Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

 深夜になってから青ブタの最新作が出ていることを開いていたAmazonでたまたま知り、そのままキンドル版を注文した。






 主人公である梓川咲太と(メイン)ヒロインである桜島麻衣が大学に進学し、実質的に新章に突入したシリーズの初回であるが、なかなか今回も面白く、1時間と少しで一気に読んでしまった。おかげで床につくのはほぼ明け方になってしまったのでまた生活リズムが崩れてしまったことについては少し反省している。少し。

 作中に言及されている金沢八景近くの市立大学という手掛かりをもとに考えると咲太と麻衣が進学いたのはおそらく横浜市立大学である。昔会ったことのある市立大の人の姿を少しだけ思い浮かべつつ、高校生から大学生になることへの心境の変化を読んでいくといろいろなことが懐かしく感じる。クラスや制服がなくなること、人間関係も自由になること。その自由を使いこなすことが案外難しい。

 咲太が相変わらずスマホを持たない生活をしている設定なのはすごいなと思ってしまうが、彼にとってのスマホ、彼にとっての人間関係がどのようなものなのかはこれまでにも度々本人の口から述べられているからあえて触れる必要もないのだろう。大学生になっても、スマホを持たずに人間関係を築く様を読んでいくのは(いささかリアリティに欠けるかもしれないが)面白い。彼を遠ざける人はいるし、逆に彼に興味を持って近づく人もいる。このあたりの距離感の描写は、人間関係を自由に設定できる大学生活においてはリアルなものだ。

 大学生になったことで同級生の美藤美織といった新キャラは登場するが、本巻のメインヒロインは豊浜のどかも在籍するアイドルユニット、スイートバレットのメンバーである広川卯月である。彼女も同じ大学、同じ学科に在籍しているが、ある講義の開始前の彼女の挙動を見て、咲太が感じた違和感。そこから物語は一気に展開されていく。

 彼女の悩みを因数分解するならば、自分が本来やりたいと思っていることと、周囲が期待している自分でいたいことが分裂して同居していることだ。前者はユニットとしての目標ともダブる内容で、ありふれた掛け声かもしれないが武道館という具体的な目標を指している。また、演じることのない、天然とも指摘されるほどの素の自分でいたいということ。後者は、空気を読んでキャラを演じることによって周囲の評価を受けたいという欲求だ。

 ユニットの中で卯月だけが持っている才能が評価され、彼女個人の仕事(歌唱、テレビ出演等)増えていく一方で、ユニットとしても2000人の箱を埋められるようになり、Zeppダイバーシティがモデルと思われる場所でのライブも経験する。広川卯月として活動しながら、ユニットとしても活動することに少しずつ時間的、体力的、精神的な限界が迫っていく。これまでも桜島麻衣と母親との確執を書いていたが、今回も広川卯月や豊浜のどかを通して「ビジネスとしてのアイドル」を取り巻く現状や、いわゆる大人の事情が導入されていく。これらに彼女たちが個人として抗うのは、容易ではないだろう。

 ではどうするのか。一つは決断である。分裂した状態を続けることは難しい。ならば、何かを選択するしかないのは自然なことだ。ではどうやってそれをすればいいのか。卯月が選択するのはまず、自分の気持ちを隠さず表に出すこと。空気を読みすぎることが逆に自分を苦しめていることを知った彼女は、自分に素直になることで現状を打破しようとする。

「そういうのがわかるようになって、大学の友達が言ってる『 卯月 ってすごいね』の意味も理解したら……今までいろんな人に言われてきた、いろんな言葉が気になるようになっちゃった」  顔を上げた 卯月 は、どこか遠くを見ていた。目の前には 武道館 があるけれど、それを通り越してその先を見ている感じがする。いや、何も見ていないのかもしれない。 「私の頭の中に、みんながいて、みんなが色々言ってて……いちいち聞いてたらさ、何が自分なのか、わかんなくなってきた」
前掲書kindle版、位置No.3089


 この、「何が自分なのか、わかんなくなってきた」卯月に対して真摯に向き合う咲太はカウンセラーとしての才能に満ちているなと感じる。美人の友達が多いね、と何度か大学の友人に指摘される咲太であるが、同性だけでなく異性の友人が多いということはそれだけ幅広くラポールを築くことができるのだろう。それはおそらく、彼自身が妹の経験を通して人の痛みや傷に敏感であり、傷ついた人のそばにいることを自然に選択してきたからだろう。

 その意味では咲太がモテる理由が改めて分かるし、ああこのシリーズはルート分岐のないノベルゲームのようなものだなと感じた。1巻でメインヒロインの桜島麻衣と結ばれた以上、トゥルーエンド後のアフターストーリーがずっと続いているようなものだ。それ以外の展開は同人誌でも読めばいいのかもしれないし、新しいヒロインが次々と登場すればするほど麻衣との関係が深まっているのも憎めない。新しい巻が出るたびに関係の進展を読むのが楽しい。

 今日は起きた時に最初に見た情報がノムさんの訃報だったので、しばらく何も手がつかなかった。いや、手は動いて、情報を探していたのだけれど、頭の中がぐるぐるして何かをしたいという気になかなかならなかった。午後、テレビでカーリング日本選手権の映像を流しながら一時間ほど昼寝をして、ようやく少し気が楽になったかなと感じた。昼寝の間に見ていたのは変な夢だった気がするが。いろいろ思うことはあるけど今日は書かない。書かないが、いろいろな情報や写真を見ていて、去年の神宮球場でのヤクルトOB戦での一幕は本当に美しいものだったなと思う。




 昼寝のあとは図書館に行き、まず2月2日号の『日経ヴェリタス』をぱら読みした。エムスリーについてあちこちに触れられていて、5年で株価3倍だとか、無形資産(サービスのことだろう)の割合が高いので利益率が良い、などの話があった。

