2010年10月

2010年10月29日

『ヨスガノソラ』における断絶の描写についての雑感

 秋の新作アニメで「ヨスガノソラ」というのがあるのだが、これが思ったよりは面白いのかも知れない。
 下着をふつうに描いたりだとか、兄妹の間にいかにも何かありそうだったりだとか、わりと際どいシーンが(物理的にも精神的にも)早くからあったんだけど、4話がなかなか衝撃的だった。
 ああ、あそこまでアニメでやっちゃうんだ、と。実写の映画なら、特に洋画ならわりとありふれているとも言えるけれど、アニメではなかなか、少なくとも全年齢対象のアニメならない。原作がエロゲだと言ってもアニメ化する場合はいわゆる18禁のシーンは取り除くからね。AT-Xでの放送では全部描いたのかな?

 ただまあそれ自体は本稿の主旨ではない。
 簡単に言うと、断絶って物語化しやすいよね、ということだ。むしろ、断絶それ自体が物語であると言ってもいいかもしれない。日常的にも。
 物理的な断絶、たとえば母を訪ねて三千里じゃないが、それはもう断絶自体を物語としていると言っても過言じゃないだろう。もしくは遠距離恋愛なら断絶があるが故の普通の恋愛とは違った物語が生まれるはずである。幸か不幸か、それは分からないけれど。
 
 翻って、ヨスガノソラの場合は精神的な断絶がテーマになっているように思う。2話〜4話は主人公の春日野悠、神社の娘で巫女でもある瑛、地元代議士の娘で才色兼備の一葉との3人の関係(三角関係もどき)と、瑛と一葉の過去をめぐる物語である。過去というのも物語創作における断絶にはよく出てくる文法かもしれない。
 精神的な断絶、しかも10代の若い彼女たちの断絶を描こうとすると感情の吐露が避けられないし、その描写を惜しみなくヨスガノソラで演出することによって、3話と4話では言いようもない暗さが表れていた。物理的な描写における際どさを最終的に回避しなかったのも、それまでの重たすぎる暗さと対比する意味でもあったのかもしれない。
 あのふたりなら、あそこまで描かないのはむしろもったいないんじゃないか、というくらいにね。

 数年前のアニメで、これもeufoniusが主題歌を歌っている「true tears」というアニメがある。これも精神的な断絶(人間関係におけるもの、地縁的なものからくるものなど)を中心に据える部分があったし、それでいてタイトルにもなっている涙というのが核心になっていたわけだが、ヨスガノソラはtrue tearsにおける涙のように、何を核心に据えているのかがまだ少し分からない。まだ少し、どこかで見たような物語の域を抜けてない。まあ、今後の期待もこめて、だけど。
 true tearsとヨスガノソラの共通点はロケハンを熱心に行っていることによる風景の鮮やかさだろう。true tearsの街並みの描写や雪の描写、ヨスガノソラにおける田園や神社の描写、特に神社に至るまでの階段の長さと周りを囲む木々の静けさは妙にリアルに感じられた。
 エロゲ原作にありがちな、どっかにありそうな町におけるありえなさそうな学校生活というのではなく、確実に春日野兄妹や瑛、一葉の生活は近くて遠いどこかにありそうだな、と思わせるには十分なロケハンであるなあ、と見ていて思った。手違いで1話の録画を消去したのを若干後悔している。

 ヨスガノソラの原作をやっているわけではないので今後の展開は分からないが、2話から4話の流れはちょっと早すぎたかなあと思う。
 オチがついてしまうとあっけらかんだけど、それまでの過程であるとか、一葉や瑛の心情の内面をもっと掘り下げてもよかったんじゃないかな、と思う。ビオラの話であるとか、瑛の本音であるとかね。
 
 色々書いてきたけど、断絶とは別に濃密さも物語においては重要だ。「けいおん!」は濃密さそれ自体で勝負して成功したアニメと言えるだろう。
 Keyのアニメも「CLANNAD」における智代の家族や朋也と父親の断絶というのは、あくまで断絶をスパイスとしながら濃密な物語を描こうとしている。
 true tearsは断絶を描きつつ、濃密さにはこだわらなかったのが面白いと思っている。最後は大団円、とかいう形ではなかったし。事はそう単純じゃないよね、ということかもしれない。もちろんCLANNADは人生だと思うし、あくまで物語の方向性の違いの問題であったり、ひいては人生のとらえ方の違いに帰結するだけだろう。

 ヨスガノソラはどっちを向くのか、5話以降を楽しみにしていようと思う。そんな花金の夜。
 物語における断絶と濃密についてはもう少し広げられる気はするので、機会があればまたいつかにでも。

