Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

2010年05月

・忙しさを言い訳にしない
・規則正しい生活を
・走る
・読む
・書く
・かつ、生き急がない

 下手に真新しいことをするよりも今までやってきたことを洗練するのも大事なんじゃないかと。
 と言いつつ浮気性なので新しいことにも手を出すんだろうけど、たぶん。
 6月末にはTOEICを受けますよ。日経テストは色々考えてスルーした。問題集は買ってしまったんだが。優先順位がね、と。

 5月病で気持ちがひきこもりがちになっていたせいか、最近人と話すのが楽しいですね、単純に。それはもう単純すぎるほどに。ネットであろうがリアルであろうが。
 大学生活ももう後半に入ってしまったので、時間の少なさをひたひたと感じつつ、今はそれでもまだ余裕があるはずなので、生き急がない。ほどよく遊ぶ。

 まあそんな感じで。またそのうち。

 あと、早慶戦三日目まで参加されたみなさんおつかれさまでした。選手にも、おつかれさま、と。慶應は6年ぶりの優勝おめでとー。3日間とも神宮には行かずネットorテレビ観戦でしたごめんなさい。
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 気づけば5月もあと一週間と一日か。来週はゼミで発表があり、また金曜日にはレポートの締め切りがあり、その次の週にも少し大きなことがあり、それまではしばらく引きこもりの日々かな、と。まあ日曜日からしばらく雨らしいので、やるときはやるしかない、と。
 ゼミの発表用の本はもう読んだのであとはレジュメをさっさと作って、レポートをやりたいところ。レポート用の本は結局ほとんど読めず。すべてはインテル・・・ではなくて日曜日の俺が悪いですが、まあ夜中はチャンピオンズリーグを見ておりました、と。
 予想はしてたがインテルの試合運びはさすがとしか言えなかった。それくらいしか言えない。バイエルンは好調だったリベリーを欠いたこともそうだが、それらしい展開を作らせないディフェンスをインテルがずっとしていたので。エトーがあれだけ献身的にチームプレーをするのはカメルーン代表では見たことがない。モウリーニョが何をこのチームに持ち込んだかということがよく分かった。

 それはそうと。
 金曜日に新宿のとらのあなにボーマスで買えなかったびにゅPのアルバムを引き取りにいくついでに、サザンテラスの新宿宮崎館KONNEで口蹄疫の募金をしてきた。まあ、できることはこれくらいかな、と。
 某大臣の始末とか県と国(政府・官僚)の責任のなすり合いがどうたらということをツイッターをやっていたりネットを徘徊していたら嫌というほど見かける。それ自体、何かを言うことは自由だと思うが、それでいて認識不足や情報不足でデマが流れていたりあらぬ批判をしているようでは何の意味もないし、それに影響される人がいるようならマイナスにしかならない。表象だけに対する批判というものは、その背後にあるものを無視している以上は何の意味も持たない。それを的確にとらえた批判ならどんどんやるべきだろうけれど。
 まあ俺はあまりこの一件に関して詳しく調べたわけではないので、明らかにおかしいだろうと思うことに関して(韓国のせいであるだとか、問題をすべて某大臣に集約していくところとか)思うことがあった、というお話。結局は民主党が嫌いだから民主党の責任にしてしまえばいい、という恣意性しか感じられない。自民党政権時に日本嫌いの中国人が首相の靖国批判をしているようなもので、何かがあったから嫌いだというよりは、何かそれらしい理由を持ってきて批判するようなものである。
 言いたいことを言うときや書くときは、それに政治という複雑な事象を持ち出す以上はそれ相応のことをふまえねばならない。別に居酒屋談義ならテキトーでもいいとしても、ネット上でインタラクティブな場所でやるのなら誰かの行為は不特定な多数に向けて発信されているのだから、それくらいの認識は当然持たないといけないよね、と。
 某大臣の行為は法的には問題ないにしても政治的には問題がないわけもないので非難はされて当然。だがすべて彼が悪いとか、口蹄疫の対応に関してたらればを連発しすぎることは、ただ彼を嫌いだから言っているような気がしてならない。扱っているマターやイシューが複雑なのだから、なおさら感情論は排さないと批判などすべきではない。ただの愚痴である。

