2022年06月20日

何もする気になれなかった、2日間のこと

 5月のある日の夜だったと思うけれど、食事をとり、入浴し、部屋でリラックスしていた後、何もする気になれなかった。いつもであれば読書をしたり、勉強をしたり、文章を書いたり、暇だったらスペースに参加していたりする。そうした、自分の趣味の領域のことですら、何もする気になれなかった。布団に寝転んでツイッターを開いてみたけど、タイムラインの内容が全然頭に入ってこない。ただただ文字が並んでいるだけで、その内容が頭に入らないため、見ているだけだ。読んではいない。文字を読む、というごく日常的な行為ができなかった。

 こういう時があるんだなということを、久しぶりに思い出した。もうずいぶん前のことになってしまうが、2013年〜2014年のある時期、うつ状態の診断を受けて当時通っていた大学院の修士課程を休学し、実家にひきこもっていた。次第にリハビリのためにバイトを始めるようになったが、そうやって身体を動かしたり外出できたりができるのはまだまだマシな方で、「何もする気になれなさ」をずっと抱えていたように思う。やりたいことも、やりたくないことも、どちらもしたくない。行動を起こしたくない。何もしないから、ただただ横になっている。そういう生活が、数週間〜数ヶ月ほど続いていたことを思い出す。

 もしかしたらそれに近いのかなと思い、最近起きた「ある日」の夜をやり過ごした。夜はしっかり睡眠を確保したが、朝起きても気分はすぐれず、何もしたくないので起き上がりたくなかった。午後からマックデリバリーの仕事を入れていたため、仕事に間に合う時間にはなんとか起きて、食事を取り、仕事をした。仕事は淡々とこなして、家に帰り、また何もしたくない夜を過ごした。

 翌日は仕事だったので、朝起きて出勤した。仕事も手につかなかったが、なんとかその日一日をやりすごしていた。やり過ごすことでようやく、「何もする気になれない」という気分が消えていたことに気付いた。本も読めるし、ツイッターのタイムラインも読めるし、ネットニュースも読める。ようやく文字が、内容を伴って頭の中に入ってきた。これで、2日間の「何もする気になれなさ」から解放されたことに気付いた。

 2日で終わったからまだよかったのかな、と思っている。初日の夜や翌日の朝などは、これはいったいいつ終わるんだ? という恐怖があった。2013年はとりあえず休むと決めたので、休んでいればよかった。でも今は普通に仕事をしているし、副業も入れているし、大学の講義を受けたり公認心理師試験の勉強もしないといけない。「やらなければならないこと」が多い。2日間で終わったからよかったものも、終わらなければ、これが一週間も二週間も続いたと仮定すると、やはり恐怖だった。

 大谷翔平じゃないが、意図的に休みを入れることも必要だなという(当たり前のことを)感じつつ、早めに回復できてよかったと素直に思った。一度起きたことはまた次も起こりうるので、メモ的に。まあこれも大谷翔平じゃないが、睡眠の質はめちゃくちゃ大事ですね。できるだけ同じ時間に寝て、睡眠時間をしっかり確保するということは基本的だけどとても大事でした、というお話かもしれない。

睡眠こそ最強の解決策である
マシュー・ウォーカー
SBクリエイティブ
2018-05-19






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2022年06月02日

ハイブリッド戦争の最前線への潜入 ――『Wagner:Putin’s Shadow Army(ワグネル:影のロシア傭兵部隊)』(フランス、2022年)




 以前紹介した『Putin's Way』はプーチン政権の残酷さを時系列的に告発する優れたドキュメンタリーだったが、本作『Wagner:Putin’s Shadow Army』もまた、プーチンがこれまで試みて来た戦争の実情を示す、格好のドキュメンタリーである。2022年だからこそ見るべき、といった類の。



 本作の取材対象である「ワグネル」と称されるロシアの民間軍事会社は、実質的にロシアの傭兵として機能している組織だ。ロシアが関係している民間軍事会社はワグネル以外にも多数あるが、その中でも実力が随一なのは、彼らが多くの内戦に派遣され、アフリカや中東などの各国の政治をかく乱している存在だという事実から伺える。このドキュメンタリーでも中央アフリカ政治と密接に関係し、堂々と、かつ巧みに作戦を実行していく姿がカメラにとらえられている。

 前回も紹介した廣瀬陽子『ハイブリッド戦争』によると、ワグネルに接近したメディアやジャーナリストは過去にも存在するが、その過程でいくつかの不審な死が発生している。廣瀬によると、それらはワグネルによって「消された」のと同じだと言う。かくしてワグネルはジャーナリズムを近寄せない。本作は、元ワグネルの軍人を初めて直接取材できた貴重な記録でもある。(とはいえその男は、自分のやってきたことを堂々としゃべるだけの小物にしか見えなかったが)

 どちらかというと、もう一人の取材対象者、「バシリー」と名乗るワグネルの代理人という肩書の男の言葉の方が重要だ。彼は先ほどの男のように顔を出すことはせず、安全な場所で取材を求めてくる。家族を持つ、表の人生を持ちながら、裏の人生で世界中で仕事をしているという彼のような存在がワグネルを機能させていること、そしてそれがロシアの戦略に寄与していることが見えてくる。

 「プーチンとその側近たちは国際舞台でのロシアの復権を考えています」というロイターの記者の言葉が印象的だ。そのための戦略の一つは、西側をかく乱し、弱らせることだ。バシリーは言う、「冷戦は終わっていない」のだと。これらは今回のロシア・ウクライナ戦争にまさに直結する言葉である。このドキュメンタリーの最初の方でドンバス地方に送られる話が出てくるが、2022年にもまさにワグネルはウクライナのあちこちで暗躍している。

 小泉悠が『現代ロシアの軍事戦略』で行っている次の指摘も、ロイターやバシリーの指摘と重なる。
 
クリミアやドンバスにおいて軍事力が作り出した「状況」は、ウクライナを紛争国家化することであった。ウクライナを征服して完全に「勢力圏」に組み込むのではなく、同国が西側の一部となってしまわないように(具体的に言えばNATOやEUに加盟できないように)しておけばそれでよかったのである。非軍事的手段や民兵による蜂起ではこの目標が達成できないと見ると、ロシアは正規軍やPMCを送り込んだが、その任務は戦争を終わらせないことであり、実際に2021年現在に至るもウクライナは紛争国家であり続けている。「勝たないように戦う」ことがウクライナにおけるロシア軍の任務なのだと言えよう。(p.171)

