Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

 中条省平の書いた『100分de 名著 アルベール・カミュ ペスト』を読み終える。『ペスト』自体は読書メーターをさかのぼると2016年に読んでいたので、もう4年前になるのかと感じた。




ペスト(新潮文庫)
カミュ
新潮社
2017-03-10






 確かなタ書でカミュを何冊か買い、その中に入っていたのが『ペスト』だったと思う。ほかに『幸福な死』と『転落・追放と王国』を読んでいるが一番有名な『異邦人』をまだ読んでいない。中条のテキストを読みながらカミュの作家性についても学ぶことができたので、もう少し読んでないものを読んでいきたい。

 新型コロナウィルスによるパニックに陥っている世界を生きる2020年の現在から見ても、『ペスト』は単なるフィクション以上のリアリティと驚きがある。人間がいかに目の見えないものに対して恐怖を覚えるかということ。一定の区域に封じ込めるという方法が、本来安全な人を過度なストレスに晒すリスクにさらしているということ。日本でも横浜に停泊しているダイヤモンド・プリンセス号を思い浮かべればよいだろう。2600人ほどが乗っており、半数以上は外国人で、合わせると50か国以上の人々であるらしい。その人々がほとんど何の前触れもなく、突然一定期間隔離、幽閉されるというのは、想像を絶する。しかしその体験は、外の世界にいる私たちが共有することが難しい。

 だからカミュも、あるいは昨日言及した安克昌も、そのディザスターの真っただ中のリアルを書き記そうとしたのかもしれない。カミュは小説というフィクションに仮託することで、逆に強いリアリティを持ってみせた。安克昌は新聞の連載を依頼されるという外的な要因によって、真っただ中の専門家しか知り合えない事実や情報、人の感情を外部の人間に届けることに務めた。これらの仕事は、特に平時である時にこそよく参照されるべきなのだろう。パンデミックならぬインフォデミック(根拠の不確かな情報の氾濫)が起きてからでは、冷静に情報をつかむことも難しくなるから。

 昨日から今日にかけてハフポストのよくわからない企画が炎上している。色々な反応がすでにあるのでもう改めて書かないが、そんな中たまたま見つけたブルームバーグの次の記事が印象に残った。






 日本の女性は多くが自営か無職(主婦)かパートタイム雇用のまま現役世代を終え、老後に入る。男性より10年ほど寿命が長いことが一種の幸福のように語られてきたが、制度的には確かに恵まれているとは言えない。以前より要件が緩和されているとはいえ、厚生年金に加入できない場合は国民年金か夫の扶養という第3号被保険者という地位しか獲得できていない。資産が十分にあれば別だが、すでに多くの統計を見ていても単身高齢者や高齢者のみの世帯の所得にゆとりがあるとは言えず、貧困ラインで生活している人も多い。そものも年金だけでは生活できず、生活保護に頼っているのもこの層である。

 ブルームバーグの記事はそうした統計をさらに補強するかのように、現役世代の女性たちの人生の選択の幅の少なさをみつめている。現役の時の幅が少ないということは、よりゆとりのある老後を保証する確率も下がるということになる。大沢真知子が記事で指摘しているように、「『夫が失業する危険、あるいは賃金が上がらない職業に就く夫が増えている』など安定が保障されない社会になっており、世帯ではなく個人を中心とした税や社会保障制度への転換が必要」なのは一つの策としてありうる。

 現実的にはいまもある扶養控除や第3号被保険者そのものの解体には反発も多いはずで、そうではない形でより個人の選択の幅を広げ、老後の選択肢をも広げる方向に制度を作っていく必要があるだろう。もちろん制度の問題だけではなく、「男性や職場の意識改革も必要」でもあるので、まだまだ道のりは長いかもしれないが、引き返せなくなる前に打てる手は打っておいたほうがよい。とりわけ雇用が不安定な氷河期世代が老後に突入していく前に何らかの手立ては打たれるべきだろう。

 この記事を読んでいて思い出したが、この本をまだ積んでいるので読まねばならないと改めて。




 来週金曜日にソレイユで公開される『さよならテレビ』を見に行く予定にしているが、ちょうどひらりささんが有料noteにこの映画を見ての雑感を記録していて面白かった。ドキュメンタリーにおける作り手の誠実さ、みたいなところがポイントかなと思いながら読んだ。




 3日続けて書いてきたが、こんな感じで読んだもの、見たものについての雑感が中心になっていきそう。引き続きお付き合いいただければありがたい。
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 昨日寝る前からキンドルで安克昌『心の傷を癒すということ』を読み始めた。




 同タイトルのドラマが先月からNHKで始まっていて、ちょうど明日最終回を迎える。大阪に生まれた在日韓国人の安が神戸大学医学部に進学し、そこで師である中井久夫(医師として、作家として)に出会い、1995年の阪神大震災を経験し、2000年にがんで亡くなる。短いながらかなり濃密な、そういう人生を柄本佑がかなり丁寧に、かつ慎重に演じていて好感が持てるドラマとなっている。ドラマは原作を原案としつつ、内容は独自なものとしているため、安も中井も別名での登場となっている。製作がNHK大阪であるからか、25年後の現在から1995年に対して真摯に向き合っているように思う。




