級の世界観やストーリーであるし、他方で多分に哲学的だ。生と死の問題を、公と私の問題に置き換えればどうなるだろう。ヒントが本作につまっている。答えは・・・。
 
 たぶんレビューをいずれ書き上げると思うのでご期待あれ、かな。そのうち2010年ベストの記事を書こうと思っているけど、『ハーモニー』が小説部門で暫定1位です。『虐殺器官』の衝撃よりも、さらに捩れた衝撃がここにはあった。
 私たちは本当に惜しい作家を亡くした。天才とは、儚いもの、か。

11月〜12月上旬の読了
84:黒い季節/冲方丁(レビュー
85:ハル、ハル、ハル/古川日出男
86:インシテミル/米澤穂信
87:日本の医療は変えられる/伊藤元重 編
88:国家(上)/プラトン
89:論点解説 日経TEST/日本経済新聞社 編
90:乳と卵/川上未映子
91:地域医療・介護のネットワーク構想/小笠原浩一・島津望
92:ハーモニー/伊藤計劃

 87は論点がよく整理されていて、主に経済学の視点ではあるが読み応えあり。医療問題を扱う一方、市場における医療の価値を論じている。
 88は哲人王支配を肯定するまでの過程がソクラテスらの議論によって導かれる。結論そのものよりも、ソクラテスの議論の方法というのは『ゴルギアス』で見られた議論よりは、議論の本質というものをついている気がする。
 91は各地域で行われている医療連携やネットワークの事例をいくつかの理論を用いて分析し、かつ今の時流の中で連携を結ぶ中で何が重視されているのかを指摘している。あまり長くはないが、コンパクトにまとまっていて目配せも丁寧で分かりやすい。

今日の一曲
世界のほんの片隅から(2001年)/ZONE
 
 寒い季節に。『ハーモニー』のラストシーンが浮かぶようだ。
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 2年ぶりにSeraphicBlue(以下セラブル)についての記事を書こうと思う。当時はどう解釈して良いかが分からず衝撃という二文字を抱えて、口が開いたままにエンディングを迎えたのをよく覚えている。ラストは夜通しプレイし、エンディングを迎える頃には朝日が昇っていたのも印象的だった。頭の中はそれほどすがすがしい気分ではなかったけれど。
 2年ぶりに書こうと思ったのは、当時からこのことについてはうっすらとながらずっと頭の片隅にあって、まだ答えが出ているかどうかはよく分からないものも今書ける範囲で書こうと思ったからである。頭の片隅に葬ってしまうよりも、一度形にしたかったからというのもある。おそらく、この観念については一生考えなければならないしことあるごとに意識せざるをえない、普遍的なものでもある。古くは鴨長明、今では誰だかよく分からないし普段生活をしていて意識することはほとんどないのだけれど、だからこそ忘れてしまわぬように書いておきたい、というのがねらいのひとつ。
 書きたいことはクルスク家の示したテーゼについて。ケイン、レオナ、そしてアイシャをめぐる物語。
 
 「中毒性と乱用性を持つ物語だからこそ、放たれる言葉の持つ力は大きい」と2年前の記事で書いている。その最たるものがあるが、終盤もいいところなのでネタバレ勘弁。ゲームに興味があってネタバレ知りたくないというかたはご注意を。

 
あらゆる悲しみや苦しみから救われる真の救済。それを為す真の愛。
“生まれて来ない”事、“生み出さない”事を。
故に言った。
そして願わくば、この愛が此処に在らざる子供達に届かん事を。
生命を誕生させない事で、
全ての悲しみや苦しみから、守り救う事が出来る。
未来永劫に渡る、“無”に於いての安寧の眠りを与える事が出来る。
それが私達の思う、愛と贈り物。


 この台詞はクルスク家のレオナがEp43のステージ、アイシャの空でヴェーネたちに投げかける言葉である。本来は死して怪物となったアイシャに投げかけるはずの、親心としての言葉を。
 そして親心は続く

 
子供は生まれて来た時に泣いているでしょう?あれはそういう事。
能くも私を産んで呉れたな。
ハイリスクを背負わされてまでの
不確かな幸せなんて、欲しくなかった。
真なる愛と救いの中で、永遠の無で在りたかった。
怒りと、嘆きと、悲しみ。それこそが彼らの産声。
ならば私達は生命を否定し、そして実際に行動を起こそう。
忌まわしき生命の美学<イデオロギー>の下に
振るわれる暴力より、無力な子供達を守る為に。
世界を無に還す。