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2010年10月27日

英雄譚の希求と安心の所在について

 定期的に続くかどうかは分からないが、これからふだんから頭の片隅にあることであるとか、日常を過ごしている中で考えたことをフローしていこうと思う。
 ツイッターでもちろん似たようなことはやっているのだが、まとまって書くのが個人的にはしっくり来る。字数制限もないし、時間もかけられるしね。まあツイッターほど人の目には触れないかも知れないが自分がそのとき何を考えていたかを残せるということはそうそう悪いコトじゃない。ライフログってそういう要素もあるでしょう?と
 これを機会に長めの文章を書くと言うことを再び生活のリズムに取り組んでもいいんじゃないか、と最近のブログ投稿数の少なさから考えてもみる。どうなるかは分からないけど。

 前置きはそんな感じで、今回は旧約聖書とワイルドアームズ2と数人の政治家を取り上げて英雄と安心について文章を書いてみたい。論文のようにがっちりしたものではなく、あくまで頭の中をフローするように、ざっくりとした感じで。

 旧約聖書。
 これもまあざっくりとしたとらえ方にはなるが基本的にはユダの人々と唯一神ヤハウェをめぐる物語と言っていいだろう。ちなみに世界史は世界史Aというこれもまたざっくりとしたものを高校時代に履修しただけで、旧約聖書に触れたのは大学一年のころに何気なくとった「宗教概論」という講義の変な先生のお話と、山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』に由来する。
 先生のお話は高尚すぎて(?)よく分からなかったのだが大学の先生は変人なんだなあ、というのが一年の前期にして刷り込まれたのを覚えている。山我さんの本はそれこそ歴史の講義を受けるように人間関係や戦争やらがすんなり頭に入ってきて、所々旧約の記述に対して持論が展開されていてそれ自体で読み応えのある一冊だった。
 いきなり脱線した。まあ簡単に言えば旧約とはユダとヤハウェの歩んだ歴史と奇跡の数々である。それ自体は歴史的にも様々な考察がされており、著者は不明だが全くの創作ではないという方向をこの文章では支持したいと思う。
 その上で、ユダがヤハウェを生み出した背景に注目したい。ヤハウェを英雄にたとえるのは少し違うかも知れないが、出エジプトを果たしてカナンの地に導いたヤハウェは英雄としてあがめられたに違いない。少なくとも熱烈な信仰が唯一神としてのヤハウェを構成し、偶像崇拝の禁止から始まる多くの戒律を信徒に課すことになる。これってある種の自由の強制であり、不自由じゃんと思えて仕方ないのだけれど、事はそう単純じゃないというのはユダの人々がイスラエルで歩んだ歴史を見ていると感じる。
 不自由さ以外にも強烈な信仰というものが生み出す排他的なもの、その反動としてキリストが登場したというのも考えすぎとは言えないんじゃないかな、とも思う。一方、ヤハウェがいるということが救いになることもあっただろうし、ユダ民族とヤハウェの繋がりは第二次大戦後に長くディアスポラだったユダヤ人が自分たちの国としてイスラエルを再建したことにも深く表れている。ユダあってのヤハウェ、ヤハウェあってのユダであり、宗教の持つ包括性がよく表れているように思う。ユダヤ人であること、そしてヤハウェを信仰すること、そしてイスラエルという国が今もまた存在することは現代的には承認の共同体と言っても不可分じゃないと思う。自分たちの国があるということは国際政治的な意味での承認もあるのだから。
 周りがイスラム教徒だらけのあの地にイスラエルを再建するなんていうのは尋常なことじゃない。だから現代でも他国との衝突は避けられないんだけどね。

 もう一つ英雄譚を。ワイルドアームズ2nd Ignitionというゲーム(以下WA2)におけるアシュレーとアナスタシアの抱えた葛藤について。
 ふたりは違う時代でともに英雄と呼ばれるほど、世界の危機を救うために奮闘した。アナスタシアはその結果命を落としてしまい、アシュレーもギリギリの状況に追い込まれる。肉体的にも、そして精神的にも。
 当初アシュレーは英雄になりたいと思うどこにでもいる青年だった。その彼が現実の敵(なるもの)と戦っていく過程で英雄の存在を疑問視していくようになる。普通のRPGなら主人公がラスボスを倒すまでのストーリー、つまりは世界にとっての英雄になっていく物語であることが大半で、WA2も途中まではその王道をなぞりながら、Disc2から葛藤という言葉が大きなキーワードになってくる。
 おそらくは当事者であること、当事者意識が物語を経ていく上で芽生えたということが大きい。それを経ないまでは英雄になりたがっていたが、現実とその狭間を経ていくことでアシュレーは英雄であることから逃げようとする。期待、使命、さらに複雑化する現実。ネタバレになってしまうが、アシュレーが「英雄なんていらない」と思い至るのがこのゲームのクライマックスである。ある意味RPGや英雄譚の否定であり、でもそれは英雄信仰があってこその否定だったということはアシュレー自身が体現した。当時14歳か15歳であった自分にはなかなか衝撃的で、現実の一端を垣間見た気がした。少なくとも学校では英雄なんていちゃだめなんだよ、とは教えない。
 少なくとも、歴史的な英雄の価値は認めた上で、現実の問題として英雄が存在すること、また存在しなければならない状況とはなんぞや、ということは今大学生になって政治学や行政学を扱っていることと無関係とは言えないような気もする。