 本の方はまだ序盤のため、95年の1月が終わっていない。戦後最大の地震被害に対して現実感を失っているのは、著者である安も同様であることが分かる。ボランティアや医師、看護師(看護婦や保健婦とい表記が時代を感じさせる)が外から駆け付ける中、精神科医として果たすべき役割とその方法に苦悩する様子はドラマでも描かれている。ドラマの方を先に見届けそうだが、本の方もじっくり読んでいきたい。ケアを職とする一人の人間として、あるいは4歳のころに香川で震度4の揺れを体験した者として(揺れた瞬間の記憶はないが、その後の報道は断片的に覚えている)。

 夜、これもNHKの『ドキュメント72時間』で昨年開業したイオン浪江店の年末3日間に密着していたので見ていた。東京から移住し、地縁のなかった浪江で看護師をしている女性や、妻の実家がある札幌に震災後に移住した後、浪江の家を取り壊す準備をする男性が印象に残った。「10年前のことをもう話すことはない」という若い男性もいた。いずれにせよそれぞれの形で、震災後の時間を生きていることがよく分かる。それはおそらく神戸も同じであるはずだし、神戸や福島にかかわらず日本は多くの災害を経験してきたのだから、それぞれの地域に災後の時間を生きている人たちがいるのだろうと思う。何か大きなことが起きたあとにでも、それぞれの場所で続いている時間があることに、たまたま思いを馳せる一日となった。

 ラジコにタイムフリー機能がついたせいで、好きな声優の番組であっても一週間後までギリギリになって聞くことが増えた気がする。先週の「ビタミンM」を聴いていて、「Get No Satisfaction!」を聴きながら転職の面接に挑む女性の話があった。確かに、この曲を聴くと底抜けのエネルギーというか、勇気をもらえる気がする。

聞いて わたし夢があるの
だれにも言えなくて埃をかぶってた
でもね もう無視はできない
無邪気な自分から 目をそらさないって決めたんだから!

坂本真綾「Get No Satisfaction!」


 ある意味、いまの真綾はここまでストレートすぎる歌詞を書かないかもしれない。『かぜよみ』として発売されたのが2009年の1月だからこれももう10年以上前になる。このアルバムの中で一番好きな曲で、当時よく聴いてたのを思い出したし、ライブだとこの曲と前後で「マジックナンバー」が演奏されるとフロアが騒いだのも思い出せる。

 2014年秋、保護観察官の採用面接を受けるため、さいたま新都心に向かう電車の中で聴いてた曲が「レプリカ」だったことも思い出した。結果はお察しですが、偽物ではなく本物をと歌うこの曲も、真綾にしてはストレートすぎるメッセージソングだったなと思う。いまも好き、大好き。






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 前回予告っぽいことをしたので気まぐれに日記を書こうと思う。昔はその時々の馬の名前をタイトルにしていたがかつてほど競馬に集中していないので、三題噺的にタイトルをつけていきたい。

 今日は昼前に起きてソレイユで『イエスタデイ』を見たかったが一回起きたあと余裕で二度寝したのでダメでした。今日までなので映像化を待つことにする。



 前回福岡町のイオンシネマで『ラストレター』を見た後にセリアに寄ってから買ったキッチンスタンドがわりとよかったので、追加で購入した。キッチンではなくデスク上に配置し、高さを利用できるようにしている。デスクをワイドに使うために高いところになんか置く、というスタンスと吊れるものは吊るというスタンスでやっている。まあ本当はそもそももっと配置する物自体を減らせばいいのかもしれないけれど。



 こんな感じで小さめのスクリーンを二つや配線やコード関係、カレンダーを置くということにした。とりあえずオープンスペースが増えたので不満はさほどない。

 夕方に藤塚町のラッシュライフコーヒーに行く。去年の秋にできた店で、生活範囲にまた一つカフェが増えたので時々行っている。サードウェーブの系統を引くコーヒーを毎回頼む。前回はエチオピアで、今回はボリビアにした。どちらとも2000mに近いほどの高地のコーヒーで、ボリビアはエチオピアよりもさらにすっきりとして飲みやすい味だった。悪く言えば個性が弱いのかもしれないが、基本的には好みなんだろうと思う。次はエスプレッソもどうぞと言われたので、カフェラテあたりを頼んでみたい。

 閉店まで中井久夫の『「伝える」ことと「伝わる」こと』(ちくま学芸文庫、2012年)を読んでいて、ちょうど読み終わったころに閉店だった。昼間は外の明かりが差し込むし、夜は夜で静かでいい。だいたいいつも窓際で本を読むか、タブレットで文章を書くかしている。中井久夫の本で病院はカーストになっており、医師、看護師、患者はそれぞれ相互理解することは難しい(医師は医師同士、看護師は看護師同士のコミュニケーションが中心になる)ことだとか、互換性がなく関係が上下に固定されることをカーストだと言っている。多職種連携という言葉が流通して久しいが、多くの病院にいまだカーストがあることも現場の声としてよく聞いている。完璧な相互理解は難しいだろうが、明快な意思表示をしたり、可能な限り双方向のチャンネルを増やしていくくらいしかないのかもしれない。

