今日のワールドカップは旧ユーゴデーでしたね、セルビアとスロベニアの奮闘は見事でした。ドイツがちょっとなさけないかな。セルビアのディフェンスからなら点をとれると思ってたんだろうか。
まあそんなこんなで、日常というものをテーマに文章を少し書いてみたい。面白い出来事があったので。
ニコニコ動画におけるボーカロイドの使い手にDixie Flatlineという人がいる。ジェミニの人、とも呼ばれる彼は文字通り「ジェミニ」という曲でデビューし、昨年の夏に「Just Be Friends」という楽曲で一大ムーブメントを起こした。というか俺も去年この曲についてのテキストを書いてるね。200万再生というこの曲はもうボーロイドを代表する曲になっているとも言える。
今回は彼の二年前の曲である「Sweetiex2」という楽曲について、ではなくその元ネタについて、でも少しなく、元ネタとなったあるふたりの女子高生のエピソードから受けた感想と、小さな疑問から生まれたタイトルテーマについて書きたい。
つまり彼女たちのエピソードがネット上で巻き起こしたムーブメントに対する雑感と、そこで日常とは何ぞやというテーマについて。当然非日常とは何かということもふまえて我々の日常とは一体なんなのだろうか、というのをただの大学生の目線でつらつらと書こうと。
■1.Sweetiex2に関するエピソード
ご存じの方もいるかもしれないが簡単にあらすじを。3行で書きます。ネタバレご容赦。
・ある女子校の女の子(主人公/メドレー)が「クラスの完璧な女の子(相手/ハスキー)の弱点を知りたい」という趣旨のスレをVIP板に立てる
・それに反応した住人たちの催促によってメールをメドレーがハスキーに送り続け、2年前の7月15日に落とすことに成功する
・その後ふたりの関係は発展を続け、あんなことやこんなことをしてその後も幸せな日々を現在も送っているとのこと
後日談含め。まとまってるのはこちらかな→
あらすじはこんな感じ。「世界一長くて充実した一週間」というタグがついているように、確かに接近から発展までは加速度どれだけだよというくらいにあっという間であるとともに、密度もかなり濃い。いわゆる恋人としてできることを一巡させるんだから、そりゃあ長い。
まあそれはさておき、ニコニコ動画でコメントと疑似同期しながら振り返るとネットの盛り上がりっぷりがひたひたと感じられて面白いし、まあ盛り上がったからこその現象として今でも俺が追跡できているわけだが。「Sweetiex2」という楽曲も、ハスキー&メドレーのふたりの存在があっただけではなく、ふたりを取り巻くムーブメントがなければ生まれなかった。ここを一つのポイントとしたい。
彼女たちをとりまくムーブメントはなんだったのか?と。もちろんスレの住人がいなかったらここまでの現象は起きなかったが、それはスレの住人がいなかったらふたりの関係はなかった、ということと必ずしもイコールではない。メドレーを後押ししたことなどの相関性はあるが、別に因果性はあるわけではないからだ。まあこれは邪推にもなるんだけど、厳密に言えば因果性はない。
■2.「電車男」との違いに見る日常性
ここに電車男との決定的な違いを感じる。電車男の話をたどるかぎり、スレ住人がいなかったらまず電車男は行動を起こせなかっただろう。まあたらればの話になるので厳密には確かめようがないが、電車男とエルメスの関係とハスキーとメドレーの関係を整理してみると、前者は非日常な関係で後者は日常的な関係と呼べるのではないだろうか?
