Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

2010年07月

著者:有川浩
出版:角川書店(2007)、角川文庫(2010)


 文庫版帯には「男前な彼女たちの制服ラブコメシリーズ第一弾!!」とあるが、本当にラブコメだらけの(全ててはないが)本作である。たぶん第二弾は『ラブコメ今昔』であろう。
 本作は自衛隊シリーズの番外編的部分に位置づけられる短編集で、あの話の続編もあれば、独立した自衛隊話もアリ、ということになっている。有川浩らしい情熱的でもあり、シリアスな展開もありつつも、基本的には堅い方向には流れないことが功を奏している作品群である。
 文章がめちゃくちゃいいわけではないが、そのあたりのバランス感覚は作家として素晴らしいと思っている。独自の路線を貫くことで納得させられる部分は多い。日本においてだからこそ、成立している部分もあるかもしれないが。

 本作は6編収められていて、「ロールアウト」だけはやや色が違うが、他5編の大きな要素は実にシンプルだ。つまり、自衛隊にとって恋をすること(結婚も含めて)とはいったい何なのか、ということである。『塩の街』以降の自衛隊シリーズではそれぞれにある事件を描きつつ、その中で揺れ動く人間模様や恋愛感情について書ける範囲で書いてきた、と思ってる。
 ただそこでは恋愛感情は当然ストーリーを際だたせる要素でしかなかった。だからかどうかは分からないが、恋愛がメインに据えられている本作は番外編的位置づけとしてとらえられるだろうし、ある意味有川浩が書きたくてどうしようもなかったことなのかもしれない。彼女の小説の中でだだ甘でベタベタな恋愛、というのは通例であるので。

 色が違うと書いた「ロールアウト」も、自衛隊という男組織の中で女性がどう振る舞っているのか、どう振る舞えないのか、について書いた話であるから、これも長編で細かく書けなかったことには変わりない。女性目線というものを男社会に食い込ませるのがいかに難しいか、というのが「ロールアウト」のテーマで、デリカシーの問題がいかに問題にならないか、が面白くもあるが切実に描写されている。
 いくら男女共同参画だという文言があっても、自衛隊だけでなく多くの社会は男社会である。そういう意味では男性読者にはズバズバ突きつけられる女性の素の感情がこもっているのが「ロールアウト」の醍醐味。

 逆に「国防レンアイ」では素直になれない女性像として三池舞子という三曹が登場する。分かってもらえないつらさ、という意味では「ロールアウト」宮田絵里に通じるところもあって興味深い。男性社会である以上声に出すことが難しく感じる絵里と、自衛隊という特殊な職業上、外側からの不理解に苦しむ舞子。
 それは「ファイターパイロットの君」に出てくる『空の中』のヒロインでもあった光稀が自分の娘に対して持っている悩みとも通じるものがある。確かに自衛隊員というのは国家公務員とは言ってもただの役人ではないし、かと言って軍人というわけでもない、この国では特異中の特異の存在だ。
 
 そのせいか、多くの登場人物は不理解を当たり前のものとして受け入れているように描写されている。ただ、当たり前と言っても当然悩みはする。そういう人間らしさのリアルさが諸処に際だっていて、本作を通じて有川浩が埋もれた感情を代弁しているような、そんな気もした。

 「クジラの彼」と「有能な彼女」は『海の底』でも活躍した夏木と冬原の、それぞれの恋のお話。長編を読んでいると意外な本音が見えてきたりで面白いが、「クジラの彼」はこれもまた不理解という観念に関係するお話でもあり、また本作の中で一番笑える話でもある。彼女の書く人間像がきわめて等身大であるので、ああいうアホなヤツもいるよなあ、と変に共感させられるのかもしれないが。「有能な彼女」では成長した望も登場、そしてその望みに対して夏木は・・・というお話。

 「脱柵エレジー」という短編が、自衛隊の実情と現実、について一番リアルに書かれているように思う。この短編は特定の個人に焦点をあてるというよりは、自衛隊の存在や規律、つまり”自衛隊なるもの”の中において人がどういう行動様式をとってしまうのか。またそれに対して周りはどう厳しく、どう寛容なのか。
 地方では就職先の一つとして自衛隊が存在しているという現状も一方ではあり、普通の人が自衛隊という組織にどう染まっていくのか、というのも一端ではあるがのぞき見ることが出来る。脱柵、という聞き慣れない単語にも、そのあたりが象徴されているようだ。こういうストーリーを書けると言うことは有川の取材力に依るところも大きいのだろう。