 ワグネルは表向き(?)は会社なので、マーケティングや広報を行ってリクルーティングを行う。その手法も本作では一部が明かされているが、情報のコントロールや動画メディアを駆使したリクルーティングは、そのまま政治や紛争介入の正当化のための広報戦略といったハイブリッド戦争の手法に近い。

 人集めも、戦争も、いかに正しいか、いかに偉大かといった情報の書き換えにより、正当化してゆく。しかしそれはもちろんゆがめられた事実であり、オルナタファクトであるわけだから、真実を追うジャーナリストが「消される」のも当然だ。ジャーナリストが兵士として志願しないよう、うそ発見器も使うとバシリーは答えていた。

 こうした厳格な情報管理の中で危険な取材を試みたこのドキュメンタリーは、2022年の今こそ見るべき一本だろう。








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2022年05月26日

新しい形態の犯罪者集団はいかにして暴かれたのか ――『サイバー地獄:n番部屋 ネット犯罪を暴く』(韓国、2022年)



 ちょうど新型コロナが流行しだしたころに日本のインターネットでも少し話題になったのが「n番部屋事件」だった。過去にない規模の参加者のいた集団的性犯罪であり、このネトフリのドキュメンタリーでも強調されていたように明確な性搾取の事件だった。日本で話題になったころは主犯格の2人、博士とガッガッがようやく逮捕されたころだったため、事件の概要も子細に語られていた記憶がある。

 ただ、このドキュメンタリーで改めて思ったのは、まだまだ知らないことばかりだったということだ。大規模な犯罪なのにテレグラムを通じた特殊なネット空間ゆえに露見しにくかったこと、プロのメディアではなく最初にこの事件に気づいたのがジャーナリストを志望する大学生2人組だったとのこと(しかも、コンペに参加する一貫の調査の中で事件を発見してしまった)、そして警察がいかにこの新しい犯罪者たちを追い詰めたかということ。

 本編の序盤は犯罪者たちの「性搾取」をアニメーションなどを使って再現することで、実際の加害と被害のイメージを視聴者に共有させることに成功している。そして成功しているがゆえに、アニメーションであってもあまりにも生々しく、残虐である。写真や動画は加工され、フィクショナブルなものに置き換えられているとはいえ、テキストでのメッセージは詳細に再現されている。そのため、このドキュメンタリーを見る前に、そういった心理的に危険なシーンが多数はめこまれていることには留意したほうがよい。女性たちを手招くための細かな手口やグルーミングの詳細が語られるところには何度も吐き気がしたほど。

 中盤以降は追う側の視点が幾重にも重なってくる。「追跡団炎」(メディアによっては「追跡団火花」や「追跡団花火」と訳されることもあるがここでは本作の翻訳に準拠する)として登場する二人の大学生、ハンギョレ新聞の取材チーム、テレビ局、そして警察。



 犯罪者たち、特に博士は追う側であるメディアを執拗にけん制し、脅迫する。それは彼がこれまでグルーミングをする中で使用してきた手口に似ている。脅迫し、要求をのませることで、自分の思い通りに他者をコントロールする。そうした欲望の塊のような存在である博士は、痕跡を多くは残さない。外国にいるというほのめかしさえする。ではどのように追うのか。

 「犯罪者が永遠に隠れることはできません」とは後半に登場するあるホワイトハッカーの言葉だ。テレグラムは痕跡をすぐに消すことが可能なメディアだが、かといってインターネット上のログを抹消できるわけでもないし、IPアドレスを完全に誤魔化すこともできない。新しい性犯罪とはいえ、インターネットを利用している以上、痕跡が残る。その痕跡を使って一つずつ犯人を追うという、新しさと古さが混合したような刑事手法が印象に残った。

 韓国では2016年に江南駅近くのトイレで22歳の女性が全く知らない男性に殺害された事件を一つのきっかけにして、多くの女性たちが社会に対して声を上げている。本作では省かれているが、NHKの『アナザーストーリー』がこの犯罪を扱った時に、多くの女性たちが「n番部屋事件」に対して抗議運動を行い、国会に請願する運動を行ったことも紹介されていた。





 韓国の現代文学や映画でも、女性蔑視やミソジニーといったジェンダー不平等は数多く題材にされている。これほどまでに女性たちが生きづらい社会があるということ(日本も例外ではないかもしれない)を直視することも、このドキュメンタリーの目指す地平だろう。少なくとも、吐き気がするくらいにはその試みは成功しているように思えた。


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2022年05月12日

語りがたいことを聴き、感情表現を経験する場の価値 ――NHKEテレ『ETV特集「奪われた言葉を取り戻す 児童・思春期病棟の声」』(2022年)





 NHKが「君の声が聴きたい」というコンセプトでやっていた企画の一番組という位置づけだったが、もともとの取材源はハートネットTVだったようで、過剰なナレーションが入らずに現場での実践にじっくり寄り添うタイプの静かなドキュメンタリーだった。精神科には仕事柄いくらかなじみがあるが、児童精神科のさらに病棟となるとほとんどなじみがないため、新鮮な気持ちで見ていた。




 番組タイトルの「奪われた言葉」と言う表現はややおおげさというか(企画のコンセプトに合わせたのか?)「失った言葉」だとか「抑圧した言葉」と言った方が適切なように思えた。つまり、明確な他者によって奪われたものというよりは(他者の存在ももちろん重要だが)自分自身といかに向き合うことができるのか、その困難を抱えた様々な子どもたちが登場していたからだ。困難を含む様々な経験ゆえに、「語りえない」のかもしれないし、「語りがたい」のかもしれない。

 彼ら彼女らの多くはおそらく、多くの語彙を持たない。単に学校の授業に十分通えてないのではという可能性以上に、多くの子どもたちが口にする「人間関係」もおそらく重要な要素だ。友達同士、親との関係、教師との関係など、様々な人と人とのつながりの中で言葉を獲得するし、語彙を獲得するし、感情表現ができるようになる。だが、この番組の子どもたちの多くは、そうした経験に乏しい。経験が乏しいと、他者への期待も乏しい。話したってわかってもらえないだろうし、相手は自分の話なんか聞かないだろうしという認知のもとで、「語らない」という意思決定をしがちだ。