電車男はたまたま電車の中でエルメスを助けたに過ぎない。会うはずの無かったふたりが会い、恋に落ちてゆく。ドラマや映画や小説でもあきれるほど繰り返されたシチュエーションに、ネットという無数の善意の第三者が絡むことにより、電車男という物語が構成されていく。一連の現象とドラマ化は電車男という神話を高める行為だろう。ドラマは神話素とも言える。まあ2000年代で成功したドラマは数えるほどだが。
神話性を持ったのは電車で出会うという非日常性が重要な神話素になっているからであり、ハスキー&メドレーの物語はあくまで女子校のクラスという日常的な場所で、同性ではあるが恋愛という日常的な行為が行われているにすぎない。もちろん恋愛というのもドラマ映画小説で数多く扱われてきた事象ではあるし、女子校内なら同性で、という話もまあ珍しくはないと思う。電車男の話は出会いの場からドラマ性を持っているがハスキー&メドレーにはそもそもドラマ性があるわけではない。
だからつまらないというわけではもちろんない。むしろ、だから面白いと言ってもいい。非日常性が神話性を持つのはそれ自体何ら珍しいことじゃない。だが、日常そのものがある種の神話になるというのはなんなんだ、と。ここにネットの面白さとか、ネットにしかできない何かを感じとることができた。
根本は「ハスキーの弱みを知りたい」という願望であり、相談事だ。ネットのない時代ならメドレーが仲の良い友人の誰かに頼るか、信頼できる誰かに相談するしかないだろう。だが今はネットがあり、2ちゃんねるがある時代である。ネットに初めて書き込むまでにどれだけの躊躇や抵抗があったのかは知らないが、メドレーは2ちゃんねるに書き込むことを選んだ。
そうして住人たちは盛り上がり、メドレーも自身の恋に向けてまっすぐに進み出す。この構図はスポーツ選手と応援する人との関係ととらえてもいい。スポーツ選手の結果に観客は直接的に関与する(因果性を持つ)わけではないが、応援する観客の存在がどれだけ心強くするだろう。そして良い結果が出たときに選手は揃って言う。応援が助けになった、感謝している、と。
■3.物語性を求めて
ではなぜ、ハスキー&メドレーの関係がネット上で一大ムーブメントになったのだろう。スレの中に映画化かドラマ化希望、というのがあって感じたのが、物語性への憧憬である。もちろんこれがすべてだとは思わない。ただ楽しかったから盛り上がっただけ、とも言える。でもその楽しんでいた時点の先に、世界で一番充実した一週間、という物語性を見た人は多かったはずだ、と。
物語と言ってもSFやファンタジーとは違って今回の場合は学園物や恋愛というジャンルにおさまる現実に依拠した物語だ。スレの住人たちは物語に積極的に、しかもリアルタイムに関与したことになる。絶対的な影響を及ぼす支配被支配的な関係ではなく、声援を送る支援被支援的な、非常にフラットな関係として。
であると同時に、それを願ったはずである。「単位は落とす」(大学のテスト期間である7月中旬のお話なので大学生閲覧者にとっては切実な事情である)「明日仕事だが見る」などはふたりの関係を見守りたいという好奇心を持ち、後で振り返ったときに「イイハナシだなあ」という感想を抱くはずである。その言葉もいくつもの動画コメントやスレ内のレスポンス、ネット上のブログなどで見ることができた。おきまりの「いつまでもお幸せに」という一言も忘れない。
ドラマも映画も小説もSFやファンタジーではない限り、現実に即した何らかの日常の物語を書くことを目的とする。でもこのスレを見て思ったのは、日常が物語化するという、創作とは真逆の現象である。まあ当然と言えば当然で、創作というものはつまるところはなんらかの再構築にしかすぎない。小さな日常を大量に再構築することで新しい物語を生み出すのだから。
ただ、日常が物語化すると言っても出版されたり映像化されるわけではないのだから、誰かによって認識されねばならない。その誰かが物語に外側から関与したネットの住人であったわけである。ハスキーやメドレーの友人たちに、ここまでの物語性は描けないだろう。「すごいねー」「おめでとー」などという言葉は交わしても、外部の人間でしかない。彼女たちにも彼女たちの物語はあるかもしれないが、それは小さな物語であり、そこで改めてネットという大きさを実感することにもなる。