 
 万能策はないけれども、相手の反応を見ながらそっと進めると、大きい間違いはなくなるだろう。相手が浮かない顔をしているのに、「これは良いこと」と割り切って進めていくと、時にはおかしなことになる。この微妙さが、「自己主張」をあまりはっきり「言葉で伝える」と角が立つ社会の欠点である。気を使うには、まず、相手との間が円滑に行くようにと、相手の意向を察する努力をする。この時、「こうですか」と相手に聞いてみるわけにはゆかない。そこで、相手の表情や身振りなどの反応を勘をはたらかせて解釈することになる。(中略)
 職場の同僚の間では、言うことをはっきりと伝えて、後はあっさりするということができるところが、日本でいちばん暮らしやすく、仕事のしやすい場なのだろうと私は思う。
(前掲書、p.270)


 

 そのあとyomsに行き、IMAで川内倫子が特集されている号を買う。IMAのような雑誌がまだ続いているのすごいよねという話から始まり、小島信夫の話をした。自分があまり読んだことのない作家の話を聞くのは面白い。こちらからは最近読んだ源氏物語の解説本の話をした。




美濃 (講談社文芸文庫)
小島 信夫
講談社
2009-11-10






 夜、いままさにecho showで岩井俊二の『Love Letter』を再生しながらこの文章を書いている。中山美穂も柏原崇も、2020年の視点から見るにはあまりにもまぶしい。

Love Letter
中山美穂
2014-08-27

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 そっかーこういう風に映画を作ってくるのだなと素朴に感じた。岩井俊二のいいファンではないので、『打ち上げ花火』と『リップヴァンウィンクルの花嫁』くらいしかまともに見ていない(『花とアリス』は一部だけ)ので、中山美穂の『Love Letter』や松たか子の『四月物語』と比べて今作はどうなのか、といった批評的な文章は書けない。

 ただ、その二作はいずれも90年代のもので、そこから20年以上経た中山美穂と松たか子が舞い戻ってくるというのは、二人の存在を知っている者からすれば不思議な感慨がある。平成生まれの自分がそうなのだから、自分よりもっと年上の、それこそ同世代であるアラフォーやアラフィフの世代からすると特別な感慨があるだろう。この二人と対比させるように広瀬すずと森七菜を配置するという試みと、福山雅治を徹底的に孤独な存在として演出するこのリアリティは、中年世代に対してより複雑な重みを持つだろうなと思いながら眺めていた。

 なぜ複雑な重みがあるかというと、これは一つはルート分岐をたどっていく筋書きだからだ。松たか子演じる裕里は亡くなった姉になりすまして小説家、乙坂との文通を楽しむ。乙坂もまた、裕里を姉である末咲だと思い込んで文通を交わす。もし、あの時に戻れたら。二人にはもちろんそれぞれの人生があって、過去に戻ることはないし、未咲が生き返ることはないし、はたまた裕里が庵野秀明演じる夫と別れることもないだろう。現実は変わらないし、過去も変わらない。それだけはあまりにも強固なはずなのに、強固な現実を忘れるかのようにして、つかの間便せんに筆を走らせる。

 この瞬間、新海誠の『秒速5センチメートル』を思い出さずにはいられない。遠野貴樹は篠原明里と遠距離になった結果、第一章から第二章までの間、手紙を送り続ける。第二章の貴樹は携帯電話(まだ白黒画面だったころのガラケー)を持っているが、メールで明里に言葉を届けることはしない。第三章では大人になってからできた恋人とメールを交わすが、「1センチも近づけない」まま関係は終わる。完全に終わってしまった明里との関係が復活することもなく、孤独な貴樹と婚約者を見つけた明里が対照的に長い間画面に映し出されていく。ところで未咲と裕里の苗字が遠野であるのは、少し意識しすぎかもしれない。



 いずれにせよ、「失われたルート分岐」には戻れない。人生にセーブポイントはないからだ。人生はどうしようもなく不可逆的に前にしか進んでいかない。別れた恋人は別れたままだし、亡くなった人は亡くなったままである。それでも人は「もし、あのときこうしていれば」といった反実仮想を止めることはない。『Love Letter』出演陣である豊川悦司と中山美穂がほんのわずかだけ登場するが、こうした反実仮想の無意味さ、非現実さをシリアスかつ当然なものとして二人は突きつける。『Love Letter』の時に20代だった二人も、とっくに中年になっているように。時間が経過すればするほど、過去に戻ることがいかに不可能なのかという現実を、二人は突きつけてくるのだ。

 だからこれはある意味ではバッドエンドかもしれない。期待だけ持っていた乙坂は悲しい現実に直面するだけだからである。未咲はもういない。ただ、美咲の娘と、裕里の娘が、この二人の存在があまりにもまぶしく映し出されていく。裕里や乙坂の視点からは悲しくてつらい現実にあふれているのが今かもしれないが、まだ子どもである二人の娘は、まさに等身大の今を生きている。大人である二人にとっては失われた追憶の時間かもしれないが、二人の娘にとってはかけがえのないいま、ここである。