 文庫版解説では杉山松恋が有川浩の硬軟をうまく織り交ぜるスタイルについて解説している。意外とまともな、と言っては失礼だけど納得できる部分が多かったのでそちらもぜひ。

 たとえば古処誠二の書く戦争ものは硬をつきつめて人間を書くが、有川は軟の路線でどう等身大の人間像、特に自衛隊にまつわる人間像を書けるか、にこだわっているのだろうな。軟だからと言ってライトにすればいいわけでもなく、確かな取材とそれに裏付けされるリアルさ、そしていくら特異な職業とは言え誰もが人間であるという、当たり前の共感を改めて突きつけられる。
 そのことが楽しくてたまらないのが、本作である。
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 さて、と選挙もワールドカップも終わりましたね。F1を途中まで見て寝てしまったので決勝は生では見れず。まあオランダが残念な試合をしていたので、ある意味当然の結果なのかと思っていたり。
 スペインにしてもチャンスは最初からわりと多くあったのに決めきれない。決勝Tが全て1-0という守備の良さは見せながら(PK阻止もあったし)決定力不足が最後まで露呈してしまう結果ではあった。ただオランダのプレーがひどかったので、相対的に優勝したという感じでユーロのときのような圧倒さは感じなかったなーと思いつつ、まあそれでもドイツ、オランダを下したということは大きい。ついにバルセロナスタイルが栄冠をとったと言うことはモウリーニョのインテルスタイルに対するアンチテーゼには十分だ。これからのトレンドがどうなるかは楽しみではある。

 ジダンの頭突きからもう4年かと考えたらこの4年間は速いなと感じる。
 当たり前なんだけど、次の4年後はもう俺は学生じゃないだろう。何らかの形では生きていると思うがw
 ただでさえ最近は忙しさを感じている中で、おそらくしばらくはこれが加速する形になるんだろうなあ、と思う。その行き着く先は学生という時代の終焉だ。少なくとも一生学生ではいられないのだから、それ以外にはない。
 つい少し前に10代の終わりを迎えてやや感傷的になったが、学生時代の終わりというのはもっと大きな実感を伴う終わりなんだろうなあ、と思う。都内近郊で就職しない限り卒業式には出ないだろうから、初めて儀式を経ずに卒業を迎えることとなる。静かではあるが、その実感は経験したものではないだろうからたぶん計り知れない。


 そこから逆算して、今経験していることのひとつひとつも、数年後には懐古趣味とともに振り返られるんだろうなーと感じる。つーことは、今抱えてる悩みや問題はぶっちゃけ大したことないんじゃないかと開き直ってみる。
 いや大したことないかどうかは個別のものによるだろうが、今現在俺が学生だから、大学生だから、大学生の俺にしか得られないものなんだろうな、と考えたらもうちっと気合い入れて頑張りますかね、という気にはなる。あ、大学生の俺にしか、というのは未来の俺として比較しているので、他人と比較して俺にしかできないことがあるとかいうことを言うつもりはないです。完全なオリジナルなんてほとんどありえないだろうし。どれだけ稀であっても、どっかで誰かが経験したようなことだ。でもそれだって十分楽しいし貴重だろうけどね。
 時々の飲み会なんかもそうだし、昨日みたいにスカイプでアホなことを書き連ねるのもそうだし、うーんうーん言いながらレポートを書いたり本を読んだりするのも、それだけの時間的余裕があるのは残念ながら今の日本の社会構造では今くらいにしか見いだせないので、やることはちゃんとやりたいな、と。やりたいこととのバランスをとりつつ、ってまあそれが一番難しいんだけれど。


 ただそれも時間が経てば多くは忘却の果てに消える。本当に、文字通り消えてしまうだろう。印象的なことだけが残る。
 だから小さな事でも残していけるツイッターが好きなのかも。でもツイッターもしょせんネット上のデータベースだから、手元に何でも書けるノートを持ち歩いている。まあ頭の整理とか使ったお金の記述とかが多いけど。
 坂本真綾が公式の日記に以前書いてた「だけど昨日も今日も明日も来週も、何曜日でも何の日でも、いつだって私たちは生涯に一度しかない特別な1日を生きていることに変わりはありません。そしてその連続を「日常」と呼んでいるのです」という言葉がかなり印象的。ARIAの水無灯里も似たようなことを言ってたかもしれない。