 エムスリーについては日経平均採用が株価急騰の最も重要なファクターだと思うが、高配当割安株の多くが割安なままでいる(恩恵があったのは一部の商社、金融、不動産銘柄くらいだろう)のに対し、大型ではないものも含めたグロース銘柄に資金が集まっているのはこの一年の流れだろう。他には13年ぶりの高値をつけたアドバンテストや、信越化学への言及があった。アドテストはエントリータイミングを失敗したのですでに売却したが、信越化学は最近の決算もまずまずで、しばらく保有していくつもり。

 そのあと原稿を書いたりしつつ、帰る時に新刊コーナーで見つけた本を二冊借りた(辻邦生と高山羽根子)。原稿の合間に読む時間を作りたい。







 夜は最近文庫化されたマーセル・セロー『極北』を少しずつ読み始めた。春樹が訳していて、単行本の時から少し気になっていたのでこの前購入した。まだ少ししか読んでないが、急いで読む本ではなさそうなので、ゆっくり読んでいけばいいと思う。これが終わってから図書館本に移りたい。

極北 (中公文庫)
マーセル・セロー
中央公論新社
2020-01-21



 最近まで読書をややサボっていたが気づいたら完全に読書日記になりつつある。読んだものについてすぐに書くのも、いいリハビリかもしれない。
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 乗代雄介の『最高の任務』を読み終えた。

最高の任務
乗代 雄介
講談社
2020-01-11



 表題作はすでに読んでいたので(これで芥川賞はさすがに厳しかったようだ)再読となる。もう一つ収められている「生き方の問題」は初読となった。「生き方の問題」は手紙、表題作は日記と、いずれも書くことを題材にしている。日記は本来誰かのためにあてたものではないが、本作の場合は日記を書くことになった叔母や叔母の死が必然的に介入してくるので、結果的に手紙に近い要素も持ち合わせていると言える。特に「生き方の問題」を読んだあとに表題作を読むと、そういう風に読まされるようにも思う。(あくまで個人的な読み方だが)

 どちらの小説も、たとえば「生き方の問題」であれば従姉の存在が、表題作であれば叔母の存在が、いずれも小説の中ではほとんど不在であるにも関わらず(叔母はすでに早逝している)存在感が極めて大きい。このようなタイプの小説は純文学では珍しくないので、芥川賞にまでたどりつくには何らかの形で変化球が必要だったのだろう。では表題作である「最高の任務」には変化球的要素が欠けているだろうか。そうではないと考える。

 確かに従姉との個人的なエロチシズムを書いたとも言える「生き方の問題」の方が変化球的であり、そしてある意味ではオーソドックスに文学的である。いとこ同士だと結婚できるというワードも自覚的に挿入されているように、最初は抑制的に書かれた手紙の文面が次第に性愛を表に出してくるのは分かりやすい。そもそも本編のほとんどすべてが手紙であるかのように書かれていること自体を読者はすぐに疑うことはできるが、その顛末が重要ではなく、手紙を書くことで従姉との関係について回想する主人公の「生き方の問題」の方が重要な短編である。

 やや雑な解釈だが、このように考えると表題作は「最高の任務」とは何かという問いに当たる。しかしこの小説の場合、そこはあまり重要ではない。重要なのは「追悼の方法」であろう。主人公である女子大生が自分自身の半生とどのように向き合うのか、叔母との関係をどのように振り返るのか。残された謎についてどのようにアプローチするのか。ある意味この小説も、性愛が強く絡むわけではないが「生き方の問題」についての問い直しでもある。そもそも大学の卒業式に親を呼ぶかどうかとか、かつて受けた公務員試験の面接をすっぽかしたとか、こういった一つ一つの行為の選択も、小さいけれども自分や家族を巻き込んだ「生き方の問題」には違いない。

 それと、表題作の主人公である私と叔母の関係に性愛は介在しないが、百合的な関係性を読みこむことくらいは許されてもいいだろう。

個人としては、誰にも見せない風景描写をあちこちで書いていれば感動の連続で、さしあたって幸福に生きていられる。でも、その感動を一大事だと受け入れてほしいただ一人の相手がいる時、こう言ってよければ恋をしている時、人はどのように文章を書けばいいんだろうか、書くしかないんだろうか。そんなことを、「生き方の問題」を書いている間は考え続けることができた。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69805



 月曜日は郷東の免許センターに更新に行った。今回から準中型免許という区分になったが、既得権でこうなっただけで乗れる車種は変わらない。昨日はただの月曜日だが人がまあまあいたので、日曜日に行っていたとしたらもっと人が多かったのだろう。こういう時に平日休みはありがたいと感じる。講習では香川県の事故の件数は年々減っているが全国的にも減っており、香川だけに着目すると全国平均を大きく上回っている(減ってはいるが平均的には悪い)とか、今年だけですでに8人が死亡しているとか(毎年冬の時期は死亡事故が増える気がする。ソースはないが)の話は聞いた。個人的に最近思うのは夜間の走行でライトの切り替えをしない人の多さである。細い道の対面通行だとまぶしすぎるのでさすがにどうにかしてほしい。暗い道ならともかく、市街地だと上向きじゃなくても街灯などで十分明るい。

 そのあと帰る道にあったバッティングセンターに行き、75球くらい振る。キャンプやトレードのニュースを見るたびに体がうずうずしていたのでちょうどよかった。100キロ、110キロ、125キロと少しずつ球速を上げたが久しぶりの割には対応できた。マックス135まであったので、次行く機会があれば振ってみたい。

 バットを振ったあとはカフェテリアボストンでコーヒーを飲みながら本を読む。今日はエチオピアのブラックレーベルを飲みながらエアーズ&ネイルバフの『ライフサイクル投資術』を読んでいた。

ライフサイクル投資術 お金に困らない人生をおくる
イアン・エアーズ
日本経済新聞出版社
2019-09-24



 この本の肝は端的に言うと
・若いうちこそレバレッジをかけるべき
・レバレッジは2倍までがよい(以下、レバレッジのかけ方について長く続く)
・時間分散の効用
・アセットは株式と債券だけで考える

 というあたりだろう。この三つのポイントをあれこれ書き綴っている本だと雑に理解した。若いうちこそレバレッジというのはよく聞く話だが、学生ローンなどの借金は早く返すべきという良心的なことも書かれている。人生という長い間においては老いてからのレバレッジや株式投資はリスクが大きい(リスクそのものというより、損失を回収できないという意味で)が、若いうちの損失はあとあと十分回収ができる。だからこそ損失を見込みながらレバレッジをかけよ、という話。