 二人の娘を演じるのが広瀬すずと森七菜というのがあまりにも出来すぎたぜいたくなキャストであるが、二人の輝きが際立つのと対照的に、裕里と乙坂がいつまでも過去にとらわれているのは残酷だ。だから二人が夢から覚めるとしたら、未咲の死を受け入れ、自分たちには残された人生がまだあることと向き合うしかないのだろう。失われたものはもう戻ってこないが、大人たちにもまだ未来は残されているのだと。

ラストレター (文春文庫)
岩井 俊二
文藝春秋
2019-09-03



Love Letter
中山美穂
2014-08-27




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 一年ほど前からだったか、知人たち何人かでウェブで日記を書き続けている。毎日続けている人もいれば月に何回かという人もいるが、いずれにせよ継続しているのはすごいなということと、継続していることである期間のアウトプットであったり思考が文章に表れているのがよくわかる。読んだ本、見た映画、日常のこと、仕事のこと。いずれにしても、ツイッターにしろインスタグラムにしても多くはフローのメディアなので、ストックとして後から振り返るのにはあまり向かない。フローだからこそ瞬間的な「バズり」がパーソナルとしても商業的にも求められるというのは、確かに現在のメディア環境が生み出した帰結ではあるけれどもフローばかりというのはとても疲れるし、次第に飽きてきた。

 そんな中でストックのメディアを使うことには、かつてとはまた違う意味があるのかもしれないと思う。それも継続的に、である。この「Days」は最近ではすっかり映画か社会保障の話をするようなブログになっているが、もともとは日記を書くために2004年に始めたものだった。カテゴリ「days」はすべて日記として読めるようにしてあるが955もあるのはかつてそれだけネット上に蓄積を作ることや、日々を記録することにいそしんでいた表れだろう。

 ゼロ年代のインターネットは基本的にはストックとしてのブログや個人サイトと、フロートしてのチャットや掲示板が並列的に存在する世界だった。だから相互のメディアを行き来しながら、いまほど忙しくはないコミュニケーションをしていたように思う。もはや死語というか機能としてもなくなったが、「トラックバック」という仕組みはストックのメディアであるブログのエントリーを相互にリンクさせるという意味で、かつては重要な役割を果たしていたし、新しい世界への扉として機能していたように思う。

 2004年から開始したと書いたが、実際には2003年からドリコムの「マイプロフィール」というサービスを使って日記の公開は始めていた。もはやソシャゲ企業と化したドリコムにそんなサービスは残っていないが、ゼロ年代前半ははてなダイアリーや前略プロフィールが生まれた時代であって、個人サイトでhtmlでゴリゴリ書いていた日記やプロフィールを一つのサービスとして提供するという意図が「マイプロフィール」にはあったように思う。

 ライブドアブログに移ってきたのは当時絶好調だったホリエモンの影響は少なからずある。ちょうどココログで眞鍋かをりが「ブログの女王」として日々ブログを更新していた時代だが、個人として使いやすかったのがライブドアだったからこれにした、だったように思う。はてなダイアリーを使っている人が多かったけれど、多いから俺は違うのにしようというひねくれ意識も多少あった。そのはてなダイアリーも数年前にサービスを終了したし、本日正午にはヤプログも終了するという。

 先ほど書いたように一つのサービスとして展開されるということは、使い勝手がよくなる代わりにそのサービスがいつか終わる可能性を常に持っている。ブログの場合他サービスへの移行ができたりするが、すべてのサービスがそうはいかないだろう。幸いにもライブドアはいろいろあったあとにNAVERの傘下になり、LINEの傘下になり、そのLINEがZホールディングスと統合することによってソフトバンクグループの一員になったので、ライブドア自体が死ぬことはないだろう。だがいずれサービスの統廃合や終了はありうる。今年の5月にこのブログを書き続けて16年になるが、書き続けたきたことよりもサービスそのものが続いてきたことのほうが、よほど奇跡的に思えてならない。

*********


 やたら前置きが長くなったが、日記である。
 普段読んでいるのはひらりささん(note。月額500円)、早乙女ぐりこさん(note)、lop-norさん(blogspot)である。毎日読めないときもあるが、あとで振り返って読んでいるのでおそらく公開されたエントリーはすでに読んでいる。







 最近ぐりこさんと同じ早稲女同盟というサークルを組んでいた伏見ふしぎさん(note)も日記を始めていて楽しく読んでいる。物書きにかかわる仕事をしているようなのは以前から拝見していたので、きっとこれからも継続的に読んでいくのだろう。



 新興メディアのnoteよりは使い続けたライブドアに愛着があるしアーカイブも豊富にあるのでこれを使い続ける予定だが、普段いろいろなnoteを読んでいると自分語りに向いているメディアなんだろうなと思う。ソーシャルメディアとの連携もしやすいし、読者からの課金もできる。ビューや課金をもらうためには差異化する必要があるが、自分語りなら差異化しやすく、かつ最近だとフェミニズムやジェンダー論からの文脈で一般化、社会問題化することもできる。ある意味「個人的なことが政治的なこと」であるかのように、従来のブログメディアではなくnoteという新興のパーソナルなメディアを使って世に告発したり啓発するような文章は非常に多い。