 同じ明日はないし、幸福感はどこにでもある。世界は自分が見ているものであり、ただ存在しているだけではないし、他人が見えているものとは違う。たぶん、そういうことだろう。
 学生時代という日常は、もう少ししたら非日常になる。だからせめて、もっと前向きに生きたいな、と。失うことをおそれずに、後ろをネガティブに振り返らずに。何事もなければこれからの人生のほうが圧倒的に長いんだから。

 結論が見えませんがwまあ、学生ってずるいよね、と。毎日女子大生と顔を合わせる日常なんてそうそうあるものじゃない(話をするほど女友達が多いわけではないけど
 まっすぐに、駆け抜けたいものである。いつか失うこの時間を。ひねくれていてはもったいない。けどひねくれてしまうのが俺の性(


 あと、あれだ。北乃きいの路チュー騒動ですが、ええやん別にと思ってるけどね。清純派アイドル、っていつの時代だよと。もうハタチ過ぎてるんだし、路チューくらいするでしょうし近くにホテルがあったならその先もそりゃあするでしょうよ。
 それを大人の事情的にもみくちゃにしてなかったことにしようとする北乃きいの周辺が残念でならない。ネットで同情論が上がるのも当然だ。
 まあ悔しいことには変わりないけど、ファンならそれでも応援してなんぼである。彼女と彼女の演技が大好きなことには変わりない。と、吠えてみます。


読了
43:『基本から学ぶ地方財政』小西砂千夫
44:『地方債改革の経済学』土居丈朗
45:『自治体と政策』天川・稲継
46:『スワンソング』大崎善生
47:『砂漠』伊坂幸太郎

 おおむね良書かな。43は分かりやすいというより、説明がかなり具体的で体系の説明に入る前のミクロとマクロの視点というのがかなり面白かった。44は地方債の改革を論じる以上に、現在地方債発行が及ぼす悪影響や地方債をとりまく環境についての分析が細かく、具体的。
 46は文章がかなりいい。ストーリーよりも、文章の感情表現が非常に豊かでありリアルさがある。47は西嶋最高!


*タイトルはsasakure.UKの「ロストエンファウンド」より。
曲と動画が素敵すぎる。ささくれさんのセンスの限界はどこにあるのだろう、素晴らしい。生きてて幸せだと思ったし、これだからボーカロイドは辞められない。
日記はタイトルから浮かんだ感覚で書いたけど、この曲とは全然関係ありません。


あともう一つ、こっちはもっと伸びて欲しい素敵な曲。
コーネリア「agape -soul sweet style-」

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 投票日前日と言うことでもう少しだけ書いてみる。今回は個別政策ではなくて、投票権について。これを行使する意味、問題点、などなど。
 今までも何回か書いたことがあるし真新しいことを書く気はない。あくまでも整理なので、まとめて書くのは初めてということで。


■行使することに意義がある

 20歳以上の投票権保持者は行使せねば罰せられるとかはまあないんだが、行使することそれ自体にいくつもの意義があると思っている。
 1つは投票率へのカウント。白票でも投票すればカウントされる。白票を投じることはノーと言うことだが、同じノーの形であるサボタージュとは意志を明確に表すという意味で全く意味は異なる。
 2つ目は、投票権行使によって政治に関わると言うこと。政治運動をしている人でない限り、投票権を行使しないと言うことは政治に関わらないことに等しいと思う。ぶっちゃけ政治に関わらないとで行政サービスを受けるのはどうなのかな、とまで考えるがそこまで考えたらキリがないのでここでは考えない。ただ、政治に関わらない人が政治について文句を言う権利はないものだと思ってる。それはただの外野のヤジでしかないからだ。いや、外野のヤジのほうがまだマシかもしれない。たとえば野球場に行くためにはチケットを買わなければならないしね。投票権を持っているのに行使しないということはそもそもフィールドにすら立っていないものととらえられるのではないか。
 まあもちろん国民主権というのは憲法に明記されているし言論の自由もあるから、ヤジを言う権利すらないというのは現実にはありえないが、投票によって当選した政治家の仕事に対して、投票すらしていない人間が何かを言うというのはイーブンではないだろう。
 もちろん日本は間接民主制なので個人個人が首相や閣僚、その他の選挙区外の議員を選んでないというのは確かである。が、政治は一人ではできない。個人個人の投票の積み重ねで当選落選が線引きされ、政治家集団である政党を形作っている。選挙民全員がサボタージュしたり白票を投じれば政治はそもそも成り立たない。私たちの投票によって政治家が存在しているのだから、直接関与していようといまいと政治家は代表者であることに変わりないのだから、やはり投票しないということはそれ以降の行為や言論に価値を見いだすことが出来ない。
 