 その上でレバレッジ2倍でいいというのは、2倍程度で十分なリターンが確保できるからだろうし、時間分散することによって損失も小さくなっていく。最近たぱぞうさんが以下のような記事を書いていたが、同じ対象(たぱぞうさんの記事で言うならETF)に長く投資すればするほど、下値は切りあがり、暴落があったとしても当初購入した水準を下回る可能性は極めて小さい。



 以上を踏まえるとレバレッジをかけるならばインデックスの投資信託かETFがよい。前者で最近人気なのはグローバル三倍三分法ファンドだろう(REITは含むがほぼ株式と債券という商品)だし、後者ならばSPXLだろう。前者は債券を先物で抑えることリスクを抑え、後者は単体だとレバレッジ3倍のハイリスク商品だが、S&P500に連動するインデックス商品を合わせて買うことでレバレッジを自分で調整できる。

 去年の夏ごろからSPXLを買い始め、ほかのレバレッジ商品にも手を伸ばしているが、現状はまだレバレッジの比率はポートフォリオにおける2割にも満たない。ということでまだまだレバレッジを増やしても大丈夫だろうと思いながら、レバレッジだけに賭けることなく淡々と積み増していくのが適切だろうなと思う。とりあえず少額ながらレバレッジを買うことで資産の増減は激しくなったが、これも長く続けることで下値が切りあがり、緩やかな変動になるのだろう。なってほしい。まあ暴落しても死ぬわけではないのが、若いうちの資産運用の利点である。

 安克昌『心の傷を癒すということ』は半分ほど読んだ。もう少し時間をかけて、じっくりと読んでいきたい。
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見:アマゾンプライムビデオ

 先日『ラストレター』でアラフィフとなった中山美穂と豊川悦司のコンビを見て、これはちゃんと『Love Letter』を見ておかないとな、と思ったのが本作を見た動機。そして率直に、これはなるほど『ラストレター』が完全にセルフ二次創作だと感じた。前述したように俳優もダブってるいる(ダブらせている)のはセルフオマージュに他ならないし、いずれの作品でも10代と現在の日々が往復するように映画に投影される。

 つまり、映画を通して現在を生きるキャラクターたちにとっては一つの追想、あるいは追憶であり、『ラストレター』がどちらかというと老いることへの向き合い方や、中年と10代のきらめきの違いのようなリアリズムに目を向けたものであったとすると、『Love Letter』はかなりロマンチシズムに寄っているな、と感じた。

 でもどちらかというと「気持ち悪いな」と感じるのはかつての思いを断ち切れずに40代になって東京から仙台へと巡礼を始める乙坂(福山雅治)を描いた『ラストレター』であって、自身の思いを断つために神戸から小樽へ向かう博子(中山美穂)を描いた『Love Letter』はむしろ心地良さがある。それは、乙坂だけが過去にずっと生きている存在だったからだろう。松たか子演じる裕里はかつてのように姉になりすます快感を覚えながらも、現実から逃げているわけではない(夫とうまくいかないという現実はあるとしても)。乙坂だけが、ただただ過去に生きている。過去にとらわれたまま生きている。その乙坂を過去から解放して現実に引き留めるのは、とても正しい行為だった。

 他方で『Love Letter』の博子は、亡くなった婚約者に送った手紙がなぜか届いたことによって、その婚約者と同名の誰かと文通を始めることになる。ここでの博子も確かに過去に生きているように見えるが、彼女の場合乙坂とは違い、愛した人の死を知っている。知ってはいるがすぐに受け入れられない、いわば受容拒否のような状況にあると言える。人間はショックな出来事をストレートに受け止めてしまうとたびたび壊れてしまうため、防衛機制のような形で様々な心の動きが起きる。博子の場合も、病的なほどではないが、いずれ受け入れていくための一時的な拒否的状況がこの映画のスタートラインだったのだろうと感じた。

 だからこそ、「お元気ですか?」と冬の雪山に向かって叫ぶ博子が印象的に見えるかもしれない。亡くなった人に対して「お元気ですか?」と問いかけるのは非現実的ではある。だがこの映画ならではの設定によってこの言葉が別の誰かに対して特別な響きを持つ。同時に、この時点で笑顔で雪山に叫ぶ博子の姿は、死の受容を拒否していたころとは全く違う。

 すべてを知った乙坂が幸福だったと言うのは難しいだろう。だが、映画が終わるときの博子は、この映画の中でもっとも幸福そうな姿を見せてくれる。彼女にとっては、彼女なりのやり方で死を受け入れ、かつて生きていた婚約者の記憶をも受け入れること(まさに「あなたの思い出を分けてください」である)が、いわば幸福な追想の形を目指すことこそが必要だったのだろう。そしてそれが達成されたから、すべてを受け入れた上で、彼女は叫ぶ。誰もいない方に向かって、全身で、大きな声で。


Love Letter
中山美穂
2014-08-27

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 中条省平の書いた『100分de 名著 アルベール・カミュ ペスト』を読み終える。『ペスト』自体は読書メーターをさかのぼると2016年に読んでいたので、もう4年前になるのかと感じた。




ペスト(新潮文庫)
カミュ
新潮社
2017-03-10






 確かなタ書でカミュを何冊か買い、その中に入っていたのが『ペスト』だったと思う。ほかに『幸福な死』と『転落・追放と王国』を読んでいるが一番有名な『異邦人』をまだ読んでいない。中条のテキストを読みながらカミュの作家性についても学ぶことができたので、もう少し読んでないものを読んでいきたい。