 振り返って英雄を求めるのはなぜだろう。そこに問題や危機があるからか、あるいは退屈な日常におけるカリスマの非日常感を求めるからか。小泉純一郎は後者かなと思うが、今彼が登場したとしたらおそらく前者だろう。鳩山由紀夫は英雄になり損ねた、良くも悪くも。オバマも、あれから2年経った今では真の英雄になれるかどうかは厳しい状況である。
 いずれにせよ、英雄とは手段なのである。自民党をぶっ壊したいだとか、いのちを守りたいだとか、口蹄疫から宮崎を守りたいとか、なんらかのメッセージが多くの場合に存在し、共感を呼び、信仰とまでは行かなくてもある種の熱狂を巻き起こす。
 その熱狂自体は旧約聖書のころからあるごくごく自然な人間の感情の積み重なったものなのだと思う。一人一人の力は社会を変えるには乏しいが、政治家や神なら変えられるかも知れない、そういった変革への期待を多かれ少なかれ指導者は背負うことになる。

 でも、やっぱり個人の力は個人の力である。誰か一人だけでできる仕事なぞたかが知れていて、誰かにしかできないことはあるとしても、仕事とは多くの人間が絡むことだろう。少なくとも国家の系というのはそれだけの規模を持つ。
 英雄を希求し、そこに何らかの期待をこめることは悪いことじゃない。ただそれで安心してしまうと、失うものが大きいんじゃないか。真ん中だけを見て、その周りを見てないんじゃないか、と。木を見て森を見ず、それが罪となって麻生政権のころから小泉政権への批判が公然と出始めた。何を況や、である。もちろん小泉政権の全てが悪かったとは言わないが、ドラスティックすぎる改革の副産物に関する展望がなさすぎた。巻き添えを食うのは普通の市民である。
  
 英雄とは手段だ。安心したいから、とこの文章では書いたが、実際はなんのための手段なのかははっきりと言えることじゃないかもしれない。ただ短期的には英雄にすがることは安心に繋がる、と考えるのは不自然だとは思わない。
 でももう少し、思いをめぐらせてみよう。本当の安心は、英雄信仰を離れた先にしかないということを、アシュレーが悟ったように。
 たぶんそれが、英雄視される人間にとっても幸福なことだろう、長期的な意味ではね。
 
 
*****

 何がさっくりだか、1時間以上かかって3000字を費やしたのがこの結果だよ。それなりのレポートの分量があるじゃまいか。
 という感じで、これからもこんなに長くなるかどうかは分からないし、時間的にはおそらくならない気がするけど、のんびりと文章を書いていけたらいいなあと思います。コンパクトに書くのも大事だよね!(いまさら



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おまけ
 

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2010年10月08日

ケンタとジュンとカヨちゃんの国(2010年)

監督:大森立嗣
脚本:大森立嗣
主演:松田翔太、高良健吾、安藤サクラ


劇場:ユーロスペース


 ああ、こういう映画だったのか、と見終えたあとに思った。正直、この映画はかなり単調である。現実逃避からのロードムービーというのはよくある映画の形だが、ここまで起伏の少ないロードムービーも珍しいんじゃないかと思われる。なぜそこまでシンプルにしたのか、敢えて使い古された設定を使ったのか。パンフレットを先に読んだわけではないのので、映画の行く先がどこになるのかを気にしながら見ていた。正直、最後の最後まで分からなかったんだけれど。あるいは、分かった気になっているだけかもしれない。

 ケンタとジュンは同じ施設で育ち、同じ会社の解体業者として働く日々。仕事先では虐げられ、傷が増える以外には何もない単調な日々が続く。ある日ナンパに繰り出してカヨと出会い、ジュンがその日のうちに一夜を過ごす。女とヤることが一義的に必要なジュン、ただ愛を求めるカヨ、そしてケンタは現実逃避のための破壊衝動にとらわれていた。かつて兄がそうしたように、そして兄のいる網走を目指すために。光の先の、希望を信じて。