 以上、投票権を行使すること、しないことについてざっと挙げられるのはこのへんである。
 もう一つ、上ではどちらかと言えば投票権を行使しないことについて書いてきたが、行使することによってどういう影響力を及ぼすことが出来るのかについて書いてみたい。

■投票というロビーイング

 選挙前と選挙期間中の政治家の行動様式ははっきりしている。つまり、いかに自分に投票してもらうかを考えて行動することである。目先が一番大事。
 そこで求められるのは分かりやすさ、明確さ(キャッチフレーズなど)、露出を増やすこと(負の効果もあるのだが)などが考えられる。だが、これらが最終的な政策決定にどれだけの価値があるかは不透明だし、むしろないようにも思う。よほど多面的で積極的な公開議論をしたり、シンポジウムとまえは行かないが具体的で論理的な政策提言をしたほうが直接の政策に及ぼす価値の方が大きいだろう。だが、それでは多くの選挙民に理解してもらうことは難しい。理解してもらえなければ投票してもらえるはずがない。だから分かりやすさや明確さがまず求められる。マスコミもマスコミで争点を分かりやすくしようとする(去年は政権交代、今回は消費税選挙、と言うように)。これは選挙制度そのものの問題点かも知れない。日本では特に短期間で行われるので、目先へのこだわりが顕著に出ているように思う。
 じゃあ、政治家がそのような行動様式をとる対象は具体的にどこか。有権者、というのは当然だが(逆に権利不保持者には目向きもしない可能性がある)日本の場合は高齢者だろう。50代60代以降の彼らの投票率は高く、55年体制を投票という形でも支えた世代である。逆に20代や30代の若者は投票率が高齢者の半分以下にもなり(参院選だと3割前後くらい)政治家がこの世代に特化した行動様式をとるインセンティブはあまりない。人口的にも少ないことがさらに拍車をかけているかもしれない。このことが日本の高齢者優遇若者冷遇政策に繋がっていることは(繋がっているかどうかは具体的には分からないが相関性がないとは言い切れないと考えられる)多くの人が指摘している(たとえば池田信夫の私的 個人的にあまり好きな論客ではないが)
 つまり日本においては、特に若い人が投票すること自体がロビーイングにもなりうる。具体的な政治活動であるロビーイングという言葉の使い方にしてはプリミティブすぎるしズレているとも思うが、投票しない/投票するを分ける言葉としてここでは採用する。
 菅直人が強い社会保障を目指すと言っているが、どう考えても必要なのは若者に対する社会保障である。雇用がない時代、社会で生きられない若者が多い現実をどう変えていくか、そのために行政がどのような制度設計をできるか(職業訓練、労働市場の流動化など)が重要なのに、あまりそういうことが語られない。派遣禁止を目指す民主党だが、派遣禁止で若い人から働く場所を奪ってどうする、ということはあまり議論されてるように思わないのである。もっともっと、若い人の視点を政治に注がないと、ただただ取り残されていくことになるのではないか、と。
 取り残されないこと、それが政治参加としての投票権の行使の一番の意義かもしれない。有権者であっても投票しない限りにおいて、政治家の目線からは取り残されるわけだから。


******

 さあ、明日ですね。比例への投票をまだ決めてないので決めねば。人生で初めての投票権を行使して参りますよ、と。
 そしてワールドカップは今夜3位決定戦で明日は決勝戦。全米女子オープンもあり、F1イギリスグランプリもあって色々楽しみな週末である。ただ体調がそれほどよろしくない(回復基調ではある、今は踊り場?)なので無理して深夜観戦はしません。
 政治に関しては、もう政局はいいからまともな政治を見たいものである。それでも政局にするなら自民党と民主党を両方とも解体してシャッフルしないと意味がない。今のままで組み替えるだけなら、55年体制の枠組みで政治をするだけだから、もっと大きなパラダイムシフトが必要。ただ今その決断に踏み切れるような段階にはおそらくないんだろうけれど。
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 どうもこんばんは、今日はおそらく21世紀になって初めて歯医者に行ってきて色々撃沈してきました。若いからなんとかなる、と3回くらい言われた気がします。歯科医さんはメガネ美人でした、歯科助手の方もお綺麗だった。
 頑張ります。さすがにあんなものをまざまざと見せられたらちゃんとやらないとどうしようもない。