 だからだろうか、ゲーム依存や摂食障害、行動障害といった症状そのものの治療よりも、「自分の気持ちを言葉にすること」を重きに置いた取り組みが新鮮に映った。「ホームルーム」と名付けられた対話形式の治療共同体が何度か登場するが、退院の目安が3か月に設定されていることもあってか、メンバーの入れ替わりが頻繁にありそうだ。けれどもその3か月の間に、気持ちを打ち明ける経験や、他者の言葉を聞く経験をできることは、おそらく価値があるのだろう。

 松本俊彦が編集した『「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるか』を最近少しずつ読んでいるのだけれど、その中で勝又陽太郎が述べている内容が興味深かった。
 
筆者は最近、「SOSの出し方」や「援助希求」の代わりに、「援助の成立」という言葉を使っている。手前味噌で恐縮だが、この言葉は筆者らが開発した自殺予防教育プログラムGRIPにおいて教育の目標として置いているものである。自殺予防のためには、悩みを抱えた人とそれを援助する人の場で援助関係が成り立つ必要がある。そのためには、単に悩みを抱える人が援助を求められるようになるだけではなく、それがきちんと受け止める援助者側の対応も重要であると強調したい。(kindle版p.46)



 福岡にある病院だからか、ホームルームでも患者と医師との面接でも、頻繁に博多弁が飛び交っている。勝又が述べるような、援助関係が成り立つ場を多職種の支援者たちが作り出そうとしていることもよくわかる(何人もの看護師、公認心理師、精神保健福祉士が番組の取材を受けていた)。言葉を多く持たない子どもたちが自分の感情を吐露するためには、「きちんと受け止める援助者側の対応」がいかに重要かもよく伝わってくる。

 とはいえ最後のあおいさんのケースを見ていると、医療と福祉の連携の難しさも実感する。詳しく触れられていないので事情は分からないが、福祉施設側の余裕のなさ(人員、財務、スキルセット等)が、いわゆる問題行動を起こす(あるいはその可能性が高い)子どもの受け入れの困難さと相関するのではないかと推測することはできる。そうした子どもこそ手厚い支援が必要なはずだが、福祉施設側にそれを提供するキャパシティーが常にあるわけではない。そしておそらくこれは構造的な問題だ。

 もちろん常に完ぺきな支援などできるはずがない。ある程度人員もスキルもなければ「きちんと受け止める援助者側の対応」が困難なことは、この番組の病院がある意味実践している。ここまでやってようやく、という実践を。でもそれでも、当事者である子どもたちの語りがたい言葉を聴くことはできるはずで、そこからすべての支援が始まっていくんじゃないかということを改めて実感する。その意味で、カール・ロジャーズの言う「無条件の積極的関心」の一つの形を見たような気がした。










言葉を失ったあとで (単行本)
上間 陽子
筑摩書房
2021-12-02




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2022年05月11日

セーフティネットとしての公立高校の可能性 ――NHKEテレ『ETV特集「さらば!ドロップアウト 高校改革1年の記録」』(2022年)






 たった60分のドキュメンタリーであまり大きなことを期待したり、分析したりということはできないだろうけれど、それでもこのドキュメンタリーに出てくる八王子拓真高校の取り組みは面白いなと思った。単位制であり、かつ定時制を持つ公立高校だからこうした教育ができるのだろうし、番組を見ている限り校長のリーダーシップが大きな影響を与えていそうだ。実際、校長の方針について現場の若い教師たちが議論するシーンも撮影されているが、教員全員が同じ方向を向いているわけでもないのだろう。それでも、多くの教員が価値を共有しているからこそ、こうした学校が存在するのも確かである。

 多くの教員が共有している価値とは何か。最近ではありていな言葉かもしれないが、「生徒たちを取り残さない」ことだろう。退学者は毎年数十人はどうしても出ているようで、高校が最後のセーフティネットだという言葉が登場する。東京都内の大学進学率が6割を超えることを考えると、非大卒は3割強。ここには専門卒や高卒が含まれることを考えると、高校中退(=中卒)は東京ではかなりのマイノリティだ。その後の人生設計に大きな支障が出そうなのは容易に想像がつく(大人であれば)。



 ただ、この高校に通ってくる子どもたちの現実は厳しい。いじめや不登校を経験した生徒たちが集められるチャレンジクラスはその典型だろう。また、親が病気である、親が片親である、あるいは自身が生活費を稼ぐためにと、様々な理由で通学が困難な生徒たちが登場する(いわゆるヤングケアラーだと言ってもよい)。番組ではあまり触れられなかったが、軽度の知的障害や発達障害、精神障害を持つ生徒もおそらくいるだろう(一瞬だけ車いすの生徒が映像に映ったが、詳しく取材されてはいなかった)。

 学校側は当初、登校してこない(何らかの事情で登校できない)生徒たちを「怠惰」と言う評価で扱っていたこともドキュメンタリーで紹介される。つまり、生徒たちの背景に何があるかを十分考慮せず、目に見える行為(=登校しないということ)だけで評価していた可能性がある。この発想を転換して、生徒たちの抱える背景や社会問題に目を向けることでようやく生徒たちの登校を促すことができる、という教育に転換していくプロセスが描かれている。

 こうした生徒たちに対して高校がどこまで介入したり支援したりすべきなのかは、教育現場の実態や権限を知らないので十分なことは言えない。ただ確実に言えるのは、多くの教員たちに共有されていたようになんとかして高卒として社会に送り出すという熱意だろう。高校中退では厳しいというのは前述したとおりだが、かといって単に高卒という肩書を与えればいいものでもない。最低限、高卒だと言える程度の教育水準を提供した上で生徒たちを送り出す。いわば、公教育というより個別支援とも言ってよい取り組みが学校のあちらこちらで実践されていく。

 以前読んだ秋山千佳『ルポ 保健室』の中では、なんとかがんばって中学生活をサポートしたとしても、進学後の高校で十分な理解や支援を受けられずに中退してしまうというケースが紹介されていた。もっとも福祉的支援が公教育において大きなウェイトを占めるまではないし(特別支援教育は拡大しているが、まだまだ発展途上である)、教員の労務管理のハードさを考えるといまの学校現場にそもそも余力が残っているかどうかもあやしい。

 ただ、この学校の生徒たち一人一人の立場になってみると、これほど通ってよかった学校、出会えてよかった先生というのもないのではないだろうか。まだまだ未熟な高校生にとって、学校は家庭の次に大きなウェイトを占める。その家庭が様々な困難を抱えている場合に、頼れるのは学校しかない、という生徒たちがこの番組にはあまりにも多い。