 新型コロナウィルスによるパニックに陥っている世界を生きる2020年の現在から見ても、『ペスト』は単なるフィクション以上のリアリティと驚きがある。人間がいかに目の見えないものに対して恐怖を覚えるかということ。一定の区域に封じ込めるという方法が、本来安全な人を過度なストレスに晒すリスクにさらしているということ。日本でも横浜に停泊しているダイヤモンド・プリンセス号を思い浮かべればよいだろう。2600人ほどが乗っており、半数以上は外国人で、合わせると50か国以上の人々であるらしい。その人々がほとんど何の前触れもなく、突然一定期間隔離、幽閉されるというのは、想像を絶する。しかしその体験は、外の世界にいる私たちが共有することが難しい。

 だからカミュも、あるいは昨日言及した安克昌も、そのディザスターの真っただ中のリアルを書き記そうとしたのかもしれない。カミュは小説というフィクションに仮託することで、逆に強いリアリティを持ってみせた。安克昌は新聞の連載を依頼されるという外的な要因によって、真っただ中の専門家しか知り合えない事実や情報、人の感情を外部の人間に届けることに務めた。これらの仕事は、特に平時である時にこそよく参照されるべきなのだろう。パンデミックならぬインフォデミック(根拠の不確かな情報の氾濫)が起きてからでは、冷静に情報をつかむことも難しくなるから。

 昨日から今日にかけてハフポストのよくわからない企画が炎上している。色々な反応がすでにあるのでもう改めて書かないが、そんな中たまたま見つけたブルームバーグの次の記事が印象に残った。






 日本の女性は多くが自営か無職(主婦)かパートタイム雇用のまま現役世代を終え、老後に入る。男性より10年ほど寿命が長いことが一種の幸福のように語られてきたが、制度的には確かに恵まれているとは言えない。以前より要件が緩和されているとはいえ、厚生年金に加入できない場合は国民年金か夫の扶養という第3号被保険者という地位しか獲得できていない。資産が十分にあれば別だが、すでに多くの統計を見ていても単身高齢者や高齢者のみの世帯の所得にゆとりがあるとは言えず、貧困ラインで生活している人も多い。そものも年金だけでは生活できず、生活保護に頼っているのもこの層である。

 ブルームバーグの記事はそうした統計をさらに補強するかのように、現役世代の女性たちの人生の選択の幅の少なさをみつめている。現役の時の幅が少ないということは、よりゆとりのある老後を保証する確率も下がるということになる。大沢真知子が記事で指摘しているように、「『夫が失業する危険、あるいは賃金が上がらない職業に就く夫が増えている』など安定が保障されない社会になっており、世帯ではなく個人を中心とした税や社会保障制度への転換が必要」なのは一つの策としてありうる。

 現実的にはいまもある扶養控除や第3号被保険者そのものの解体には反発も多いはずで、そうではない形でより個人の選択の幅を広げ、老後の選択肢をも広げる方向に制度を作っていく必要があるだろう。もちろん制度の問題だけではなく、「男性や職場の意識改革も必要」でもあるので、まだまだ道のりは長いかもしれないが、引き返せなくなる前に打てる手は打っておいたほうがよい。とりわけ雇用が不安定な氷河期世代が老後に突入していく前に何らかの手立ては打たれるべきだろう。

 この記事を読んでいて思い出したが、この本をまだ積んでいるので読まねばならないと改めて。




 来週金曜日にソレイユで公開される『さよならテレビ』を見に行く予定にしているが、ちょうどひらりささんが有料noteにこの映画を見ての雑感を記録していて面白かった。ドキュメンタリーにおける作り手の誠実さ、みたいなところがポイントかなと思いながら読んだ。




 3日続けて書いてきたが、こんな感じで読んだもの、見たものについての雑感が中心になっていきそう。引き続きお付き合いいただければありがたい。
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 昨日寝る前からキンドルで安克昌『心の傷を癒すということ』を読み始めた。




 同タイトルのドラマが先月からNHKで始まっていて、ちょうど明日最終回を迎える。大阪に生まれた在日韓国人の安が神戸大学医学部に進学し、そこで師である中井久夫(医師として、作家として)に出会い、1995年の阪神大震災を経験し、2000年にがんで亡くなる。短いながらかなり濃密な、そういう人生を柄本佑がかなり丁寧に、かつ慎重に演じていて好感が持てるドラマとなっている。ドラマは原作を原案としつつ、内容は独自なものとしているため、安も中井も別名での登場となっている。製作がNHK大阪であるからか、25年後の現在から1995年に対して真摯に向き合っているように思う。




 本の方はまだ序盤のため、95年の1月が終わっていない。戦後最大の地震被害に対して現実感を失っているのは、著者である安も同様であることが分かる。ボランティアや医師、看護師(看護婦や保健婦とい表記が時代を感じさせる)が外から駆け付ける中、精神科医として果たすべき役割とその方法に苦悩する様子はドラマでも描かれている。ドラマの方を先に見届けそうだが、本の方もじっくり読んでいきたい。ケアを職とする一人の人間として、あるいは4歳のころに香川で震度4の揺れを体験した者として(揺れた瞬間の記憶はないが、その後の報道は断片的に覚えている)。

 夜、これもNHKの『ドキュメント72時間』で昨年開業したイオン浪江店の年末3日間に密着していたので見ていた。東京から移住し、地縁のなかった浪江で看護師をしている女性や、妻の実家がある札幌に震災後に移住した後、浪江の家を取り壊す準備をする男性が印象に残った。「10年前のことをもう話すことはない」という若い男性もいた。いずれにせよそれぞれの形で、震災後の時間を生きていることがよく分かる。それはおそらく神戸も同じであるはずだし、神戸や福島にかかわらず日本は多くの災害を経験してきたのだから、それぞれの地域に災後の時間を生きている人たちがいるのだろうと思う。何か大きなことが起きたあとにでも、それぞれの場所で続いている時間があることに、たまたま思いを馳せる一日となった。

 ラジコにタイムフリー機能がついたせいで、好きな声優の番組であっても一週間後までギリギリになって聞くことが増えた気がする。先週の「ビタミンM」を聴いていて、「Get No Satisfaction!」を聴きながら転職の面接に挑む女性の話があった。確かに、この曲を聴くと底抜けのエネルギーというか、勇気をもらえる気がする。

聞いて わたし夢があるの
だれにも言えなくて埃をかぶってた
でもね もう無視はできない
無邪気な自分から 目をそらさないって決めたんだから!