 週末にはもう選挙なので、頭の中を整理しておこうと思います。新聞やテレビが言わないこと、を中心に。俺に書ける範囲で。
 整理なので何かについて詳しく書くと言うよりは、各メディアや世論の動向から疑問に思うことを書き出す形です。今日はとりあえずお金の話について。


■消費税増税を考える上で大切な視点

 消費税についてまあ当然何か書こうと考えるわけですが、正直消費税だけの是非を問うというのは論外も甚だしい。消費税の先を論じないと意味がない。前も書いたかも知れないが、一つの政策のみをめぐる議論は多くの場合で得るものが少なく、体系的に論じないと意味がない。消費税の場合は「租税制度」で論じてもいいが、もっと具体的に消費税の増税分がどう生かされるのか?について論じないとほとんど意味がない。
 まあそのへんは菅直人は「強い財政、強い経済、強い社会保障」と言ってるだけあっておそらく頭の中にはあるんだろうけど、じゃあ具体案は?というとなかなかはっきりしない。日本は財政も90年代以降ひどいことになってるが、社会保障も残念なことになっているのは数年前の派遣切りや年金問題のやりとりが如実に表している。持続可能で、かつ自由主義を損ねないセーフティネット作りへの体勢が整っているとはとうてい思えない。だからベーシックインカム(以下BI)の議論がネットや論壇などで出てきているんだろうけれど、BIにしてもそれ自体で論じても効果は乏しい。セーフティネットという枠で、もっと言えば社会保障という大枠のもとで議論しないと意味がないだろう。
 具体案を今の民主党が出さない理由がよく分からないが、おそらく消費税という言葉を最初ほど使いたがらないからではないかと思う。菅直人の考えがブレているとは俺はあまり思っていないが、党の内部からは賛否両論だし小沢一郎が難色を示しているというのも党内のパワーバランスに何らかの影響は与えているだろう。消費税を口に出したことが直接の原因かはともかくとして、内閣支持率も発足以降下がり始めている。消費税増税に対する世論調査も賛成が過半数を超える調査はほとんどないように思う。
 政治家心理としては増税を持ち出したくない気持ちはあるだろうが、政治家一個人の気持ちに付き合っているような状況ではないと思う。今すぐ日本が財政破綻するとは思わないが、赤字国債を毎年発行し続けると言うことは財政の硬直が年々ひどくなっていくということだ。それだけでもダメージは大きい。危機感を煽るのもいいが、その上で消費税増税後のビジョンをパッケージとして示すこと。開き直るしかない。
 あと個人的な関心としては、現在消費税の29.5%は地方交付税に充てられているが、仮に10%に増税したとして増税分がどう振り分けられるのかということである。菅直人のビジョンでは振り分けられないような気もするが、あまり議論されてないと思うのでよく分からない。
 これに向けて一体になってない現状では民主党にとっての参院選は厳しいかもしれない。このへんは他党も大したこと言ってないので相対的になんとかなるかもしれないが、それはそれで寂しい。

■無駄削減を切望する世論

 消費税増税に対する世論の反対論として有力なのが「無駄削減のほうが先」であるが。無駄削減はそれで大事なことではあるが、無駄を減らしても赤字国債の発行額が減るだけである。毎年30兆や40兆円を超える赤字国債を発行しているので、もし無駄削減しないと増税できないのであれば赤字国債分(今年度は約44兆円)を削減しないと無理である。この時点で非現実的だ。
 無駄を減らす試みは去年から行われている事業仕分けや今年の6,7月に行われた行政事業レビュー、あるいは厚労省による独自の仕分けなどなど試みが行われているので、これらを継続させることや緻密にやること、政策としての優先順位をはっきりさせること、などが挙げられるだろう。予算を減らすという作業は往々にして抵抗に合うので楽な事じゃない、というのは事業仕分けでのやりとりをテレビなどで見た方は実感したであろうし、もっと規模を大きくするというやりかたもありだろう。いずれにせよ、これらが終わるまで増税しないのであれば、これもまた時間がかかる。
 つまり増税をする代わりに無駄削減をしなければならないし(増税の説得力にもなる)無駄を削減するが増税もする(財政を立て直すため)と言うようにトレードオフの関係であると思っているし、同時履行されてもいい。そうでないと財源は確保できないし、財政は硬直したままだからだ。
 もちろん財政を立て直してまた無駄遣いをするようでは意味がないから、そういう意味でもマニフェスト等で政策を見極めて選挙に行くことは重要だろう。あとで文句を言うためにも選挙に行くべきであり、選挙に行かないで文句を言うのはおかしい。ただの外野のヤジである。