 「子どもの貧困」というワードやヤングケアラーという概念が流通して久しいが、個別個別の支援だけでなく、もっと大がかりな形でのサポートの充実が必要なはずだということを、この番組の生徒たちと先生たちは体当たりで教えてくれる。





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2022年04月26日

所得の再分配はどのように正当化されうるのか、あるいは階層と社会関係資本との相関について







 この前の続きのような形になるが、いわゆる中室発言をきっかけにして所得制限や所得の再分配を正しく理解できていないツイートを最近よく見かける。もっともそれらの多くはポジショントークであり、自分たちにもっと寄越せという欲求であると仮定すると、彼ら彼女らへ所得の再分配の意義を説得するのは容易ではない。ただ、誤った認識がネット上に流布する現状は好ましくないため、いったん(というか再度)整理するためのエントリー。

◆総論

 子育て支援に関する現状の政策がベストとは言えない。例えば日本の児童福祉は所得制限を伴うが、所得制限を伴わない児童手当を給付している国はヨーロッパに多く見られる。所得制限を行う場合、線引きについて不満が生まれるのは避けられない。とはいえ、かといって自分たちへもっと寄越せと主張することで低所得家庭への支援を批判すると福祉政策における再分配は成り立たない。予算は無限大ではないため、限られた予算をどのような形で再分配を行なえば良いのかという議論はすべきだが、元ツイートのように努力の結果年収を多く持つ人が更なる要求をするのは再分配の否定とも言える。

 あえて指摘すると努力して年収を多く獲得している人が税金を多く支払ってこそようやく累進課税が機能し 、諸々の政策へと生かされる。生活に不満があるのであれば、日本的なメンバーシップ雇用の批判や教育費の高さを批判したら良いのであって、税制そのものの批判は所得階層に分断を生むだけである。 しかしツイッターランドを見ていると現に分断は生まれており、異なった階層を生きる人々の生活の実態は見えづらいことが伝わってくる。

 所得を多く持つ人ほど税金や社会保険料を多く支払う必要があるので不満があるのは分からないでもない。かといって累進課税そのものを否定すると空振りになるので、他のところ(先ほど挙げた雇用慣行や教育システムなど)を批判したほうが良いし建設的なはずだ、と言う立場。児童手当にしろ幼保無償化にしろ関心のあるのは子育て世帯であるが、雇用慣行や教育システムへの批判はもっと多くの人、例えば子どもを持たない人などを巻き込んで連帯することも可能である。

 ちなみに自分は常に税金や社会保険料を多く支払う側で、医療や福祉の制度的恩恵を受ける立場(自己負担の減免や手当の給付など)ではないと言える人でなければ、自己責任論を展開してはいけないだろうし、もっと寄越せというべきではないのではないか。事故や病気などで自分が困った時もそれは自己責任だから仕方ないですね、で本当によいのか。所得制限なしで一律にということは結果的に高所得者を利するという中室発言を改めて思い起こすべきである。



子育て支援の経済学
山口 慎太郎
日本評論社
2021-02-15


公正としての正義 再説 (岩波現代文庫)
ロールズ,ジョン
岩波書店
2020-03-17


社会保障の経済学 第4版
隆士, 小塩
日本評論社
2013-10-15





◆階層と社会関係資本

 ちなみに年収1000万と年収600万なら後者の方が楽論者の人は、年収以外の資産や資本を無視しすぎなのではないか。年収1000万クラスの人はかなりの割合ハイクラス家庭出身(つまり実家が太い)だろうし、中高大学社会人経ての社会関係資本を多く持つ側だと思われる。だからといって年収1000万と年収600万を比べちゃいけないわけではないが、生活のしやすさしんどさは実際にそれぞれあると思うけど、年収だけで比べるのは情報量が少なすぎる。階層の議論に持って行った方が色々なことがクリアに見えてくる。

 例えばパットナムがソーシャル・キャピタルの研究を展開したのは数十年前だが、一般に低所得者層ほど社会関係資本が少なく、繋がりが少ないことが貧困をより悪化させる循環もある。だから以下の記事で佐藤主光が言っているようなプッシュ型支援が重要になる。同じ趣旨のことは、中室発言にも見られる。



 少なくとも福祉政策や社会政策というものを多くの現代の経済学者はそうした認識で捉えているはず。他方で、年収1000万家庭の生活しづらさや子育て罰みたいなものを放置していい訳ではないが、それらは前述したように子育て支援政策や社会政策とは違う枠組みで議論され、解決されるべきなのではというのがこのアカウントの立場。

 従って最初に述べたように、一定レベルの収入の持ち主が低所得者層への給付施策を批判するならばこちらはその主張を再批判しなければならないという立場をとる。

孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生
ロバート・D. パットナム
柏書房
2006-04-01






シングルマザーの貧困 (光文社新書)
水無田 気流
光文社
2014-12-19





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2022年04月06日

ナラティブによる揺さぶりと、二人の巡礼 ――『ドライブ・マイ・カー』(2021年)



見:イオンシネマ高松東

 原作である村上春樹の短編集『女のいない男たち』を読んだのはもう何年も前なので、見事に内容を忘れたまま映画を見ることになった。いかにもな村上春樹の書く主人公である家福(西島秀俊)の惰性的なセックスとクリエイティブへのこだわりを見るにつれて、思った以上に饒舌(な印象を受けた)だと思ったが饒舌な主人公は濱口竜介作品にはよく似合う。劇中劇とそれを作る過程を描いた4時間の大作『親密さ』と比べると、劇中劇であるチェーホフの『ワーニャ伯父さん』がちょっと道具的じゃない?(制作のプロセスを詳細に扱っていたのだから、もう少し劇自体を長く見たかった)という不満はあったものの。

 原作である同作以外に同じ短編集から「シェエラザード」のエッセンスを取り入れることで、この映画で最も重要なのはナラティブなのだということが象徴的に描かれ、導入されていく。カップルの性行為(少し風変わりな)を起点として物語を進行するのもいかにもな村上春樹といったところで、ただ主人公がよく喋ることに意味があるわけではない。むしろ、たいていのことは語る彼の語らないことに意味があるのではないか。そのために、劇中劇が利用されているのではないかという仮説を早いうちに提示する。