 まあこのへんは知り合いがニコ生で口蹄疫に関する放送を最近ずっとやっていて、「口蹄疫について知ってもらいたい」という方向性は悪くないのに、コメントにつられたか本心が出たかは分からないが放送の方向が政治問題化していくことが何回か見受けられた。そこで見受けられた発言に対して注意を促した、というお話なんだけど。誰かの人格や自由意志にまで踏みいるようなコメントに乗るようではいけないだろう、と。
 このへんはニコ生特有のもろさと未熟さなんだけどね。ハードルの低さとも言える。多くの個人がネット上で文章を上げるようになったときも、そのハードルの低さは指摘されたが、ニコ生のように映像を配信できるようになったことでまた同じことを考えた。
 まあ別にどうでもいい誰かのことならわざわざ文句を言うのもめんどうくさいしスルーしておくだねど、わりと仲良くしているネットの知り合いなのでさすがにつっこんでおいた、と。
 
 あと、同時にツイッターの扱いの難しさというのも感じてしまう。ツイッターはハードルが低い上に、書いている人の本心が出てしまいがちで、それがただの愚痴になることもしばしばある。俺もたぶん、愚痴っていると思う。その愚痴が意図せざるReTweetで広がって、前に書いたように本質を欠いたことがネット上の海に広まってしまうという現象が珍しくない。
 TumblrのReblog機能にもおそらく同じことが言えて、RTもReblogもそれぞれフィルターがかかるから良質な発言や記事が広まることに関しては有意義な機能なんだけど、ある種の悪意を持ったRTやReblogはこわいよなあ、と思った。へたすればブログ炎上以上の規模を持ちかねない。
 知らなかった、ではすまされないのが法律上での有過失という行為(法律上の悪意とは知っていたからやった、ということ)だけど、ネット上では客観的に悪意性を持っているとしか思えない。発信者が悪意か有過失か善意無過失かなどは分からないからね。

 ここ最近ブームのソーシャルサービスはブログや掲示板が持っていた個別性に加えて多分に連関性を持っていて、従来のサービスとの差別化という意味では後者がソーシャルサービスのウリであることは明らか。
 それに加えてネットブックやスマートフォン、携帯電話の流通によって、元々低かったハードルがさらに下がった上、どこでも投稿できるようになった。実際の行為は紙でメモをとるよりも、些末なことかもしれない。
 ネットリテラシー向上というのは大昔から言われてきたことだが、それ以上にネットをする人それぞれが、見えなくても画面の向こう側に不特定な多数がいるということを意識すれば、だいぶ変わるんじゃないかなーと思う。
 ブログレベルでは見ている人が限られるしリスクは少ないけど、ツイッターは一つのサービス内に多くの人がいて、俺のフォロワーは最近180人にもなってしまったので彼らの中の一定数は見ているだろうということを考えたら間違ったことが言えない、と思うのである。
 まあネットのいいところは、間違ってたら間違っていると指摘してくれる人がいることなのかもしれないけど。俺もまだリテラシーに浅かったころは多くの失敗をして、その度に大人に諭されてきた。いつの間にか俺が逆の側にいること、そして逆の側にいる以上、それ相応のことはやらないとね、って思ったのでした。いやまあ、俺もまだまだ甘いだろうけどね。


*タイトルは「Angel Beast!」というアニメ内のユニット、ガルデモことGirls Dead Monsterの「Thousand Enemies」より
誰が待っているかは分からないだろう、ってことで。
CD買ったけど、1stより好きかもしれん。ゆいにゃんのボーカルがなかなか上手くて、けっこうはまってる。
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著者:円城塔
読了した版元:ハヤカワ文庫JA(2010年)


 予想はしてたが、本書は一読しただけでは何がなにやらサッパリ分からない。いや、それは少し言い過ぎか。第二部の展開で第一部で見かけた伏線が出てくるので、おやっ、と思って読み進めていたら終わっていたという感じである。サッパリ分からないは言いすぎだが、だからと言って何が分かったのだろうと思う。ある男と女の時空を超えたラブストーリーか、いやそれどんな時かけもしくはゼーガペインだよと言われそうでもあるが。ミステリーの要素はあるが、基本的にはSFだと言っていいと思う。純文学と言えなくもないが、まあけどジャンル不問で作家が円城塔だ、ということが一番大事かもしれないね。さらにまだ32歳というから驚き。執筆時はまだ20代か。

 あらすじはあったないようなもので、とりあえず「Event」という事態があり、その前後で世界は劇的に変わってしまったということ。イベント後の世界で謎を探るジェイムス、その彼が幼いころに交流のあったリタという少女、巨大知性体と呼ばれる人間とは別の存在、さらには超越知性体、そして外部からの訪問者。彼らはどういう世界に生きて、どこを目指しているのか。ジェイムスとリタは再び出会えるのだろうか?