******
 
 と、今日はこんな感じかな。また書けたら書きたいのでタイトルを(1)にしておきました。とりあえず上に書いたふたつはずーっと思っていたことで、それでも考え方として専門家以外では主流にはなってないように思うので書いておいた。
 付け加えると、消費税を増税することが適切かどうかは俺は税制や財政の専門ではないから分からない。ただ、税制や財政を考えるときの一つの視点として上に書いたことをずっと思っていた。無駄削減にしても同じで、視点を広げてみる、あるいはアプローチを変えてみることは物事を考える上で基本的なことなのだが、選挙というのは往々にして目先の話が先行するので視点やアプローチがどうとか言っている暇はないらしい。このへんは今の民主主義や選挙制度の一つの欠点かもな、とは選挙の度に思っている。


※追記(7/8)
 俺個人として消費税増税が良い選択かどうかを見極めるのは難しい。上にも書いたが税制の専門家ではないから。法人税、所得税、相続税あたりと兼ね合いの議論も必要だろう。たばこ税なんかもか。なんとなくの知識でこのあたりを書くわけにはいかない。
 あくまで消費税増税をするとしたら、というつもりで最初の文章を書いた。そして消費税を口に出しておきながら引っ込み思案になる政治家への愚痴を。そして消費税の問題ばかりをとりあげるマスコミに対するカウンター(考えを整理しただけなので大した一撃じゃないけど)と、単なる制度論に終わらない議論を展開すべきだろうという自戒をこめて。
 無駄削減の話は最近支持を伸ばしている某ミニ政党への懐疑もこめて。都合の良い言葉に振り回されてはだめだ。何もかもを失ってからではおそい。
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著者:米澤穂信
出版:新潮文庫

 読み始めて1時間半くらいで一気読みした。米澤穂信はそこまで一気読みさせるような作家だとは思わなかったが、本の中で流れる時間がそれほど長くなく、結果が分かってしまえばシンプルな故に一気読みできたのかな、と思う。まあけど、いかにも米澤穂信らしいというか、人間のこわさ、不可解さを淡々と書き連ねることで妙なリアリティを醸し出す。パラレルワールドというのは基本的にありえない設定だし無茶苦茶だ、とも言えるんだけど、安易にハッピーエンドを要求しないで現実をつきつめていくスタイルは『さよなら妖精』や『犬はどこだ』のあたりから見受けられる。

 主人公の嵯峨野リョウは東尋坊で転落死した中学時代の恋人を弔うために事故現場を訪れていた。花を携え、立ち去ろうとしたリョウは意識が混濁し、崖から落下する。だが目覚めると金沢の川沿いのベンチの上にいた。どうやって移動したのかは不可解なまま自宅に帰ると、見知らぬ女性がいた。嵯峨野サキと名乗る彼女は家の住人だと言うが、リョウには覚えがない。しかもサキもリョウのことを知らない。話をしていくとお互いの家に共通点があることも相違点があることも分かるが、そもそもなぜこういう状況に陥ったのかは謎のままだった。ふたりは謎を解くために一緒に行動するようになるが・・・。

 リョウのキャラがかなり地味というか、どちらかというと自己完結的なタイプに対して、サキはかなりノリがよく(キャピキャピとまではいかないが)見知らぬ訪問者であるリョウを積極的に受け入れ、謎に対して興味を示す。サキの貢献による分が大きいのかふたりの会話はかなりユーモラスでもある。リョウの重たい語りに対してサキの軽妙なしゃべりはアンバランスではあるが、言い換えれば均衡がとれているとも言え、本作を一気読みさせた原因にもなっていると思われる。これ自体も大きな伏線であるとは最初は全く気づかないわけだけれど。

 本作が上手いと思うのは小さな伏線をちりばめて物語を構成しながら、パラレルワールドという大きな物語を並行して描くこと。元のプロットは10代の米澤穂信が書いたというだけあって、主人公であるリョウの抱える悩み、拠り所、漠然とした不安は10代にしか出せない未熟さを内包する。タイトルである「ボトルネック」は何を意味するのか、ということに関して読み進めると面白いのだが、『犬はどこだ』がそうであったように楽な展開は用意されない。10代の主人公をここまで追い詰めるとかという展開もいとわない、その真意はどこにあるのだろう。など、いろいろな角度から読み進めることができるが、実際はそれほど長くないので一気読みだったりもする。