坂本真綾「Get No Satisfaction!」


 ある意味、いまの真綾はここまでストレートすぎる歌詞を書かないかもしれない。『かぜよみ』として発売されたのが2009年の1月だからこれももう10年以上前になる。このアルバムの中で一番好きな曲で、当時よく聴いてたのを思い出したし、ライブだとこの曲と前後で「マジックナンバー」が演奏されるとフロアが騒いだのも思い出せる。

 2014年秋、保護観察官の採用面接を受けるため、さいたま新都心に向かう電車の中で聴いてた曲が「レプリカ」だったことも思い出した。結果はお察しですが、偽物ではなく本物をと歌うこの曲も、真綾にしてはストレートすぎるメッセージソングだったなと思う。いまも好き、大好き。






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 前回予告っぽいことをしたので気まぐれに日記を書こうと思う。昔はその時々の馬の名前をタイトルにしていたがかつてほど競馬に集中していないので、三題噺的にタイトルをつけていきたい。

 今日は昼前に起きてソレイユで『イエスタデイ』を見たかったが一回起きたあと余裕で二度寝したのでダメでした。今日までなので映像化を待つことにする。



 前回福岡町のイオンシネマで『ラストレター』を見た後にセリアに寄ってから買ったキッチンスタンドがわりとよかったので、追加で購入した。キッチンではなくデスク上に配置し、高さを利用できるようにしている。デスクをワイドに使うために高いところになんか置く、というスタンスと吊れるものは吊るというスタンスでやっている。まあ本当はそもそももっと配置する物自体を減らせばいいのかもしれないけれど。



 こんな感じで小さめのスクリーンを二つや配線やコード関係、カレンダーを置くということにした。とりあえずオープンスペースが増えたので不満はさほどない。

 夕方に藤塚町のラッシュライフコーヒーに行く。去年の秋にできた店で、生活範囲にまた一つカフェが増えたので時々行っている。サードウェーブの系統を引くコーヒーを毎回頼む。前回はエチオピアで、今回はボリビアにした。どちらとも2000mに近いほどの高地のコーヒーで、ボリビアはエチオピアよりもさらにすっきりとして飲みやすい味だった。悪く言えば個性が弱いのかもしれないが、基本的には好みなんだろうと思う。次はエスプレッソもどうぞと言われたので、カフェラテあたりを頼んでみたい。

 閉店まで中井久夫の『「伝える」ことと「伝わる」こと』(ちくま学芸文庫、2012年)を読んでいて、ちょうど読み終わったころに閉店だった。昼間は外の明かりが差し込むし、夜は夜で静かでいい。だいたいいつも窓際で本を読むか、タブレットで文章を書くかしている。中井久夫の本で病院はカーストになっており、医師、看護師、患者はそれぞれ相互理解することは難しい(医師は医師同士、看護師は看護師同士のコミュニケーションが中心になる)ことだとか、互換性がなく関係が上下に固定されることをカーストだと言っている。多職種連携という言葉が流通して久しいが、多くの病院にいまだカーストがあることも現場の声としてよく聞いている。完璧な相互理解は難しいだろうが、明快な意思表示をしたり、可能な限り双方向のチャンネルを増やしていくくらいしかないのかもしれない。

 
 万能策はないけれども、相手の反応を見ながらそっと進めると、大きい間違いはなくなるだろう。相手が浮かない顔をしているのに、「これは良いこと」と割り切って進めていくと、時にはおかしなことになる。この微妙さが、「自己主張」をあまりはっきり「言葉で伝える」と角が立つ社会の欠点である。気を使うには、まず、相手との間が円滑に行くようにと、相手の意向を察する努力をする。この時、「こうですか」と相手に聞いてみるわけにはゆかない。そこで、相手の表情や身振りなどの反応を勘をはたらかせて解釈することになる。(中略)
 職場の同僚の間では、言うことをはっきりと伝えて、後はあっさりするということができるところが、日本でいちばん暮らしやすく、仕事のしやすい場なのだろうと私は思う。
(前掲書、p.270)


 

 そのあとyomsに行き、IMAで川内倫子が特集されている号を買う。IMAのような雑誌がまだ続いているのすごいよねという話から始まり、小島信夫の話をした。自分があまり読んだことのない作家の話を聞くのは面白い。こちらからは最近読んだ源氏物語の解説本の話をした。




美濃 (講談社文芸文庫)
小島 信夫
講談社
2009-11-10






 夜、いままさにecho showで岩井俊二の『Love Letter』を再生しながらこの文章を書いている。中山美穂も柏原崇も、2020年の視点から見るにはあまりにもまぶしい。

Love Letter
中山美穂
2014-08-27

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 そっかーこういう風に映画を作ってくるのだなと素朴に感じた。岩井俊二のいいファンではないので、『打ち上げ花火』と『リップヴァンウィンクルの花嫁』くらいしかまともに見ていない(『花とアリス』は一部だけ)ので、中山美穂の『Love Letter』や松たか子の『四月物語』と比べて今作はどうなのか、といった批評的な文章は書けない。

 ただ、その二作はいずれも90年代のもので、そこから20年以上経た中山美穂と松たか子が舞い戻ってくるというのは、二人の存在を知っている者からすれば不思議な感慨がある。平成生まれの自分がそうなのだから、自分よりもっと年上の、それこそ同世代であるアラフォーやアラフィフの世代からすると特別な感慨があるだろう。この二人と対比させるように広瀬すずと森七菜を配置するという試みと、福山雅治を徹底的に孤独な存在として演出するこのリアリティは、中年世代に対してより複雑な重みを持つだろうなと思いながら眺めていた。

 なぜ複雑な重みがあるかというと、これは一つはルート分岐をたどっていく筋書きだからだ。松たか子演じる裕里は亡くなった姉になりすまして小説家、乙坂との文通を楽しむ。乙坂もまた、裕里を姉である末咲だと思い込んで文通を交わす。もし、あの時に戻れたら。二人にはもちろんそれぞれの人生があって、過去に戻ることはないし、未咲が生き返ることはないし、はたまた裕里が庵野秀明演じる夫と別れることもないだろう。現実は変わらないし、過去も変わらない。それだけはあまりにも強固なはずなのに、強固な現実を忘れるかのようにして、つかの間便せんに筆を走らせる。