 まず、構成が緻密である。展開無視なら何でも書けるだろうというツッコミもあるだろうが、一見繋がってないように見えてどこかは必ず繋がっているはずだ、と思わざるをえない展開なので、一連の流れというものは確かに存在している。だから前半であれ?と思って当然だろうが、それでも確実に読み進めて欲しい。どこかで前半部分の伏線やキーパーソンに気づくと、俄然本書が面白くなる。読み進めていけばいつか閾値を超えるはずなので、最初は辛抱強く読み進めて欲しいと思う。だから、こう感じさせるだけの緻密さは確実に存在する。

 内容の細かいところはハヤカワ文庫の解説で佐々木敦が書いているし、ここで書いてもネタバレになってつまらないので書かないでおく。ただ、話ごとにそれぞれ主人公と思われる人物がどんどん変わっていくこと(ジェイムスなど、同じ人物の再登場もあるが)でこれがますますストーリーの連関を複雑にしている。さらに鯰だとか大量のフロイトだとか、ブラックボックスだとかそういう謎めいた物質が出てくることでますます、である。何のために複雑にするのか、何のために奇怪な物質が存在するのか、そもそも語り手は存在するのか、このあたりに思いをめぐらせて読むことで、より深く読めるのではないかと思う。考えれば考えるほど分からなくなるという矛盾につきあたってしまう、とも言えるかもしれないが。多面的、また多重的な読み込みが可能なのも本作の醍醐味であろうし、だから表象が無駄というわけではなく、表象だけでも面白さはある。たとえば「o1:Bullet」はこれだけで何かの一顛末ということで完結しているし、「01:Yedo」は文字通りエドと呼ばれた時代の、その街の一風景だ、と言うことは可能である。

(表面的な構成以上のもの、に対する言及という意味で、ここからはいくらかのネタバレを含みます)
 このことによって何が示されるのだろう。多くの章はそれ自体が完結しているものと言っていいと思う。だが、完結した章をつなぎ合わせても、長編として、一つの小説としては何一つとして完結しているとは言い難い。「エピローグ」は無理矢理あることを終わらせているにすぎないと思う。であるならば、そもそも本作は小説なのかという疑問にぶちあたる。何らかのストーリー、物語性のある文章には違いないが、小説というフォーマットとして本作を扱えるのかということ。物語性があるという意味で広義では扱えるだろうが、文章を並べるだけで小説と言えるのかという意味では狭義に本作を小説ととらえられないのではないか、という疑問である。ひねくれているかもしれないが。

 ただこうした疑問を持つことで、本作を別の言葉で再定義しようと考えた。本作は、誰かの見ている「夢」ではないだろうか。多くの人が眠っているときに見る、「夢(Dream)」である。

 本作の途切れつつも不思議と繋がっている世界は、いくつかの分散した夢の繋がりなのではないかと考えた。夢は一つ一つは中途半端であれ完結するが、いくつか見た夢が綺麗に繋がっているわけではない。だが、繋がりがないわけでもなく、ある夢が次の夢に部分的に引き継がれることもある。だが総体として見たときに、一晩に見た夢は不完全な物語でしかない。だけど予想もつかない展開や、意外な人物の登場は、それだけで嬉しくもあり、場合によっては悪夢でもあるだろう。「Self Reference Engine」という夢を見終えた読者の、”寝起き”の実感はどこにあるのだろう。おそらくそれは、人によって全く異なるベクトルを向いているんだろうけれど。