 10代のときにプロットを書いたせいか、ストーリーの尺自体は短くて、個人的には実験作なのかなと思う。古典部シリーズのようなキャラクター性も、『さよなら妖精』のようなとてつもない余韻も、『犬はどこだ』のような完成度の高いミステリー構造も本作にはない。あるのは10代の憂鬱と、金沢の風の冷たさ、かな。主な舞台が金沢なのはおそらく米澤穂信が金沢大学に通っていたからであろう、大学も近く兼六園や市庁舎などのある金沢の中心街を舞台としている。この春に旅行したときは香林坊まで行けばにぎやかになるが、兼六園方面はわりと静かだったのを覚えている。静けさと賑やかさが隣り合わせの街で、リョウがどのような心境で歩いたのか、彼の目には何が映ったのか。それらを追体験するのは彼の空虚さを追体験することにならない。その空虚さがどこから由来し、どこへ向かうのか。見届けるのは楽じゃない。

 比べてみれば『さよなら妖精』や『犬はどこだ』のほうがよほどカタルシスがあった。小説としての完成度が高く、それ故にラストシーンが衝撃的だったからである。本作はそういう意味では特別優れた小説だとは思わない。ただ、圧倒的な共感力はあると思う。何度も書いたが10代の憂鬱というものは10代を経験した人なら誰しもが経験することであり、今この瞬間にも様々な憂鬱に直面している10代はありふれているだろう。青春と称されるほど輝かしい時期でもあり、同時にどうしようもないほどの憂鬱を抱える時期でもある。本作はそれらをパラレルワールド構成という一つのアイデアで構成しようとした、それだけと言えばそれだけの小説である。米澤穂信という名前がなかったら見向きもされないかもしれないが、読後に思うことは間違いなく本作は米澤穂信の小説だということだ。何か日本語がおかしい気もするが、米澤穂信の小説をずっと読み続けている身からすれば、終盤の展開はさすがと言いたくなる。

 気楽に読める文章量であり、しかもサキのキャラクターが相まって一気読みさせられるけれど、安易に読むことはオススメしない。この本を読み終えたときが夜でなくて良かったと切実に思った。
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 7月ですね、7月です。暑い。とにかく暑い。梅雨ってこんなに暑かったかと思うほどにむし暑い東京でござます、と。
 最近何してるかと言えばサッカーを見たりサッカーを見たり、ですね。やらなあかんこともあるような気がするんですが、思っているほどこなせず、ちょっと反省しつつ4年に1回なので・・・という言い訳が。
 まあさすがに大学をサボってサッカー観戦ということはなく、朝方の試合を見た日でもなんとか行くようにはしている。月水以外は大学は午後開始なので、5時半に試合が終わっても全然起きられる、というのもあるんだけど。

 日本戦に関してはまああれが良くも悪くも現状なのかな、と。
 冷静な見方をすると勝ったカメルーンとデンマークはけが人がいたり、チーム内で対立があったりといい準備ができたとは言い難いチームだった。日本もそうなのだが、カメルーンとデンマークも親善試合などでいい結果を残してワールドカップに来たわけじゃない。このグループは結果的にオランダとそれ以外という構図になり、その中で初戦ではずみをつけた日本が勝ち抜いた、ということなのだと思う。
 でもまあ、過去3大会いずれも初戦をとれなかった日本が緻密な準備の上に確実に初戦をとったということは、まぎれもない成果である。退屈な試合ではあったが、大舞台で勝つということはサッカー小国の日本にとってどれだけ大きな事かというのは再認識した。
 パラグアイ戦に関しては、シンプルな話オシムがずーっと言ってた「リスクを冒して攻める」ということがほとんどできなかったことに尽きるだろう。ただでさえボールポゼッションが低いのだから、安全パイの攻撃を狙う回数すら少ない。実際攻撃の人数というのはカメルーン戦ほどではないが少なかった。90分(あるいは120分)ずっとリスクを冒すのは何の意味もないが、中村憲剛の交代以降、つまり1点をとって勝ちに行くというサインを出してからは切り換えても良かったんじゃないだろうか、と。監督の指示があったのか否か、選手間のコミュニケーションはどうだったのかはよく分からないが(会見を聞く限り監督の具体的な指示はなかったように思うが)こう思えてならない。ベスト16が日本の現実とはいえ、ベスト8に進むという現実が全くない試合ではなかっただけに。