 家福に付き添うのは主に二人。ドライバーのみさき(三浦透子)と、スキャンダルによってフリーランスになった俳優、高槻(岡田将生)だ。この二人の間の会話のやりとり、そして高槻が積極的に投げかけるいくつかの質問は、家福を揺さぶる。家福自身の感情を揺さぶり、彼のナラティブ(とりわけ、妻であった音に対するもの)を揺さぶる。

 同時に、会話ないしコミュニケーションは双方向のものであるから、問いかける側も常に揺さぶりを受けることとなる。この揺さぶりが、巡礼のような形で結実するのが終盤のみさきとの長いドライブだ。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』において、ある女性の死をめぐる多崎つくるの巡礼を描いた。彼の旅路は、謎を解くこと自体にももちろん重要な意味はあるが、旅をするというプロセスが彼の感情を揺さぶり続けることに意味があった。

 みさきは、一人では決して訪れることのなかっただろうその場所に訪れる。そして、思わず家福に甘えてしまう。こうした感情のやりとりもまた、家福が音との間に喪失していたものなのかもしれない。みさきの過去をめぐるための巡礼が、みさきとは無関係の他者であった家福を揺さぶる。客観的に見ると、家福がみさきを道具的に利用したようにも見えるが、みさきもまた家福を利用している。

 この双務関係とも共犯関係とも言える関係は、『多崎つくる』にはなかった形の巡礼である。多崎つくるも一人ではなく誰かと一緒に巡礼をしていればまた違った感情が芽生えたのかもしれないし、発見があったかもしれない。もちろん一人旅も悪いものではないが、一人ではなく二人であるということの意味は、意外にも大きいものだったのだろう。

女のいない男たち (文春文庫)
村上春樹
文藝春秋
2016-10-07


村上春樹
文藝春秋
2015-12-04




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2022年03月26日

プーチンの「方法」を今振り返る意味 ――『Putin's way』(アメリカ、2015年)






 「経済の停滞とウクライナ問題で緊迫するロシア。世界の目は、大統領ウラジーミル・プーチンに注がれています」
 「追い詰められた時のプーチンは危険です」


 こうしたナレーションでこのドキュメンタリーは始まる。もちろん2022年ではなく、もっと前(2015年)に作られたドキュメンタリーだが、2014年のクリミア編入の後というのは一つポイントだ。その時から(足掛け8年を経て)現在進行形で発生しているロシア・ウクライナ戦争を理解する一助にはなるだろう。(あくまで一助である。プーチンを理解することは重要だが、それがこの戦争のすべてではないからだ)

 かつてのKGB(現FSB)のスパイとしてキャリアをスタートさせた後、16年活動したのちにサンクトペテルブルグの市職員になり、副市長を務めるようになる。ここが、政治家としてのプーチンの活動のスタートであり、この時点から黒い政治に積極的に手を染めて、結果的にその黒い活動により自分のキャリアを築いていく。

 プーチンはやがてFSBの長官に就任し、エリツィンにも認められるようになる。そして、首相へ。このすべてを90年代にやっているのだから、「ただの元スパイ」としては十分すぎる出世コースだろう。人脈を築くこと、そのためには裏の世界とつながることともいとわない、手段を選ばないスタイルがすでに築かれていたことがよくわかる。

 90年代はソ連崩壊によって長くロシアが苦しんだ時代だ。そのため、2000年代に颯爽と登場したプーチンはロシア国民の期待を多く背負ったらしい。実際に2000年代のロシアは経済的には好況なディケイドで、BRICSと呼ばれる巨大な新興国家に名を連ねるようにもなる。このことは、当時高校生だった自分も現代社会や政治経済で学んだことだ。

 少し話を変えるが、廣瀬陽子の『ハイブリッド戦争』の中で、今のロシアを代表するPMC「ワグネル」についての記述がある。しかし、ワグネルの実態はまだよく知られていない。なぜなら、記者やジャーナリストがワグネルに近づこうとすると、「消される」からだと廣瀬は述べている




 このドキュメンタリーでもプーチンの闇、たとえばマネーロンダリングなどに接近しようと様々な人が登場するが、迫り切れない。全員が「消される」わけではないものの、核心に近づくことはできない。不都合な人間を排除する方法はいくらでもあるのだろう。

 1999年にはモスクワで高層アパートの連続爆破事件が起きる。このタイミングでプーチンは首相に就任しており、事件後にチェチェンへの侵攻を開始した。



 非常に奇怪な事件であるが、その後のチェチェン侵攻にあたってのプーチンのロジックは一貫している。目的のためなら手段を選ばない。敵を敵たらしめるために、自分の国の無実の民間人すら犠牲にする。同時に、まだ政治家として知名度がほとんどなかったプーチンが自分の存在をアピールするためにあちこちに登場したとドキュメンタリーでは語られる。

 このドキュメンタリーの邦題は「プーチンの道」となっている。彼の歩んだ足跡を表すという意味では悪い訳ではない。ただ、原題がway(roadではない)なので「方法」と解釈してもよいはずだ。いかにして彼は地位を駆け上がってきたか、そのhowがつまったドキュメンタリーであり、ある意味一貫してきたその手法(人脈構築に余念がなく、目的のためには手段を選ばない狡猾さと冷徹さを発揮する)は2022年にも顕在化している。

 もっと根本的に重要だとされるプーチンの歴史観についてはあまり触れられていない。これについては例えば以下の本で補う必要があるだろう。それでも、わずか50分ほどでプーチンの脳内と彼の歩みを把握できるという意味では、オススメの一本である。少なくとも2022年を生きるわたしたちは、彼の脳内を覗き見る価値はあるだろう、大いに。

ファシズムとロシア
マルレーヌ・ラリュエル
東京堂出版
2022-02-26



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2022年03月11日

「幼保無償化による再分配の失敗」という統計的ファクトの解釈と、今後必要とされる議論を整理する







■今回の論点

 9日から10日かけて、子育て世帯のタイムラインが非常に荒ぶっており確認したところ、教育経済学者による中室牧子の上記の発言が発端となっているようだった(厳密には、彼女の発言が一部切り取られた時事通信の記事に対する反響が火種)。ツイッターで建設的な議論を行うことは年々難しくなっていると改めて感じるが、関心のある方への情報提供としてこのエントリーを書いた。分量は長いが、随所に引用やレコメンドの情報も含んでいるため、そちらも併せてご覧いただければ嬉しい。