 円城塔は自然科学でいうところの複雑系に関わっていたようなのだが、夢という系も複雑系と言えなくもないだろう。本作を複雑系の小説というよりは、もう夢だろう、と言ってしまったほうが分かりやすくていいんじゃないかと考えただけで、それ以上でも以下でもありません。あれやこれや考えながらも、意外と本質がシンプルかもしれないという気づきがあったりして、頭をぐるぐるとめぐらせながら読める楽しい小説でした。
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 どうやら2週間ぶりらしい、お久しぶりでござます。
 生きてますよ、だけどGWが明けてすぐにパソコンの方がイカれていて、パソコンはというよりはネットにつなげない状態が10日ほど続きました。その間に大学でネットをする日々でした。10日繋げないだけで良く行くサイトの仕様は変わるわ小沢は事情聴取されるわ(ネットとは関係ないけど)ボーマスがあるわでネットはできないけど暇はしてなかった感じかな。
 噂の「光の道」対談は大学でちゃんと聞いたり。そらのさんが一昨日くらいの朝日朝刊に顔出しで出ててびっくりしたわw この前はドキュメンタリ宣言のツイッター特集にも出てたし。
 
 何から書こうかしらん。
 えと、まずボーマスは楽しかったですありがとうございました。ニコニコとツイッターで個人的に交流のある「ミクノポップを聞かないか?」というコミュの放送主さんたちとお会いすることもでき、持っていった名刺12枚がすべてなくなるという事態に。色々ありがとうございます。
 まあ、オフ会って単純に楽しいんだけど、今回みたく趣向がはっきりしていて、しかも普段から交流のある人たちと会うと初めて会った感じもなく、それでいて距離感の難しさがあるから面白かった。ボーマス本体よりもオフ会のほうを楽しんでしまった感もある。いや、やっぱり両方楽しかったな。ボーマスはずっとお会いしたかった何人かの人と会ってお話もできたし。
 いずれにしてもネットがいかに便利とは言え、リアルの楽しさが減る訳じゃないし、むしろ増幅されているといってもいい。ネット時代の人間関係とかコミュニティっていうのは、一昔前よりもバリエーションははるかに多いと思うし、どういう風に繋がるかもソーシャルサービスがじゃんじゃん出てきて多様化し、面白いよなあと思う。
 こういうことに無関心な人が「最近の若い人は他人に希薄で・・・」とか言うべきじゃあない。こういう言説は全然珍しくないと思うけど。

 まあ、なんだ。
 東京に来てから色んな所に人間関係ができて楽しい。大学ってサークルとバイトだけじゃなかったんだね、って。てか俺今両方ともうやってないしw(狭義には
 それでもやるべきこと、やりたいことがあるのは悪くない日々である。
 後はもう少し、いやもっと明確にして、確実にやっていきたい。気がついたらだらだらしているとか遅くまで寝ていたり起きているのって明らかに勿体ないわ。大学卒業してから後悔しても意味ないしな。
 後期からはどうなるか分からんが、それでもふつうの大学生の忙しいなど、たかがしれている(たぶん
 ゆるゆるぐだぐだするのは楽しいんだけど、そればっかりじゃあね、っていう思いが最近また強くなった。色んな場所に足を運んだり顔を出すことで、自分は何やってんやろー、というのはよく分かるから。

 じゃ、そういうわけで。

読了
27:『微睡みのセフィロト』冲方丁
28:『マルドゥック・ヴェロシティ 1』冲方丁
29:『福祉政治』宮本太郎
30:『生活保障 排除されない社会』宮本太郎
 これらの本がすべて面白かった。宮本先生の考えは面白い。冲方ワールドはやっぱすげえ、と。本屋大賞おめでとう。やはりうちは中退が一流な大学だなw
 ヴェロシティをさっさと終わらせて、桜庭の『私の男』を読みたい。
 近いうちに『Self-Reference Engine』のレビューを書けるかな?花粉症しだいだな。鼻がずるずるして集中力が削がれてしょうがない。

*タイトルはナタPの楽曲から
ボーマスではもっと話できればなーと後悔しつつ、アルバムかっこいいです。
この曲は音もめちゃくちゃかっこいいんだが、歌詞が意味深で聞き込んでる。儚げに歌うルカもいいなあ、と。
 
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監督:古厩智之
脚本:古厩智之、大野敏哉
原作:誉田哲也『武士道シックスティーン』
主演:成海璃子、北乃きい

劇場:テアトル新宿

 小説でも話題になっていた武士道シックスティーンが、映画化するという。しかも成海璃子と北乃きいの主演という、最近の10代の女優では一番勢いがあるんじゃないかというふたりが主演ときたら(しかも北乃きいに惚れている身とすれば)見に行かざるをえない。ということで公開初日にすたこらとテアトル新宿に足を運んできた。舞台挨拶直後で、余韻が残るテアトル新宿は公開初日ということもありかなりの人が入っていた。若い人、高校生もいたけど、むしろ中高年といった年配の人が多かったように見受けられる。かわいい女の子ふたりを見に来たんですねわかりm(偏見乙