 この映画の特徴の一つに会話の少なさが挙げられる。それと同時に、語彙の乏しさも。意図的にコミュニケーションを避けているのか、避けてはないが言葉が出てこないのか、もしくは言葉がなくてもコミュニケーションができているととらえるのか・・・どれか一つの答えにならないのはジュンとカヨの関係性をずっと見ていればよく分かるし、少なくとも、濃密な会話、つまり脚本の素晴らしさによる演出は極力映画として避けているのは伺える。いやまあ、ここまで乏しい会話で2時間持たせるというのも脚本の才能なのだろうか、いやそれを生かすのは監督の腕か。いやこの映画ではどちらも同じ大森さんか。

 現実逃避という要素と合わせて暴力という要素も映画の結末に繋がるキーとなってくる。ケンタにとっての兄の存在、そして頭の悪い自分が唯一即行動に移すための手段としての暴力。あるいは、暴力という象徴的な身体性が前に書いた言葉の乏しさに繋がっているとも言えるだろう。目の前の状況を今すぐ打破するためには、言葉などあてになるはずもない、と。これは今の時代にはあまりにもアンバランスに感じられることでもある。校内暴力が近年増えているというデータはあるが、80年代ほどではないだろうし、暴れている世代よりも引きこもる世代のほうが圧倒的に今の時代は多い。変革よりも不変を、アクティブさよりも消極さを望む。特に前者はかっこわるいとかどうせ無理だ、とかいう言葉で片付けられるのがオチだ。事実、現実は簡単には変わらない。

 逆に言えば、古くさいとも言えるロードムービーのような構成も、時代にそぐわない現実逃避や暴力も、現代へのアンチテーゼととらえるとしっくり来るのだろうか。そういう一面はたとえば20代の失業率の高さや不安定な雇用であるとか、それによる現実から抜け出せない悪循環を考えると分かるんだけれど、その一方でラストシーンをどう解釈すればいいのか個人的には分からない。良くも悪くも突き抜けるべしなんだろうか、あきらめの世代に対する有効な手段がそれなんだろうか。確かに答えはないだろうけれど、答えがないという前提で映画の中のケンタとジュンと描き方を責めるつもりはないが、ストーリーの起伏の少なさによる意外性がなかったせいか、今現在を20代として生きる自分にはしっくりこなかったのである。ストレートに描きたいという大森監督の意志は伝わるし、主演の3人を中心とした演技者の演技も見事になりきっていたが、全体が提示されたまま終わってしまった、という感じが映画を見終えたあとの率直な感想である。

 ただ個人的には、そうしたラストシーンでさえもあるがままの事実を見据えるカヨちゃんの目線を尊重したいとは思う。彼女の大らかさ(無知であるがゆえ、かもしれないが)と積極的に陶酔しようという気持ちは一人の大人としてはふさわしくないだろう。ただ、それらを全て失うと言うことが大人になるということとも違う。カヨちゃんは本作の中で誕生日を迎えるのだが、そうして歳をとるということをかみしめていくことで彼女は彼女なりに、不器用でも大人になろうという意志が見えた。最初ナンパで2人にひっかけられた時の彼女の表情と、ラストの眼前をまっすぐ見据える彼女の表情は歴然とした違いがある。重みも違う。

 つまり、あくまで個人としてはケンタとジュンの映画というよりはカヨちゃんの映画だったのかな、と思う。彼女のフィルターを通して全体を眺めるほうが得るものが多かった。もちろんそうでなくとも得るものはあるだろうが、個人としてはカヨちゃんの目線が強く印象に残った次第であり、そういう見方もアリだと思う。少なくともカヨちゃんは映画の中でただの傍観者というわけではないのだから。

 ケンタとジュンに関しては、終盤のキャンプ場でのワンシーンにやられた。あのシーンで目が覚めた、と言ってもいい。あのシーンに衝撃を受けないほど自分が枯れていなくてよかった。「絶望した」とただ口にするだけの絶望と、北に言って感じる絶望との違いはきっとある。そう、かみしめながら、ああ、やっぱり身体性の映画なんだなあと思いつつラストシーンを見送ったのだった。

 パンフレットをぱらぱらと読んでいるだけでも感じ方がばらばらなのは、映画自体がシンプルであるがゆえに感じ取る側に任されている部分が多いからだろう。良くも悪くも、見た人が感じ取ったことがそのまま映画の評価に繋がる、そういう映画だった。ああ、あと、阿部芙蓉美の「私たちの望むものは」カバーは素晴らしい、演出含め。これは確かに納得のエンディング曲であり、シンガーのセレクトである。ファンだからという理由ではなくて、本当に素晴らしかった。 

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