そして日常性を持った物語が与える一番のインパクトは「共感」であろう。何よりリアルさが生み出すものである。このへんはスレ住人のヒートぶりを動画なりまとめサイトなどで数え切れないほど観察できる現象である。
このへんはひねくれているとしか思えないが、現実的にはふたりの先に「Just Be Friends」が待っているだろう。いつかは分からないし、もうすぐ2年になる今現在でも続いていることは本当に素晴らしいなと思うけれど。
というわけで最後にふたつの動画を並べてみることにする。今回も長くなってしまったし、他のテーマで書きたいこともあったんだけどねと。つーかそれ以上に他にもっとやるべきことあるだろ俺、と言われるとどうしようもなくてごめんなさい。俺も現実逃避したかったんだな、と受け止める。
「Sweetiex2」
「Just Be Friends」
まあそんなこんなで、日常というものをテーマに文章を少し書いてみたい。面白い出来事があったので。
ニコニコ動画におけるボーカロイドの使い手にDixie Flatlineという人がいる。ジェミニの人、とも呼ばれる彼は文字通り「ジェミニ」という曲でデビューし、昨年の夏に「Just Be Friends」という楽曲で一大ムーブメントを起こした。というか俺も去年この曲についてのテキストを書いてるね。200万再生というこの曲はもうボーロイドを代表する曲になっているとも言える。
今回は彼の二年前の曲である「Sweetiex2」という楽曲について、ではなくその元ネタについて、でも少しなく、元ネタとなったあるふたりの女子高生のエピソードから受けた感想と、小さな疑問から生まれたタイトルテーマについて書きたい。
つまり彼女たちのエピソードがネット上で巻き起こしたムーブメントに対する雑感と、そこで日常とは何ぞやというテーマについて。当然非日常とは何かということもふまえて我々の日常とは一体なんなのだろうか、というのをただの大学生の目線でつらつらと書こうと。
■1.Sweetiex2に関するエピソード
ご存じの方もいるかもしれないが簡単にあらすじを。3行で書きます。ネタバレご容赦。
・ある女子校の女の子(主人公/メドレー)が「クラスの完璧な女の子(相手/ハスキー)の弱点を知りたい」という趣旨のスレをVIP板に立てる
・それに反応した住人たちの催促によってメールをメドレーがハスキーに送り続け、2年前の7月15日に落とすことに成功する
・その後ふたりの関係は発展を続け、あんなことやこんなことをしてその後も幸せな日々を現在も送っているとのこと
後日談含め。まとまってるのはこちらかな→
あらすじはこんな感じ。「世界一長くて充実した一週間」というタグがついているように、確かに接近から発展までは加速度どれだけだよというくらいにあっという間であるとともに、密度もかなり濃い。いわゆる恋人としてできることを一巡させるんだから、そりゃあ長い。
まあそれはさておき、ニコニコ動画でコメントと疑似同期しながら振り返るとネットの盛り上がりっぷりがひたひたと感じられて面白いし、まあ盛り上がったからこその現象として今でも俺が追跡できているわけだが。「Sweetiex2」という楽曲も、ハスキー&メドレーのふたりの存在があっただけではなく、ふたりを取り巻くムーブメントがなければ生まれなかった。ここを一つのポイントとしたい。
彼女たちをとりまくムーブメントはなんだったのか?と。もちろんスレの住人がいなかったらここまでの現象は起きなかったが、それはスレの住人がいなかったらふたりの関係はなかった、ということと必ずしもイコールではない。メドレーを後押ししたことなどの相関性はあるが、別に因果性はあるわけではないからだ。まあこれは邪推にもなるんだけど、厳密に言えば因果性はない。
■2.「電車男」との違いに見る日常性
ここに電車男との決定的な違いを感じる。電車男の話をたどるかぎり、スレ住人がいなかったらまず電車男は行動を起こせなかっただろう。まあたらればの話になるので厳密には確かめようがないが、電車男とエルメスの関係とハスキーとメドレーの関係を整理してみると、前者は非日常な関係で後者は日常的な関係と呼べるのではないだろうか?