 日記として書かれるnoteにはすぐさま政治的、社会的なトピックに発展することはない。だが、個人的な体験の記録である日記の中に、社会的な要素が皆無なわけもない。仙人や雲水でもない限り人は社会の中で生きている。だから極めて個人的なものとして書かれた文の中にも、書いた本人がたとえ意図していなくても個人的な話題が社会的なイシューへと発展する可能性もあるだろう。その是非はまた別の問題として。

 最初に書いたように日記やブログはストックのメディアだ。だがこれらがツイッターのようなフローのメディアにシェアリングされることによって、日記やブログそのものがフロー化していく。必然、またバズりのようなエントリーが増えることにもなるわけだけだしそれが2020年代的なのかもしれないけれど、先ほど挙げた自分が普段読んでいる日記はフロー化からは距離を置いているようにも思う。ストックのメディアをバズりを意識してフロー化させるのが現代的ならば、フロー化から距離をとるのもオルタナティブの現代的戦略だと言えるだろう。ひらりささんがツイッターを見る時間を減らしたいと時々ツイートしてが、これは一定の距離をとりたい気持ちの表れ(しかし容易ではないこと)と解釈している。

 俺自身もどちらかというとオルタナティブかもしれないが、そもそも16年続けてきたことを半分惰性で半分習い性で続けているだけなので、オールドタイプと表現する方が適切かもしれない。2020年代になってもゼロ年代の感覚を残存させながらウェブで文章を公開していくことが可能か。UIがどことなくnoteに似ているmediumというメディアで書評をアップし続けているが、これもやり方としてはさほど新しくはない。ただmediumがもともと「長いツイッター」として開発されたサービスであり、フローとストックの中間やハイライトなどによるリアクションができるようになっているのは個人的に好きなポイントだし、サービスの設計思想は現代的と言っていいかなと思う。

 長々と書いてきたが、そういうわけでできれば「days」カテゴリで日記を再開していきたいとぼんやり考えている。性格的に、あと勤務体系的に毎日の更新は難しいと思うので断続的にはなるだろうが、フローのメディアに慣れてしまうとあまりにも多くが右から左へ流れていってしまうので、いったん流れを切断したい気持ちはずっとあった。一種の懐古趣味かもしれないけれど、自分が再開することによって「2020年代のウェブで日記を書くことについて」考えを深められるかもしれない。

 タイトル回収を無事果たしたのでこのあたりで終わりたい。続けてきたものを終わらせたくはないし、他方で止まっていたものを再開させたい。先のことは分からないけれど、だからこそ。抽象的ではあるが、いま考えているのはこういうことである。
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見:横川シネマ


 映画を見たのは公認心理師現認者講習会を終えた初日で、広島にいる間に一度横川シネマに行ってみたかったこと、そしてそこで何か見たいものはないか(そして時間に合うものは)と考えたところ、ENBUゼミナールが制作に関わっている本作を見ることとなった。ENBUゼミと聞くと濱口竜介を思い出したわけだが、本作とは特に関係性はなかった。

 130分ある本編だが、最初の半分ほどは、そもそもこの映画をどのように見ていけばいいのだろうと戸惑うことが多かった。萩原みのり演じるみのりという若い女性が主人公なのは分かる。彼女がほとんど唯一、全編通じて登場するキャラクターになっているから逆説的に主人公だとも言えるが、そのようにまわりくどく考える必要があるほど、本作に一本線の通ったストーリーはない、と思う。もちろん一切ストーリーがないわけではなく、独立した小さなエピソードが、連続性を持ったり持たなかったりして映画の中で展開されている、と言うべきなのだろう。

 youtubeに初日舞台あいさつの映像があったので見てみたが、萩原みのりが余白という言葉で表現しているのがなるほどなと思った。



 余白。たとえばただ数人の人物がしゃべっているだけだったりだとか、ただ街のどこかを歩いているだけだとか、家の中でごろごろしているだけだとか、動きはあるが物語的な展開は特段進まないというシーンが多い。逆にそのシーンの方が印象に残るほど、動きがあってかつ物語が動くときは、一気に緊張感を持たせる。みのりがそういうキャラクターだからと言ってしまえばそうかもしれない。ただそれは半分しか正しくなくて、残りの半分は、緊張感を作り出しているのはみのりを取り巻くまなざしであると言えるからだ。

 彼女の抵抗と言えば大げさなのだろうけれど、彼女は彼女なりの信念や正しさをもって自己主張を止めない。そしてその「自己主張を止めない若い女性」を周囲がどう取り扱うのか、どう受け止めたり受け止められなかったりするのか。これはフィクションとして作られているものである一方で、あまりにも濃厚に現代社会の空気が流れ込んでいる映画でもある。

 不連続なシーンやエピソードの多くは、けれどもそれらがこの社会のどこかできっとありうるのだろうな、と思うものばかりでもある。みのりはきっとそれを「くだらない」と評するのだろう。そしてそうした「くだらない」ものに囲まれて生きるしかない自分自身ですら、「くだらない」と自己評価するのだろう。