 さて、上記のyoutube動画の14分〜29分あたりが件の中室発言である。中室によるnoteに発言と資料がそのまま掲載されているので、動画ではなくnoteを閲覧してもよい。今回の火種になったのは以下の部分である。(なお太字はバーニングによるもの)

今の日本においても、再分配政策があまりうまく機能していない可能性があります。3ページをご覧ください。これは、兵庫県尼崎市から提供を受けた市内の保育所に支払われる保育料の分布です。グラフの一番下にあります緑の分布が2000年のもの、一番上の黄色が2015年のものです。これをみると、2000年時点では、保育所利用料は0円のところが最も多くなっていることがわかります。保育所は、児童福祉施設の1つであり、保育料は応能負担となっていますから、この時点では経済的に苦しいご家庭における子供の養育を支援する福祉的な役割が大きかったということがわかります。しかし、2015年になると、最も高い保育料を支払っている家計が最も多くなっています。これは、この15年の間に、保育所の役割は福祉から共働き世帯のサポートへと変化してきたことを意味します。このような状況で、一律に幼児教育の無償化という再分配政策が行われれば何が起こるのでしょうか。2019年10月に開始された幼児教育無償化への支出の多くは、高所得世帯への再分配となったと考えられます。同様のことは他の自治体でも生じており、例えば東京大学の山口慎太郎教授らによれば、神奈川県横浜市では世帯年収1,130万円以上の世帯が幼児教育無償化によって受けた恩恵は1年間で約52万円に上るのに対し、360万円の世帯では15万円程度であったということです。このように世帯の経済状況を把握することなく一律の無償化を行えば、再分配の機能を果たし得ないことがわかります。わが国の財政状況が極めて厳しい中では、高所得世帯ほど手厚い再分配を行うことは国民の理解を得られないものと思います。


 今回の中室発言と彼女の議論を端的にまとめると、現在の幼保無償化政策は高所得世帯が恩恵を多く受けるという(意図せざる)帰結を招いている。児童福祉における無償化政策という(給付はしないが自己負担を求めないタイプの)再分配政策の結果、高所得世帯が最も恩恵を受けるとするならば、それは福祉政策としては「政府の失敗」であると言ってよいだろう。ある政策が意図せざる帰結を招き、むしろやらなければよかったのでは、ということは歴史的にも珍しいことではない。



 山口慎太郎による横浜市の研究は2021年刊行の『子育て支援の経済学』でも紹介されており、mediumに書評を書いている。

子育て支援の経済学
山口 慎太郎
日本評論社
2021-02-15




 また、中田さんによるこちらの一連のコメントは本書の議論のポイントがコンパクトにまとめられている。






■「再分配の失敗」の解釈、あるいは政策デザインの失敗

 高所得世帯をどこで線引きするかは議論があると思われるが、こちらの記事で紹介されているデータによると年収1000万以上の子育て世帯は2016年時点で16%を占めている。数としては多くないが、この層は上昇傾向にある。これは、中室発言の「2015年になると、最も高い保育料を支払っている家計が最も多くなっています」ともリンクするだろう。中室が示している家計がどの程度の年収世帯かは分からないが、保育料が上限付きの応能負担だと仮定すると上限の最も上の金額を支払う世帯が多数を占めるということは、所得の比較的高い層が積極的に保育所を利用していると考えてよい。

 つまり、中室発言は統計的なファクトであり、中室発言を攻撃することにはほとんど意味がない。攻撃するとすれば、幼保無償化の政策過程だろう。かつて「3年抱っこし放題」発言がネガティブない身で話題になった安倍晋三を改めて攻撃してもよい。






 幼保無償化の対象が3歳〜5歳であり、0歳〜2歳が外れたことに対する批判は政策決定当初から目立っていたため、改めて同じ批判をすることも一つの手である。完全無償化ではない幼稚園、特に私立幼稚園は無償化をきっかけに保育料を意図的に引き上げたことが珍しくなく、この行為に対する批判が当時多くなされていた。



 また、こちらのnoteに書かれているように、そもそもの政策デザインが子育て支援や少子化対策という名目に対して微妙だという指摘もできるだろう。



 とはいえ、政策というのは往々にして経路依存的であるため、すでに実施した政策を取りやめるのは難しい。無償化の後に自己負担に転じたのは1970年代の老人福祉法に基づく老人医療費無料化が挙げられるが、例は多くない。また、高齢者の医療と福祉は平成に入って後期高齢者医療や介護保険に分岐していくため、老人福祉法の役割は終わりつつある(法律自体は残っており、介護保険法と併存している)。



■必要とされる議論

 ここまでは論点の整理と中室発言の解釈をしてきたが、ここでいったん幼保無償化からは距離を置いてみよう。ここからは、子育て支援を考える上でどういった議論が必要なのかを考えたい。もちろん必要な議論はいくらでもあるだろうが、このエントリーでは以下の二点に絞って考えることにする。

1.待機児童問題や保育士の待遇の問題など、保育の質と量を考える上で残された問題があるということ

2.子育て支援は子どもが成長するにしたがってフェーズが変わり、子のライフステージが移行する。その際に必要な費用に関する議論も同時に必要であり、子育て世帯をフォローするためにはこれらを政策パッケージとして提供する必要があるということ


〇一点目について

 これについては元横浜市副市長の前田正子のこちらの著書に詳しい。少し前の本ではあるが、2015年に始まった子ども・子育て支援新制度以後の本でもある。






 ここで挙げられている保育士不足や建設反対運動については、少し前に実施した#スペースで地方自治論の第12回「子育て行政」の回で言及している。録音については公開期間が終了したが、その回のレジュメは今も閲覧できる状態にしてあるので関心のある方はご覧いただきたい。



地方自治論 有斐閣ストゥディア
平野淳一
有斐閣
2018-05-25



 何が言いたいかというと、これは幼保無償化が決定した際の批判でもあったのだが、保育の質と量がまだまだ十分に担保されたとは言えない(特に都市部において)中で幼保無償化による自己負担の軽減は、子育て支援において有効な策と言えるのか? という問いを再浮上させてもよいのではないかということだ。前述したように、一度決定した幼保無償化を取りやめることは難しく、かといってボリュームが増えつつある高所得世帯を狙い撃ちにすると、この世帯は見放されたと感じるだろう。