電車男はたまたま電車の中でエルメスを助けたに過ぎない。会うはずの無かったふたりが会い、恋に落ちてゆく。ドラマや映画や小説でもあきれるほど繰り返されたシチュエーションに、ネットという無数の善意の第三者が絡むことにより、電車男という物語が構成されていく。一連の現象とドラマ化は電車男という神話を高める行為だろう。ドラマは神話素とも言える。まあ2000年代で成功したドラマは数えるほどだが。
神話性を持ったのは電車で出会うという非日常性が重要な神話素になっているからであり、ハスキー&メドレーの物語はあくまで女子校のクラスという日常的な場所で、同性ではあるが恋愛という日常的な行為が行われているにすぎない。もちろん恋愛というのもドラマ映画小説で数多く扱われてきた事象ではあるし、女子校内なら同性で、という話もまあ珍しくはないと思う。電車男の話は出会いの場からドラマ性を持っているがハスキー&メドレーにはそもそもドラマ性があるわけではない。
だからつまらないというわけではもちろんない。むしろ、だから面白いと言ってもいい。非日常性が神話性を持つのはそれ自体何ら珍しいことじゃない。だが、日常そのものがある種の神話になるというのはなんなんだ、と。ここにネットの面白さとか、ネットにしかできない何かを感じとることができた。
根本は「ハスキーの弱みを知りたい」という願望であり、相談事だ。ネットのない時代ならメドレーが仲の良い友人の誰かに頼るか、信頼できる誰かに相談するしかないだろう。だが今はネットがあり、2ちゃんねるがある時代である。ネットに初めて書き込むまでにどれだけの躊躇や抵抗があったのかは知らないが、メドレーは2ちゃんねるに書き込むことを選んだ。
そうして住人たちは盛り上がり、メドレーも自身の恋に向けてまっすぐに進み出す。この構図はスポーツ選手と応援する人との関係ととらえてもいい。スポーツ選手の結果に観客は直接的に関与する(因果性を持つ)わけではないが、応援する観客の存在がどれだけ心強くするだろう。そして良い結果が出たときに選手は揃って言う。応援が助けになった、感謝している、と。
■3.物語性を求めて
ではなぜ、ハスキー&メドレーの関係がネット上で一大ムーブメントになったのだろう。スレの中に映画化かドラマ化希望、というのがあって感じたのが、物語性への憧憬である。もちろんこれがすべてだとは思わない。ただ楽しかったから盛り上がっただけ、とも言える。でもその楽しんでいた時点の先に、世界で一番充実した一週間、という物語性を見た人は多かったはずだ、と。
物語と言ってもSFやファンタジーとは違って今回の場合は学園物や恋愛というジャンルにおさまる現実に依拠した物語だ。スレの住人たちは物語に積極的に、しかもリアルタイムに関与したことになる。絶対的な影響を及ぼす支配被支配的な関係ではなく、声援を送る支援被支援的な、非常にフラットな関係として。
であると同時に、それを願ったはずである。「単位は落とす」(大学のテスト期間である7月中旬のお話なので大学生閲覧者にとっては切実な事情である)「明日仕事だが見る」などはふたりの関係を見守りたいという好奇心を持ち、後で振り返ったときに「イイハナシだなあ」という感想を抱くはずである。その言葉もいくつもの動画コメントやスレ内のレスポンス、ネット上のブログなどで見ることができた。おきまりの「いつまでもお幸せに」という一言も忘れない。
ドラマも映画も小説もSFやファンタジーではない限り、現実に即した何らかの日常の物語を書くことを目的とする。でもこのスレを見て思ったのは、日常が物語化するという、創作とは真逆の現象である。まあ当然と言えば当然で、創作というものはつまるところはなんらかの再構築にしかすぎない。小さな日常を大量に再構築することで新しい物語を生み出すのだから。
ただ、日常が物語化すると言っても出版されたり映像化されるわけではないのだから、誰かによって認識されねばならない。その誰かが物語に外側から関与したネットの住人であったわけである。ハスキーやメドレーの友人たちに、ここまでの物語性は描けないだろう。「すごいねー」「おめでとー」などという言葉は交わしても、外部の人間でしかない。彼女たちにも彼女たちの物語はあるかもしれないが、それは小さな物語であり、そこで改めてネットという大きさを実感することにもなる。
そして日常性を持った物語が与える一番のインパクトは「共感」であろう。何よりリアルさが生み出すものである。このへんはスレ住人のヒートぶりを動画なりまとめサイトなどで数え切れないほど観察できる現象である。
このへんはひねくれているとしか思えないが、現実的にはふたりの先に「Just Be Friends」が待っているだろう。いつかは分からないし、もうすぐ2年になる今現在でも続いていることは本当に素晴らしいなと思うけれど。
というわけで最後にふたつの動画を並べてみることにする。今回も長くなってしまったし、他のテーマで書きたいこともあったんだけどねと。つーかそれ以上に他にもっとやるべきことあるだろ俺、と言われるとどうしようもなくてごめんなさい。俺も現実逃避したかったんだな、と受け止める。
「Sweetiex2」
「Just Be Friends」