 この瞬間、新海誠の『秒速5センチメートル』を思い出さずにはいられない。遠野貴樹は篠原明里と遠距離になった結果、第一章から第二章までの間、手紙を送り続ける。第二章の貴樹は携帯電話(まだ白黒画面だったころのガラケー)を持っているが、メールで明里に言葉を届けることはしない。第三章では大人になってからできた恋人とメールを交わすが、「1センチも近づけない」まま関係は終わる。完全に終わってしまった明里との関係が復活することもなく、孤独な貴樹と婚約者を見つけた明里が対照的に長い間画面に映し出されていく。ところで未咲と裕里の苗字が遠野であるのは、少し意識しすぎかもしれない。



 いずれにせよ、「失われたルート分岐」には戻れない。人生にセーブポイントはないからだ。人生はどうしようもなく不可逆的に前にしか進んでいかない。別れた恋人は別れたままだし、亡くなった人は亡くなったままである。それでも人は「もし、あのときこうしていれば」といった反実仮想を止めることはない。『Love Letter』出演陣である豊川悦司と中山美穂がほんのわずかだけ登場するが、こうした反実仮想の無意味さ、非現実さをシリアスかつ当然なものとして二人は突きつける。『Love Letter』の時に20代だった二人も、とっくに中年になっているように。時間が経過すればするほど、過去に戻ることがいかに不可能なのかという現実を、二人は突きつけてくるのだ。

 だからこれはある意味ではバッドエンドかもしれない。期待だけ持っていた乙坂は悲しい現実に直面するだけだからである。未咲はもういない。ただ、美咲の娘と、裕里の娘が、この二人の存在があまりにもまぶしく映し出されていく。裕里や乙坂の視点からは悲しくてつらい現実にあふれているのが今かもしれないが、まだ子どもである二人の娘は、まさに等身大の今を生きている。大人である二人にとっては失われた追憶の時間かもしれないが、二人の娘にとってはかけがえのないいま、ここである。

 二人の娘を演じるのが広瀬すずと森七菜というのがあまりにも出来すぎたぜいたくなキャストであるが、二人の輝きが際立つのと対照的に、裕里と乙坂がいつまでも過去にとらわれているのは残酷だ。だから二人が夢から覚めるとしたら、未咲の死を受け入れ、自分たちには残された人生がまだあることと向き合うしかないのだろう。失われたものはもう戻ってこないが、大人たちにもまだ未来は残されているのだと。

ラストレター (文春文庫)
岩井 俊二
文藝春秋
2019-09-03



Love Letter
中山美穂
2014-08-27




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 一年ほど前からだったか、知人たち何人かでウェブで日記を書き続けている。毎日続けている人もいれば月に何回かという人もいるが、いずれにせよ継続しているのはすごいなということと、継続していることである期間のアウトプットであったり思考が文章に表れているのがよくわかる。読んだ本、見た映画、日常のこと、仕事のこと。いずれにしても、ツイッターにしろインスタグラムにしても多くはフローのメディアなので、ストックとして後から振り返るのにはあまり向かない。フローだからこそ瞬間的な「バズり」がパーソナルとしても商業的にも求められるというのは、確かに現在のメディア環境が生み出した帰結ではあるけれどもフローばかりというのはとても疲れるし、次第に飽きてきた。

 そんな中でストックのメディアを使うことには、かつてとはまた違う意味があるのかもしれないと思う。それも継続的に、である。この「Days」は最近ではすっかり映画か社会保障の話をするようなブログになっているが、もともとは日記を書くために2004年に始めたものだった。カテゴリ「days」はすべて日記として読めるようにしてあるが955もあるのはかつてそれだけネット上に蓄積を作ることや、日々を記録することにいそしんでいた表れだろう。

 ゼロ年代のインターネットは基本的にはストックとしてのブログや個人サイトと、フロートしてのチャットや掲示板が並列的に存在する世界だった。だから相互のメディアを行き来しながら、いまほど忙しくはないコミュニケーションをしていたように思う。もはや死語というか機能としてもなくなったが、「トラックバック」という仕組みはストックのメディアであるブログのエントリーを相互にリンクさせるという意味で、かつては重要な役割を果たしていたし、新しい世界への扉として機能していたように思う。

 2004年から開始したと書いたが、実際には2003年からドリコムの「マイプロフィール」というサービスを使って日記の公開は始めていた。もはやソシャゲ企業と化したドリコムにそんなサービスは残っていないが、ゼロ年代前半ははてなダイアリーや前略プロフィールが生まれた時代であって、個人サイトでhtmlでゴリゴリ書いていた日記やプロフィールを一つのサービスとして提供するという意図が「マイプロフィール」にはあったように思う。

 ライブドアブログに移ってきたのは当時絶好調だったホリエモンの影響は少なからずある。ちょうどココログで眞鍋かをりが「ブログの女王」として日々ブログを更新していた時代だが、個人として使いやすかったのがライブドアだったからこれにした、だったように思う。はてなダイアリーを使っている人が多かったけれど、多いから俺は違うのにしようというひねくれ意識も多少あった。そのはてなダイアリーも数年前にサービスを終了したし、本日正午にはヤプログも終了するという。

 先ほど書いたように一つのサービスとして展開されるということは、使い勝手がよくなる代わりにそのサービスがいつか終わる可能性を常に持っている。ブログの場合他サービスへの移行ができたりするが、すべてのサービスがそうはいかないだろう。幸いにもライブドアはいろいろあったあとにNAVERの傘下になり、LINEの傘下になり、そのLINEがZホールディングスと統合することによってソフトバンクグループの一員になったので、ライブドア自体が死ぬことはないだろう。だがいずれサービスの統廃合や終了はありうる。今年の5月にこのブログを書き続けて16年になるが、書き続けたきたことよりもサービスそのものが続いてきたことのほうが、よほど奇跡的に思えてならない。

