植村花菜の関西限定シングルが欲しい。関西の友人に頼んで買ってもらって送付してもらおうとは思っているんだが。
つい先週ヤマダ電機でスピーカーを購入した。今まではそこまで不自由しなかったが最近ニコニコとぽっどきゃすとにはまりだしたのでスピーカーがないと不便だということで。
その寄り道でプリンターをいじったりビスタをいじったりしてたら俺の近くでヤマダの人が女子大生らしい2人連れに話をしていた。曰く、このパソコンにはオフィスが入ってないから1万うん千円で買わなきゃだめで、大学でも就職しても何かと使うだろうから今ならつけておきますよー、とのこと。ああ勿体ないと思いながら聞いてしまった。断片的に聞いていただけなので、この会話のどっかに俺の誤認があるかもしれないけど、これだけパソコン人口が増えたらどれだけ知識と技術を持っているかでどれくらいの差が出てしまうのだろうと。そこにつけこんで商売することも可能なわけで。ただ、何を以て知識とするのかもまた難しく、10年前の知識とか常識はほとんど通用しないだろう。そして今のそれらも10年後にはまた通用しなくなるだろう。俺が彼女たちみたいな状況になって、もしかしたらうんそうだね、って言ってしまいかねないかもしれない。
そのようなことを朝日新書の今月の新刊『クラウド・コンピューティング』を読みながら考えた。いつの間にか進んでいることは知っていたけど、どういうヴィジョンがあって、どういうビジネスモデルが展開され、またされ続けているのかまでは曖昧にしか知らなかった。iPhoneしかり、ブラックベリーしかりだし、Google Appsやウインドウズ7にいたるまで。
ものすごい発想の転換が進んでいるのに、いつの間にか俺はのんびりしていたなあと思ってしまった。ヤマダ電機での光景とこの本はそういう意味では象徴的な気がする。
まだ読み終わってないのでなんとも言えないが、基本的にはガイドブックであると思う。今起こっていること、これから起こりそうなことに関する。だからそんなこと知ってるよという人にはつまらん本だろうが、時代に取り残されてしまっている、もしくは取り残されそうな人が読んだらめちゃくちゃビックリするのではないか。ただ日本人は本の中にも書いてあるけど特に若い人はモバイル志向がはなはだしく、そんなの関係ねーとか言われたらそれはそれでどうしようもないわけだが。
携帯電話志向の人とパソコン志向の人との価値観の違いとか、ある種の断絶のようなものって結構、切ないんですよね。「ケータイがなかったら生きていけない」とか「女の子にメール送るときには顔文字ないし絵文字は入れるべきだよね」とか。頷く人は大いに頷き、ぶっちゃけありえないと思う人はそれまた多いことだろう、と思う。大学に入ったら余計に携帯電話がなければ生きづらい社会、である気がする。だから持ってないと生きていけないって言うのはあながち誇張でもないのかもしれない。
それを悪いというわけではなくて(そう思わないではないけどね)、日本独特の携帯電話文化がある以上、その文化にあまり親しくない人が拒絶を感じるのは半ば仕方ない、ということ。物心ついたときからパソコンに親しんできた人が、キーボードではなくテンキーというもので文章を打つこと自体面倒くさくてしょうがないので、その時点で俺はついていけないのでした。ネット定額時代に携帯だとパケット代がかかったりとか、恋人同士でウィルコムを買うなんてのも大学生ではよくあるようだけど、スカイプすればいいじゃないか、などと考えるあたりがもういけない。本当に、価値観というか文化の違いなんだね、と。携帯電話の領域でどうすれば便利かを彼らは考え、俺はパソコンの領域でそれを考える。単純に考えればそうなのかなーと。
だから俺の場合携帯電話を紛失したとしてもそれほど痛手ではない。大した情報もデータも入ってない、と思う。前の携帯もリサイクルに出そうと思ってるんで。レアメタル勿体ないっすから。逆にHDDが壊れたらえらいこっちゃなんだけどさ。
ちょっとそれた。で、ヤマダにいた女子大生たちに朗報なのは今年中にはオフィス14というウェブアプリケーションのオフィスがリリースされそうだということ。時期的にウインドウズ7とダブらせるつもりなんだろうか。とにかくもう少し待てば1万いくらも払う必要はないよ、と。少なくとも読み込むだけならオープンオフィスがあるので大丈夫だったりするしね。そうやってクラウド化が進む訳か。