 ソーシャルゲーム「Tokyo 7th シスターズ」に登場するユニットSiSHの「さよならレイニーレイディ」という楽曲に、「くだらない話を覚えてみたけど 僕はもともとくだらない」という歌詞がある。これは、好意を持っている相手に対して自分を良く見せたい一方で、決して高くはない自己評価とのギャップをみつめた時に生じる葛藤であると解釈した。みのりの場合、特定の相手に好意を持っているわけではない。だが彼女は常に何かに向かい合っている。それは何なのだろうか。

 彼女を取り巻くもの、街、人、社会、そして海。彼女がそれらに直面した時に感じる違和感は、その都度言語化され、自分が見ているものに対して向かっていく。若いとか青臭いとか、そういう言葉で覆い隠せないものを彼女が見せているからこそ、彼女がたとえ平凡な生活を送っていたとしても彼女自身の魅力が減じることはないなと思う。

 付け加えて言うと、みのり演じる萩原みのりの魅力もまた最大限に街の中に投影するためには、生の夏を舞台にした、長回しのカメラショットはひとつの最適解だったのだろうと思う。いつどこで切り替わるかわからない緊張感が長く続くことによって、みのりという女性の存在が比例するように際立つのだ。
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 最初は契約しているネトフリが薦めて来たが、あまりにもストレートすぎるタイトルにんーちょっといいかな、という気持ちが正直のところだった。それがおそらく去年の冬か春くらいの話だが、ネット上のある記事で本作の見どころを知って、具体的には主人公が同じ高校の生徒に対して「セックス・カウンセリングをする」という筋書きがとても気になったからだ。

 先日公認心理師現認者講習会も受講し、将来的にはカウンセリングを業とすることも考えているが、性に関する悩みや問題やトラブルはあちこちに満ち満ちている。高校生ならば特に敏感に反応する年ごろだが、逆に敏感すぎるがゆえに適切に対応できない年ごろでもある。何より「大人が子どもに」対してではなく「子ども(高校生)が子どもの目線のままで」性教育を行うことがどういった営みであるのか、そして「使われなくなった古臭いトイレ個室」の中でカウンセリングを受けることになるそうした「思春期真っ盛りな」高校生たちをどう描くのかが気になって、見てみた。

 見どころは多い。というか多すぎる。だが共通しているのは、ここに出てくるキャラクター、男女問わず性欲にあふれており、また性への関心が高いが、正しい知識を持たず、ハッピーな性生活を送れていない。だからこそ、主人公のオーティスとヒロインメイヴのコンビが始めたマイクロビジネス、「セックス・カウンセリング」の出番がある。オーティスは童貞ではあるが母親が性教育のセラピストとして博士号を持っているという家庭(しかも母子家庭)であり、家には日々クライアントがやってくる。そうした思春期的には非常に複雑な環境の中、彼のスキルを開花させていくのがメイヴだ。

 メイヴはと言えば、彼女は恵まれた家庭環境とは言えない。ドラッグにおぼれた母と兄は出奔し、誰ひとり頼る相手がいない中でトレーラーハウスで一人暮らしを送る。彼女を救ったのは、本、それもフェミニズムについて書かれた本である。彼女はこのドラマの中で最も知的好奇心があふれている存在でありながら、最も自己肯定感が低い存在であるせいか、自身の能力を生かしきれない。だからオーティスとコンビを組んでいる時の、彼女の自由闊達さは魅力的である。

 メイヴもある意味で、オーティスがカウンセリングをするクライアントに非常によく似ている。多くのクライアント(生徒たち)は、自分に自信がないか、あるいは親密な相手との関係に自信がない。ヘテロのカップルだけでなく、ゲイカップルやレズビアンのカップルもフラットに登場するのが非常に現代的であるが、誰かと親密になりたいという願望と、自分がこうしたい、相手にはこうしてほしいという欲望はきれいには一致しない。多くのキャラクターは悩みを抱えて、不安を募らせる。やがてそうした関係は行き詰まるが、そのボトルネックを解消するのがオーティスとメイヴの重要な仕事なのだろう。自分自身を振り返ってみても、10代の時に二人がいてくれたら、どれほど頼もしかっただろう。

 基本的に一話完結でありながら、オーティスやメイヴを取り巻く人間関係は濃密に展開させる。二人はいいコンビであるが、オーティスにはエリック、メイヴにはエイミーという、明るくお茶らけた同性のパートナーがいる(メイヴとエイミーの関係は時々百合に似ている)。こうした人間関係のバランスが常に保たれるわけではない。オーティスやメイヴはやがて道を違えていくし、オーティスとエリックが常に仲のいい親友とも言えない。10代の人間関係はかくも難しい。けれども、そこにあるドラマや感情は、もう大人になった私たちが、かつて経験してきたものでもある。だからこのドラマを見ていて非常に新しい物語だと感じるとともに、非常に懐かしい思いもさせてくれるドラマになっている。

 エリックもエイミーもそれぞれにまた悩みや葛藤を抱えているからだ。筋書き上の主人公はオーティスとメイヴだとしても、その隣にいるキャラクターが「脇役」だとは言えない。すべてのキャラクターが、息づいている。彼ら彼女らはフィクションの存在だけれど、彼ら彼女らの悩みや葛藤、高揚感、興奮……あらゆる感情はどこまでもリアルで、少し馬鹿馬鹿しくて、そしてヒューマニティである。