 北乃きい演じる西荻早苗は東松学園という女子中高一貫校のいち剣道部員だった。中学時代の彼女は、実は全中チャンピオンの磯山香織(成海璃子)に勝っていた。早苗は忘れていたが、根に持って忘れない香織は早苗の高校に外部入学し、剣道部で早苗を発見する。早苗にライバル心むき出しな上に、1年生でありながら剣道部を全国に連れて行く、という気概だけが空回り。東松剣道部は強くはなるものも、主将の村浜ゆかり(高木古都)の反発を買うなど、香織はなじめずにいた。

 予想はしてたが、北乃きいと成海璃子の役回りがドンピシャである。感情あらわにする場面では彼女たちの素に近い形が随所に出ているし、年齢的にも高校生役にはぴったり。20代の役者が高校生役をやって不自然に感じることがままあるが、それは全くなくて、胴着がよく似合っていた。立ち回りもかなり鍛えたようで、本物の剣道部員がエキストラとして入っていたようだが違いが分からないくらい遜色がなかった。このあたりも最低限度ではあるが、これを満たせない映画やドラマはいくらでもあるので、全体として期待通りというよりも期待以上の出来だった。

 香織が剣道部で独走する様や、村浜がそれに対して公然と嫌悪を示す様、ささやかれる陰口・・・など高校の部活という若くて小さな組織間で当然のように怒る軋轢も過度な演出なく自然な形で見受けられるし。村浜役の高木古都という女優は迫力というか、主将としての風格を全面に出していて、あくまでも早苗と香織が主役のストーリーではサブキャラには違いないが、異彩を放っていたのは確か。早苗の友人役だった山下リオはちょい役すぎた、かな。出演していた女優がほぼ全員90年代生まれなんじゃないかと思われるので、新しい世代の中で勢いのある女優を見たい、という人にもオススメしたい。主役のふたり以外にも、後々出世する女優がきっと出てくるだろう。

 見終えて思うのは、ここまで若々しくて極端なくらい純粋な映画は久しぶりに見たということ。高校の部活という本気にならざるを得ない設定は、否が応でも等身大の高校生心理を描写する必要がある。香織のとまどい、早苗の自信のなさ、ふたりに共通する家族の悩み・・・などなど、若い観客は距離感が近く感じるだろうし、大人の観客は昔のことを思い出したり、子どものことに思いを馳せたりしたんじゃないだろうか。それだけのリアルさを感じられたのは、演技者たちも同時に若い存在であることと、

 磯山香織がある悩みを抱え、公然と反発する剣道部員とそれらを見守る顧問の存在が、リアルさを加速させるためには非常に効果的。構成上主人公ふたりにスポットが当たりがちなんだけれど、脇役陣が主役ふたりのサポートに徹していることで、さらに主役ふたりが際だつことにもなっている。早苗の父親の板尾をそこで出すか!とかね。しかもあの役だったら最近見た「空気人形」の板尾を想像してしまうじゃないか、偶然?

 そしてたぶん、香織の悩みは若さゆえだけのものではなく、けっこう普遍的なんじゃないかとも思う。周りが見えずに自分中心になっている人は大人にもいくらでもいる。どういうきっかけで、どこで気づくかは分からない。一生気づかないかも知れない。けれど、気づけたときの大きさっていうのは、その事実以上に気づかせてくれた誰かや何かがあるということで、それがこの世代にとっては大人への一歩という意味での成長にもつながる。これはあとになって分かる大きさだろうし、貴重さだと思う。主役ふたりの表情が、出会ったときと映画のラストでは大きく変わっているのが特徴的。まるで別人である。

 特筆すべきオリジナリティというものはこの映画には存在しない。ただ、出演者が全員本気で等身大の人間を演じ、かぎりなく純粋でシンプルであることが、何よりもこの映画のクオリティを後押ししている。3Dやなんやらで新しさや派手さが期待される一方、こういう手触りを大切にしている映画の存在を大事に思いたい。大事だよね、そういう気持ちも。
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