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 やたら前置きが長くなったが、日記である。
 普段読んでいるのはひらりささん(note。月額500円)、早乙女ぐりこさん(note)、lop-norさん(blogspot)である。毎日読めないときもあるが、あとで振り返って読んでいるのでおそらく公開されたエントリーはすでに読んでいる。







 最近ぐりこさんと同じ早稲女同盟というサークルを組んでいた伏見ふしぎさん(note)も日記を始めていて楽しく読んでいる。物書きにかかわる仕事をしているようなのは以前から拝見していたので、きっとこれからも継続的に読んでいくのだろう。



 新興メディアのnoteよりは使い続けたライブドアに愛着があるしアーカイブも豊富にあるのでこれを使い続ける予定だが、普段いろいろなnoteを読んでいると自分語りに向いているメディアなんだろうなと思う。ソーシャルメディアとの連携もしやすいし、読者からの課金もできる。ビューや課金をもらうためには差異化する必要があるが、自分語りなら差異化しやすく、かつ最近だとフェミニズムやジェンダー論からの文脈で一般化、社会問題化することもできる。ある意味「個人的なことが政治的なこと」であるかのように、従来のブログメディアではなくnoteという新興のパーソナルなメディアを使って世に告発したり啓発するような文章は非常に多い。

 日記として書かれるnoteにはすぐさま政治的、社会的なトピックに発展することはない。だが、個人的な体験の記録である日記の中に、社会的な要素が皆無なわけもない。仙人や雲水でもない限り人は社会の中で生きている。だから極めて個人的なものとして書かれた文の中にも、書いた本人がたとえ意図していなくても個人的な話題が社会的なイシューへと発展する可能性もあるだろう。その是非はまた別の問題として。

 最初に書いたように日記やブログはストックのメディアだ。だがこれらがツイッターのようなフローのメディアにシェアリングされることによって、日記やブログそのものがフロー化していく。必然、またバズりのようなエントリーが増えることにもなるわけだけだしそれが2020年代的なのかもしれないけれど、先ほど挙げた自分が普段読んでいる日記はフロー化からは距離を置いているようにも思う。ストックのメディアをバズりを意識してフロー化させるのが現代的ならば、フロー化から距離をとるのもオルタナティブの現代的戦略だと言えるだろう。ひらりささんがツイッターを見る時間を減らしたいと時々ツイートしてが、これは一定の距離をとりたい気持ちの表れ(しかし容易ではないこと)と解釈している。

 俺自身もどちらかというとオルタナティブかもしれないが、そもそも16年続けてきたことを半分惰性で半分習い性で続けているだけなので、オールドタイプと表現する方が適切かもしれない。2020年代になってもゼロ年代の感覚を残存させながらウェブで文章を公開していくことが可能か。UIがどことなくnoteに似ているmediumというメディアで書評をアップし続けているが、これもやり方としてはさほど新しくはない。ただmediumがもともと「長いツイッター」として開発されたサービスであり、フローとストックの中間やハイライトなどによるリアクションができるようになっているのは個人的に好きなポイントだし、サービスの設計思想は現代的と言っていいかなと思う。

 長々と書いてきたが、そういうわけでできれば「days」カテゴリで日記を再開していきたいとぼんやり考えている。性格的に、あと勤務体系的に毎日の更新は難しいと思うので断続的にはなるだろうが、フローのメディアに慣れてしまうとあまりにも多くが右から左へ流れていってしまうので、いったん流れを切断したい気持ちはずっとあった。一種の懐古趣味かもしれないけれど、自分が再開することによって「2020年代のウェブで日記を書くことについて」考えを深められるかもしれない。

 タイトル回収を無事果たしたのでこのあたりで終わりたい。続けてきたものを終わらせたくはないし、他方で止まっていたものを再開させたい。先のことは分からないけれど、だからこそ。抽象的ではあるが、いま考えているのはこういうことである。
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見:横川シネマ


 映画を見たのは公認心理師現認者講習会を終えた初日で、広島にいる間に一度横川シネマに行ってみたかったこと、そしてそこで何か見たいものはないか(そして時間に合うものは)と考えたところ、ENBUゼミナールが制作に関わっている本作を見ることとなった。ENBUゼミと聞くと濱口竜介を思い出したわけだが、本作とは特に関係性はなかった。

 130分ある本編だが、最初の半分ほどは、そもそもこの映画をどのように見ていけばいいのだろうと戸惑うことが多かった。萩原みのり演じるみのりという若い女性が主人公なのは分かる。彼女がほとんど唯一、全編通じて登場するキャラクターになっているから逆説的に主人公だとも言えるが、そのようにまわりくどく考える必要があるほど、本作に一本線の通ったストーリーはない、と思う。もちろん一切ストーリーがないわけではなく、独立した小さなエピソードが、連続性を持ったり持たなかったりして映画の中で展開されている、と言うべきなのだろう。

 youtubeに初日舞台あいさつの映像があったので見てみたが、萩原みのりが余白という言葉で表現しているのがなるほどなと思った。



 余白。たとえばただ数人の人物がしゃべっているだけだったりだとか、ただ街のどこかを歩いているだけだとか、家の中でごろごろしているだけだとか、動きはあるが物語的な展開は特段進まないというシーンが多い。逆にそのシーンの方が印象に残るほど、動きがあってかつ物語が動くときは、一気に緊張感を持たせる。みのりがそういうキャラクターだからと言ってしまえばそうかもしれない。ただそれは半分しか正しくなくて、残りの半分は、緊張感を作り出しているのはみのりを取り巻くまなざしであると言えるからだ。

 彼女の抵抗と言えば大げさなのだろうけれど、彼女は彼女なりの信念や正しさをもって自己主張を止めない。そしてその「自己主張を止めない若い女性」を周囲がどう取り扱うのか、どう受け止めたり受け止められなかったりするのか。これはフィクションとして作られているものである一方で、あまりにも濃厚に現代社会の空気が流れ込んでいる映画でもある。