 ちなみに、今月からはシーズン2も配信が始まっており、少しだけ見たが相変わらずなかなかいい。メイヴは学校に復帰できたのだろうか。オーティスは初めてできた恋人であるオーラと「ちゃんとできている」のだろうか。そしてメイヴはどのようなまなざしでオーティスと向き合っていくのだろうか。一つの終わりは、また次の物語の、次の人生のスタートラインでもある。
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 マイ・ビューティフル・デイズ。そのまま訳すと「私の美しい日々」といったところだろうけれど、実際の映画は思ったよりキラキラしたものではなく、むしろ思春期独特の、めんどうくさい感情といかに向き合えばよいのか、といった普遍的なテーマである。

 これを、あるクラスでの英語の授業風景(フィッツジェラルド『グレート・ギャッツビー』についての授業だった)から始まり、週末に少し遠いところで開催される演劇大会に参加する生徒3人と引率教師1人の人間模様を描いた、たった一週間、わずか90分弱のドラマとして表現するシンプルな映画だった。たぶんこれ以上引っ張ったりもう少し幅を持たせることもできただろうけど(たとえばサムはよくも悪くも「都合よく配置された」キャラクターにしか見えなかった)これはこれでいいのではないか、とも思う。

 一つは恋。不器用すぎるし、危険な香りしかしない恋。確かに10代の学生だったころ、少しだけ年上の女性教師がとても魅力的に思えたことはある。けれども、多くの場合実際には何もせず、内に秘めるだけの感情だ。だがティモシー・シャラメ演じるビリーは自分の感情を適切にコントロールできない。映画の中では行動障害という診断がついているが、具体的にはもっとメンタルのバランスの部分だったり、ADHD的な多動性だったりが絡んだ症状をビリーは見せる。それは狂おしくもあり、青くさくもあり、「こうすることしかできないんだ!」という情念そのもののように見える。

 それを結果的に受け止めてしまう教師のレイチェルにも危うさがある。校長からビリーについて事前に注意を受けている一方で、彼女が教師としてではなく個人としてビリーを受け止めてしまう瞬間があるからだ。もちろんこれはビリーにとっては高揚でしかない。けれども、教師としての正しさがあるとは言えない。ではどうすれば? 二人の関係はどうなる? 映画の中で残された時間がわずかな中で、落とし込んだ方向性はなるほどなと思った。

 つまりこの映画は、禁断の恋愛を描くものでもないし、かといって徹底的な断絶を描くわけでもない。人と人とが瞬間響きあう時があるということ。その瞬間には「正しさ」が入る余地がないということ。そうしたエモーションの高まりこそが、ある意味では青春と言ってもいいのかもしれないことだ。

 クラスのリーダー格的な優等生兼美少女でありながら、登場シーンはさほど多くないリリ・ラインハート演じるマーゴットの存在が非常に輝いている。彼女の存在は目立つし、華になる。しかし、彼女とて望んだものは得られない。何もかもが手に入るほど、青春は甘くない。ということと、付け加えて挫折に対してどう向き合うのか(いわゆるレジリエンス)が試されたとき、彼女の何気ない振る舞いがとても魅力的でいとおしく思えたのだ。不器用すぎるビリー、陽気だがマイペースなサム、危うい教師のレイチェルといった3人と比べると、一番安定感のあるマーゴットが輝くのは他者と関わる瞬間にあるのだなと。

 ビリーの演技の妖艶さは皮肉すぎるほど立派なもので、その天才肌のビリーを見て内心悔しい気持ちがあるだろうマーゴットの心情を思うとこれもまた青春の痛みがあるなと思う。けれども、最後は、最後だけは美しく。途中までの道のりがでこぼこすぎるのは、彼ら彼女らが不器用すぎるから仕方ない。でもまあ、青春ってそういうものだよね、といったある種の開き直りこそが、彼ら彼女らを本当に輝かせるのかもしれない。肩の力を抜いて、ただ、目の前の自分と誰かを見つめることができれば。
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2019年末現在保有資産まとめ

トータル:¥2,028,137
証券:¥1,756,828
→年間受け取り分配金見込み:¥29,574
→日本株:外国株=14:86
→グロース:バリュー=58:42
→個別株:その他(投信&ETF&REIT)=26:74
キャッシュ:¥214,439
その他資産(電子マネー、暗号通貨等):¥56,870


 予定では10月末に200万越えを果たしたかったが遠征などなどであまり増えず。とりあえず年間ベースだと140→200くらい。収入の多かった去年より今年の方が増えたのは相場に助けられた部分も大きい。来年は今年ほどいい相場にはならないと思う(現状が割高すぎるので)ので入金力をもっと増やす(必然的に節約を頑張る)ことで年末には300の台に乗せたい。
 今年はバリュー投資に少し力を入れたがいろいろやってみた結果グロースの方が好きだなと思ったので、比率を70:30くらいにはもっていきたい。下のリストにもあるが秋ごろからレバレッジの投信やETFを少しずつ買うようにして、たぶんこれからも増えていくと思う。入金力が限られるので有効な戦略だと思っているが落ちるときは落ちるのでほどほどに。