 とまあめちゃくちゃ熱心なサッカーファンではないが、にわかでもない俺が思うのはここらかな。
 ベスト8が出そろいましたが、ラウンド16で一番面白かったのはアメリカ×ガーナ戦ですね。まさかギャンが決勝点を決めるとは思わなかったが、アメリカの粘りはさすがである。もう一歩、もう少し選手層が厚かったらな、というとこかな。点をとるのがMFのドノバンではね、決定力不足は全世界共通ということも再認識。ドイツ×イングランドはあまりにもドイツが一方的すぎた。まあ、右サイドのミュラー君は90年生まれなのでそれだけで応援するよ。

 先週末はアメリカ×ガーナを見た勢いでレポートを書き、TOEICを受けに行くという若干強行スケジュール。TOEICは初受験でした。単語以外はロクに勉強してないにしてはまあまあなんじゃないだろうか、と。650くらいは欲しい。秋には700超えたいな、とかそんな感じ。
 初受験はリーディングが全部終わらなかったので(長文1つ残し)時間配分と速読はやらなあかんですね。リスニングはまあ、いつもどおりではあるが綺麗に聞き取れるところとそうじゃないところの差が激しい。これが原因で受験生のころに英語のリスニングの点数が安定しなかったのを思い出す。要はまあ実力不足なんですが。難しいよねリスニングは。英語ネイティブの発音は難しい。英語を母国語としないヨーロッパ人の英語の聞き取りやすさは素晴らしい。というか人口的には非ネイティブが圧倒的に多いんだからリスニングテストも非ネイティブの人に喋ってもらえばいいんじゃないか、という暴論を吐いてみる。
 いやけどTOEICは特にビジネス上の共通語、を学ぶテストであるわけだからネイティブよりも非ネイティブの人が喋る方が建設的じゃね?とか。まあ言い訳ですねごめんなさい。

 あと、先々週末はちょっとプチオフ会をしてきて、自由が丘で買い物→飯→カラオケという流れでした。たぶん、初めてのツイッターオフ会かな(ツイッター以外でも交流はあるけど)
 まあこうやって人間関係やコミュニケーションのチャンネルが増えていくのは楽しいんだけど、やらなあかんことは確実にあるし、優先的に何をしていくか、何をしたいかというのもあるのでバランスをとらなあかんな、と最近つくづく思っている。ゼミもちょっと忙しくなるかもだし。サイト作らなあかんし。
 ただそれらはチャンネルを増やすことで相対化できつつあるような気もします。色んな生き様が見えてくることによって、自分のライフデザインとか言ったら大げさかもしれないが、それに近いものを考えるようにはなった。こういう外からのフィルタリングをうまく利用して、限られた時間を生きられたらいいな、と思ってる。
 夏休みの大まかな予定を確認しても時間ないんだよね、実際。5日間程度の旅行もしたいと思ってるが、それすら時間が惜しく感じてしまう。まあけど、往々にして大学生の夏休みはだらけるものと言う中で時間が惜しいと思えるのはまんざらじゃないと思っておくかな。それらが誰かに拘束されるものではないからね。まあやりたいことだけでなくやるべきことも含めて、時間が惜しいんだけど。
 あとインターンはしません、理由はそのうち書くかもしれないし書かないかも知れない。やるべきことがあるから、ですね。

 
読了
41:『虐殺器官』伊藤計劃
→こりゃあ、すごい。レビュー書きたいが、書けるだけの技量が俺にはない気もしてちょっと悩む。アメリカなるもの覇権、戦争、それらを詳しく書き込むことはせず主人公のアイデンティティを表現するスパイス程度にしか扱わない一方、逆説的に世界の矛盾をあぶり出す、これはなかなか痛快でもあるし、残酷さも当然感じる。
42:『告白』湊かな恵
→騒がれているほどのカタルシスはなかったかな、というのが感想。ただデビュー作でここまで実験的な書き方をできるだけの勇気はすごいと思うけどね。人の弱みというものが、意識的にせよ無意識的にせよ閉じられたものの息苦しさと限界をぶっ壊すのかもね。そこに倫理や道徳などという綺麗事が介入する暇もなく。


*タイトルは最近ハマってる蜻蛉さんの楽曲から。ずっとコンビを組んでいる絵師4zさんの描くグミの表情にも注目。
日本はエンドロールを迎えましたが、ワールドカップは大詰めですね。

 
 いまさらだけど、誕生日(1周年)おめでとう、グミ。
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