つい先週ヤマダ電機でスピーカーを購入した。今まではそこまで不自由しなかったが最近ニコニコとぽっどきゃすとにはまりだしたのでスピーカーがないと不便だということで。
その寄り道でプリンターをいじったりビスタをいじったりしてたら俺の近くでヤマダの人が女子大生らしい2人連れに話をしていた。曰く、このパソコンにはオフィスが入ってないから1万うん千円で買わなきゃだめで、大学でも就職しても何かと使うだろうから今ならつけておきますよー、とのこと。ああ勿体ないと思いながら聞いてしまった。断片的に聞いていただけなので、この会話のどっかに俺の誤認があるかもしれないけど、これだけパソコン人口が増えたらどれだけ知識と技術を持っているかでどれくらいの差が出てしまうのだろうと。そこにつけこんで商売することも可能なわけで。ただ、何を以て知識とするのかもまた難しく、10年前の知識とか常識はほとんど通用しないだろう。そして今のそれらも10年後にはまた通用しなくなるだろう。俺が彼女たちみたいな状況になって、もしかしたらうんそうだね、って言ってしまいかねないかもしれない。
そのようなことを朝日新書の今月の新刊『クラウド・コンピューティング』を読みながら考えた。いつの間にか進んでいることは知っていたけど、どういうヴィジョンがあって、どういうビジネスモデルが展開され、またされ続けているのかまでは曖昧にしか知らなかった。iPhoneしかり、ブラックベリーしかりだし、Google Appsやウインドウズ7にいたるまで。
ものすごい発想の転換が進んでいるのに、いつの間にか俺はのんびりしていたなあと思ってしまった。ヤマダ電機での光景とこの本はそういう意味では象徴的な気がする。
まだ読み終わってないのでなんとも言えないが、基本的にはガイドブックであると思う。今起こっていること、これから起こりそうなことに関する。だからそんなこと知ってるよという人にはつまらん本だろうが、時代に取り残されてしまっている、もしくは取り残されそうな人が読んだらめちゃくちゃビックリするのではないか。ただ日本人は本の中にも書いてあるけど特に若い人はモバイル志向がはなはだしく、そんなの関係ねーとか言われたらそれはそれでどうしようもないわけだが。
携帯電話志向の人とパソコン志向の人との価値観の違いとか、ある種の断絶のようなものって結構、切ないんですよね。「ケータイがなかったら生きていけない」とか「女の子にメール送るときには顔文字ないし絵文字は入れるべきだよね」とか。頷く人は大いに頷き、ぶっちゃけありえないと思う人はそれまた多いことだろう、と思う。大学に入ったら余計に携帯電話がなければ生きづらい社会、である気がする。だから持ってないと生きていけないって言うのはあながち誇張でもないのかもしれない。
それを悪いというわけではなくて(そう思わないではないけどね)、日本独特の携帯電話文化がある以上、その文化にあまり親しくない人が拒絶を感じるのは半ば仕方ない、ということ。物心ついたときからパソコンに親しんできた人が、キーボードではなくテンキーというもので文章を打つこと自体面倒くさくてしょうがないので、その時点で俺はついていけないのでした。ネット定額時代に携帯だとパケット代がかかったりとか、恋人同士でウィルコムを買うなんてのも大学生ではよくあるようだけど、スカイプすればいいじゃないか、などと考えるあたりがもういけない。本当に、価値観というか文化の違いなんだね、と。携帯電話の領域でどうすれば便利かを彼らは考え、俺はパソコンの領域でそれを考える。単純に考えればそうなのかなーと。
だから俺の場合携帯電話を紛失したとしてもそれほど痛手ではない。大した情報もデータも入ってない、と思う。前の携帯もリサイクルに出そうと思ってるんで。レアメタル勿体ないっすから。逆にHDDが壊れたらえらいこっちゃなんだけどさ。
ちょっとそれた。で、ヤマダにいた女子大生たちに朗報なのは今年中にはオフィス14というウェブアプリケーションのオフィスがリリースされそうだということ。時期的にウインドウズ7とダブらせるつもりなんだろうか。とにかくもう少し待てば1万いくらも払う必要はないよ、と。少なくとも読み込むだけならオープンオフィスがあるので大丈夫だったりするしね。そうやってクラウド化が進む訳か。