 中室は今回の提言で保育の質評価にも言及しているが、2020年にも幼保無償化の批判と質確保の重要性について言及している。


 
 待機児童問題は保育士の不足+保育施設(保育所、こども園)の不足の両方を解決しないと難しい。前者について出来るとすれば、公立の保育士の給与の資源を国庫負担金にする(学校の先生のように)ことだろう。公立学校の教員の給与は国庫負担があるため、子どもに対して先生が足らなくなるという事態は起きづらい。むしろ現在は少人数学級や特別支援がトレンドとなっているため、子どもの数の減少と教員の数の減少は一致しない。



 しかしこの仕組みを保育所にも導入するとして、学校教育と違って私立の割合が大きい保育の領域で可能なのかどうかは正直分からない。また、いずれにせよ保育士の待遇改善費用を確保するための増税が必要とされるだろう。

 他方、日本では児童手当も所得制限付きだが、所得制限のない児童手当を実施している国はヨーロッパを中心に多くある。そのため、幼保無償化という保育料の無償化(あるいは軽減策)に対して所得制限を導入することは世帯がそれぞれに所得証明を作成、提出するコストと、行政がそれを審査する(ミーンズテスト)コストが二重にかかることも考慮する必要がある。

 では、現在の意図せざる帰結を温存してよいかというと、もちろんそうではない。ここでのアイデアは中室と同じで、支援を多く必要とする(「真に支援が必要」という表現は正直苦手だが)世帯へのフォローアップが必要だ。アイデアとして海外で一般的なのは給付付き税額控除である。例えばアメリカの「児童税額控除(Child Tax Credit)」の例がwikipediaに詳しい。

 アメリカでは源泉徴収という習慣がないため、被雇用者も自営業者もいずれもが確定申告を行っている(はずである)。その確定申告の際に税額控除が行われ、その後所得に応じて給付が提供されるという形での二段構えがアメリカ式の給付付き税額控除である。アメリカには児童手当が存在しないので、給付付き税額控除が実質的な児童手当と言ってよい。

 結論を述べると、幼保無償化より前に優先する政策課題が子育て行政においては様々あるということ。また、幼保無償化は政策デザインがイマイチであるが所得制限の導入が最適解とは言えない。制度を温存するならば、別の施策(給付付き税額控除など)と組み合わせる形で低所得世帯を中心にフォローアップすべきであるということだ。

〇二点目について

 これも多くの人が投げかけていた意見だが、子育てにかかる費用で莫大なのはむしろ教育費であるということだ。私立中学・高校や高偏差値の大学へ進学することを考えると、またそのために必要な塾代や習い事代なども考慮すると、枚挙にいとまがない。

 私立ではなく国立大学に進学するとしても、初年度に必要な入学金と授業料とその他施設代を合計すると悠に100万ほどにはなる上に、転居を伴う場合は引っ越し費用や家賃、生活費が必要になる。奨学金を利用するとしても多くの場合は貸与付きの奨学金であるため、卒業後に借金として残る。

 自分の話をすると、学部の4年間に240万を借り、卒業後の2012年9月から返済が始まっているが、そこから約10年が経過し、ようやく借り入れ残額が90万円台になっているところだ。240万というのは一か月5万×4年間(48か月)の数字だが、一か月7万を借りていた友人は336万以上を返済していることになる。この数字はこの30年間給与水準が上がっていない日本の労働者にとって、決してやさしい数字ではない。

 また、住宅費用も都市部を中心に高騰、もしくは高止まりする傾向が続いている。首都圏では中古マンションの価格も高騰しており、労働の機会が多く提供される代わりに高い住宅費が必要とされ続ける状態が続いている。





 住宅政策を長年研究している平山洋介は日本における公的な家賃補助の仕組みがないことを指摘している(あるとすれば生活保護制度における住宅扶助)。






 これは長い間企業型の福祉が続いてきた日本において、家賃や交通費などの負担を企業が積極的に行ってきたことにも起因するだろう。しかしバブル崩壊後、そうした福利厚生費を潤沢に払える企業が絞られる中、日本の住宅政策はいびつな状態で続いている。

 そしてそうした保守的でいびつな住宅政策にプラスして浸透してきた新自由主義が招いたのは、従来型の人生設計モデルの崩壊であった。






 この著書の最後に平山の述べる「都市の条件の再生」や「社会維持の新たなサイクル」といった観点は、子育て支援においても必要な観点だ。中室牧子という経済学者を叩いたり、シルバーデモクラシーだというイメージによる批判をしたとしてもそれはほとんど意味をなさない。



シルバー民主主義という言葉は、最近の論壇において流行語となり、仮説ではなく半ば事実として受容されてきた。だが、高齢者が選挙民の多数を占めることは日本の高齢者偏重の社会保障の主要因とは言いにくい。極端に女性議員の数が少ないことや、古い保守的な家族観を持つ自民党が長年政権を維持してきたこと、年功序列を重んじる政党組織、官僚制など、他の背景を探るべきである。いずれにしても、今回の18歳選挙権とシルバー民主主義の議論とには齟齬があると言える。


 子育ては家庭と保育園や幼稚園の往復で完結するわけではない。子は育つにつれてライフステージを移行させ、親は老いを見据えながら子育てと労働の両立を図ろうとする。そこにはそれぞれの人生、それぞれの生活がある。排除的にならずに可能な限り多くの人(もちろん、未婚の独身者や、子なしの既婚者も)を包括し、同時に支援を多く必要とする世帯をサポートするための政策デザインや政策パッケージの議論が必要だ。

※追記(3月26日)

 3月23日にハフィントンポストにおいて中室牧子本人へのロングインタビューが公開されていたので追記。こちらを読むことで中室の構想する子育て支援政策の論点がよりクリアになるだろう。




■その他推薦したい文献リスト

〇格差社会
学歴分断社会 (ちくま新書)
吉川徹
筑摩書房
2013-08-09




〈格差〉と〈階級〉の戦後史 (河出新書)
橋本健二
河出書房新社
2020-02-07




 子育ての先には何らかの形で最終学歴が待っており、労働につながる。ゆえに現在の日本では学歴による格差がどのように生じているかを認識しておくことが重要だ。吉川徹と橋本健二はそれぞれのアプローチで日本の格差社会の構造をあぶりだしている。