 不連続なシーンやエピソードの多くは、けれどもそれらがこの社会のどこかできっとありうるのだろうな、と思うものばかりでもある。みのりはきっとそれを「くだらない」と評するのだろう。そしてそうした「くだらない」ものに囲まれて生きるしかない自分自身ですら、「くだらない」と自己評価するのだろう。

 ソーシャルゲーム「Tokyo 7th シスターズ」に登場するユニットSiSHの「さよならレイニーレイディ」という楽曲に、「くだらない話を覚えてみたけど 僕はもともとくだらない」という歌詞がある。これは、好意を持っている相手に対して自分を良く見せたい一方で、決して高くはない自己評価とのギャップをみつめた時に生じる葛藤であると解釈した。みのりの場合、特定の相手に好意を持っているわけではない。だが彼女は常に何かに向かい合っている。それは何なのだろうか。

 彼女を取り巻くもの、街、人、社会、そして海。彼女がそれらに直面した時に感じる違和感は、その都度言語化され、自分が見ているものに対して向かっていく。若いとか青臭いとか、そういう言葉で覆い隠せないものを彼女が見せているからこそ、彼女がたとえ平凡な生活を送っていたとしても彼女自身の魅力が減じることはないなと思う。

 付け加えて言うと、みのり演じる萩原みのりの魅力もまた最大限に街の中に投影するためには、生の夏を舞台にした、長回しのカメラショットはひとつの最適解だったのだろうと思う。いつどこで切り替わるかわからない緊張感が長く続くことによって、みのりという女性の存在が比例するように際立つのだ。
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 最初は契約しているネトフリが薦めて来たが、あまりにもストレートすぎるタイトルにんーちょっといいかな、という気持ちが正直のところだった。それがおそらく去年の冬か春くらいの話だが、ネット上のある記事で本作の見どころを知って、具体的には主人公が同じ高校の生徒に対して「セックス・カウンセリングをする」という筋書きがとても気になったからだ。

 先日公認心理師現認者講習会も受講し、将来的にはカウンセリングを業とすることも考えているが、性に関する悩みや問題やトラブルはあちこちに満ち満ちている。高校生ならば特に敏感に反応する年ごろだが、逆に敏感すぎるがゆえに適切に対応できない年ごろでもある。何より「大人が子どもに」対してではなく「子ども(高校生)が子どもの目線のままで」性教育を行うことがどういった営みであるのか、そして「使われなくなった古臭いトイレ個室」の中でカウンセリングを受けることになるそうした「思春期真っ盛りな」高校生たちをどう描くのかが気になって、見てみた。

 見どころは多い。というか多すぎる。だが共通しているのは、ここに出てくるキャラクター、男女問わず性欲にあふれており、また性への関心が高いが、正しい知識を持たず、ハッピーな性生活を送れていない。だからこそ、主人公のオーティスとヒロインメイヴのコンビが始めたマイクロビジネス、「セックス・カウンセリング」の出番がある。オーティスは童貞ではあるが母親が性教育のセラピストとして博士号を持っているという家庭(しかも母子家庭)であり、家には日々クライアントがやってくる。そうした思春期的には非常に複雑な環境の中、彼のスキルを開花させていくのがメイヴだ。

 メイヴはと言えば、彼女は恵まれた家庭環境とは言えない。ドラッグにおぼれた母と兄は出奔し、誰ひとり頼る相手がいない中でトレーラーハウスで一人暮らしを送る。彼女を救ったのは、本、それもフェミニズムについて書かれた本である。彼女はこのドラマの中で最も知的好奇心があふれている存在でありながら、最も自己肯定感が低い存在であるせいか、自身の能力を生かしきれない。だからオーティスとコンビを組んでいる時の、彼女の自由闊達さは魅力的である。

 メイヴもある意味で、オーティスがカウンセリングをするクライアントに非常によく似ている。多くのクライアント(生徒たち)は、自分に自信がないか、あるいは親密な相手との関係に自信がない。ヘテロのカップルだけでなく、ゲイカップルやレズビアンのカップルもフラットに登場するのが非常に現代的であるが、誰かと親密になりたいという願望と、自分がこうしたい、相手にはこうしてほしいという欲望はきれいには一致しない。多くのキャラクターは悩みを抱えて、不安を募らせる。やがてそうした関係は行き詰まるが、そのボトルネックを解消するのがオーティスとメイヴの重要な仕事なのだろう。自分自身を振り返ってみても、10代の時に二人がいてくれたら、どれほど頼もしかっただろう。

 基本的に一話完結でありながら、オーティスやメイヴを取り巻く人間関係は濃密に展開させる。二人はいいコンビであるが、オーティスにはエリック、メイヴにはエイミーという、明るくお茶らけた同性のパートナーがいる(メイヴとエイミーの関係は時々百合に似ている)。こうした人間関係のバランスが常に保たれるわけではない。オーティスやメイヴはやがて道を違えていくし、オーティスとエリックが常に仲のいい親友とも言えない。10代の人間関係はかくも難しい。けれども、そこにあるドラマや感情は、もう大人になった私たちが、かつて経験してきたものでもある。だからこのドラマを見ていて非常に新しい物語だと感じるとともに、非常に懐かしい思いもさせてくれるドラマになっている。

 エリックもエイミーもそれぞれにまた悩みや葛藤を抱えているからだ。筋書き上の主人公はオーティスとメイヴだとしても、その隣にいるキャラクターが「脇役」だとは言えない。すべてのキャラクターが、息づいている。彼ら彼女らはフィクションの存在だけれど、彼ら彼女らの悩みや葛藤、高揚感、興奮……あらゆる感情はどこまでもリアルで、少し馬鹿馬鹿しくて、そしてヒューマニティである。

 ちなみに、今月からはシーズン2も配信が始まっており、少しだけ見たが相変わらずなかなかいい。メイヴは学校に復帰できたのだろうか。オーティスは初めてできた恋人であるオーラと「ちゃんとできている」のだろうか。そしてメイヴはどのようなまなざしでオーティスと向き合っていくのだろうか。一つの終わりは、また次の物語の、次の人生のスタートラインでもある。
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