 この言葉に対してフォクシーやヴェーネのように吐き捨てるのは簡単だし、あるいはヤンシーやミネルヴァのように違う、そんなはずはないと対抗することもそれほど難しくはない。あくまで、対抗することにおいては。
 ただ、この言葉を、このイデオロギーを完全に看破することなどあるだろうか?おそらく人類がユートピアのような世界を作り上げないことには不可能だろう。世界は不幸と悲嘆と、絶望に満ちている。それ自体は疑いようが無く、その大半は他ならぬ人間によってもたらされている。
 幼い頃に夢や希望を持てと教育され、素晴らしい未来があるに違いないと教え込まれたあげく、見るのは人間同士が惨めに争う姿だ。その産物である絶望に対して、幸福な立場にいる人間は目を向けようともしない。そんなものは知らない、とでも言わんばかりに。セラブルにおいてはイーヴル(遺伝子異常で人間が怪物と化した姿)をめぐる思惑が好例だろう。いわば”失敗作”として天から地上に放り投げられ、天はそれを無視する。地上は天に敵意を向けるし、それを煽る者も出てくる。イーヴルを何か別のことに置き換えれば、容易に想像できる不幸のなすりつけ合いである。

 失敗作の1人であるアイシャ(後に最強の怪物、イーヴル・ディザスティアとなる)が不幸のなすりつけ合いの延長として刻まれている以上、レオナの親心をそんなものはばかげていると簡単に片付けてしまうことはおそらくできない。反論できるに足ほど、それほど綺麗な世界を、提示できていないのだから。そしてそれ自体は不可能だろう。
 こっちの世界に置き換えてみれば、人口はまだまだ増えるし新しい憎しみは生まれていく、歴史は当然のように繰り返していく。いつどこで、誰が不幸に巻き込まれるかは分からない。リーマンショックは人間の手の制御できない世界の象徴であると言っていいし、市場にはもはや神すらいない。

 この2年間考え続けて出した結論は、レオナの言葉を一方では受け入れ、他方では反抗していくという二律背反を抱え続けることしかできないということ。複雑化する現実を前にできることはそれくらいのことだと思っている。だが、坂上智代が言ったように、決して絶望はしない。絶望することはすなわち、レオナを肯定するようなものだ。
 あきらめたらそこで試合終了ですよ、ということはスラムダンクで15年以上前に書かれていることだ。世界はめまぐるしく変わっていく中で、決して絶望しない覚悟を持つのは簡単じゃないことも自明のことだろう。
 それでも、そうすることでしかレオナに、ひいてはクルスク家に対抗することはできない。そしてひいては、アイシャの供養にもなる。こっちの世界にも彼女に準じるような不幸を持った少女は、数え切れないほどいるのだから。

 絶望を生み出すような現実を作り出したのが人間だとするなら、生まれてきた人間の問題であるならば、これから生まれ来る者に当然責任はない。逆に言えば、これから生まれ来る人に対してこっち側の人間が向き合っていくべきだろう。不可能かもしれなくても、そうするしかない。
 不可能なら意味がないとレオナは言うかも知れない。そんな世界は結局のところありえないのに何の意味があるのか、と。
 だからこそ希望を提示する、希望を捨てないでいるというのは青くさいのだろうか?全てを変える希望などありはしないが、いつかレオナをぎゃふんと言わせるような世界を提示するためにもがき続けたいと思う気持ちを無駄にしたくない。自分が若いから、というのもあるかもしれないが。
 
 最後少しキレイというかエモーショナルにすぎるかな?とも思いつつ。
 そう遠くないうちに、ヒロインであるヴェーネとダークヒロインであるエルに関するエッセイでも書く、かも。今回ヴェーネのレオナに対する反論についても深く書こうとしたけど長くなりすぎる気がするのでパス。
 まあなんというか、このゲームが内包している問題意識はすさまじいということが再確認できた。次回作は難航しているようだが、完成を願いつつ、本稿を締める。


*参考
・Blue Field http://www2.odn.ne.jp/~caq12510/
→制作者天ぷらさんのサイト。Seraphic Blueは2004年に公開された3作目の作品である。前2作は今はDLできない。俺は持ってるけど未プレイ。
・Seraphic Blueまとめウィキ http://www21.atwiki.jp/seraphicblue/
→キャラについての説明をかなり端折っているので、人間関係などの参考にどうぞ。簡単に言えばクルスク家がボス、それ以外の言及しているキャラはプレーヤー側のいわゆる仲間
・Seraphic Blue文章版
→プレーヤーの一人が作成したゲーム内の台詞をそのまま引用し、編集したもの。ブログを書く際には参考にしました。初版は2007年公開のようですが、今はもう手に入らないようです。残念。

 
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