〇教育 


 フォロワーさん推薦図書。東大など、ハイクラスな学生やOBOGほど学歴ではなく塾歴になっていると指摘するおおたとしまさのルポルタージュ。そうした構造が生まれること自体の強い批判ではなく、そこからこぼれ落ちるものを評価しようとするおおたの姿勢に好感を持った一冊でもあった。子育ての先に労働があると先ほど書いたがその前に待っているのは受験であり、ここに費用が多くかかることはこれからの時代を生きる子育て世帯の悩みの種となり続けるのだろう。

あしながおじさん (光文社古典新訳文庫)
ウェブスター
光文社
2015-11-27


 女子が大学に行くことが珍しく、ましてや親のいない施設出身のジェルーシャはなかなかに奇跡的な存在であるが、そんな彼女の生き生きとした大学生活と、まるでラブレターのような手紙のやりとりがとても楽しい。女子の大学進学率の地域差は日本でもまだまだ色濃く残る中では、ジェルーシャのような恵まれない女子の大学進学は現代でも相当困難を伴っている。こうした側面も日本には残っているということにも思いをはせたい。




〇女性と労働
働く女子の運命 (文春新書)
濱口桂一郎
文藝春秋
2016-01-15




 以前「#深夜の図書室」でも取り上げた二冊。この時は女性の労働にフォーカスして議論をしたが、女性の労働のサポートは子育て支援においても重要な要素であるため、改めてチェックしておきたい。



〇社会保障
社会保障の国際動向と日本の課題 (放送大学教材)
浩, 居神
放送大学教育振興会
2019-03-20


 アメリカの児童税額控除の例を示したが、他国の社会保障の動向は参考になる点が多い。本書では「子どもの貧困」について2章分、「子育て世代と社会保障」について1章分、「住宅政策と社会保障」について1章分触れられており、このエントリーで触れてきた内容ともクロスオーバーしているため、今後の議論においても参考になる一冊だろう。



 やや古い本になるが、日本の福祉と政治、そして企業との関係が戦後どのように発展・形成され、そしてバブル崩壊後に瓦解しているのかを理解することも重要だ。制度の多くは経路依存的だという話を先ほどしたが、子育て支援に関する制度も同様に解釈してよい。そしてそれぞれの制度と政治の関係、企業による福祉(福利厚生)の関係も見据えることで、制度を立体的に理解することが可能になるだろう。

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2022年02月01日

2022年1月によく聴いた音楽

 久しぶりにやる。というかやっぱちゃんと続けたいですね、これ。
 1月と書いてるけど後半は12月アップロードの楽曲も含みます。


あたらよ「知りたくなかった、失うのなら」


 純猥談とのコラボと聞いてうーーーーん、という感じはあったものの(そういうものをあたらよに求めているわけではないので)曲自体はいくらかキャッチーな前奏から始まり、初見のお客さんを引き込むことにはまずまず成功しているかなと思う。オールドなリスナーに対しても、最後まで聞けばああいつものあたらよだなと思わせる安心感があった。もう少しメロディで遊んでくれても良かったとは思ったけど、普段と違うギター音を強くしたアレンジは、これはこれで。

宇多田ヒカル「BADモード」


 1月にラジオで一番聞いた曲だと言っていい気がする。やたら耳に残るというわけでもないけど、ゼロ年代以降の宇多田ヒカルがちゃんと生きてるよなって感じがする。よく考えたら1998年にデビューした人を2022年もちゃんと聞けるって幸せですよね。

SUPER BEAVER「東京」


 12月に長屋晴子とFIRST TAKEで演じた曲を改めて自分たちだけで、という曲。いろんなバンドやミュージシャンが「東京」というタイトルの曲を作ってきているので、SUPER BEAVERなりのストレートをぶち込んできたなって感じがする。のっけから「愛されていて欲しい人がいる なんて贅沢な人生だ」と始まるのでまあこれだけで相当速い直球ですね、155km/hくらい出てそう。日常とか人生とか、そういうものを歌うことにいい意味で慣れているがゆえのストレートだと受け止めた。

 せっかくなのでこっちも。



緑黄色社会「キャラクター」
緑黄色社会『Actor』



Actor
Sony Music Labels Inc.
2022-01-26


 リョクシャカをちゃんと聞き始めたのは「Mela!」あたりからだと思うけど、このアルバムを聞いて改めてちゃんと聞かないとヤバイのでは、と思ってちゃんと聞いている。去年の「ずっとずっとずっと」あたりもヤバイというか、これってどうなってんの?という曲だったので(長屋晴子が息継ぎをほとんどせずずっと歌い続けているのがいろんな意味で怖くてすごい)。それを言えば「キャラクター」もそうですね。アルバムで一番好きなのは「Landscape」です。これが一番長屋晴子の声をうまく使えている。


にしな「hatsu」


 アップロードは12月だが、12月も1月も本当にこれはよくリピートしていた。にしないいよにしな。「夜間飛行」がこのライブでぐっと好きになりました。

フィロソフィーのダンス「気分上々↑↑」


 この前のNACK5「カメレオンパーティー」(1月30日放送)で土屋礼央がフィロのスの楽曲を複数取り上げていて驚いたが、土屋が言っていたようにボーカルのパワーが最近の彼女たちはほんとうにすさまじい。「テレフォニズム」でもやべーやべー言ってた気がしましたが、「気分上々↑↑」の原曲に特徴的なアップテンポをあえてスローにチルい感じにアレンジしているのがまず驚くし、結果的にこのアレンジがボーカルの存在感を強くしているなとも思う。

milet×Aimer×幾田りら「おもかげ (produced by Vaundy)」


 最初は正直そこまで印象に残らなかったんだが、ラジオで繰り返し聞くうちに耳に残るようになった曲。思ったよりもスルメでした。この3人だといくらはやや細いボーカルかなと思ってたけど、彼女の声が曲に「合っていく」プロセスが好きでした。


おまけ




 スピーカーが欲しい&マイクが欲しい→そうだスピーカーフォンを買おうということで購入したのがこれ。ビジュアルは手元に置くとちょっと安っぽく見えてしまう(ここは悩んだAnkerのConf3でもよかったかもしれない)が音質にはとても満足しているし、マイクとしてもまずまず使えているようなのでいいかなというところ。まあこのへんは沼なので、そのうち飽きてもっといいものを・・・となるかもしれないし、ならないかもしれないが音楽やラジオはこれでしばらく聞くぞ!という気持ち。

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burningday at 22:37|PermalinkComments(0)music