 以下、現在のポートフォリオ一覧。

◎日本株
・エムスリー[2413]
・信越化学工業[4063]
・武田薬品工業[4502]
・アステラス製薬[4503]
・中外製薬[4519]
・第一三共[4568]
・ソニー[6758]
・ファナック[6954]
・トヨタ[7203]
・ワークマン[7564]
・伊藤忠商事[8001]
・東京エレクトロン[8035]
・オリックス[8591]

 日本の個別株は現状すべてワンタップバイで。もうこれ以上増やす気はあまりない。
 優待狙いであさひ(サイクルベースあさひの運営会社)を狙っているが2月権利で12万くらいを出せるかどうかは若干微妙。相場が全体的に高いので全体的に軟調になってからでもいいかな、くらい。ほしいけれどそこまでは急がない。
 東京エレクトロンが今年は爆上げしたのでかなり高くなった。武田薬品もずっとマイナスだったが秋口から持ち直して大きくプラスに貢献している。この二つが主力で他は全部サブみたいになっている。
 日本株は現状個別株のみで、ほかではeMaxis slimオールカントリーに少し含まれるだけとなっている。いろいろ考えたがこれでいいかなという気持ちなので来年もたぶんこの運用の予定。

◎外国株
ETF
・CURE
・IAU
・iSharesS&P500[1655]
・SMH
・SPXL
・SPYD
・TECL
・VIG
・VTV
・VHT
・VPU

投資信託
・eMaxis Slimオールカントリー
・ifreeNYダウ
・ifreeQQQ
・楽天VTI
・楽天USA360

個別
・アッヴィ[ABBV]
・アムジェン[AMGN]
・ブリストル・マイヤーズ・スクイブ[BMY]
・CVSヘルスケア[CVS]
・ダナハー[DHR]
・メルク[MRK]
・テラドック[TDOC]
・アップル[AAPL]
・アドビ[ADBE]
・アマゾン[AMZN]
・マイクロソフト[MSFT]
・クアルコム[QCOM]
・Slack[WORK]
・ボーイング[BA]
・コカ・コーラ[KO]
・マコーミック[MKC]
・スターバックス[SBUX]
・ゴールドマンサックス[GS]
・JPモルガンチェース[JPM]
・マスターカード[MA]
・ペイパル[PYPL]
・ビザ[V]
・エンブリッジ[ENB]

 ETFと投信を主軸にしながら個別ではヘルスケアとハイテクや金融で固めつつサブでいろいろ買っていくという戦略。クアルコムやアッヴィ、ブリストル・マイヤーズもわりといい値で拾えた。マイクロソフトも寄与が大きい。アップルやアマゾンはちょっと買うのが遅かったがプラスを出している。
 結果的にマイナスの銘柄がほとんどない。最近悪いニュースが多いボーイングと、試しに1つだけ買ってみたSlackくらいかな・・・普段使いしているサービスだし頑張ってほしい。ボーイングはいずれ持ち直すはずなので大きく下がればナンピンしていくスタンス。

◎REIT
・iSharesJリート[1476]
・iShares米国リート[1659]
・外国リート[2515]

 リートが牽引した一年ではあったが秋口から軟調になり始め、やや戻しつつ越年という見こみ。いままでは個別を見て来たけど個別はもうほとんど増やさず(持っていたものは利確した)、ETFで固めていくくらいでいいかなという気がしている。


2020年展望
・グロースの投信&ETF(レバレッジ含む)中心の投資への回帰
・個別株も買っていくが主力は↑なので買いすぎない
・キャッシュポジションが普段からギリギリなのである程度手元に置いておく

 とりあえずさしあたりはこれくらい。やることはさほど変わらないので、淡々とやっていきましょうという気持ち。あまり相場を見すぎたり情報を集めすぎても自分のスタンスがブレるという副作用もあるので、欲しい情報は取りに行くがそれ以外の情報はあまり見ないようにしたい。
 2年続けてきて感じたのは、相場から降りないことが大事。リスクテイクはある程度するが、リスクを過度にとりすぎないことや、本業や節約もちゃんとやることとか、割とごくごくありふれたことをいかに継続できるかが大事かなと思う。
 増えているとはいえまだまだ少ない方だと思う。ただ収入増が今後もさほど見込めない中では、淡々と増やしていくことはいずれ大きな価値を持つと思うしそれを実現していきたい所存。

 あとこの更新は四半期か半年か、それくらいに一回の割合にする予定。頻繁に更新してもあまり意味はないので、増えた(?)ころに更新します、はい。
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 まずはベスト10から。

1.映画刀剣乱舞
2.響け!ユーフォニアム 〜誓いのフィナーレ〜
3.ビューティフル・ボーイ
4.バーニング 劇場版
5.沈没家族 激情版
6.さよならくちびる
7.海獣の子供
8.ホットギミック ガールミーツボーイ
9.人生をしまう時間
10.ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス
次点:天気の子ウトヤ島、7月22日
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